第十二章 暗闇
「おはよう、イチゴジャム」
翌日の朝、ウェルズは再びサンドラと顔を合わせた。
今回は川岸で落ち合った。二人は心霊魔法を付与して、周囲の人々の注意をそらしている。サンドラはいつものように赤いシャツにホットパンツという格好で、背中にはあの長刀を掛けていた。
「今のところ、騁馳社の情報はこれで全部。詳しいことはまだ調査中」サンドラがしなやかな手を差し出す。この手に鷲魔の体躯を断ち切るほどの力が秘められているとは、なかなか想像しがたい。
「財閥内の株主の派閥と身元を、優先して調べてほしい」
「問題ないよ」とサンドラは引き受けた。
「金貨三十枚。今回の調査費用だ」
これを支払うと、ウェルズの手元に残る資金は金貨三十三枚ほどになった。
「それと、紹介者を一人手配してほしい。ここの上流社会に入るためだ」
「それなら金貨十五枚もらうよ」煉獄騎士の人脈を動かすには金がかかる。
「金貨三枚、おまけしてやる。イチゴジャムでも買え」ウェルズはかすかに笑い、現金を渡した。
「君がけちじゃないなんて、ほんと珍しいね。何かいいことでもあった?」
「残金をきりのいい数にしたかっただけだ」
手元に残ったのは金貨十五枚だけだが、ウェルズは気にしていなかった。実力さえあれば、金を稼ぐのは難しくない。
その頃、ラロリアは街路を歩き、嘉徳市内の病院へ向かっていた。
黒蓮の特殊な事情を考えれば、彼女を治療できるのは間違いなく高階の魔法使いだ。病院にいる一階や二階の心霊魔法使いに黒蓮を治せるとは思っていない。病院へ来たのは、あくまで話を聞き込むためだった。
ほどなくして、看護師から何人かの名前と住所を聞き出すことができた。
「ホフマンさんのお住まいは、この辺りのはずだけど……」
リストの最初の相手は、嘉徳市内でも名の知れた医者のホフマンで、三階魔法使いでもあった。
屋敷を訪ねてみたが、そこにいたのは彼の部屋を掃除しているハウスメイドが一人だけだった。
「ホフマン様にご用ですか?医療研究会に出席されるとのことで、お出かけになっております」
それを聞いたラロリアは、休む間もなく医療研究会の会場へ向かった。
「あそこが医療研究会の会場ね……」
案内に従って進むと、広々とした建物の前に出た。
遠くから建物を眺め、そちらへ歩き出そうとしたその時、建物で突然激しい爆発が起きた。
唐突に爆音が轟き、建物の四階でまばゆい閃光がほとばしった。
爆発で吹き飛んだ建物の破片が大通りに落ちてきて、通行人たちが驚いて悲鳴を上げる。街路はたちまち大混乱に陥った。
「一、二、三、四……まずい、医学研究会の場所は四階よ!」
建物の階を数えていたラロリアは、事態のまずさを悟り、急いで建物へ駆け出した。中からは大勢の人々が怯えた様子で逃げ出してくる。
逃げ惑う人の流れに逆らって素早く建物の下までたどり着くと、彼女は跳び上がり、外壁の突起を足場にして、爆発で開いた穴へそのまま飛び込んだ。
炎と黒煙の向こうに広がっていたのは、目を覆いたくなるような惨状だった。爆発の中心の周りには肉片が散らばり、離れた場所でもあちこちで火の手が上がり、怪我人の姿がある。何より問題なのは、血ダイヤを手にした数名の魔法使いが、ほかの人々に魔法で攻撃を加えていることだった。
「殺さないで……殺さないでくれ!」「ああああああ!」
悲鳴と怒号があちこちで上がる。負傷者の中には、すでにこの魔法使いたちに殺された者もいた。
「悪魔の魔法……この連中は終末救贖者……!」彼女は連中の素性を悟った。
その中に、頭目らしき三階魔法使いが一人いた。地面にへたり込んだ負傷した貴族の女性を、今まさに処刑しようとしている。
「助けて……!助けてください!」女性は悲鳴を上げた。
ラロリアは有無を言わさず長剣を抜き、淡い青の魔力の輝き「魔化武器」を付与すると、その魔法使いへ斬りかかった。
攻撃されたと見るや、相手は標的を変えた。手の中に幾筋もの「奈落鬼火」を集め、血ダイヤで力を増幅してラロリアへ放つ。
「こんな小細工……!」
ラロリアは飛んできた炎を一太刀で斬り裂いた。爆発の火は、衣服にわずかな焦げ跡を残しただけだった。
それを見た敵は、後ろへ下がって距離を取った。ラロリアが一筋縄ではいかない相手だと悟ったのだ。
「よし……!退かせた」
手の中に魔力が凝集し、剣術技能「穿心の刺」となって収束する。
針状の魔力が敵へ突き進む。だがこの魔法使いにも心得があったらしく、素早い足さばきでかわし、攻撃は片腕を切り裂くにとどまった。
その時、持魔者の剣士が一人、側面から突進してきて、ラロリアの行く手を阻もうとした。魔力が一枚の重壁となって、ラロリアへ叩きつけられる。
だが二階程度、彼女にとっては造作もない相手だ。優れた訓練を積んできた彼女は身を翻して斬り上げ、重壁を武器もろとも断ち切ると、続けざまに相手の胸へ刃を叩き込んだ。流れるような攻撃を終えると、すらりと長い脚で死体を蹴り飛ばし、襲いかかる数発の魔法飛弾を剣で弾き返した。
ラロリアの猛攻に加え、建物内の生存者たちも防御を固めて反撃に移ろうとしている。終末救贖者の指導者は、殺戮の好機はもう過ぎたと悟り、撤退を命じた。
数匹の小悪魔と暴羊魔を召喚すると、連中は四方へ散っていった。不可視化を行使したその姿は跡形もなく消え、壊れた建物の中には、無数の悪魔の金切り声と不気味な咆哮だけが響き渡った。
暴羊魔の山羊の頭が甲高い叫びを上げる。その怪力は、普通の人間など容易く引き裂いてしまう。奴らは長い戟を握りしめ、ラロリアへ突進してきた。
だがそれは、無意味な抵抗に過ぎなかった。
時間稼ぎに残された怪物どもは、たちまちラロリアに片付けられた。彼女の姿が閃いたかと思うと、鋭い長剣が二匹の暴羊魔を立て続けに斬り倒す。ほかの生存者たちの加勢もあり、悪魔たちは瞬く間に一掃された。
生存者たちは負傷者の救助に取りかかった。あちこちで呻き声が上がる。爆発と攻撃で重傷を負った者も少なくなかった。
「これはどういうことだ?」「あの連中はどこから来たんだ?」
ラロリアは長剣を一振りして、刃についた悪魔の血を払った。
「ありがとうございます……助けていただいて」不意に、背後からまだ震えの残る女性の声がした。
声の主は帽子を拾い上げ、かぶり直した。つばが汚れた血に染まっていることには、まるで気づいていない。
「あなたがいなければ、私はここで死んでいたかもしれません……助けていただいて、本当にありがとうございます!」
三十は過ぎているのかもしれないが、魔法を修めているせいで若く見える。あどけない顔には、今も助かった安堵がありありと浮かんでいた。
「私の名前はレヴォニー、姓はコールです……恩人のお嬢様、お名前を伺っても?」
「ラロリアです」彼女は答えた。
「ここで何があったんですか?どうして爆発が起きたんです?それに襲撃まで受けて」
「分かりません……ホフマンさんが壇上で講演をなさっている時に、演壇が突然爆発して……それからあの連中が飛び込んできて、敵も味方もなく周りの人を攻撃して……」
「ホフマンさん……?あの、心霊魔法を研究しているホフマンさんですか?」ラロリアは驚いた表情を見せた。爆発の中心点にいたということは、相手はまず助からないということだ。
「いいえ、疫学がご専門のほうです。心霊魔法を研究なさっている方は前列に座っていらして、ほら、あそこに……」彼女は前方を指さした。その指の先を見ると、ひどい怪我を負った中年の男が、周りの人々の手当てを受けながら、病院へ運ばれようとしていた。
「厄介なことになったわね……あんなにひどい怪我じゃ、ホフマンさんは数週間はベッドを下りて自由に動けない……」怪我をしたということは、黒蓮の状態を診てもらえないということでもある。ラロリアはそう思い至った。
「今回の討論で、何か特別な話題でもありましたか?どうして終末救贖者はここを襲ったんでしょう?」ふとそれが気になって、ラロリアは尋ねた。
「分かりません……今回もごく恒例の、経験交流の場にすぎなくて……これまでも同じように研究会を開いてきたんです。それなのに、今回に限ってどういうわけか……襲撃を受けて」彼女は首を振ってため息をついた。「まったく、警察は何をしているのかしら。どうしてあんなテロリストたちを止められないの……私たちの税金はどこへ消えたのよ」
「ホフマンさんが怪我をしたとなると、厄介ね……」
ラロリアのつぶやきを聞いて、レヴォニーが尋ねた。
「あの……ホフマンさんには、どういったご用件で?」
「友達が記憶を失ってしまって。普通のお医者さんでは、あの子が記憶を失った原因が分からないんです。それで、経験豊かな心霊医の方に、記憶を取り戻す手助けをお願いしたいと思って」
「記憶喪失……それで心霊医を?」レヴォニーは少し考え込んだ。「もしかしたら、お力になれるかもしれません、恩人のお嬢様」
「実は私も三階の心霊術師なんです。診断の腕なら、ホフマンさんに引けを取らないはずです。何か問題があれば、私にも分かると思います」
ラロリアは、幸運のほうから転がり込んできたような気がした。
「それは本当によかった……!」彼女は輝くように笑って、レヴォニーの手を取った。
「善は急げです、早く行きましょう!」
彼女はレヴォニーを連れて、見る影もなく荒れ果てた建物を後にした。
宿では、黒蓮が『主婦週報』を眺めながら、誌面に載った色とりどりの美しい刺繍の図案に思いを巡らせていた。
「私……これ、見たことがあるような……」
頭の中で刺繍にまつわる記憶をたどっていると、部屋の扉が開いた。
黒蓮は嬉しそうに立ち上がった。安心できるものを何一つ持たない彼女は、そのすべてを二人に預けていた。
扉を開けたのは、ラロリアとレヴォニーだった。
「この子が、治療をお願いしたい相手です……今の名前は黒蓮といいます」
「あ……あの……」見知らぬ人の姿に緊張した黒蓮は、週報で顔を半分隠した。
レヴォニーは歩み寄り、彼女をじっくりと観察した。
「なんてきれいなお嬢さん。こんな不幸に遭うなんて、胸が痛みますね」
「お友達に頼まれて来た心霊医の、レヴォニーです。あなたの治療をしてみようと思って来ました。どうぞよろしく」
彼女は黒蓮の隣に腰を下ろし、穏やかな声でなだめた。
「よろしく……お願いします……」黒蓮は頷いた。
医者は優しい言葉で彼女を落ち着かせてから、探知の魔法をいくつか放った。
「探知の反応から見ると……記憶呪詛のような魔法を受けたわけではなさそうです。もしそうなら、かえって簡単だったのですが。四階魔法の影響なら、高値で巻物を買うだけで解決できますから」
診断を終えると、彼女はわずかに眉を寄せた。
「もちろん、魔法が彼女の潜在意識の中に作用している可能性もあります。『赤子の心』という五階の心霊魔法は意識の深層に作用して、人の記憶を薄れさせ、すべてを忘れさせます。普通の魔法使いには探知が困難です」
「ですが、幸いなことに、私はその検査もできます」
レヴォニーは黒蓮の掌に自分の手を重ねた。黒蓮の両目を見つめるその瞳に、深く沈んだ光が宿る。
「さあ……かわいい子、力を抜いて……」
「あなたは、雲の中に横たわっているように心地いい。柔らかな雲に包まれて、陽の光に照らされて、まるで天国の上にいるようにくつろいでいる。だから……あなたはとても眠い。とても、眠りたい」
その声と魔法の効果で、黒蓮の目は次第に焦点を失い、意識がぼんやりとしていった。
「眠い……」
あっという間に、彼女は催眠状態に入った。
「では、今から数字の並びを覚えてもらいます。二五七九三」
「二五七……九三……」
「次に、あなたのいちばん好きな趣味を教えて」
「趣味……私、分からない……」
「好きな食べ物と、嫌いな食べ物は?」
「それも……私、分からない……」
レヴォニーは黒蓮の好みについていろいろと尋ねたが、返ってくる答えはほとんどが「分からない」で、ここ数日のうちにようやく見つけたものがわずかにあるだけだった。
「では、さっき覚えてもらった数字を、まだ覚えていますか?」
「二五七九三……」
黒蓮が欠けることなく答えたのを聞いて、レヴォニーははっとした。
その驚いた様子に、傍らのラロリアは緊張した面持ちで固唾を呑んだ。
レヴォニーはさらに探知魔法をいくつか放つと、険しい表情を浮かべた。
「はい、もう目を覚ましていいですよ」彼女が手を一つ叩くと、黒蓮はぼんやりした状態から我に返った。
「私……私、今、眠っていたんですか?」
「大丈夫よ、少し検査をしただけだから」ラロリアは彼女をなだめた。
だがレヴォニーの表情は、重苦しいままだった。
「やはり、彼女が何の影響を受けたのかは検出できませんでした」
「魔法の検査でも記憶の検査でも、心霊魔法の影響で記憶を失ったわけではないと断言できます」
「でも、この子は確かに過去のすべてを忘れているんです」ラロリアは愕然として言った。
「となると、残る可能性は一つだけです」レヴォニーの声はひどく静かだった。
「霊魂魔法の影響で、記憶を失ったのかもしれません」
「霊魂魔法……!?」ラロリアは驚愕の声を上げた。
霊魂魔法はどれも難解極まりない魔法だ。人の本質に触れるものであり、心霊、幻術、呪術に精通した者だけが、ようやく研究に取りかかれる。
人口数百万を数えるこの都市でも、もはや黒蓮を治療できる者は見つからないかもしれない。
いや、まだいるのかもしれない。黒蓮の霊魂に直接手を加えられる者なら、彼女を治す方法も持っているはずだ。
「申し訳ありません、恩人のお嬢様。どうやら私の力の及ぶ範囲では、あなたのお役に立てないようです」
「いいえ、診ていただけただけでも、何よりの助けです」
レヴォニーと別れた後、黒蓮はすっかり気落ちしていた。
「私……もう記憶は取り戻せないんでしょうか?」
ラロリアも美しい金色の眉をひそめ、霊魂魔法について何か手がかりはないかと、懸命に考えを巡らせていた。
夕暮れ、ウェルズも宿に戻ってきた。
扉を開けたウェルズは、菓子箱を一つ手に提げ、男性貴族の華やかな礼装をまとっていた。
「帰ったの?」「お帰りなさい!」
二人の少女がそれぞれウェルズを迎えた。黒蓮に至っては、留守番をしながら主人の帰りを待っていた忠犬のように、はしゃいで駆け寄っていった。
「首尾はどうだった?」ラロリアが尋ねた。
「何人かの男爵と正式に顔を合わせた。今後は招待状が増えるかもしれん。だが、黒蓮に関する話は何一つ聞き出せなかった」ウェルズは手土産の菓子箱を、駆け寄ってきた黒蓮の腕の中へ危なげなく放った。
「それと、そろそろ期限だ。宿を替えるぞ」最後にウェルズがそう付け加えた。
「今度は、三人で一緒に泊まれるところを探すのよ」ラロリアは念を押した。
「黒蓮はソファで寝かせればいい」ウェルズはそっけなく却下した。
「そうだ、もう心霊医に頼んで黒蓮を診てもらったの。でも結果は、手の施しようがないって……」
ラロリアは、先ほどの治療の様子を順を追って話した。
「こいつは間違いなく重大な何かに関わっているな……背後の連中は、霊魂魔法まで惜しまず使ったわけだ」ウェルズは低く唸った。
とはいえ調査は行き詰まっており、二人とも当面これといった打開策はなかった。
「ラロリア、俺が何か新しい目標を見つけるまで、お前は自分の判断で動け」
ウェルズはそう言いつけた。
「分かった、私はあの血ダイヤ鉱山を調べてみる。終末救贖者があれだけ血ダイヤを持っているんだから、あの鉱山と無関係なはずがないわ。それにハンクの殺害禁止リスト。あのリストにも、きっと何か組織的なつながりがあるはずよ」
ラロリアはこれからの動きを告げた。
その頃、豪華絢爛な宮殿の奥、陽の光の届かない暗室で、ある会見が行われていた。
華やかな礼装に身を包んだ、すっかり白髪の男が、恭しく傍らに控えている。俗世では権勢を誇る貴族であり、広大な土地を治める領主だ。だが目の前の男の前では、まるで召使いのようにへりくだっていた。
「聖者様、ご指示の人員はすでに会社に入り、建設と監理を掌握いたしました」
「私の部下の報告によりますと、基礎はすでに準備が整ったとのことでございます」
漆黒のマントを羽織った青年が妖しく微笑むと、その手の中で逆巻く雷霆も呼応するように舞った。
これほどの威力を秘めた魔力を凝結できるのは、七階以上の聖者だけだ。この青年は、当世でも稀な聖者だった。
「よろしい……すべては計画通りに進んでいます」
「我が主の定められた、救世の道に沿って」
青年は静かにそう言った。
「聖者様……あの件につきましては?」
男の問いかけに、青年はかすかに笑い、次元門を開いた。
「最後の『苦痛の精華』が、まもなく収穫できる。その時には、あなたのための儀式を執り行えるでしょう」
その言葉が終わると同時に、彼の姿も次元門の中へと消えていった。




