第一章 帝国への旅
ライカベサから帝国までは、長い旅路だった。
航海には二十日余りかかり、終点は東大陸西岸の小さな共和国である。古帝国の解体後に独立したその国は、帝国西境という地の利を活かして西大陸と交易を行っており、帝国への最初の玄関口でもあった。
その道中、二人は「旅の仲間」として連れ立って帝国を目指した。
朝になり、とうに瞑想を済ませていたウェルズは身を起こして部屋を出た。
隣の部屋からも、一人の少女が姿を現した。艶やかな金髪に、深く澄んだ青い瞳。まばゆいばかりのこの少女こそ、ラロリアである。
「起きて最初に見た顔があんたなんて、本当に縁起が悪いわ」彼女はあくびを一つして、食堂へ向かおうとした。
「おはよう、鳥の巣頭」ウェルズは淡々と答えた。
「誰が鳥の巣頭よ、人の体を勝手に品評しないでよ!」
「胸のことか?とっくに忘れていた」彼は気のない調子で返した。「そんなざまじゃ、男の子にはモテないだろうな」
「頭にくる!いつか絶対にあんたを殴り殺してやる!」ラロリアはまたも彼の言葉に耐えかね、金切り声を上げて抗議した。
「この旅に出てから、お前がその台詞を吐くのはこれで二十六回目だ」
捨て台詞を残し、彼女はぷりぷりしながらその場を去っていった。
ウェルズは気にも留めず、彼女の後に続いて食堂へ向かった。
上等な汽船だけあって船内は快適で、開放的な食堂の料理も品数が豊富だった。
好みの料理を取り終えると、ウェルズは念動力で盆を運びながら、ラロリアのもとへそっと近づいた。彼女は海を眺め、憂いを帯びた目で黙り込んでいる。何を考えているのか、すっかり物思いに沈んでいた。
「わっ……!!」
「きゃっ……!」ラロリアの華奢な体が、電気に打たれたように跳ね上がった。驚きから我に返ると、彼女はようやく腹立たしげにウェルズを罵った。「この嫌な奴!二度とあんたの顔なんて見たくない!」
「そんな仏頂面をしてるから、誰も声を掛けようとしないんだ」とウェルズは言った。
「あんたに私の何が分かるのよ!」その言葉に、ラロリアは胸の奥からわけもなく怒りが込み上げてくるのを感じた。
「お前のお涙頂戴の小話に構っている暇はない」ウェルズは両手をポケットに突っ込み、背を向けて立ち去ろうとした。「ただ、俺に言わせれば、憂鬱に浸っているより、その原因をどうにかする方法を考えたほうがいい」
憂鬱など何の役にも立たない。だからこそ、彼はここに立っているのだ。
ところが、立ち去ろうとしたその時、彼は足を滑らせて床に転んだ。
「ふん、偉そうにご立派なお説教なんかするからよ。ほら、罰が当たったでしょ!?」
彼の滑稽な姿を見て、ラロリアは声を上げて笑った。
「くそっ、この床、蝋を塗りすぎだ」
拳を床について体を支え、ウェルズはゆっくりと起き上がった。
「ずいぶん楽しそうだな、帝国貴族」ウェルズは立ち上がると、ローブについてもいない埃を払った。
「その言葉をそこらで口にしないでよ!」彼女は慌てて左右を見回して声を上げ、誰にも聞かれていないのを確かめて、ようやく胸をなで下ろした。
「もし尾行されてたらどうするのよ?」彼女は不満げに言った。
「確認済みだ。周りには誰もいない」
「あんたって本当に嫌な奴ね」
「人の痛いところばっかり突いてきて、いつも私をいじめるんだから」ラロリアは腰に手を当てた。
それから自分の寛大さにでも酔いしれるように、彼女は得意げな顔になった。「前の女の子も、あんたのその口に愛想を尽かして出て行ったんでしょ?そんなあんたを快く許してあげるこの私に出会えたんだから、自分の幸運に感涙しなさい!」
「ああ、機嫌がころころ変わるところは、子供そっくりだな」ウェルズはため息をついた。
「絶対にそんなふうに言わないで!」
「お前って奴は、本当に面倒くさいな」ウェルズは続けた。「そもそもの問題は、俺の口じゃなくてお前の痛いところが多すぎることだとは考えたことはないのか?」
「その台詞も禁止……!」
「いっそ自分の周りに静声結界でも張って、何も聞こえないふりでもしていろ」
そんな騒がしいやり取りを続けるうちに、二人の旅は東大陸の港に着いた。
馬車が小さく揺れている。
耳に届く優雅で柔らかな皇室の小曲。深く記憶に刻まれたその調べは、彼女を幼い頃へと連れ戻していくようだった。
彼女は知らず知らずのうちに旋律に合わせて口ずさみ、厚手のプリーツドレス姿で、音楽に合わせて小さなステップを踏んだ。
「誰にだってあるでしょう。この上なく懐かしい、美しい過去が」
「あの頃はその美しさを当たり前だと思って、幸福が本当は贅沢なものだってことに、気づかないまま過ごしていた」
「だから、幸福を失った私はこの道を歩き出した」
「私は……もう一度過去に戻って、すべてを元通りにしたい」
ふわりと体が浮くような感覚に、彼女は夢うつつから引き戻された。
危うく倒れかけたラロリアは、とっさに車壁へ手をついて、どうにか転ばずに済んだ。
「寝ぼけたのか?」
目の前にいたのはウェルズだった。冷ややかな顔立ちで、笑えばさぞ魅力的だろうに、彼が善意を見せることは決してない。
「あんたには関係ない!」ラロリアはふんと鼻を鳴らした。
彼女の希望で、二人は安い乗合馬車ではなく、快適で広々とした四輪馬車を借りて帝国へ向かっていた。振動を和らげるサスペンションのない乗合馬車と違って、四輪馬車は揺れないうえに、清潔な絹張りの座席とゆったりした車内のおかげで、ラロリアは安心して眠ることができた。
もっとも、ラロリアが何より気に入っていたのは、大勢の旅行者と車内を共にせずに済むことだった。
彼女の気前のいい金の使いぶりを見て、ウェルズも遠慮なく四輪馬車に同乗し、快適な旅と道中の華やかな宿駅を満喫していた。
「帝国まではどれくらいかかるの?」
「この古道を行けば、あと二日で西部の衛西行省に着くわ」「古道?」「父……お父様に教わったの。古代帝国が西方征服に使った道で
もう千年の歴史があるのよ。昔、ここは古帝国の辺境総督府だったの。だからここは帝国国教の圏内!この国の主広場にも、国教のミトラ女神像があるんだから!」
「神?帝国は教廷の信仰を認めていないんじゃなかったか?」東大陸の習俗に疎いウェルズは、興味深そうに尋ねた。
「私たち帝国が信仰しているのは原界。世界の本源にして魔法の根源であって、外界の超凡の生き物なんかじゃないわ。儀式を通じて次元界の意識の寵愛を得るの。身内を売って外に媚びる教廷の連中とは、まるで違うんだから」ラロリアは珍しく真剣な面持ちになり、その言葉にも重みがあった。
「それで……帝国国教は超凡衰弱の影響をどれほど受けているんだ?」
その話になると、ラロリアは途端にしゅんとなった。「あまり芳しくないわ。次元界の本源から返ってくる力が、どんどん弱くなってるの」
「どうやら、超凡衰弱は帝国にも少なからぬ影響を及ぼしているようだな。それもそうだな。でなければ帝国はとっくに次元界の守護者の名を掲げて、西大陸に攻め込んでいたはずだ」
「それは瀆聖の戦いっていって、歴史上もう二回起きてるわ」
「もっと詳しい話はないのか?」ウェルズはずいぶん興味を引かれた様子で尋ねた。
「忘れたわ。小さい頃、家の本をめくってたら載ってただけだもの」ラロリアはあっさりと言った。
「知識が哀れでならないな」
「私のほうこそ……家庭教師……を恨みたいわよ!」彼女は何かをごまかすように何度か咳をした。「こんな役に立たない知識ばっかり覚えさせられて、小さい頃は手のひらまで叩かれたんだから!」
「それはお前がその価値を分かっていないだけだ」ウェルズは長いため息を漏らした。
「そういえば……」ラロリアの声が低くなった。頬をほんのり赤らめ、何か言いたげにもじもじしているが、なかなか言い出せない様子だ。
その様子を見て、ウェルズが口を開いた。
「馬車を止めて……」
「いやらしい!」ラロリアは顔を真っ赤にして怒った。
パシンと乾いた音が響き、ウェルズの頬に赤い手形が浮かんだ。
「まだ何も言ってないんだが」平手を食らっても、ウェルズは落ち着き払っていた。
「あんたが何を言おうとしてたかなんて、知りたくもない」ラロリアはぷりぷりしながら言った。
「お前が何を考えていたかは知らないが、俺が言いたかったのは『馬車を止めて診療所へ行くか?』だ。何しろ、少し熱っぽく見えたからな」
ウェルズの言葉に、ラロリアはぽかんと口を開けた。
「まさか……」
「ごめんなさい……てっきり……」彼女は申し訳なさそうに両手を組み合わせた。
「無駄に一発食らわされたんだ、どう埋め合わせてくれる?」
非を自覚している彼女はしばし固まったが、やがて一大決心でもしたかのように、愛らしい小さな顔をずいと近づけてきた。
「じゃあ、叩き返せばいいでしょ!」彼女はまったく抵抗しない構えで、覚悟を決めたように言った。
それを見て、ウェルズは手を振り上げた。彼女はぎゅっと目を閉じ、歯を食いしばって打たれるのに備えた。
ウェルズの手が力強く振り下ろされた。
沈黙がしばし続き、それは永遠にも思えた。
彼はその手で自分の頭をぽんと叩くと、無造作に下ろして言った。「冗談だ。本当は、馬車を止めてトイレに行ったらどうだと言いたかったんだ」
「早く頭を引っ込めろ」彼はしっしっと手を振った。
ウェルズに何度もからかわれ、ラロリアは今度こそ本気でむくれてしまった。「頭にくる!嫌な奴、もう二度とあんたの言葉なんて信じない!」
ラロリアはぷいと窓の外に顔を向けたが、数分もすると首が痛くなり、仕方なく向き直って天井を見上げた。ウェルズとは目を合わせたくなかった。
「女に殴られたり蹴られたりするのが、俺の宿命なのかもしれんな」ウェルズは頬をさすりながら言った。
「あんたのその口が憎たらしすぎるからでしょ!」
「二回目は、俺はかなり無実だったと思うがな」ウェルズは肩をすくめて言った。「道を歩いていたら隣に住む浮浪児に殴られて、やっと物乞いで恵んでもらった銅券二枚まで奪われた。その金をくれた婆さんは、こういう豪華な馬車に乗っていた」
ラロリアは興味のないふりをしていたが、ウェルズの話はしっかり耳に入っていた。
「その後も物乞いをして食いつないだが、こんな暮らしに終わりは見えない、いっそ死んだほうが楽だと思うようになった」
「そんなふうに考えちゃだめ……!生きることが……一番大事なんだから」純朴なラロリアはたまらず諭した。
「まあ落ち着け。俺はこうして生きてるだろう?」ウェルズは両手を上げて笑った。「手に入れた金を全部はたいて、食料品屋の店主に期限切れの食べ物と交換してもらい、他の連中に殴られて動けなくなっていた隣の浮浪児にくれてやった。あいつが俺の代わりに生きればいい、と思ってな」
「もっとも、その時はいろいろ考えていた。死ぬ前に善行を一つ積んでおけば、来世はいい家に生まれられるかもしれない、とかな」
「隣に住んでいた……って、まさかあんたを殴った人?」ラロリアは目を見開いた。
「そうだ」ウェルズは頷いた。
「ところがだ、思いもよらないことが起きた」
「俺たちは二人とも死に損なった。世界にとっても俺たちにとっても、幸いとは言えないがな」
「俺を殴ったあいつは、思ったよりずっと早く回復した。それどころか、俺に生き延びる術をいろいろ教えてくれた……たとえば」
「たとえば?」
ラロリアが身を乗り出したその時、ウェルズは指をぱちんと鳴らした。
彼女が反応するより早く、ウェルズの左手には軽い赤の小銭入れが握られていて、それを無造作にぽんぽんと放り上げていた。
「悪くない。念動力を使っても、スリの腕は相変わらず一流だな」
「私の財布……!」財布を見たラロリアは慌ててポケットを探り、声を上げた。「いつの間に?」
「ちょっとした注意を逸らす手口だ」ウェルズは財布をラロリアの手にぽいと放り返し、こう付け加えた。「ずいぶん軽い財布だな」
財布を受け取ったラロリアはばつが悪そうにしながらも、同情を込めて言った。「あんたにそんな過去があったなんて……きっと大変だったでしょうね」
「ああ、大変なうえに危険でもあった」ウェルズは言った。「闇組織の中には、わざと浮浪児をさらって手足を切り落とし、目を潰して物乞いをさせる連中もいる。そのほうが同情を引きやすいからな」
「そんなの残酷すぎる!」
「実は冗談だ」その話にラロリアが肝を冷やしていると、ウェルズは笑った。「ライカベサはそこまで遅れちゃいない。そんなのは十数年も前の話だ。不幸中の幸いで、俺が浮浪児だった頃にはそんな目には遭わなかった」
「じゃあ、最初に殴られたのは?」ラロリアは興味津々で尋ねた。
「最初は、妹のケーキをつまみ食いしたら箒で不意打ちされた。武器を持った相手じゃ、当然惨敗だ」
「じゃあ、今回の私は何回目?」
「三……いや、四回目だ」
そんな雑談をしているうちに、数時間が過ぎた。
馬車が止まり、二人の会話は途切れた。
「どうして止まったの?」ラロリアは窓から外をのぞいた。
「今夜泊まる宿駅に着いたんだろう」
「もう?まだそんなに経ってない気がするけど」ラロリアはそう言うと、先に馬車を降りた。
「馬車の進む速さは決まっている」
続いてウェルズも車室を出た。目の前には瀟洒な宿駅が建っており、出入りするのは身分の高い者ばかりで、商人や役人でなければ、ウェルズのような裕福な旅人だった。
辺りを見回していたウェルズは、袖をくいと引かれるのを感じた。
振り返ると、そこにいたのはラロリアだった。
「どうした?」
「私……」彼女はもじもじしている。
「お金が足りないの……」
「何だって?」ウェルズはよく聞き取れなかったかのように、もう一度問い返した。
「お金が足りないの!」今度はウェルズの耳元に顔を寄せて、ラロリアは大声で叫んだ。
今度こそ、ウェルズにもはっきり聞こえた。
「信じられん……」ウェルズは珍しく、驚愕の表情を浮かべた。
「次の食事にもありつけるか分からないのに、どうして気前よく四輪馬車なんか貸し切れたんだ?」
「だって私、乗合馬車には乗れないんだもの。仕方ないでしょ」彼女は目を泳がせ、甘えたような、ばつの悪そうな顔で口を尖らせた。
「乗合馬車に乗ると死ぬ病気にでもかかってるのか?」ウェルズはひどい頭痛を覚えた。
「とにかく乗らないの!人は多いし、詰め込まれるし、揺れで吐きそうになるし。あんな馬車に乗るくらいなら歩いたほうがましよ!」彼女は駄々をこねるように叫んだ。
「蝶よ花よと育てられたラロリア、お前には金銭管理という概念はないのか?」ウェルズは額を押さえた。
それから、彼は何かに思い至ったようだった。「考えてみれば、初めて会った時からお前は金銭感覚がまるでなくて、値段も適当につけていた。その後も上等な宿に泊まっていたし、収入があるようにも見えない……」
じっと見られて顔を赤くした彼女は、大声で言い返した。「それは大間違いよ!」
「私にだって、ちゃんと金銭感覚はあるわ」彼女は形のいい胸をぽんと叩き、自分の考えを披露しようとした。
ウェルズは首を長くして、何か役に立つ言葉が出てくるのを待った。
得意げなその表情をしばらく眺めて待っていると、彼女は自信たっぷりに言い放った。「だから今度はあんたが払う番よ!」
「私がこの旅の費用の七割を出したんだから、残りをあんたが払えば、あんたが得してるってことじゃない!?」そう思い至った彼女は、自信満々にもっともらしく語った。
「これではっきりした。お前には将来の計画を立てる能力がない」ウェルズは間抜けな同行者を選んでしまった自分にやれやれと思いながら言った。「帝国に入ったら、宿代も出費もかからないとでも思っているのか?」
そこまでまったく考えていなかったラロリアは、ぽかんと口を開け、八重歯をのぞかせた。
彼女はがっくりと肩を落とし、開き直った。「でも私、本当に一文も出せないの!それに旅の契約はもう結んじゃったし、解約したら違約金がかかるのよ!違約金を払うくらいなら、最後まで払っちゃったほうがましでしょ!」
「装身具は?他に借金のかたになるものは?」
「全部質に入れたわ!」
悪びれもしないその返事に、ウェルズはしばし沈黙した。
「ちょうど前に、何人かの連中がただで巻物を一束描いてくれてな。おかげで小金が入った」
「この協力関係の間に限って、お前の生活費も出費も俺が持ってやる」
ラロリアはほっと息をついた。だが、その息を吐ききらないうちに、ウェルズは続けた。
「ただしこれからは俺の言うとおりに動いてもらう。いいな?」
「えっと……」彼女はしばし迷った。
「終末救贖者を調べる時に限ってだ」
「分かったわよ」ラロリアは渋々承知した。
ウェルズは空間の指輪から淡い青色の紙幣を二枚取り出した。帝国で流通している金貨券で、図柄に刻まれた額面は十金貨だった。
帝国と周辺諸国との為替調整を経て、今では帝国の一金貨はおよそ共和国の五金券に相当する。
ほっとしたラロリアは代金を払い終えると、宿駅に入って体を休めた。




