第十四章 サキュバス
平穏な休日が過ぎた後、ラロリアは再び外へ出た。
「レヴォニーさんへの恩を返す時ね」
レヴォニーから受けた依頼を、彼女は忘れていなかった。弟を調べるという、あの依頼だ。
姉という内通者がいたおかげで、ラロリアは目標の身分と普段の行動経路をすぐに把握できた。
調査対象のヘルムートは二十三歳の刑事だ。二階の持魔者としての実力に加え、身分と推薦状の後押しもあって、若くしてかなりの権限を持つ地区巡察官の座に就いていた。管轄区内の小さな分署は、どこも彼の指揮下にある。
朝早く、ラロリアはレヴォニーの家の外まで忍び寄った。少し離れた建物の屋上に立ち、「千里耳」の魔法で階下の姉弟のやり取りを窺う。
「一昨日は一体どこへ行っていたの?どうして夜になっても帰ってこないの?」
「姉さんには関係ない」
「私はあなたの姉なのよ、どうして知ってはいけないの!?」
漏れ聞こえてくる声からして、二人は朝から全開でやり合っているらしい。
「支配欲が強いのね。レヴォニーさんがこういう人だったなんて」
気楽な調子で論評する。まるで王道の家庭倫理小説でも読んでいる気分だった。たとえばレヴォニーが実はヘルムートに恋をしている、なんて禁断の恋とか。そう考えるだけで胸が高鳴り、退屈な監視もがぜん見応えのあるものに変わった。
「出かける」
レヴォニーの詰問に耐えかねたヘルムートは、扉を開けてそのまま出て行こうとした。
「どこへ行くの!?答えなさい!」姉は玄関まで追いかけてきた。ひどく心配しながらも、腹を立てている様子だ。
「仕事だ」弟は冷ややかに答えた。
「私に話すことは何もないっていうの!?」レヴォニーは叫んだ。
それだけ言い捨てると、彼はレヴォニーに構わず、足早に姿を消した。
「このお姉さん、ずいぶん厳しいのね。でも、鞄も持たずに仕事に行く人なんている?」嘘に決まっている、とラロリアは断じた。
だが、問題があるからこそ、調べる余地があるというものだ。
ヘルムートの後をつける。幾つかの通りを抜けたところで、彼はようやくとある広場で足を止めた。
「面倒くさい……」ヘルムートはため息をついた。姉にはお手上げといった様子だ。
だが、多少の愚痴はあっても、姉との情を大切にしているのは見て取れた。
彼は行きつ戻りつしていた。何かを考えているようでもあり、何かを待っているようでもあった。
ラロリアはそのまま隅に陣取り、新聞で顔を隠して、その隙間からひそかに彼を見張っていた。
数十分が過ぎた頃、華やかなワンピースを着た美しい少女が、遠くからしずしずと歩いてきた。琥珀色の長い髪に、同じく明るく輝く瞳の持ち主だった。
その顔をラロリアは新聞で見たことがあった。大陸巡回コンサートの歌手、ミアだ。
「ヘルムートさん……!」
「ミアさん……」彼女を目にした途端、ヘルムートの瞳がきらきらと輝きだしたように見えた。
「ありがとう……あなたがくださったこの服、本当にきれい……」彼女は踊るようにくるりと一回りした。その見とれるほど美しい姿は、男たちの魂をたやすく奪い去ってしまいそうだった。
「こんな上等な服、着たことがなかったの……全部あなたのおかげよ、ヘルムートさん……」
「いえ……これは……当然のことです」
すっかり見とれた彼は、うっとりと我を忘れている。
「ずっとここで待っていたみたい……私、遅刻していないわよね?」ミアは探るように尋ねた。
「もちろんです……!もちろん……!」
「じゃあ、行きましょう!」
ミアがヘルムートの胸に身を寄せると、彼は顔を赤らめた。
「歌手と付き合っているから、お姉さんに知られたくないのね?」ラロリアは推し量った。
その後、二人は甘いデートを始めた。もっとも、表向きはヘルムートがミアをあちこち連れ回しているようでいて、実際に主導権を握っているのはミアのほうだった。彼女にそそのかされるまま、この若者は次々と金を使い、装飾品や服を山ほど買って贈った。二人の関係は、ただの恋人同士に過ぎないというのに。
「ヘルムート……!あの腕輪が欲しいの!買ってちょうだい!」
ミアが金貨二十枚もの品をねだるのを見て、ラロリアは眉をひそめた。
「いくら何でも、結婚もしていない相手にこんな高価な物を贈ったりしないでしょう?」
予想に反して、ヘルムートは大見得を切って買ってやった。
「もちろん、問題ない」
「本当に買ってあげちゃうなんて……男ってやっぱり色欲に支配されているのね……」
「あっ……!この服、すごくきれい!着てあなたに見せたいわ!」
「気に入ったなら買えばいい」ヘルムートは笑って応じた。
「大好き!本当に気前がいいのね」
会計の段になって財布を開けてみると、中はほとんど空っぽだった。
「まずい……このままじゃ給料がまるで足りない……また、あれをやるしかないのか……?」
そこまで考えると、良心と欲望がまたしても胸の内でせめぎ合った。だが、すでに一度良心を売り渡した彼の選択は、ほとんど決まっているようなものだった。
二人の後をつけていたラロリアは、一部始終を見ていた。ヘルムートの胸の内など、彼女には分からない。その目に映るのは、女に手玉に取られた挙句、相手の出費すら払えなくなりかけている、金に窮した男の姿だけだった。
「これは本当に深刻ね……レヴォニーさんにきちんと報告しないと」
少しの贈り物ならまだしも、このミアさんのねだり方は、同じ女性のラロリアから見ても目に余る。もはや悪意の域だった。
「ミアさんのためなら……」ミアの無邪気な笑顔を前に、なおも葛藤していたヘルムートは、ついに心を決めた。
彼はミアの手を引いて広場へ出た。
「次はどこへ行きましょうか?」
「うーん……そうね、あの万能銀行の隣の高級ステーキハウスでお昼にしましょう……!」
「だ……大丈夫です……」
それは嘉徳市で最も高級なステーキのチェーン店で、昼食一回で労働者の給料半月分が飛ぶほどだった。
ミアの食欲と、いつも高い部位ばかり好む癖を思えば、また散財は避けられない。ヘルムートにはそれが分かっていた。
傍らで張り込んでいたラロリアも見ていられなくなり、他人事ながらやきもきした。
「本当に情けない男ね。ウェルズみたいに鉄血非情になれないの?」
「やめた、あの殴りたくなる奴の真似なんてしないほうがいいわ!」
考え直してみれば、極端から極端へ走るのも感心しない。
二人が万能銀行の前を通りかかった時、ラロリアは思いがけずあることに気づいた。この銀行の名前を、彼女は見たことがあった。
目の前がどこなのか、そして今がどういう時なのか。彼女がそれを悟った、その瞬間——
「危ない……!」
二人に警告する間もなく、突然銀行の中で爆発が起こり、凄まじい衝撃波がガラスの扉を残らず粉砕した。
ガラスの破片が弾け散り、激しい突風に巻かれて飛び出した。扉の前にいたヘルムートとミアがまともにそれを浴び、反応の遅れたヘルムートは破片に切り裂かれて血まみれになった。
ところが誰も予想しなかったことに、か弱く見えるミアのほうは反応してみせた。
ミアは魔力の障壁を張り、飛来するガラスの破片をすべて防いだ。傍らのラロリアは目を見張った。まさか自分と肩を並べるほどの反射能力の持ち主だとは。
「魔力の障壁を張るなんて。でも、あれは……?」
さらに驚いたことに、その障壁からはかすかな奈落の力が感じられた。
それを感じ取ったのは、ラロリアだけではなかった。
その瞬間、天から人影が舞い降り、鋭い武器の残影が虚空に閃光を描いた。鉄をも断つ一撃が神速で振り下ろされる。狙いは、見るからに無害なミアだった。
「こ……これは……?」
ラロリアはその場に立ち尽くした。駆けつけるより早く、その一撃は唸りを上げて振り下ろされ、今にもミアを両断しようとしていた。
まさにその時、ミアも危険に気づいた。ヘルムートを力任せに突き飛ばす。だがそれは彼を救うためではなく、その反動で数歩後ろへ退くためだった。動きにくい長いスカート姿でありながら体勢を崩さず、見事に攻撃をかわしてみせる。
この精妙な身のこなしと反応は、彼女の戦闘技術がラロリアに少しも引けを取らないことを物語っていた。
ラロリアは思わず目を見張り、言葉を失った。
長槍が地面に突き刺さり、少なからぬ亀裂を走らせた。武器を振るった者は小柄で、白いマントを高く翻らせている。ラロリアが一度だけ顔を合わせたことのある、応策局の隊員だった。
「死ね」
ミアの背後に、さらに長身の応策局員が現れた。
小柄な白衣の人影は長槍を構えてミアの胸をまっすぐに狙い、新たに現れた隊員は大きく横薙ぎに斬りつけた。前後から寸分の狂いもなく繰り出される連携の斬撃は、ラロリアでさえかわしきれる自信がない。これこそ「蒼白」と呼ばれる応策局の戦力である。
だが、風が吹けば折れてしまいそうなミアが、それを受け止めた。
両手から瞬時に鋭く長い爪が伸びる。ミアは身を翻しての斬撃で、前後からの攻めを退けようとした。
見事な回転斬りだったが、それでも前後からの挟撃の勢いには抗しきれなかった。力を受け流しきれず、胸を狙った長槍は逸らされはしたものの、コルセットに包まれたミアの細い腰を刺し、傷を負わせた。
「うっ……!」彼女は痛みに声を上げた。
鋭い爪を生やしたミアの姿を見て、ラロリアははっと悟った。「サキュバス!?」
最下級のサキュバスでも四階の実力を持つ。奴らは人心を惑わす様々な法術を得意とし、近接戦はむしろ不得手だ。加えて応策局が奇襲の先手を取ったのだから、ミアが四階でありながら、二人の三階の攻撃にすっかり押し込まれているのも無理はなかった。
すべての謎が解けたかと思った矢先、ミアは包囲を破って逃げにかかった。肉の翼が衣を裂き、背中にずっと潜ませていた蝙蝠の翼が姿を現す。ここに留まれば死あるのみだと、彼女は悟っていた。
背後から迫る敵を爪の一撃で弾き返すと、もはや白衣の人影に構っている余裕もなく、そのまま力を溜めて地を蹴った。
この全力の逃走は、大きな隙を生んだ。白衣の人影は魔力を集めた長槍を構え、渾身の力で一歩踏み込む。三階の武技「蒼穹穿刺」だ。旋風をまとって追いすがる長槍が、今にもミアを貫こうとしていた。
「ミア!!」
その時、ヘルムートが狂ったように飛び出してきた。なんと自分の身体を盾にして、ミアの代わりにこの槍を受けるつもりなのだ。
「こいつ……正気なの?」レヴォニーに助けてもらったことが、ラロリアの脳裏をよぎった。この一瞬、どうしても見捨てられず、後先を考える暇もないまま、慌てて魔法を行使してヘルムートを守るしかなかった。
ラロリアとヘルムートが同時に張った魔力の障壁でさえ、この一突きの前には音を立てて砕け散った。鋭い長槍は彼の肩に無残な傷口を開き、勢いを削がれた回転の槍撃は、それでもミアの背中を捉えて凄惨な血の穴を穿った。
「うっ……!」彼女は痛みに声を上げた。
地を蹴って飛び立った彼女は振り返りもせずに逃げ、たちまち黒い点となって彼方へ消えた。
この重傷も、悪魔にとっては致命傷にならない。幾重にも魔法を掛ければ、すぐに応策局の追跡を振り切れるだろう。
「ミア……!」地面に倒れたヘルムートが苦しげに叫んだ。
「逃げられましたか」
白衣の人影は長槍を地面に突き立てると、ヘルムートに手錠を掛け、傷の手当てをした。
「ヘルムートさん、機密漏洩罪および重犯捜索妨害罪であなたを逮捕します」
「ミア……ミア……」彼は心臓をえぐり取られたかのように、魂の抜けた様子で呟いていた。
もう一人の応策局員はラロリアへ歩み寄り、長槍をその喉元に突きつけた。
「軽はずみな真似はするな。お前にも同じ容疑がある」
「私はただ……彼が殺されるのを見たくなかっただけよ」
自分が応策局に槍を突きつけられる日が来るなど、考えたこともなかった。しどろもどろに弁解してしまうのも無理はない。重犯捜索妨害罪となれば十年以上は牢に入れられかねないうえ、応策局が見逃すつもりがなければ、耐え難い拷問を受け、二度と日の目を見られなくなる恐れさえあるのだ。
遅れて込み上げてきた恐怖に身をすくめていると、あの小柄な白衣の人影が歩み寄ってきた。その胸元には「満」という名札が掛かっている。
「身分を明かしてください」
逆らえる立場にないラロリアは、おとなしく自分の査証と身分証を差し出すしかなかった。
査証を受け取って確認すると、満は懐から一枚の紙を取り出し、査証と一緒にラロリアへ返した。
「あなたの重犯捜索妨害罪は成立しません。ただし、無許可での禁制魔法使用について罰金切符を切らせてもらいます。合計で金貨二十枚です」
「二度と繰り返さないよう注意してください。最高で拘役教育三か月と罰金金貨百枚が科されます」
もう一人の長身の応策局員は満の裁定に従って長槍を下ろし、ラロリアを解放した。
満という名の小柄な隊員こそが、今回の行動の指揮官だった。
罰金切符一枚で済んだのは、不幸中の幸いと言えた。
銀行の中に目をやると、あらかじめ待ち伏せていた警官たちがすでに内部の状況を完全に鎮め、襲撃した「終末救贖者」の構成員を捕らえていた。
「これ、どう説明すればいいのよ……」
うつむいて手元の罰金切符にもう一度目を落とし、ため息をつく。
ウェルズにもレヴォニーにも、どう説明すればいいのか分からなかった。




