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空間魔導書と少年魔法使い  作者: atu78963254
ライカベサ編
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第一章 ライカベサ

世界の物品は、普通、稀有、希少、叙事詩級、聖階、伝説の等級に分けられる。


いまウェルズは、伝説級の魔導書とともに行動していた。


「あの列車……あそこに置いたままでよかったの?」


立ち襟の漆黒のコートをまとったウェルズは、両手をポケットに突っ込んで街路を歩いていた。端正な顔には、うっすらと笑みが浮かんでいる。その傍らには、ふんわりとしたスカートに身を包み、日傘を提げた銀髪の少女。ロココ風の装いは本来なら人混みに紛れるためのものだったが、ただ一つ、どうしても隠しきれないものがあった。見る者の目を釘付けにする、その美しさである。


これはウェルズが、街に入る際に人目を引かぬよう、魔力で編み直させた衣装だった。フリーデは自らの存在を自力で維持できるが、彼から魔力を注がれたことで、できることの幅はさらに広がっていた。


「もちろんだ。残りの乗客は誰かが何とかするさ。善行のせいで余計な面倒を背負い込むのはごめんだ」


ウェルズは名声にも報酬にも、まったく関心がなかった。


警察の聴取に応じ、自分の能力や解決の経緯を説明するなど面倒極まりない。その面倒さを思えば、見返りなど即座に捨てて構わないと思えるほどだ。しかもそれは自分の足取りを晒すことにもなり、この先の行動にとってはなはだ不利だった。益より害のほうが大きいと言っていい。


「ここ、ずいぶん賑やかね。今日は何かのお祭りなの?」


通りは人声でざわめいていた。清潔な石畳の上を、人々が思い思いのスローガンを叫びながら、群れをなして進んでいく。デモの隊列はいくつもあり、誰もが激しく気勢を上げ、路上で罵り合いさえ始めていた。


「我らは失地を取り戻す義士、栄光を奪還する希望だ!」


「腐敗を拒め、国の政体を立て直せ!」


「臆病な人民党のクズどもめ!祖国を守る勇気すらないのか!失地を取り戻す気もないのか!」


「前進党の連中こそ癌だ。軍隊なんぞろくなものじゃない。社会の寄生虫で、国民の税金を食い潰しているだけだ!」


「祭り?いや、今日は共和国の大統領選挙日の二週間前だ」


ウェルズはデモの隊列を一瞥した。


一方は前進党の支持者だ。彼らは現大統領ドミトリーの再選を支持し、軍備を拡張して、百年前の戦争で教廷に割譲した領土を「回復」せよと主張している。もう一方は人民党のヴェスパルで、軍事費の削減を掲げていた。


「共和国?」


「ここは聖アトランテ共和国の首都ライカベサ。七百年前は教廷の一部だったが、瀆聖の戦いで独立した。今に至るまで教廷との関係は極めて悪く、この数百年の間に幾度も戦争をしている」


「聖アトランテ共和国?アトランテって誰?」


これ以上質問に答えるのが億劫になったのか、ウェルズはおざなりに一言だけ返した。


「知らん。俺に訊くな」


ぼろをまとい、穴の開いたカウボーイハットをかぶった少年が、真新しいタオルを手に歩み寄り、二人にうやうやしく尋ねた。


「旦那様、お嬢様。革靴かブーツを磨きましょうか?一回たったの銅貨五枚です」


声を掛けられても、ウェルズは応じなかった。この手の浮浪児はどこにでもいる。ポケットから手を出し、ぴんと指を弾くと、銅貨が一枚、高々と舞い上がった。子供は慌てて宙へ手を伸ばし、道を空けた。


日傘を手にしたフリーデは、思わずもう一度その少年を見た。銅貨を拾おうとして転びはしないかと案じたのだ。


一方のウェルズは振り返りもせずに歩き続け、フリーデはその後に従った。やがて二人は、十字路に面したカフェの前で足を止めた。木造りの内装がどこかほっとする空気を醸し出し、扉には店の看板が掛かっている。


この店の変わったところは、各都市に一店舗しか出さないという点だ。ライカベサにしかない、甘くて濃厚な「マカロン」という菓子も売られており、休日をここで過ごす市民も多かった。


「用事を片付けてくる。どこへでも好きなところへ行け。ついてくるな」


ウェルズはガラス扉の前で足を止め、親指で背後のカフェを指した。そう言い残すと、風鈴の付いた木の扉を押し開けた。


カフェに入ると、蓄音機の優雅な音楽が出迎えた。流行の装いの客が大勢、店内でくつろいでいる。だがそのソファの一つに、ひときわ目を引く、風変わりな装いの少女がいた。


白い腕が見え隠れし、コルセットが美しい曲線を際立たせている。額には探検家のゴーグルを掛け、下はホットパンツに派手な尾飾り。顔立ちは愛らしく、桃色の髪も艶やかだ。これほど恵まれた少女がカフェに一人でいるというのに、声を掛けようとする者は誰もいなかった。理由はただ一つ、傍らに置かれた一振りの佩刀である。その鞘は猛々しく、燃え盛る炎の舌さながらの姿をしていた。


「あれ、煉獄騎士だろ?」「人は見かけによらないな。魔鬼と結託した手合いだとは……」「連中は魔鬼に魂を売って強大な力を得たって話だぜ……」


そんなひそひそ声が、通りかかったウェルズの耳に入った。だが彼は少しも気に留めず、進み出て少女の向かいに腰を下ろした。


「よう、久しぶりだな、イチゴジャム」


「君は相変わらず失礼だね。覚えておいて。私の名前はアレクサンドラ」少女は紅い瞳を見開き、むっとした口調で言った。


「よくもまあ一人で平気だな。こんなものを出して人を脅かして」サンドラの傍らに置かれた佩刀を一瞥する。あれは魔鬼を封じた武器であり、そこに宿る凶悪な気配は、常人を遠ざけるに十分だった。


「少なくとも、誰も私の邪魔をしに来ないじゃない」桃色の髪の少女は、どうでもよさそうに言った。


「店員はまだ来ないのか?」ウェルズは人差し指でテーブルを叩いた。


「いらっしゃいませ……あの……ご注文は……」冷や汗まみれの店員が、意を決して二人のテーブルへやって来た。


「オレンジジュースを一つ。君は?」


「私はいい。見ていて気の毒だし」彼女は気にも留めずに言った。


店員が飲み物を運んでくるまでの間に、彼女は魔力を巡らせ、人差し指の指輪を光らせた。そして自分の空間の指輪から、クラフト紙の袋に包まれた書類を取り出した。


「君が欲しがってた資料は、全部ここにあるよ」


「仕事が早いな」


ウェルズは微笑みを浮かべ、手を伸ばして書類を受け取った。長年組んできた相手だけに、その信用は高く買っていた。


「だが、新しい依頼がある」


「何?」


「ここ数日の悪魔に関する情報と、終末救贖者の情報を調べてくれ」


それを聞いたサンドラは、少し興味を引かれたように、アーモンド形の目をわずかに見開いた。


「悪魔と邪教徒?いつから連中に興味を持ったわけ?」


「最近、連中に殺されかけた」


「これが今回の報酬だ。受け取れ、イチゴジャム」ウェルズは指輪から銀色に光る小さな十字架を取り出し、テーブルの上に置いた。


「いいじゃない、秩序の象徴。どこで手に入れたの?」手を伸ばして十字架を受け取り、鑑定魔法をかけたサンドラは、驚いた声を上げた。


「象徴」とは、概念が凝集した実体である。対応する魔法や能力を発動する際、象徴を用いればその効果を増幅できる。さらに、魔力を持つ者は三階から四階への昇級の際に象徴を吸収して全く新しい能力を得ることができ、一部の稀少な象徴は聖階級の希少度に達することさえある。


「旗幟大聖堂に入ったついでに持ってきた」


聞き終えたサンドラは、その大胆不敵ぶりに舌を巻くばかりだった。リストバンドを着けた両手で軽く手を叩く。「忍び込んで封印物を盗み出しただけでも大したものなのに、そのうえ他の収蔵品まで持ち出すなんて……君の傲慢さを何と言えばいいのか分からないよ」


「褒めすぎだ」ウェルズはただ微笑んで応じた。


「この依頼、受けた。調べてみる。五日後に答えを出すよ」サンドラは手を伸ばし、銀色の光紋を纏った十字架を受け取ると、自分の空間の指輪に収めた。


そこへ店員が飲み物を運んできた。サンドラはそれを見て、先に口を開いた。


「そういえば、私の渡した情報に問題はなかった?あれはずいぶん骨を折って手に入れたものなんだけど」


「それを訊いてどうする」


「私の情報が間違ってて君が危ない目に遭ったんじゃ、寝覚めが悪いじゃない」


「ああ、危険か……もちろんあった」ウェルズは魔導書を手に入れ、それと契約を結ぶまでの経緯を思い返した。「意外だったのは、むしろ収穫のほうだな」


「意外な収穫?」人差し指を組んだサンドラが興味深げに尋ねた。だがそこで彼女は表情を改め、やや警戒するようにウェルズの背後へ目をやって、声を掛けた。


「失礼ですが、あなたは?」


「イチゴジャム」の視線が動いたのを見て、ウェルズも自分の背後を振り返った。店内の大半の客が、背後の銀髪の少女に視線を集めている。ほかでもない、彼女が室内で日傘を差しているからだった。


「フリーデ……」ウェルズはわずかに眉を寄せた。「外で待っていろと……言わなかったか?」


「私とあなたはただの協力関係。あなたの命令に従う義務なんて、一度もなかった」彼女は淡々と言った。


「もういい。話もここまでだ」ウェルズはテーブルに手をついて立ち上がった。


「俺はここを出る。またな」


言い終えると、ウェルズはゆっくりとカフェを後にした。日傘を差した銀髪の少女がその後に続く。


「一匹狼は……やめたの?」


テーブルに残された桃色の髪の少女は、置いていかれた伝票を眺め、手つかずのオレンジジュースを一口飲んだ。もったいないから飲み干すべきかと算段する。


「あの人、誰?」カフェを振り返り、フリーデが尋ねた。


「アレクサンドラ。よく取引する相手だ」


「煉獄騎士って、本当に魔鬼に魂を売るの?」彼女は気遣わしげに尋ねた。人は類をもって集まるものだ。悪行を重ねる者と一緒にいるなら、その人物もろくな者ではないだろう。


「そういう噂は、道端の誰かが手にしている本が咫尺の書だと言うのと同じくらい当てにならない」ウェルズはまるで意に介さない様子で言った。「煉獄騎士になるには生死の試練を通らねばならない。魔鬼を召喚して佩刀に封じ、擬似法術能力を得るというものだ。ありもしない噂の大半は、この儀式から来ている」


「どうして彼女をイチゴジャムって呼ぶの?」


「うるさいな……」ウェルズは額を押さえて足を止め、気怠げな表情でその愛らしい顔を見つめた。「俺は教師をしに来たわけじゃない。お前は質問が多すぎる」


彼の苛立ちを、フリーデは少しも気に留めず、ただ続けた。


「あと一つだけ答えてくれたら、もう質問はしない」


諦めたように、ウェルズは手を振った。「早く言え」とでも言うように。


ほとんど迷いもなく、フリーデは問いを口にした。


「どうして私は教会に封印されていたの?どうして……あなたは私の主にしか分からないはずの魔法を使えるの?」


この問いにウェルズはしばし沈黙し、それから口を開いた。


「それは二つの質問だ」


「教えてくれないの?」彼女はウェルズの顔を見つめた。その表情には焦りと不満が滲んでいた。


彼女の詰問に、ウェルズは当然のことのように答えた。


「今は源暦一七二三年だ。お前が最後に記憶している日から、どれだけ離れている?」


「私の記憶はもう鮮明じゃない……魔導書の中の情報は大部分が消されている。でも、残っている内容からすると、少なくとも七百年以上前のはず」フリーデはただそう呟いた。その表情は胸が締めつけられるほどに哀しげだった。


「七百年の歳月……多くのものを洗い流すには十分だ。俺がその一部始終を知り尽くしているはずがないだろう?」彼は小さく笑い、憂いと矛盾の空気を薄めようとして、懐から一枚の図書館カードを取り出した。


「俺の図書館カードを持っていけ。図書館で本を借りて調べろ。本の中に、お前の求める答えが見つかるかもしれない」


彼が軽く投げると、フリーデは飛んできたカードを二本の指で挟み取った。


書物は時を越えて知識を記録する道具である。そのことをフリーデリカほどよく知る者はいない。図書館カードを手にした彼女は、それを目の前に近づけてじっくりと眺め、それから下ろした。


「ありがとう」彼女は一言返した。ウェルズの言葉には半信半疑だったが、少なくとも、多少の助けは差し伸べてくれたのだ。


「今のところ……お前は俺からどれだけ離れられる?」


魔導書の化身と人格には維持範囲があり、一定の距離を超えれば化身は維持できなくなる。ウェルズはそれを知っていた。


「今のあなたが三階魔法を使える実力なら、十キロ以内は問題ない」


ウェルズの年齢で三階魔法使いになれる者は、数十万人に一人いるかどうかだ。だが咫尺の書の上限からすれば、明らかにまったく足りていなかった。


聞き終えたウェルズは、了解したというようにただ頷いた。


「なら行け。道中気をつけろ」


日傘を差したフリーデは図書館カードを手に踵を返した。だが数歩も行かぬうちに、背後から見つめていたウェルズに唐突に呼び止められた。


「ああ、もう一つ……」彼はわずかに手を上げた。


フリーデは足を止め、首を傾けてウェルズの次の言葉に耳を澄ませた。


「日傘は、室内では差せないんだぞ……!」


ウェルズは穏やかな笑みを浮かべて注意した。世間知らずなその様子を、なかなか面白いと思ったらしい。


その笑顔が、フリーデの朧げな記憶を呼び起こした。ずっと昔、彼女の主もよくこんなふうに笑っていた気がする。


「あなた……もしかしたら、善い人なのかもしれない」


その言葉を聞くと、穏やかだった微笑みはウェルズの顔からゆっくりと消えていき、最後には氷のように冷ややかな顔だけが残った。


「フリーデ、よく聞け」


その声の冷たさは、骨の髄まで染み入るようだった。


「俺は、善人なんかじゃない」


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