↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空間魔導書と少年魔法使い  作者: atu78963254
帝国冒険編
76/91

第十六章 海塩

ウェルズが祝宴に出ているのと同じ頃、黒蓮は厨房で忙しく立ち働き、ライカベサの名高い料理——牛肉のホワイトソース煮込みの支度をしていた。


「嬉しい……!」


「今日はライカベサの料理、ウェルズさんの故郷の味なんです。故郷の料理を食べたら、どんな顔をしてくれるでしょう!」


新婚の妻のような期待を胸に、黒蓮は軽やかな小唄を口ずさみながら、嬉々として食材を扱っていた。柔らかな顔には幸せな満足感が溢れている。自分を救い、匿ってくれたウェルズの役に立てるなら、たとえほんの少しでも、この上なく嬉しかった。


ただ、下ごしらえの途中で気づいた。給仕が買ってきた食材の中に、何より肝心なものが欠けている——西大陸の海岸産の「風鈴草の海塩」だ。


「えっ……!どうして海塩がないんですか!?」


慌てて買い物籠をかき回したが、出てきたのは給仕が残したメモ一枚きりだった。「お嬢様、この西大陸特有の香辛料は普通の市場では手に入りません。隣の通りの外国商館でないと扱っておりません」


普通の料理なら、材料が一つ二つ欠けても構わないかもしれない。だが、これはウェルズの故郷の料理なのだ!


「あの味がなかったら……あの人の思い出にある牛肉のホワイトソース煮込みとは、まるで別物になってしまいます……」


メモをつまむ黒蓮の柔らかな指先が、かすかに白くなった。


記憶を失った無力感がよみがえる。宿の部屋に隠れているしかなく、何の役にも立てず、足手まといにさえなりかねない今の自分。この完璧な煮込みの一鍋は、今の彼女がウェルズのためにできる唯一のことであり、自分に「まだ価値がある」と証明して、この安らぎの港にしがみつくための、たった一本の藁だった。


「隣の通りの外国商館で買ってくればいいだけ……完璧にしなくちゃ。もう役立たずのままでいたくない……」


脳裏を警官の恐ろしい影がよぎり、両脚が震えて止まらない。それでも、味の変わった故郷の料理を口にしたウェルズががっかりした顔をするかもしれない——そう思うと、彼女はぐっと歯を食いしばった。


「ウェルズさんのために……!」


鍵と財布を用意すると、そっと扉を開け、可愛らしい顔をこっそり廊下へ覗かせて左右を見回した。安全を確かめてから、ようやくこそこそと部屋を抜け出した。


階段を下りると、宿の中を大勢の人々が行き交っていた。一人でこれほど多くの人を目にするのは初めてで、黒蓮は身をすくめた。なにしろこれまで、彼女の世界は部屋一つ分の広さしかなかったのだ。


「あの……西大陸の香辛料って、どこで売っていますか?」緊張しながら、彼女は通りがかりの人に尋ねた。


ここに出入りする中流の人々は答えを知らなかったが、その儚げで愛らしい美貌のおかげもあって、親切な誰かが外国商館の方角を教えてくれた。


こうして黒蓮は宿を出て、賑やかな通りへ足を踏み出した。


「債務奴隷の廃止にご支持を!」「南方のプランテーションの新しいお茶が発売だよ!今なら百グラム買えば十グラムおまけ!」「労働者の待遇を改善せよ!職場の安全を守れ!」「地下鉄の新駅増設につき、ただいま人手不足!若い労働者歓迎!」


立ち止まっては辺りを見回しながら歩くうちに、熱心な人々から政治のビラや求人のビラを何枚も押しつけられた。


「こんにちは、お仕事をお探しですか?騁馳都市建設社ではあなたを歓迎します。当社は長年にわたり嘉徳市の下水管工事、都市建設、地下鉄建設を手がけてきた、優良品質認証取得の会社です。現在、魔法使いを募集中。錬金材料の取り扱い経験者優遇!」


手にしたビラを眺め、自分には用がなさそうだと脇へ放ると、彼女はまた商館を探して歩き出した。


その努力が実って、ようやく西大陸の看板を掲げた香辛料店が見つかった。


「風鈴草の海塩をください!」


嬉しくなって小走りに駆け寄り、彼女は女店主にそう告げた。


「はいはい、慌てないで、お嬢ちゃん」


首を長くして待っていると、不意にもう一人の客が店に入ってきた。


振り返った瞬間、氷室に突き落とされたように冷や汗が噴き出した。


制服を着た帝国の警官だった。


その一瞬が、恐怖で千年にも引き延ばされた。脚から力が抜けて崩れ落ちそうになり、心臓をぎゅっと鷲掴みにされたようだった。


「あら、お巡りさんじゃありませんか。今日は何をお求めで?」


女店主は愛想よく声をかけた。


「いつものだ。眠気覚ましの煙草の葉を少し」


そう答えると、警官は黒蓮をちらりと見ただけで、すぐに顔を戻した。


「お嬢ちゃん、海塩、用意できたよ」


女店主の声が、黒蓮を恐怖の奈落から引き上げた。


指先をかすかに震わせながら、彼女は香辛料の入った紙袋を受け取った。


「あ……ありがとうございます……」


今にも崩れそうな恐怖をこらえ、彼女は小走りに店から逃げ出した。その背中を、警官が訝しげに見つめていた。


部屋に戻るなり扉を閉め、そこに背を預けて、怯えたように荒い息をついた。


「きっと大丈夫……きっと大丈夫……」


あの警官の姿を思い出すと、両脚はまだ震えが止まらなかった。


「ここに戻ってきたんだから、きっと大丈夫」


柔らかな頬を揉みほぐし、恐怖を無理やり押し込めて、どうにか落ち着きを取り戻した。


「料理しなくちゃ。ウェルズさんが待ってるんですから」


やっとの思いで手に入れた香辛料の包みを握りしめ、彼女は再び厨房へ向かった。


……


ウェルズが祝宴を後にして部屋へ戻ると、濃厚な香りが出迎えた。ラロリアはもうテーブルについて、食事が始まるのを待っていた。


「ほう……牛肉のホワイトソース煮込みか……なんだか懐かしいな」


香りを嗅ぐうちに、ウェルズはかつてライカベサで過ごした日々を思い出した。あの頃、心優しい料理人が彼とサンドラに牛肉のホワイトソース煮込みを鍋半分ほど分けてくれた。数か月の間で一番の御馳走だったと言っていい。


ウェルズのその一言は、黒蓮にとって何よりの賛辞だった。この言葉さえもらえれば、彼女の努力も苦労も十分に報われる。


彼はもう一匙すくい、手を止めた。


「風鈴草の海塩だ」


「えっ……?」


「ライカベサの味だ。市場では手に入らない。外国商館にしかない」彼はスプーンを置いた。「お前、外に出たな」


黒蓮の顔からすっと血の気が引いた。彼女は道中のことを早口で一通り話した。香辛料店で煙草の葉を買っていたあの警官のことも、彼女の背中を見ていたその眼差しのことも。


「そいつはどのくらいお前を見ていた?」


「……少しだけです」


ウェルズは叱らなかった。ちらりと窓を見て、それから扉を見た。ラロリアが何か言いかけたが、彼の視線ひとつで黙らされた。


「食べ終えたら宿を移る」


「ごめんなさい……私はただ……」


「煮込みを一鍋、ちゃんと作りたかったんだろう。分かってる」彼はスプーンを手に取り直した。「まずは食え」


黒蓮はうつむいたまま、しばらくしてようやく小さな声で口を開いた。話題をあの警官から逸らしたがっているようだった。


「あの……実は、ウェルズさんの過去がすごく知りたいんです。教えてもらえますか?」


今にも泣き出しそうなのが、彼には分かった。


「俺の過去か?取り立てて話すようなことはないが、お前が知りたいなら聞かせてやってもいい」


ウェルズは淡く笑って受け流した。


三人はゆっくりと夕食を口に運び、ウェルズはおもむろに自分の過去を語り始めた。


「俺は西大陸の北にある小さな公国——響浪公国で生まれた。辺鄙な土地の小さな国で、人々は穏やかに暮らしていた。響浪公国という名は、首都が海辺にあって、波が砂浜を打つ美しい音がいつも聞こえていたことに由来する」


「祖父の代から公爵は国の象徴となり、政治には口を出さず、政治の権力は民衆で組織された議会に委ねられた。そのおかげで俺は公国で平穏で幸せな子供時代を過ごせた。妹と、父と、母と一緒にな」


「あれが俺の人生で一番いい日々だった」


「だがそのすべては……俺が十歳の時に砕けた」


「隣国の専制政権、翡翠王国が教廷と結託して公国に攻め込んできた。非武装化していた響浪公国に、はるかに強大な二つの勢力を食い止める力などあるはずもない。瞬く間に俺の国は陥落し、領土も富も周りの国々に残らず分け取られた」


「王国軍が街に攻め込んできた時、両親は俺を守って死に、妹は行方知れずになった。もっとも俺の有様からすれば、妹もきっと大陸のどこかで死んだんだろう。あるいは逃げ出すことすらできず、燃え広がる火の海の中で死んだのかもしれない。結局俺は一人きり、物乞いとしてライカベサへ流れ着き、そこで二年間物乞いをして暮らした……」


重い話に二人の少女は黙り込んだ。ラロリアはなおさら、自分の過去を思い返していた。


「ある意味、私もあいつと同じ。裕福な家に生まれながら、いろいろな理由でそれを捨てた」


ところが、ウェルズが話を続けて、自分の過去を黒蓮に打ち明けようとしたその時、周囲に魔力の波動が広がった。


危険を察したウェルズは、とっさに黒蓮に覆いかぶさった。


「ドン!」


火球が一発、さっきまで彼らが座っていた場所へ撃ち込まれた。


一瞬にして、大型の次元門の光紋が二つ浮かび上がった。魔法使いが持魔者を一人ずつ連れて転移してきたのだ。中から現れたのは三階の実力を持つ四人。いずれも仮面をつけ、さまざまな職業の服を身にまとっていた。


「あの女を捕らえろ!」


「こいつらは……!?」


火球の爆発をかわしたラロリアは宙返りして着地し、腰の長剣を抜いた。


隅ではウェルズが陰影護盾を張り、炎の衝撃波を防いでいた。だが火球の一撃で、部屋全体にはすでに火が回っていた。


「うっ……!」黒蓮が痛みに声を漏らした。


ウェルズは黒蓮を体の下に押さえ込んでいて、ほとんど肌が触れ合うほどの距離から相手の体温が伝わってくる。だが、気を散らしている場合ではない。


火球を放つと、次元門から出てきた襲撃者たちは黒蓮に狙いを定めて攻撃を仕掛けた。二人の魔法使いが精神呪術で心を攻め、黒蓮は何が起きたのかも分からないまま、魔法の作用で気を失った。同時に二人の持魔者が突進し、力を合わせて一筋の「月牙斬」を放った。


その一撃が飛来した瞬間、一つの影が長剣を横薙ぎに振るい、剣気を食い止めた。


「早く黒蓮を連れて逃げて!」


剣気を弾き飛ばしたラロリアが、ウェルズに向かって叫んだ。


奴らの狙いは黒蓮を捕らえることだ。


「あの警官か……!」ウェルズは歯を食いしばった。


考えている暇はない。ウェルズは気を失った黒蓮を抱き上げて窓から飛び降り、地面に着地した。異変に気づいた市民たちが、慌てふためいて逃げ散っていく。


「とにかく、まずこいつらを振り切らないと……!」


ウェルズは通りを駆け抜けた。背後では宿の中から爆発音が立て続けに響き、燃える部屋からは刃のぶつかり合う音も聞こえてくる。やがて、魔法使いと持魔者が一人ずつ、同じように部屋から飛び出して彼を追ってきた。


「頭が……ぐらぐら……します……」ウェルズの腕の中で、黒蓮が苦しげに呟いた。


「少し我慢しろ。すぐに安全な場所へ連れて行く」


逃げる彼を背後の持魔者と魔法使いが攻撃しながら追い、幾筋もの剣気と雷光が飛んでくる。だが備えていた彼は、跳躍と疾走を繰り返して攻撃をかわし、ほどなく相手の視界から抜け出した。残してきたラロリアの身は案じていなかった。彼女には自力で逃げ切るだけの実力がある。


跳躍して着地した瞬間、ウェルズは次元門の魔法を描き上げ、その中をくぐり抜けた。一瞬で百メートル以上を転移する。これほどの距離を跳べるのも、『咫尺の書』で得た魔法の悟りのおかげだった。


「振り切れたか?」


だが、そう思ったのも束の間、曲がり角から二つの人影が飛び出し、ウェルズと黒蓮めがけて突っ込んできた。増速魔法を付与された二人は、あっという間に目の前まで迫ってくる。


「まずい……!」


突っ込んでくる二人の、魂が抜けたような虚ろな様子を見て、ウェルズはこれはまずいと悟った。


経験のある彼はすかさず飛び退き、陰影護盾を展開して、身をよじって腕の中の黒蓮をかばった。次の瞬間、二人の体から狂暴な魔力が噴き出した。歯の浮くような骨の砕ける音、肉の潰れる音が響き、二人の血肉が極小の一点へと崩れ落ちて——激しく爆発した。


「また……人体爆弾か!」


ウェルズには、そう思うのが精一杯だった。


強烈な爆風に、彼は十数メートルも吹き飛ばされた。幸い今回は備えがあり、受け身で衝撃を逃がせたうえ、灰暗の光盾がダメージの大半を吸収したため、傷は深くなかった。ただ、腕の中の黒蓮は爆発でさらに遠く、三十メートル余り先まで転がっていった。それでもウェルズが衝撃をすべて受け止めたおかげで、彼女に大した外傷はなかった。


「黒蓮……!」痛みをこらえて立ち上がると、彼はもがく黒蓮を助けに行こうとした。


だが遠くから雷光が飛来し、後退を余儀なくされた。


電撃光線を放ったのは、追っ手だった。


「くそっ……これほど見事に連携してくるとは、こいつらは終末救贖者だ!」待ち伏せにかかったのだと、ウェルズは悟った。おそらくどの道を選んでも、人体爆弾が待ち構えているのだろう。


ウェルズが魔法使いに足止めされている隙に、持魔者が駆け寄り、ようやく起き上がったばかりの黒蓮を捕らえた。反対側から加勢に来た術者は、火球を撃ち込んでくる。


「くそっ……その女を放せ!」灰暗の陰影護盾は飛来した火球を弾き返したものの、その代償に砕け散った。ウェルズは杖を取り出し、眩暈効果を付与した光線で魔法使いを一時退けたが、持魔者の剣気に押し戻されてしまう。


「た……助けて……!」捕らわれた黒蓮は必死にもがいた。だが非力な彼女が三階の持魔者に抗えるはずもなく、剣の柄であっさり殴られて気を失った。


「黒蓮……あいつを助ける手はないのか?」


ウェルズは必死に頭を巡らせた。一度は敵に肉薄したものの、さらなる攻撃に阻まれ、黒蓮からはどんどん引き離されていく。


このままでは、もう取り返しがつかない。


「ここまでか……!?」


まさにその瞬間、一つの影が幽鬼のごとく、その持魔者の背後に現れた。


抜き放たれた剣が、背中から心臓を刺し貫く。


黒蓮を捕らえていた持魔者は、いともあっけなく抹殺された。


彼女は剣に刺さった死体を蹴り落とすと、膨大な魔力を長剣に凝縮させて投げ放った。狙うは、なおもウェルズと交戦している魔法使いだ。


剣は流星のごとき速さで飛び、行く手を阻む魔力の護盾は水を浴びた泥のように溶け崩れた。神業めいた神速の一撃に、かわす暇などあるはずもない。剣はそのまま相手の首を貫いた。


流れるような一連の動きを終えてから、彼女はようやく白い手袋をはめた手をそっと伸ばし、倒れかけた黒蓮の腰を支えた。魔法使いを貫いた長剣は念動力の光を帯びて死体から抜け、くるりと一回りして鞘へ飛び戻ると、澄んだ音を立てて収まった。


「……」ウェルズは唖然として、現れた人物を見つめた。


小柄な人物だった。鋭い気迫を放つ軍服姿と、神業と呼ぶべきあの一連の動きがなければ、ウェルズは数歳年下の少女だと思っていただろう。驚きから我に返って、ようやくその可愛らしくあどけない顔立ちと、頭にくっきりと生えた竜の角、そして軍帽が目に入った。


「お前は……誰だ?」


「応策局に秘密牢へ送り込まれたいのなら、ここであなたの質問に全部答えてあげる」


「西大陸の人間か……」ウェルズは訛りから彼女の出自を察した。


「お前の言う通りだ。すぐにここを離れたほうがいい」彼は頷いた。


「行こう」


彼女が手を振ると、波動を隠した次元門が開き、一行はその場から転移した。


目の前の景色が何度か明滅し、数回の転移を経た頃には、彼らの足取りはもう容易には辿れなくなっていた。空間転移に通じた魔法使いでも、追跡にはかなりの時間がかかるはずだ。


追っ手を振り切ったのを見て、ウェルズは口を開いた。


「それで……そろそろ、お前が何者なのか教えてくれてもいいだろう」


「シャーロットと呼べばいい」


「また偽名か?少なくとも『ラロリア』よりはずっと本物らしく聞こえるな」ウェルズは言った。


「いいえ、これは私の本名」シャーロットは澄んだ静かな口調で言った。「私は教廷と盟約を結んだ白竜(ホワイトドラゴン)氏族の一員で、今の役職は聖蓮守護(せいれんしゅご)。ほかに訊きたいことは?」


「聖蓮守護……お前は聖女の配下か?」ウェルズは目を凝らした。シャーロットの竜の角が、彼女の言葉が嘘でないことを裏付けていた。


「なぜ俺たちを助けた?聖女の指示か?」


聖女との接点といえば、あの祝宴くらいしか思い当たらない。そこでの彼は大勢の貴族に埋もれた目立たない一人に過ぎず、もう『咫尺の書』も手元にない。だからこそ、なぜ聖女が自分に目をつけたのか、なおさら分からなかった。


「あなたはウェルズ。情報収集と厄介事の解決が得意な、外から来た貴族。その身分があれば、私たちの用事をいろいろと片付けられる」


「依頼か……俺は構わない。だが、まだ合流できていない仲間が一人いる。先にそっちへ連れて行ってくれ。居場所は分かっている」


「分かった」


彼女は気を失った黒蓮を抱き上げると、もう片方の手でウェルズの手首を掴み、次元門で転移した。


三十秒も経たないうちに、彼らはラロリアの前に姿を現していた。


ラロリアはとある廃墟で、壁にもたれて息を切らしていた。


「無事か?」


「びっくりした。また終末救贖者の連中が転移で奇襲してきたのかと思ったじゃない」


ラロリアは剣を下ろして一息つき、シャーロットに気づいて一瞬固まった。「この竜……誰?」


そこで白竜は、先ほどの話をもう一度繰り返した。


「教廷と盟約を結んだ竜が、私たちに何の用?」


二人は、シャーロットが終末救贖者を手にかけたことを気に留めなかった。教廷の者が終末救贖者を容赦なく斬り捨てるのは珍しくもない。両者は犬猿の仲だ。教廷にとって終末救贖者は秩序を脅かすテロリストであるばかりか、異端の信仰を広める存在でもある。苛烈な手段に出るのも当然のことだった。


「見ての通り、この街は秘密結社の引き起こした動乱に呑まれている。おそらく街の多くの部門や機関が、すでに彼らの手に落ちている。彼らの企てたこの陰謀には必ず狙いがある。いずれにせよ、私たちはそれを阻止したい」シャーロットは落ち着いた声で言った。


「なぜもっと公的な信用のある警察に頼まない?」ウェルズは尋ねた。


「私たちは警察を信用していない。それに、教廷として表立って動けば、非難を招きやすい」


「なら応策局に頼めばいいじゃない。あの人たちも最近この辺りで動いてるし」ラロリアが言った。


「彼らもこの件は把握している。でも私の調べでは、政府内部の内通者が流す情報に振り回されて、小物しか捕まえられていない。だからあなたたちに依頼したいの」


「引き受けてくれる?」可愛らしい顔に、真剣な表情が浮かんでいた。


「もちろん」二人は声を揃えて答えた。


「敵が困ることなら、私はやるわ」「今は手がかりが乏しい。どんな手がかりでも無視できない」


ラロリアとウェルズがそれぞれ言った。


「では、依頼の内容を話す」


「最近、聖女様の侍女が重い病にかかった。脱水と嘔吐、それに呼吸の乱れといった症状が出ている」


「よくあるコレラのようだな」ウェルズは言った。


「聖女様も最初はそう思われた」


「でも神術で治癒を試みた時、初めて真相に気づかれた……これは混種の疾病だと」


「混種の疾病?」


「よく調べなければ、確かにありふれた流行病だと思ってしまう。でも詳しく観察すると、病原菌が特定の魔法因子を帯びていることが分かる。この魔法因子は感染者の抵抗力をじわじわと下げ、患者の体内に潜伏する。つまりこれは魔法の疾病と現実の疾病の融合体。私たちはこれを『枯萎(こい)』と呼んでいる」


「魔法の疾病……!?」ウェルズは目を見開いた。


これまで、彼らは病気にさほど注意を払っていなかった。都市化で人口が密集し、衛生状態が悪化したことによる必然の現象の一つとしか思っていなかったのだ。


「こんな魔法の疾病をばら撒いて、何がしたいの?」ラロリアは考え込んだ。「人口を大幅に減らしたいなら、致死率を上げれば済む話でしょう?どうしてわざわざこんな効き目の遅い病気を作るの?」


「目的を推し量る前に、まずはどの組織が放ったのかを考えたほうがいい……終末救贖者か、秩序編織者か?」ウェルズは言った。


「ろくなことでないのは確か。この件の調査はあなたたちに任せる」


そう言うと、シャーロットは軍服の懐から品をいくつか取り出し、ウェルズが手を伸ばして受け取った。


「私の身分では、帝国の領内を大っぴらに動き回るわけにはいかない」


「この護符には『超距感応』の魔法が込めてある。必要な時に握り潰せば、私と五分間話せる。何か困ったことがあれば、状況が許す限り助けに来る」


「それからこの水晶玉を二つ。一人一つずつ。『枯萎』の疾病を探知するためのもの。枯萎は魔法使いにはさほど害がないけれど、普通の人は病気にかかりやすく、死にやすくなる。この伝染病をできるだけ早く解決してほしい。こっちの袋は祝聖した薬灰。煎じて薬液にすれば、病状を抑えられる」


「最後にこれ」


彼女は懐から巻物を一巻取り出し、ウェルズの手のひらに載せた。巻物は竜皮で封じられ、封蝋には蓮の花の印が押されている。革越しにも、自分の理解を遥かに超えた力が中で眠っているのをウェルズは感じ取った。


「殿下の仰せでは、これは前払いの報酬だと。誰に使うべきか、そして一度しか使えないことも、あなたなら分かるはず、と」


ウェルズは中身を訊かなかった。訊けば、早く使いたくなってしまうものもある。


「伝染病の件は俺たちに任せろ」ウェルズは言った。「こっちからも一つ情報がある。お前の聖女様の役に立つかもしれない」


「騁馳という会社は終末救贖者と深く繋がっている。しかもその裏で牛耳っているアスヘタイト男爵は公爵の配下だ。嘉徳公爵が終末救贖者と通じている可能性は高い。これがその証拠だ」ウェルズは空間の指輪から手帳を取り出し、シャーロットに見せた。


「そうそう、終末救贖者に襲われたあの銀行だって、騁馳と商売で競合してたからなのよ!」ラロリアが相槌を打った。


白竜は細く柔らかな白い眉をひそめた。「騁馳財閥を支配している?しかもこんなに大っぴらに。あれほど大量の合法な金を……何のために?」


「合法な金……その一言で考えが開けた。さすが、長年終末救贖者と戦ってきた教廷だ」


シャーロットの呟きを聞いて、ウェルズの脳裏に極めて重要な閃きが浮かびかけた。そのつかみどころのない閃きを逃すまいと、彼は必死に考えを巡らせた。


「金は物を買うためのものだ……大量の金……俺なら、産業を買い入れるのに使う……分かったぞ……!騁馳が最近何を買収しているか、すぐに調べろ!」


この方向から調べれば、終末救贖者の狙いがきっと見えてくる。


「大丈夫、この件は私に任せて」ラロリアはふくよかな胸を叩いて言った。


「もう一つ訊きたい。聖女様は霊魂魔法を使えるのか?」ウェルズは黒蓮に目をやった。「こいつは霊魂魔法の影響で記憶を失っている。記憶を取り戻させてやりたい」


シャーロットも黒蓮に目をやり、頷いた。「あなたたちの要望は伝えておく」


「では、私はこれで失礼する」そう言うと、彼女は次元門を召喚し、その場から転移して去っていった。


後には二人と、気を失った黒蓮だけが残された。


「教廷と盟約を結んだ白竜に会えるなんて……」ラロリアは感嘆の声を漏らした。「あの子、たぶん六階ね。竜は成年になれば六階の実力を持てるの。でも超凡衰弱で棲息地が激減したせいで、竜族は帝国や教廷みたいな大勢力に身を寄せないと、種族を存続できなくなったのよ」


「帝国も竜と盟約を結んでいるのか?」


「もちろん。帝国と盟約を結んでいるのは金属竜よ」


「とにかく……また別の宿を探さないとな」ウェルズは気を失ったままの黒蓮を見やった。「幸い、黒蓮の身分はもうイチゴジャムに頼んで用意してある。警察が来ても、当面は問題ない」


「黒蓮……起きて……!」ラロリアは駆け寄り、気を失った彼女を起こそうとした。


「わ……私……」揺さぶられて、黒蓮はゆっくりと目を覚ました。


目を開けると、ほっとした様子のラロリアの顔が見えた。


「無事でよかった……」


朦朧とした意識のまま黒蓮が口にしたのは、ラロリアの顔を曇らせる二文字だけだった。


「低……能……」


「あんたがしでかしたことを見なさいよ!」ラロリアはウェルズに向かって怒鳴った。


ウェルズは口笛を吹き、自分にはまったく関係ないという顔をした。


黒蓮は強く頭を振り、懸命に気力を奮い起こして、どうにか身を起こした。


「み……皆さん……!」


「どうしたの?まだ弱ってるんだから、動いちゃだめ」ラロリアは彼女をなだめた。


「わ……私、いくつか思い出したことがあるんです」黒蓮は真剣な顔で、頭痛をこらえながら二人に告げた。


思いがけない朗報だった。ウェルズは問いかけた。「何を思い出した……!」


「私が……牢にいた時のことです。閉じ込められていた時、とても大事な話を盗み聞きしたんです。『窃聴術』で。私がこの魔法を使えるなんて、あの人たちは思ってもいなかったはずです。でもそのあと、記憶を消されてしまって……」


「お前の過去は?何か思い出したか?」


黒蓮は細い眉を痛ましげに寄せ、首を振った。「ごめんなさい……まだ何も思い出せていません」


「黒蓮のせいじゃないわ……謝らなくていいの」ラロリアは同情を込めて言った。「何を聞いたか、覚えてる?」


「はい……十五日の満月の日に、あの人たちは嘉徳魔法学院を襲って、少なくとも十人の魔法学徒を殺し、その死体で計画にとても重要な核心を錬成するつもりなんです」黒蓮はか細い声で、ゆっくりと、しかし確信をもって語った。


かつて捕らえられていた黒蓮の口から出た言葉だけに、信憑性はいくらか増した。


「十五日の満月……あと一週間しかない。奴らは嘉徳魔法学院を襲撃する、か。ほかに思い出したことは?」


黒蓮は首を振った。


「嘉徳魔法学院に知らせなきゃ!」そう思うやいなや、ラロリアはすぐにも飛び出そうとした。


だが、ウェルズが手を伸ばしてそれを遮った。


「いや、知らせるべきじゃない。むしろ逆だ。襲撃が成功するのを待って、それから終末救贖者を追跡したほうが、より多くの情報が得られる。奴らが何のために人を殺すのか、何を錬成するつもりなのかを突き止める——それが最善だ」


「何を言ってるの!?あの学生たちはどうなるのよ?」ラロリアは唖然とした。


「放っておくのが一番だ。お前が通報したところでどうなる?学院が警戒を強めれば、終末救贖者は標的を変えるだけだ。そもそも、お前はどんな身分で通報するつもりだ?!」


「でも、ほかの人が殺されるのを黙って見てるなんてできない……!」ウェルズの言葉に、彼女はその考えが常軌を逸しているとしか思えなかった。「匿名の手紙でもいい……自分で張り込んだっていい。あいつらが残虐な殺戮をするのを、指をくわえて傍観するなんて、私は絶対にしない……!」


「これが何を意味するのか、まだ分からないのか?少しは頭を使え……!重要な機関を堂々と襲撃できるということは、奴らにはもう隠れる必要がない——計画の完成が目前だということだ……!」ウェルズの声にかすかな怒気がにじんだ。「終末救贖者の陰謀を暴けなければ、犠牲者はもっと増える……!その時になっても暴けなければ、死ぬのは何千何万という人間だ」


「いつまでも甘いことを言ってるんじゃない。お前にはその程度の覚悟もないのか!!?」


「頭を使うのはあんたのほうよ……!」ラロリアは怒りに燃え、ウェルズを指さして激しく責め立てた。「私は自分を犠牲にできる。自分が危険な目に遭うのだって構わない。でもあんた、あの人たちに訊いたの?アンナに訊いた?巻物に六十数年も喰われていたあの子の名前だって、私たちは犯人の手記で知っただけじゃない!何の権利があって、私たちがあの人たちの生き死にを決めるの!?それがあの人たちにとって公平なの!?見捨てるなんて、正義でも何でもない……!」


起き上がったばかりの黒蓮は呆然とした。二人がここまで激しく言い争うとは思ってもみなかった。


「お二人とも……喧嘩しないでください……」


「全部私のせいです……言うべきじゃなかった……」


気が気でなく、今にも泣き出しそうだった。


「この件に話し合いの余地なんて絶対にないわ!」ラロリアは一歩も引かない構えで、必ずやり遂げると心に決めていた。


ウェルズは冷ややかに鼻を鳴らした。


「なら出て行け。俺の命令を聞かない奴と一緒に動く必要はない」


こうなると、ラロリアはかえって軽い口調になり、両手を上げた。「少しはまともになったと思ってたのに」


「やっぱりあんたは徹頭徹尾のクソ野郎ね!」


そう言い捨てると、彼女は背を向けて去っていった。


ウェルズは彼女を引き止めなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。