第五章 思考
今夜の出来事がすべて終わった後も、ウェルズはいつもどおり旅館へ戻った。部屋に帰ると本を手に取り、心を落ち着けて読もうとしたが、しばらくして本を置き、バルコニーへと足を向けた。そこから身を翻して旅館の屋根に上がり、傾斜した屋根に寝転んで空を仰いだ。
貧民街を後にしたフリーデは、退避の途中で、警察を呼ぶ叫び声と、大勢が現場へ駆けつける慌ただしい足音をかすかに耳にした。あの騒ぎがかなりの注目を集めたのは明らかだった。
だがフリーデは構わず、ひたすら前へと歩みを進めた。五キロ、七キロ、九キロ、九・五キロ、九・七キロ。足早に進んでいた彼女は、ふと顔を上げ、目の前に広がる灯火と酒に彩られた華やかな光景を見やった。
連れ立った人々が通りを行き交い、夜市でひとときを楽しんでいる。通り沿いには美しい提灯が灯り、食べ物の香りや楽しげな語らい、さまざまな感触が彼女の五感へと流れ込んできた。
「私は、恐れているの?」
金色に輝く瞳を見開いてはいたが、その光景は何ひとつ目に入っていなかった。双眸に浮かぶのは茫然と好奇、そして戸惑い。そのうえ彼女は、初めて無力感というものを覚えていた。
ついに、彼女の足が止まった。九・九キロ、限界距離ちょうどの地点で。そこは街を横切るアーチ橋で、川面には小舟を漕ぐ遊覧客の姿があった。だが彼女には、この橋を渡ることができない。一歩でも踏み出せば魔導書の制御が失われ、彼女を構成する魔力は一瞬で崩れ去ってしまうのだ。
実のところ、彼女はウェルズのそばを一歩も離れてはいない。ここにいるのは書物が魔力を寄せ集めて形づくった「彼女」に過ぎず、本体はあくまで一冊の書物なのだ。だからこそ、彼女は戸惑っていた。
「私は何を恐れているの?いいえ、どうしてこんなに……不安で、思い悩んでいるの?」
フリーデは胸にぽっかりと穴が空いたような心地がして、自分のどこがおかしいのかを繰り返し洗い出し始めた。
不意に動きを止めた彼女は、自分が恐れている理由に思い至った。
「私が恐れているのは、務めを果たせないこと……主から与えられた使命を果たせず、存在する意味を失ってしまうこと」
そう自覚した途端、足元がふわふわと覚束なくなり、うまく立っていられなくなった。
彼女の演算を断ち切ったのは、周囲の人々の話し声だった。
「変わった格好だけど、なかなか綺麗だな。あれが最近流行りの新しい言葉……『アイドル』ってやつか?」
品定めするような視線を感じて、フリーデはようやく、着替えもしていなかったことに気づいた。身にまとっているのは相変わらずあの金縁の純白のドレスで、華やかで美しく、それでいてどこか鋭い気配を帯びたその装いは、ひときわ人目を引いていた。
この衣装もまた、彼女の主である伝説の魔導師が、彼女のために設計したものだった。彼女という存在を象徴するものは、どれもあの魔導師の手によって生み出されている。彼女がこれほど主を大切に思う理由の一つも、そこにあった。
「フリーデ、人は誰しも過ちを犯すことがある。大切なのは大きな過ちを犯さないこと、そして、過ちが起きた時に勇気を持って向き合い、解決することだ」
主の教えを思い返し、フリーデは軽く拳を握った。同時に、ウェルズの眼差しの奥に潜んでいた感情も蘇る。それは、底知れぬほど深い悲しみだった。
「もっとあなたのことを知りたい。どうして、そんなふうに考えるの?」
以前は、主であるアレクシオスの言葉に従っていればそれでよかった。けれど今は、自分で決めなければならない。何が正しいのか、彼女はまともに考えたことがなかった。その場の直感に頼って決めてきただけだ。それは間違った行いなのだろうか?少なくとも、正しくはなかった。
これからは何もかも、自分自身で考えていかなければならないのだ。
「どうしてあなたは、あんなに悲しい顔をするの?私とあなたは、なぜこんなに違うの?誰が正しくて、誰が間違っているの?」
胸の内で、好奇心がいっそう強く膨らんでいく。ウェルズが何を考えているのかを知れば、正義というものをもっと深く理解できるに違いない。
そう結論づけると、彼女はウェルズのもとへ戻ることにした。
「帰らなくちゃ」
フリーデは歩み出した。
橋のたもとから目の前の水面へと身を躍らせる。その姿は宙で次第にほどけ、やがて風に散って、空一面に舞う美しい星屑となった。星屑は色とりどりに輝く夜の都市を彩り、夜を映す川の流れを神秘的な銀河へと変えていく。
そして部屋の中で、再び身体を凝集させる。歩いて戻るよりも、このほうがはるかに速い。消耗した魔力も、戦闘さえなければ数時間で自然と上限まで回復する。
再び実体を得た白いブーツが古雅な床を踏み、フリーデは顔を上げた。だが部屋のどこにもウェルズの姿はない。目に入ったのは開け放たれた掃き出し窓だけで、吹き込む風がカーテンをかすかに揺らめかせていた。
「出かけたの?」
ところが周囲を見回したとき、ふと机の上のクラフト紙の袋が目に留まった。封蝋はすでに切られていて、中の書類は読まれた形跡があるのに、袋にきちんと戻されていない。
「これは……」
フリーデは思い出した。ウェルズが、イチゴジャムと呼ばれていたあの少女から買い取った情報だ。はみ出した紙には、いくつか文字が書かれているのが見える。
「大事なものみたい……何が書いてあるの?」
ウェルズに興味がないと言えば、もちろん嘘になる。ましてや、あれほどひどい仕打ちを受けた後なのだ。
「……」
ついに、彼女は心を決めた。他人の秘密を覗くべきではないと、道徳心がためらいを促し、身を引かせようとする。それでも視線は言うことを聞かず、さも何気ないふうを装って、机からはみ出した紙へと吸い寄せられていった。
上下が完全にひっくり返った文字を見つめ、そこに記された文章を解析していく。
「ボドナ伯爵調査報告……?」書かれた文字を、彼女は小さく読み上げた。
ボドナ伯爵調査報告
概略結果:対象は依頼者の想定に合致し、探索対象である可能性が極めて高い。以下に数点を挙げ、例証を提示する。
証拠一:調査によれば、ボドナ伯爵が初めて公衆の注目を集めたのは六年前であり、当時彼は巨額の資金を携えてライカベサに現れ、大掛かりな投資を行って注目を集めた……
フリーデが逆さまの語句をゆっくりと読み解くのに没頭していると、不意にウェルズの声が響いた。
「帰っていたのか?足音が聞こえなかったな」
フリーデは飛び上がるほど驚いた。人喰いの悪魔と対峙したときよりも、よほど肝が冷えた。びくりと身体が跳ね、たちまち体勢を崩して床に倒れ込み、机にぶつかる。机の上に積まれていた図書館の本が、崩れかけの建物のように未練がましく何度か揺れたかと思うと、一気に雪崩を打って落ちてきて、彼女はあっという間に本に埋もれてしまった。
散々な姿で目を開けると、脚にも肩にも、胸の上にまで本が何冊も載っていた。こちらを見つめているのは、淡々とした目つきのウェルズだ。バルコニーに立つ彼の黒い服と無表情な顔を、かすかな光が照らしていた。
しばしの沈黙の後、彼女は言った。「あなたがうっかり聞き逃したんじゃない?」
「うっかりしていたのは、お前のほうじゃないか?」ウェルズは肩をすくめて応じた。
その言葉が終わると同時に、最後の一冊が真上から落ちてきて、ぱこんと音を立ててフリーデの頭を直撃した。
「……」
本の直撃でうつむいた頭を上げると、彼女は身体に引っかかった本を一冊ずつ、手際よく丁寧に取り除いていった。うっかり折れてしまった頁があれば、きちんと伸ばし直す。そうして整え終えた本を、最後に腕に抱えた。
「さっきはどこに行っていたの?」彼女は顔を上げて尋ねた。
「屋根で寝転んで休んでいた。心地いい夜風に当たりながら、次の手を考えていたところだ」
ウェルズは再び書き物机の前に腰を下ろすと、黙って写魔者を取り出し、魔法の筆でゆっくりと巻物を書き綴り始めた。
腕の中の本をすべて書き物机の上に戻すと、彼女はウェルズを見つめ、口を開いた。
「手を出したことについては、深く謝罪する」
「でも、あの子供を救ったことは間違っていなかったと思う。少なくとも今のところ、間違いだった兆しはない」
月明かりの下で見たあの瞳が、今もフリーデの脳裏に焼きついている。だからこそ、こうして口にしたのだった。
その声に、ウェルズは筆を止めた。筆を置き、顔を上げる。
「そんなことは気にしていない。お前と道徳を論じるつもりもない。正義など、俺にとって何の意味もない」
淡々とした口調だったが、続く言葉には警告の色が滲んでいた。
「だが、これ以上俺の行動を妨げるなら、契約を解除する」
「不安定な要素は取り除かなければ、周りの人間を巻き込むだけだ」
フリーデはしばし沈黙した後、ただこう言った。「もし私が契約を解除しなかったら?」
「図々しく俺のそばに居座るつもりか?」
彼は小さく笑った。
「前にお前が言っていたな。俺たちは協力関係だと。働き次第では、褒美のことも考えてやる」
「私に物質的な報酬はいらない」彼女は答えた。
「物質よりも上等な、知識ってわけか」聞き終えたウェルズは、自分のこめかみを軽く叩いた。
「異論がないなら、最初の協力から始めようか?」
黙り込んだフリーデを見て、ウェルズは小さく笑みを浮かべると、指先で回していた筆をひょいと弾き上げた。値のつけようもないほど高価なその筆は、滑らかな弧を描いて、軽く握りかけた彼女の手のひらに収まった。
「お前はもう一人前の魔導書だ。自分で魔法を書くことを覚えろ」
「これから数日、お前に与える任務は巻物の書き写しだ」
軽い口調に戻ったウェルズは、彼女に新たな価値を見出していた。
フリーデにとって、それは難しい任務ではない。巻物の書き写しとは結局、彼女の「身体」に書かれた文字をもう一度複製するだけのことなのだから。
「ウェルズ、一つ聞きたいことがあるの」フリーデは勇気を振り絞って尋ねた。
「お前の主は『答えは自分で探してこそ意味がある』とかいう戯言を言わなかったのか?」彼女の問いに、ウェルズは気のない調子で返した。
「どうして知ってるの?」フリーデには、ウェルズと主の間に何らかの繋がりがあるように、ますます思えてきた。
「いかにも、クソみたいな精神論のきれいごとを垂れそうな奴だからな」ウェルズは遠慮なく答えた。「そんな奴が頭の固いお前を造ったのは、当然の成り行きだ」
「……」フリーデはしばし言葉を失った。
実のところ、世界中の人々の大半が、アレクシオスの名を一度は耳にしたことがある。彼には誰もが知る称号がいくつもあった。たとえば未知を解き明かす先駆者、万法締造者、公義を創建せし法理の天秤。その名声は今なおここまで伝わり、賛辞に満ちていた。
「なあ、お前には自分の考えってものがないのか?」彼女のそんな様子を見て、ウェルズは人差し指で自分の頭を叩いた。
「お前の主が言い聞かせた『使命』でも、精神論のきれいごとでもない。何が正義なのかを、お前自身の心で考え抜いた、お前だけの考えだ」
ウェルズは溜め息をついた。
「それなら……」
「あなたの過去を知りたい」
「あなたは一番身近な人で、自分の考えを持っている。それに、私とはまるで違う。あなたの考えを知れば、何が正しくて何が間違っているのか、見分ける助けになるはず」
彼女は率直に言った。それは最も素朴な発想でもあった——資料がなければ、資料を集めればいい。
「もっとあなたを知りたい。何を考えているのか、なぜそうするのかを知れば、自分に欠けているものが何なのか、分かるかもしれない」
「……」彼はしばし黙り、表情を引き締めた。「俺の過去に意味なんてない。俺を比べる相手として追いかけるのもやめておけ」
「答えは自分で探してこそ、意味がある」
その返事で、フリーデは悟った。ウェルズからは、何ひとつ答えを得られないのだと。
ところが意外にも、ウェルズは珍しく改まった口調で言葉を継いだ。
「だが、お前が訊いたからには、この言葉だけは必ず覚えておけ」
「未来を見据えろ。過去を気にするな」




