第十三章 翠緑興栄
ここ数週間、二人はあちこち駆け回って情報を集め、黒蓮のほうもおとなしく家で留守を守っていた。
その日、ウェルズのもとに一通の招待状が届いた。文礼伯爵の娘の誕生パーティーである。今ではもう紹介者がいなくても、貴族の輪の中でそれなりの地位を築いている。伯爵級の晩餐会に出るのは、これが初めてだった。
馬車で乗りつけたのは、上城区にある豪奢な荘園だった。車道は広く、馬車を停めておく余裕も十分にある。今回の客は大商人、高階の魔法使い、大貴族、あるいはそのいくつもを兼ねる者ばかりで、嘉徳公爵の息子まで祝いに駆けつけていた。
美しい花壇を抜けると、荘園の建物の前の野外広場に出た。煩わしい害虫は魔法でしっかりと追い払われている。中央の長卓には精緻な料理と高級な酒がずらりと並び、両側のガラスの飾り棚には召使いたちが運び出した美術品が飾られていた。しばらく待つと、伯爵と十四歳になる娘が壇上で挨拶をし、宴は賑やかに幕を開けた。
人混みの中を歩き回りながら情報を探っていたウェルズは、思いがけない会話を耳にした。
中年らしき二人の貴族が話し込んでいる。
「嘉徳公爵は最近、めっきり宴に顔を出さなくなったな。いつも息子が代理だ」
「やはり誰しも老いるものだな。嘉徳公爵といえば、かつてはこの都市随一の遊び人だった。それが時代も移って、都市には工業が興り、嘉徳公爵も花街に入り浸ることはなくなったわけだ」
「そういえば、最近帝都の親戚からとんでもない話を聞き出してね」
「大事だと?ふん、修羅場ならいくらでもくぐってきた。今さらとんでもない事などあるものか」
「それはどうかな。この話を聞けば、君だってきっと腰を抜かすほど驚くぞ」
「なら、さっさと言え」相手のもったいぶりに焦れた貴族が急かした。
「そのとんでもない話というのはな……質麗皇女が失踪した……!」
それを聞いて、ウェルズの脳裏に黒蓮の姿が浮かんだ。
「質麗皇女が失踪……まさか、彼女が黒蓮なのか?」
ウェルズは歩み寄り、会話に割って入った。
「お話し中に申し訳ありません。先ほどお二人が質麗皇女のことを話しておられるのを耳にしたのですが……この皇女について、ぜひお聞かせ願えませんか。なぜ失踪なさったのでしょう?」
「皇室のことを軽々しく口にするのは、どうかと……」
「実のところ、もう秘密というほどのことでもない。帝都の貴族の中には、とうに知っている者もいる」
「質麗皇女は、今上の皇帝が最も寵愛した妃の遺した娘で、皇帝のただ一人の娘でもある。その妃は早くに亡くなられてな。皇位継承順位こそかなり下だが、皇女は幼い頃から宮廷中の掌中の珠だった。ところがここ数年はほとんど表に出なくなり、そこへ思いもよらず失踪の知らせが届いたというわけだ」
「失踪の理由については皆が勝手に憶測しているばかりで、本当のところは誰にも分からんのだ」
話を聞き終えたウェルズは、黙って考えに沈んだ。
「もし黒蓮が質麗皇女なら、どうして終末救贖者の手に落ちた?終末救贖者が彼女を捕らえた目的は何だ?」
「……」
「考えても分からないことは、ひとまず置いておくか」
思索から我に返ったウェルズは、あるガラスの飾り棚の前で足を止めた。中には虹のような文様をあしらった貴重な磁器が収められている。
それを目にした瞬間、信じがたいものでも見たかのように、ウェルズの瞳孔が鋭く縮まった。
虹色の釉薬に、世界樹の彫り文様。この花瓶はもともと響浪公国の宮殿の二階の回廊に置かれていて、毎年春になると、母が海辺で最初に咲いた風鈴草を挿していたものだ。八歳の年に倒してしまい、罰として父に午後いっぱい書き写しをさせられた。あれから六年。失った家が形あるものとして目の前に現れたのは、これが初めてだった——他人のガラスの飾り棚に収められ、宴の飾りとして。
「この所蔵品は……」花瓶に釘付けになった彼の視線は、どうしても離れなかった。
その時、不意にかけられた声が彼の凝視を遮った。
「こんばんは、ウェルズさん。君を紹介したあの男爵が、ずいぶんと君を推していましてね。十代で三階魔法使いとなれば天賦の才に違いないと思っていたが、こうして会ってみると、いよいよ前途洋々だ」
ウェルズはいくらか強張った笑みを浮かべ、胸に手を当てて一礼した。
「過分なお言葉です……文礼伯爵こそ。領地の建設と工業の発展に力を尽くされ、領民により良い暮らしをもたらされたと伺っております。そのような度量こそ、私が見習うべきものです。ご息女はお優しいお心を受け継がれたうえに、お顔立ちもお美しい。この蜂の巣で万の蜂にかしずかれる女王と申し上げても過言ではございません」
「それこそ褒めすぎというものですよ」
伯爵は上機嫌で、ははは、と声を上げて笑ったが、目ざとくウェルズの手首に気がついた。
「ところで、君の腕のその時計は『極怒竜嚎』でしょう?たしか匠極が三年前に発売した限定品で、一本で金貨五百枚はしたはずだ」
ウェルズはどうにか平静を装い直したが、受け答えをしながらも頭の中はこの腕時計のことでいっぱいだった。ラロリアがかつて、金貨数百枚もする腕時計を買えるほど裕福な暮らしをしていたとは思いもしなかった。
「そういえば、さっき君を見かけた時、ずっとこの世界樹の彫り文様の花瓶を眺めていましたね。興味がおありかな?」
「ええ……この花瓶は西大陸の様式ですね?これほど円熟した世界樹の彫り文様は、西大陸でしか見られないものです」
「ははは、君はなかなかの目利きだ。この花瓶は『翠緑興栄』といって、確かに西大陸のある小国から来たものです。あの国を侮ってはいけませんよ。陶磁の技の精巧さでは広く名の知られた国で、しかもこれは王室の所蔵品だったのです」
ウェルズの目がちらりと揺れたが、すぐに驚いたふりをした。
「王室の所蔵品が、どうしてこの地に?」
「たしか、滅ぼされたのだとか。私はある骨董商から高値で買い取りましてね。その国を滅ぼした王国が、軍費の穴埋めに王室の所蔵品を売り払ったそうで、これもその一つだと」
「なるほど……」
ウェルズはそれから宴の中を歩き回って噂を拾い集め、ほどなく会場を後にした。
宿に戻ると、彼はラロリアと情報を交換した。
「嘉徳川上流の血ダイヤ鉱山は、ある採掘会社が請け負っているの。官民合弁の会社で、株式の半分は嘉徳市政府が持っているわ。残りの半分は一度持ち主が変わっていて、今はある持株会社が管理と運営をしているの」
「持株会社?騁馳か?終末救贖者が株式でこの鉱山を支配しているのか?」
「いいえ、むしろ持ち主が変わる前のほうが終末救贖者と多少つながりがあったの。譲渡されてからは、別の会社が血ダイヤ鉱山を握っているわ」
ラロリアは先日終末救贖者の拠点で見つけた本を手に取り、ページを指さした。
「ここを見て。終末救贖者もこの持株会社を失ったことにはかなり驚いているみたい。自分たちから手放したわけじゃないのよ」
「誰かに敵対的買収を仕掛けられた、ってところか」文字にざっと目を通して、ウェルズは言った。
「それと、ハンクの保護リストに載っている全員の身分も洗い出しておいたわ」ラロリアは捜査にも手慣れていた。ウェルズと組む前は、一人で動いていたのだから。彼女は優雅な筆跡で書かれた紙を一枚取り出し、ウェルズに手渡した。
「この前の連中のほかに、製鋼所、セメント工場、機械工場、汚水処理施設、河川浚渫会社……保護リストの顔ぶれは実に雑多だな」ウェルズは資料に目を走らせた。
「この人たちも、自分が途方もない陰謀に巻き込まれてるなんて知らないのかもね」ラロリアは人差し指で頬をつつきながら考え込んだ。
「お前の言う通りだ」
「でも、このまま調べていけば、きっと彼らのつながりが見えてくるはずよ」
その時、部屋の奥から甘い香りが漂ってきた。ラロリアの小さな鼻がひくひくと動く。幸せな甘い匂いが胸いっぱいに広がり、食欲をそそられた。
「何これ……すっごくいい匂い!」
奥の台所からゆっくりと歩いてきたのは黒蓮だった。作りたてのチョコレートを載せた皿を手に、はにかんで顔も上げられずにいる。
「お二人とも……お疲れさまです……いつも助けていただいているお礼がしたくて……ほんの気持ちですけど、召し上がっていただけたら嬉しいです」
「わあ……すごく手が込んでる!」差し出された菓子に、ラロリアは猫の手のようにそっとチョコレートをつまみ、口に入れた。たちまち幸せな甘さが広がり、指先まで温かくなる。「甘いものなんて久しぶり……!」
「お口に合ってよかったです……!」黒蓮は嬉しそうに微笑んだ。朝日を浴びて咲く花のような美しさだった。「『主婦週報』の付録を見ながら作ったんです……お二人のお口に合わなかったらどうしようって、心配で……」
ウェルズはわずかに眉をひそめただけだった。「こういうものは、どうやって買った?」
彼が眉をひそめたその瞬間、黒蓮は胸に黒い穴がぽっかりと裂け、さっきまでの幸せがすべて吸い込まれていくように感じた。
「材料は……材料は給仕の方に頼んで買ってきてもらいました……!勝手に外に出たりはしていません。お金も……いつもいただいているお小遣いを貯めて……新しい宿に台所があったので、それで作ってみようって……」
彼女はおろおろと胸に手を当て、必死に弁解した。焦りのあまり、目の縁が赤くなりかけている。
チョコレートを食べていたラロリアの手がぴたりと止まった。チョコレートを置き、冷ややかな目でウェルズを見据える。「そんなにきつく言わなくてもいいでしょ?」
「お前のせいじゃない。こういう言い方が癖になっているだけだ」彼は静かに答えた。「料理がしたいなら、材料費はそのまま請求してくれればいい」
「ほ……本当ですか!?」黒蓮は小さな顔をぱっと輝かせると、嬉しそうに台所へ駆け込み、設備を熱心に調べ始めた。
ウェルズにしてみれば、この程度の出費はどうということもない。それで黒蓮が落ち着くなら安いものだった。
「それと、俺のほうでも少し情報を仕入れてきた。黒蓮に関係があるかもしれない」
「帝国皇帝の一人娘、質麗皇女が失踪したそうだ。あいつがその質麗皇女かもしれない。だとしたら、事は重大だ」
ラロリアはきょとんとして、小さな口をぽかんと開けた。「黒蓮が質麗皇女かもしれないってこと?」
「ああ。少なくともお前よりは見込みがある」
「それどういう意味よ!」彼女はかっとなってウェルズの襟元を掴み、力任せに揺さぶった。「今日ちゃんと説明しないと、生きてここから出られると思わないことね!!」
「皇女が、こんなふうに品もなく人の襟元を掴んでがくがく揺さぶるか?」揺さぶられながらも、ウェルズは淡々と返した。
ラロリアはぐうの音も出ず、手まで止まってしまった。
ラロリアの手を払いのけ、ウェルズは淡々と自分の襟元を整えた。「悪くない。少なくとも首は絞めなかったな」
「あんたの中で私って一体どんなイメージなのよ!」
「気が短くて、甘やかされて育った、おせっかいな……お嬢様だ」ラロリアの顔色が険しくなったのを見て、ウェルズは最後の最後で「女」を無理やり褒め言葉の「お嬢様」に言い換えた。それでようやく、彼女の表情も少し和らいだ。
「私の生まれがどれだけ高貴か分かってるなら結構よ。鑑賞眼のかけらもないあんたの頭にしては、唯一の及第点ね」
「何しろお前は、金銭感覚がまるでない人間だからな」
ひとしきりラロリアをからかうと、彼は話を続けた。
「それから、秩序編織者と深い関わりがありそうな品を見た——『翠緑興栄』だ」
「何それ?」
「花瓶の名前だ。世界樹の図柄が彫られている。十中八九、秩序編織者の『聚宝者』の手を経て文礼伯爵に売られたものだろう。帝国では文物の売買に極めて厳しい規定がある。この線をたどれば、相手の身分の一つを突き止められるはずだ」
「この調査はお前に任せる。俺は引き続き上流の噂を探る。鉱山のほうはひとまず後回しだ。あれだけ長く合法的に経営してきたんだ、たいしたぼろは出ないだろう」
「任せて」
翌日、ラロリアは「翠緑興栄」の情報を探りに出かけた。
「はあ……あいつ、口で言うのは簡単だけど、どう調べればいいのか見当もつかないわ」
だがラロリアは、情報収集の基本原則を思い出した。自分に手立てがないなら、手立てを持つ人か、手立てのありかを知っている人を探せばいい。
後者なら心当たりがある。レヴォニーに訊けばいいのだ。
レヴォニーの住所は、これまでのやり取りで聞いていた。地図を頼りに、ラロリアはほどなく彼女の家の前に着いた。
中層区にある、こぎれいな煉瓦造りの家だった。歩み寄って扉を軽く叩くと、掃除係のメイドが顔を出した。
「レヴォニーさんにお会いしたくて来ました。ラロリアと申します」
「かしこまりました。ただいまお取り次ぎいたします」
ほどなくして、メイドが足早に扉の前へ戻ってきた。
「お嬢様は喜んでお会いになるそうです。どうぞこちらへ」
メイドに案内されて二階の応接間へ上がると、レヴォニーがそこでラロリアを待っていた。
「ようこそ、恩人のお嬢様。今日はどういったご用件でしょう?」
「おはようございます、レヴォニーさん」
ラロリアは腰を下ろした。
「実は……」どう切り出したものか分からず、彼女はとっさに嘘をでっち上げた。「最近、骨董にすごく興味があって、家に飾るものをいくつか買いたいと思っているんです。有名な骨董商を紹介していただけませんか?」
「骨董商を、ですか?」レヴォニーは目を閉じてしばし考えた。「この市で一番大きな骨董商なら存じています。名の知れた骨董は、ほとんどが彼の主催する取引会で売買されているんですよ。以前、彼のお子さんの注意欠陥症を治療したことがありまして。私の紹介状を持っていけば、何かと力になってくれるはずです」
「ありがとうございます!」ラロリアはぐっと両の拳を握った。やはり頼る相手を間違えていなかった。
レヴォニーはペンを取ると、流麗な筆跡でさらさらと紹介状を書き上げた。封筒の表に自分の名を記し、専用の印章で封蝋を押して、ラロリアに手渡す。
「ただ……恩人のお嬢様、実は私からもお願いしたいことがあるのです」
手紙を受け取ったラロリアは頷いた。「何でもおっしゃってください」
「弟のことです」レヴォニーはひどく心配そうに言った。「弟のヘルムートは、ずっと真面目にこつこつやってきた良い子でした。成人して働き始めてからもそれは変わらず、蜂のように勤勉で……。ところがこのひと月ほど、様子がおかしいのです。何日も外に出たまま家に帰らないし、お酒の匂いまでさせるようになって」
「心配でたまらないのですが、何があったのか訊いても答えてくれません。お手すきの時でかまいませんので、あの子のことを調べていただけないでしょうか?」
「あなたは見るからに調べものがお得意そうですし、いろいろな戦闘魔法にも通じていらっしゃいますもの。もしよろしければ、ぜひお力を貸してください」
ラロリアは一瞬きょとんとしたが、それでも頷いた。「分かりました。時間を見つけて彼のことを調べて、報告書にまとめてお渡しします」
「それは助かります……!」
レヴォニーの家を辞すと、弟の件はひとまず置いて、ラロリアは骨董商会にあの骨董商を訪ねた。相手は、彼女がレヴォニーの紹介で来たと知ると
、たいそう手厚くもてなしてくれ、「翠緑興栄」の取引記録もラロリアの手に渡った。
「翠緑興栄の売り手はテプフェル、買い手は文礼伯爵……」
それから数日、ラロリアは「翠緑興栄」を手がかりにテプフェルの足取りを追い、ほどなく政府の産業登記所で、テプフェル名義の持株会社を一つ探し当てた。この持株会社は血ダイヤ鉱山の株式の半数近くを握り、ほかにも汚水処理会社を数社抱えていた。
宿に戻ると、彼女はウェルズと情報を交換した。
ウェルズは低く唸ってから分析を口にした。「翠緑興栄からすれば、テプフェルという身分は秩序編織者に属していると見ていい。つまり秩序編織者は、終末救贖者から血ダイヤの運営権を奪い取ったわけだ。それも、ごく最近になって」
「ってことは……この二つの組織は、私たちが思ってたほど一枚岩じゃないのね!勢力を広げる中で揉めることもあるってこと!!」ラロリアは賢い頭をめぐらせてとんでもない結論にたどり着き、興奮して声を張り上げた。
「その通りだ」ウェルズが珍しく笑みを見せた。重大な突破口だった。
「奴らが血ダイヤを奪い合っているなら、あそこに確かに何かがあるのはいよいよ間違いない」ウェルズは言った。「応策局に匿名の手紙を出して、鉱山を調べさせるのがいいだろう」
「このおかげで、長いこと胸に引っかかっていた疑問にも一つ説明がついた」ウェルズはかすかに笑った。
「何のこと?」ラロリアが興味深そうに尋ねた。
「お前も知っていることだ」
「私も知ってる?」
「無煙炭の工場主、シュミットの死因のことだ」
「それがどうしたの?」ラロリアの顔色がわずかに曇った。死者の無残な姿を思い出したのだ。
「覚えているか?ハンクの保護対象者リストの人間も標的も、全員が下層区の住人だった」
「でも、私たちが泊まっていた宿は中層区にあったわ」
「ハンクが捕まる危険を冒してまで、広い区域をわざわざ回り込み、巡回が厳しく治安もいい中層区で犯行に及ぶとは到底考えられない。それに、雇われた別の掘臓人の仕業でもない。中層区でその後、人が殺されたという話は出ていないからな」
「だから、答えははっきりしている。シュミットさんを殺したのは模倣犯だ。臓を掘りに来たわけじゃない。何者かが掘臓人を装い、別の理由でシュミットを殺したんだ。俺の見立てでは、ハンクを雇ったのは終末救贖者だ。ハンクの手がかりが、俺たちを黒蓮のもとへ導いたからな。となれば、罪をなすりつけた秘密結社は秩序編織者ということになる」
「お互いに罪をなすりつけ合う……この二つの秘密結社が、そんなことまでするの?」
「それから、汚水処理会社を持っている件だが……」
「環境保護のためを思って汚水処理会社を買った、なんてことは絶対ないと思うわ」ラロリアが言った。
「環境保護は今注目の新興分野だ。株を押さえているのは投資目的かもしれない。そう考えると、テプフェルは長く使われてきた身分なのだろう」ウェルズにも確たる見当はなく、そう推測するしかなかった。
分析はここまでだった。
「お二人とも……今日はカレーを作ってみたんです。お口に合うといいんですけど」
その時、エプロン姿の黒蓮が鍋を抱えて二人の前にやって来た。卓に置いて蓋を取ると、料理の香りがふわりと押し寄せる。恥ずかしそうにうつむいた彼女は、こっそりとウェルズの表情を窺った。
「カレー……!いいわね!」ラロリアは嬉しそうに言った。
「自炊なら費用を抑えられる」ウェルズは静かにそれだけ言った。
「これって……褒めてくださってるんですよね?」黒蓮の緊張が一気にほどけた。
彼女は両手を合わせ、心底嬉しそうに言った。「ありがとうございます……!」
「変なの。料理を作ってくれたのはあなたなのに、どうしてあなたがお礼を言うのよ?」とラロリア。
「お礼を言いたいのは……私がやっと、お役に立てたからです!女神様、感謝いたします……」彼女は目を閉じ、心から祈りを捧げた。
役に立てたことを、彼女が心の底から喜んでいるのがよく分かった。
食事が済むと、黒蓮はうきうきと鍋を抱えて後片付けを始めた。甲斐甲斐しく立ち働くその姿は、遊びたい盛りの年頃の娘とはとても思えず、むしろ新婚の幸せに浸る若妻のようだった。
「あんた……少しはましになったみたいね」ラロリアは黒蓮から目を戻し、ウェルズを見た。
「お前のほうがまともになったんじゃないか」ウェルズは淡々と返した。
「もしかして黒蓮のことが好きなの?だからあの子には嫌味を言えないとか?」ラロリアはぽんと手を打った。「どうりで私にはこんなに意地悪なのに、黒蓮には優しいわけね!」
「あいつのことは特に何とも思っていない」彼は顔色一つ変えずに返した。「もっとも、向こうはずいぶん俺を好いているようだが」
「どうして……俺を好きになったんだ?」ウェルズは低く唸った。
「うぬぼれないでよ」ラロリアが彼の思考を遮った。「刷り込みよ、きっと。最初に話しかけたあんたを父親だと思い込んでるの!だからあんなに懐いてるのよ!絶対そう!」
彼女は頷いた。我ながら筋が通っていると思ったらしい。
「だったら、あいつはお前を母親だと思うはずだな」ウェルズは何気なく返した。
「私……?母親……?」ラロリアは口を大きく開けた。
「ちょっと、誰があんたと子供なんか作るのよ!このスケベ!下品!変態!」ようやく意味に気づいた彼女はハンカチを取り出し、怒りに任せてウェルズの顔をぴしぴしと打った。
「俺は一言もそんなことは言っていないが?」
ウェルズは椅子に座ったまま、右へ左へとハンカチをかわした。
今回ばかりは、ウェルズも自分がまったくの濡れ衣だと思った。




