第十六章 惑控邪妖
フリーデの力強い後押しを受け、オーロラは意識の海を支配して詭妖の意識を消し去った。主導権を取り戻すと、自分の意識が少しずつ上へ浮かび上がっていくのが感じられた。
ほどなくして、彼女の意識は現実で目を覚ました。
「……!」
目覚めたオーロラが辺りを見回すと、そこは四方の壁一面に符文が刻まれた石室だった。哨所の地下にある封印監獄である。
ただ、そこで気づいたことがある。自分の「見る」は肉眼によるものではなく、ソナーのように精神波を周囲へ放つことで成り立っていた。しかも全方位に及ぶその視界は、色彩も失われていない。
傍らでは、フリーデが片膝をつき、不安げにオーロラを見つめていた。目覚めたのがどちらの意識なのか、彼女も知りたがっているのは明らかだった。
体を形作る粘液の色が変わっていることにも、オーロラは気づいた。もとは星の輝きのようだった蛍紫色がやや暗く深く沈み、いくらか不気味な気配を増している。融合に伴って、当面は整理のつかない膨大な記憶までもが流れ込んできていた。
そこで粘液を操り、もとの姿へと凝集し直す。瞬く間に、甘く愛らしいオーロラが二人の前に再び姿を現した。金色に輝く長い髪が背に流れ落ちている。
「オーロラ……あなたなの?」フリーデは慎重に尋ねた。
そばのグスタフは黙ったままだったが、彼もまた緊張しているのは見て取れた。オーロラは四階の気配を放っており、この場でそれに比肩できるのはグスタフただ一人である。まだ四階魔法を習得していないとはいえ、詭妖を生み出したり操ったりするといった、別の異能を備えている可能性はあった。
「あたしよ……でも、あなたたちは信じないでしょうね」九死に一生を得れば福が来るともいうが、彼女はさほど嬉しそうでもなく、ただため息をついた。
その胸の内は、フリーデにもよく分かっていた。
「この怪物は、呑み込んだ相手の記憶を手に入れられます」グスタフは淡々と言った。「君は、怪物が化けた姿かもしれません」
「そう言われると思ってた。あたしにも、自分を証明する方法なんてないもの」彼女は苦笑して答えた。
もし彼女が怪物に呑み込まれていたのなら、その怪物はオーロラの記憶を手にしているはずで、彼女になりすまして皆を欺くこともできるのだから。
「それで……あたしをどうするつもり?」両脚を揃えて床に座ったオーロラが尋ねる。その姿は、どこかいじらしくさえあった。
「この件は隠し通せません。あれだけ大勢が見ていたのですから。まずは互いに利用し合うとしましょう。私とフリーデで君を監視しつつ、虫の森の討伐に同行してもらいます」グスタフは答えた。
これから相手にする虫の森は異常なまでに危険であり、動員できる戦力は多いに越したことはない。昇級を果たして四階の戦力となったオーロラは、王国内でもすでに一方面を任されるほどの強者だ。なにしろ現代の魔法使いの大半は、生涯を三階に留まったまま終えるのだから。
「ただしその前に、君に答えてもらいたい質問がいくつかあります」
「いいわよ、知りたいことは何でも聞いて!」口元を覆って笑う彼女は、まるで気にしていない様子だった。
オーロラは化形詭妖の記憶を手に入れており、あの怪物がグスタフと取引しようとした経緯も当然知っていた。
グスタフには多少の不満があるものの、フリーデへの好感は大きく増していた。なにしろフリーデは言葉で励ましてくれただけでなく、補助魔法まで掛けてくれたのだ。その助けがなければ、これほど楽に勝てたとは限らない。
「まず一つ目は、虫の森の弱点です」
目下、それが何より重要なのは言うまでもない。
「あなたたち、虫の森のことはもう調べたんでしょ?あれは何千何万もの巨大蜂『護林人』を殖やして領地を広げていく。木々の根が張った土地は草一本生えない荒れ地になるの」
「考えたことある?あれがそんなことをするのは、いったい何のためなのか」
「繁殖は生命の最高の本能」フリーデは思わず口を挟んだ。「でも、あの護林人は単性しかいない?」
「森を広げるためでしょうか」グスタフは考え込みながら言った。「だが、なぜあそこまで根こそぎ奪い尽くすのか。大地の養分を吸い尽くせば永続的には生きられず、この世界に住む生物もろとも滅びることになる……まさか、あれはここを離れられるのか?」
「あなたたちの推理は、どちらも一部は答えに近いわ」オーロラは意味ありげに微笑んだ。
彼女はそれ以上もったいぶらずに続けた。「実はね、虫の森はただの孵化装置なの」
「虫の森が子宮だと?養分を集めるだけの僕が東大陸全土を破壊できるなら、その本体はどれほど強大なのか」グスタフは珍しく驚きの表情を見せた。この報せがあまりに衝撃的だったからである。
「そう。虫の森は『界蝕虫妖』の子宮、子孫を育むための道具にすぎないの。この虫は次元嵐にも耐えて、あらゆる次元界を渡り歩いてはさまざまな高エネルギーの産物を喰らう。あれは……生まれた瞬間から伝説階級なのよ」
「誕生には見積もりようもないほど莫大なエネルギーが要るから、虫の森はあれほど効率よく奪い尽くすようにできてるの。だからこそ、あれは持続可能な発展なんて考える必要がない。成熟したあとで草一本生えない次元界に取り残されて餓死する心配なんて、まるでしていない。そのままここを離れればいいんだから」
「伝説……?」聞いていた者たちは愕然とした。あまりに大げさな話で、半信半疑にならざるを得ない。
「完全に成熟するには少なくとも東大陸を丸ごと呑み込む必要がある。でもね、聖階の段階で『早産』することもできるの。王国三つか四つの養分を吸い尽くせば、だいたい足りるんじゃないかしら?今の虫の森には護林人と小さな虫しかいないから、まだ害は大きくない。けど胚に意識が目覚めたら……それこそ破滅的な災厄よ。そのときは三階から四階のありとあらゆる衛虫が、総出で押し寄せてくるんだから」
世界の終末にも匹敵する危機が目の前に現れたと聞いて、一同は思わず目を見張り、言葉を失った。
「それなら……まだ成熟していない胚を壊せば、虫の森はひとりでに消滅するの?」フリーデは解決策を思いついた。
オーロラはかすかに微笑んだ。
「理屈ではそうよ。でも胚は今、地下一キロの深さに埋まってるの。あなた、どうやって片付けるつもり?」
その言葉に、二人はたちまち言葉を失った。胚が地下一キロの位置に埋まっているなら、聖階魔法で一気に破壊するのでない限り、道中の障害をゆっくり掘り抜いていくしかない。今の部隊にそれができないのは明らかだった。
だがフリーデは発想を変え、ある案を思いついた。「胚だというなら……栄養を送る管があるはずよね?赤ん坊にへその緒があるみたいに」
「そのとおり……!フリーデって頭いい!」オーロラはかすかに微笑んだ。「虫の森の核の周りには栄養節点が三つあるの。そのうち一つを占拠して、中に毒素を流し込めば胚を完全に殺せる……!あれがただの胚でよかった!」
虫の森に対処するため、グスタフはすでに第二哨所の備蓄を洗いざらいひっくり返しており、その中には大量の魔法の巻物もあった。だが、殺虫の毒素を帯びた巻物は少なく、大半は広範囲の火炎殺傷魔法だった。
「毒素が要る……哨所にそんなものはありません。フリーデ、君が補強したあの裂け目は、あと二日は持ちますね?絶域城へ人をやって、集会所の錬金術師の侵蝕の劇毒を、城内でまだ戦える魔法使いともども運んでこさせます」
「二日なら……大丈夫。虫の森は十日を一単位にして大きく拡張するから」オーロラは、数日の遅れなら構わないと告げた。
「あなたたちの質問はこれだけ?」虫の森について答え終えると、彼女は二人に目を向けた。
「もちろん、それだけではありません」最近の異常を目の当たりにすれば、どれほど鈍い者でもそこに関連を察するだろう。グスタフはさらに尋ねた。「あの怪物たちは……どういう理由でここに現れたのですか。以前は一度も見たことがなかったのに、なぜ今になって無序空間に現れたのか。今後も現れるのですか」
「あの怪物たちにどんな共通点があったか、覚えてる?」質問を聞くと、彼女はまたしても問い返した。
「あれらは書物には……いいえ、あれらはこの世界に現れたことがなかった……あれらは他の次元界から来た生物」少し水を向けられて、フリーデは答えにたどり着いた。「ここは無序空間、かつて九階の空間魔法に引き裂かれた地域……ここの次元晶壁は欠けているから、当然、他の生物の侵入を完全には防げない?」
そこまで考えて、フリーデは自分が無序空間へ来た目的を思い出した。過去の真相を見つけ出すことである。
虫の森へ進むことは、無序空間のより深くへ進むことでもある。道中で過去の遺物を見つけ、当時起きたすべてを調べられるかもしれない。
「そう……そのとおり!」オーロラは軽く手を叩いてフリーデを称えた。「あの怪物たちは、この壊された次元晶壁が特に薄くなっている隙に、晶壁を突き抜けて無序空間にたどり着いたのよ!」
「では、なぜ君は他の怪物の情報を知っているのですか」グスタフの唐突な問いに、金髪の少女はその場で固まった。
「そうね……どうしてあたし、知ってるんだろう?」彼女もまた怪訝な顔で考え込んだ。
しばらく思案したあと、彼女は何かを思い出したようだった。
「あたしたちは……同じ源から出てるみたい……だからお互いのことを、ある程度知ってる?」
この感覚は言い表しがたく、彼女は言葉を選びながら言った。「何て言えばいいのかな。あたしたちは同じ体系から来てるの。同じ森に住む動物同士みたいに、お互いの立ち位置や能力が分かるのよ」
彼女の言葉は理解しがたかったが、グスタフに深追いするつもりはなかった。「では、最後の質問です」
「君は今、どんな生物なのですか。どんな特殊能力を持っているのですか」
その問いに、オーロラの胸には憂いが湧いた。世の無常を噛みしめるように、彼女はため息をついた。
「あたしは……もとは人間だった。この前の戦いで惑心詭妖に感染して、奴らの同類になった。そして今日、化形詭妖と融合して、今のあたしは四階の『惑控邪妖』よ」
オーロラは続けて、自分の特殊能力を説明した。
「惑心詭妖の能力は報告にあったとおり、エネルギーを消費して他人の記憶や知覚を改変するもの。ただし相手の階級が高いほど消費エネルギーは倍々に増えるから、高階の敵にはほとんど役に立たない。あとは精神系のダメージ技能がいくつか。化形詭妖のほうは、当然、自由に変形できることと優れた学習能力、それに呑み込んだときに相手の記憶と身体の情報を得られること。奴らは体の同化液を切り離して『分体』を作り、呑み込んだ相手の能力をある程度複製することもできるけど、分体の戦闘力は強くないわ」
彼女は少し間を置いた。「詭妖は互いを喰らうことでしか昇級できなくて、喰らったあとは相手の能力も受け継げる。両方の能力を受け継いだうえで、あたしは二つの本能に目覚めたの」
「一つは三階魔法の『狂気の笑話』に似たもので、目標を数十秒間狂ったように笑わせるうえに、一定の確率でその狂笑がほかの人にも伝染するの」
「もう一つは『理性顛覆』。単一の目標を狂暴状態に陥らせるの。知力は下がるけど、相手の力を上げるかどうかは選べるから、この技能は味方にも使えるわ」
「これからもっと多くの能力に目覚めるはずだけど、何になるかなんて誰にも分からない。だって詭妖になった人なんて誰もいないもの。あたしはたぶん、この次元界で初めて土着で生まれた詭妖なんじゃないかしら」
話を聞き終えると、グスタフは頷いて言った。「情報に感謝します。君は自由です。我々の信頼を裏切らないでいただきたい」
そう言うと、彼は踵を返して立ち去った。
地上に戻ると、生き残った衛兵たちが口々に噂し合っていた。皆、オーロラが怪物に呑み込まれる姿を見ており、彼女が裏切るのではないかと案じずにはいられなかったのだ。
「フリーデ……!」
新たな生を得たオーロラは、はしゃいで歩み寄り、フリーデを抱きしめようとした。だが、もう少しで触れるというところで、彼女はふと足を止めた。
「あたしは……人を呑み込む怪物なんだ……あんまり近づいたら、怖がらせちゃうよね?」
だが彼女に応えたのは、フリーデの固い抱擁だった。銀髪の少女はオーロラを抱きしめ、その耳元に頬を寄せた。
「あなたが無事で、本当によかった」彼女はオーロラの耳元でそっと言った。
これはレシナから学んだ抱擁だった。この間、一人でこれほどの重圧に耐えてきたのだから、オーロラはきっと心身ともに疲れ果てているはずだ。この抱擁で、その緊張をほぐしてあげたかったのだ。
天上の調べのようなその声を聞き、相手の吐く温かな息が自分の敏感な耳元をくすぐるのを感じて、オーロラの頬はかっと赤くなった。
刹那、彼女は粘液の塊と化してフリーデの腕の中からするりと抜け出し、数メートル離れたところで再び身を凝集させた。
「わ……分かったってば!あなたの気持ちは分かったから、そんなにぎゅっと抱きしめなくていいから!」
姿を取り戻して最初にしたのは、顔を真っ赤にして手を振ることだった。
フリーデはかすかに微笑んだ。
「牢屋にあんなに長くいたんだから、お腹が空いたでしょう?」
フリーデの抱擁で、オーロラはようやく警戒を解いた。気が緩んだとたん、空腹感が潮のように押し寄せてきた。
「そうね、今ならお菓子の家を丸ごと一軒食べられそう」彼女はお腹をさすりながら、力なく言った。
「グスタフが、哨所の食料は全部自由に使っていいって」フリーデは笑って言った。
「おごりって最高!」オーロラの顔が、思わず幸せそうにほころんだ。




