第二十三章 潜入
出発前、ウェルズは部屋の時計を見上げた。午後四時だった。
ラロリアの泊まる高級旅館には馬の貸し出しサービスがあった。数枚の金券を保証金として渡すと、二人は馬を駆って城外へ走り出し、十数分もしないうちに要塞の外縁へ辿り着いた。
「お前、馬の扱いがなかなか上手いな」ラロリアが手頃な木に馬を繋いでいる頃、ウェルズはようやく馬を止めたところだった。馬の扱いに長けた金髪の少女を、意外そうに見やる。
「昔、両親に習わされただけよ。大したことじゃない」
「馬術が得意で、金髪で、おまけに訛りもある。となると、お前は帝国人か?」
「……そう思ってくれていいわ」
ラロリアは言葉を濁した。あまり触れられたくない話題らしい。
前方には、高台に築かれた要塞があった。斜面がおよそ百メートル続いた先に、垂直な城壁がそびえている。城壁は石材にセメントを流し込んで造られており、古代の石壁より堅固なうえ、見た目もずっと滑らかだ。要塞の周囲も整地されていて、身を隠せる林も岩もない。城壁の上を巡回する兵士たちは、怪しい侵入者が近づいていないか一目で見て取れるというわけだ。
「フリーデ、この距離で化身を維持しても問題ないな?」
「今の距離は九・一キロ。問題ない」
自分たちの行動がフリーデに影響しないことを確かめると、ウェルズは魔法を詠唱した。灰色の霧が二人を包み、三階魔法「陰影隠形」が発動する。霧が晴れると、二人の姿はたちまち周囲の景色に溶け込んだ。法術を使うか攻撃を仕掛けない限り、この法術は三十分間持続する。要塞を往復するには十分だった。
「二人とも透明になったら、お互いの位置はどう判断するのよ?」ラロリアが突っ込みを入れた。
「……」確かに一理ある、とウェルズは思った。「もう一つ、二階魔法『不可視看破』を付加しよう」
ウェルズの不可視看破にも陰影の権能が宿っており、陰影系の隠蔽魔法を見破れるうえ、持続時間も長い。
新たな魔法を付加し終えて、二人はようやく互いの姿が見えるようになった。そこでラロリアも、ウェルズに「意識通路」を付加した。
「うっ……男と意識が繋がる感覚って本当に気持ち悪い」
「聞こえるでしょ?これで声を出して話さなくて済むわ」
ラロリアの声が直接ウェルズの意識の中に流れ込んできた。
「聞こえるか?」ウェルズは意識を介してラロリアに語りかけてみた。
「聞こえる」ラロリアの澄んだ声が得意げに響く。「すごいでしょ、稀少な心霊系三階魔法なんだから!」
「さっきの俺の声は聞こえたか?」続けて尋ねる。
「声は何も届いていない」答えたのはフリーデだった。
「どうやら、指名した相手にだけ思考が直接伝わる仕組みらしいな」意識通路の仕組みを少し探ってから、ウェルズはラロリアに頷いてみせた。
「問題ない。行動開始だ」
二人は足音を忍ばせ、たちまち星形要塞の外壁へと迫った。外壁はわずかに傾斜していて、完全な九十度ではない。おかげで二階魔法「蜘蛛歩行」で登ることができる。しばらく様子をうかがって衛兵の巡回の間隔を確かめると、二人はすぐさま蜘蛛歩行で城壁をよじ登った。
見えない梯子でも使うかのように、ウェルズとラロリアは傾斜した壁面に手足をつき、すいすいと登っていく。ほどなく城壁の上に着くと、銃を背負った数名の兵士がちょうど遠ざかっていくところだった。
この隙に二人は身を躍らせ、一階魔法「羽毛落下」で音もなく着地し、守りの堅固な要塞への侵入に成功した。
すでに黄昏も終わりに近かった。清潔な石畳は黄色から黒へと色を変え、周囲には軍隊らしい簡素な建物が並んでいる。この広大な要塞は約一万人を収容でき、巨大な穀物倉まで備えていた。
「静かね。なんだか人がいないみたい」
「普通なら兵士は兵舎の中にいるはずだが」
ラロリアは周囲を見回し、漂う寂しげな空気にわずかに首を傾げた。
「ついてきて。兵站部門の場所はだいたい分かるから」
ラロリアは建物の配置を見て方角を割り出した。要塞の見取り図が頭に入っているらしい。ウェルズは素早く動く彼女の後を追い、二人は足音を立てないよう気を配りながら、建物の間の小道を縫うように進んだ。
「疲れたなあ、最近はほんとに演習が多い」
「上官は薬でも間違えて飲んだんじゃないか」
要塞を定期的に巡回する隊をいくつか見かけたが、不可視化のおかげで気づかれずに済んだ。
「ここにずいぶん詳しいようだな?」ウェルズは意識通路を通して尋ねた。
「知識の力よ」ラロリアは見下すように答えた。
「この要塞は元々、古帝国が瀆聖の戦いの中で築いたもの。教廷の反抗を防ぐためにね。中の配置も古帝国の様式を受け継いでいるから、各機関施設がどこにあるかだいたい分かるの。たとえば今いる場所は第一居住区のはずで、兵站区はあと二つ区域を抜ければ着くわ」
「なるほど、お前は本当に博識だな」
古代の歴史文献は時の流れの中で多くが散逸し、今の人々が知るのは過去二百年の歴史だけである。それ以前のすべては、暗雲のように覆い隠されていた。
「褒められるようなことじゃないわ。あんたの知識が浅いだけでしょ」彼女は頬をわずかに赤らめ、ふんと鼻を鳴らした。
「確かにな。歴史はほとんど調べたことがない」ウェルズは気にも留めなかった。
ウェルズ一人が無知というより、度重なる大戦がもたらした知識の断絶の中で、歴史の知識もまた稀少極まるものになっていたのだ。
「あんたがそこまで言うなら……教えてあげなくもないけど、また今度、機嫌がいい時にね」金髪の少女は顔を背けた。褒められて、その頬はわずかに赤かった。
「そういえば、要塞の雰囲気がどうもおかしい気がする。巡回隊の割合も少なすぎるし、この建物の中からも物音がほとんどしない。本来なら、この城塞は七分の入りのはずなのに、どうも一部の人員がどこかへ回されたみたいで、居住区にいない。こんな時間に広場で集合訓練をしているはずもないし」
「夜戦訓練をしているのかもしれん。だが人が少ないのは俺たちにとって好都合だ」
言葉を交わしながら、二人は進み続けた。最初の数分は至って順調だったが、大通りを横切ろうとしたとき、彼女は突然ぎょっとした。華奢な体がびくりと震え、その拍子に脇の木樽の上にあった空き酒瓶に触れてしまう。
ぶつかった感触に慌てて振り返った彼女は、どうしていいか分からず凍りついた。割れやすいガラス瓶が、そのまま木樽から落ちていく。
「ど、どうしよう!」
だが、目を閉じて砕ける音を待っても、予想した音は聞こえてこなかった。
驚きと戸惑いの入り混じった美しい青い瞳を開くと、すでに屈み込んだウェルズが、地面に触れる寸前の酒瓶を間一髪で右手に受け止めていた。
「目を閉じて死を待てば、本当に死体になるぞ」
片手で酒瓶を軽く放り上げ、空中できれいな円を描かせてから再び受け止めると、ウェルズは涼しい顔でガラス瓶を元の場所に戻した。
「……」ラロリアは応えなかった。まだ恐怖の残る表情を素早く引っ込めたものの、青ざめた小さな顔にはしばらく血の気が戻らなかった。
「どうした?なぜ急にそんな顔をする?」冷淡な表情に戻って、ウェルズは尋ねた。




