序章 蒸気機関車
夜の闇を、蒸気機関車がひた走っていた。鉄の車輪がレールの継ぎ目を踏むたびに乾いた音が絶え間なく響き、濁って重たい黒煙は、月の光を秘めた夜空よりもなお幾分か暗い。ちょうどその時、思いがけない訪問者が車両の扉を押し開けた。ステッキを手にした少年紳士である。ゆったりとした足取りで車内へ入った彼を迎えたのは、小鳥のさえずりのような娘たちの華やいだ声だった。
ロココ風のドレスに身を包んだ少女たちが、旅の話に花を咲かせている。そのうちの一人、褐色の髪の少女が、楽しげなおしゃべりの最中、自分の席を探していた少年にうっかりぶつかってしまった。
「あら……!」
見知らぬ相手にぶつかった少女は、慌てて詫びた。「大変失礼いたしました!ちゃんと前を見ておくべきでしたわ」
貴族の身でありながら、少女は自らの非を素直に認め、真摯に頭を下げたのだった。
「構わない」少年は素っ気なく応じると、四人掛けの向かい合わせの席の一つに腰を下ろした。
目の前のテーブルは銅張りで、不思議な小石を収めた卓上ランプが置かれている。列車の一等車にしかない、凝った造りのテーブルだ。
「なんて謎めいた方なのかしら」思わず、少女はその人物をもう何度か見やった。冷ややかな顔立ちの黒髪の少年で、立ち襟のコートを着込み、頭には山高帽を載せている。
ありふれた旅人の装いではあるものの、その佇まいには妙に人を惹きつけるものがあった。内に秘めた落ち着きが、つい何度も目を向けさせるのだ。
「ヴァージニア?何見てるの?もしかして、その人に一目惚れしちゃった?」
「そ、そんなんじゃありません!」
友人の軽口に、少女の頬がさっと真っ赤に染まる。からかわれて顔を赤らめたまま言い返し、少女たちはじゃれ合いながら車両を出ていった。
彼女たちが去ると、車内はたちまち静けさを取り戻した。
残ったのは、列車がレールの上を走る「ガタンゴトン」という音だけ。規則正しく続くその音は背景のホワイトノイズと化し、耳障りどころか、かえって眠気を誘う。
自分の席に落ち着いた少年は、ステッキを壁に立てかけた。時はこのまま、何事もなく流れ去っていくかに思われた。
けれど、眠気を誘うこの空気は、いささか静かすぎた。
あるかなきかの香りが、ゆっくりと漂ってくる。夜更けの少年も眠気を覚えたのか、目元がわずかに細められた。
夜が更ければ眠るのが道理。それでも夢であれ夜であれ、いつだって人の心の底から恐れを呼び起こすものだ。
車内の乗客は申し合わせたわけでもなく、皆そろって深い眠りに落ちていった。空ろに澄んだ深夜の静けさのなか、足音が響き始める。
現れたのは、異香を防ぐ防護マスクを着けた数人の黒衣の者だった。粗布の袋を提げ、眠り込んだ乗客を手慣れた様子で袋に詰めていく。抵抗ひとつしない人々は、屠られるのを待つ子羊のように従順だった。
やがて、少年の番が来た。
黒衣の者の落ち着き払った手が伸びてくる。その瞬間、その手は少年からの贈り物を受け取ることになった。
少年は身を翻して跳ね起き、ステッキを振り上げて黒衣の者の腕へ叩きつけた。反応する暇もなく腕の骨が砕け、凄絶な悲鳴が上がる。
もっとも、ウェルズにしても、こうなるのは不本意だった。
「まったくついてないな。今度は何の騒ぎだ?」
匂いの異変にはとうに気づいていたが、見て見ぬふりをしていたのだ。とはいえ相手がこちらに矛先を向けてきた以上、立ち上がって迎え撃つほかない。
「カンベリ城からブツを持ち出したばかりだってのに、まさか辺境で邪教徒に出くわすとはな……!」
ぼやきながらウェルズは軽くステッキを振るい、相手の腹を突いた。たまらず退いたところへ横から一閃、顎の骨を力ずくで打ち砕いて吹き飛ばす。
倒れた黒衣の者の背後では、別の邪教徒二人がすでに印を結び、魔力を集めて、目の前の抵抗者を魔法で葬ろうとしていた。漆黒の衣をまとい、胸には両端で縄を結んだ無限の輪の紋様。紛れもない邪教徒――終末救贖者だ。
わずか数秒のうちに、二人は揃って二条の灼熱光線を放ち、ウェルズを狙った。炎の光線が顔面めがけて迫る。残心の構えを取ったばかりのウェルズに、魔法で対抗する暇などあるはずもない。
雷霆のごとき火光が命中し、大量の炎が弾け散った。ところが鋼鉄すら溶かすその炎は、宙でひとりでにかき消えていく。炎を打ち消したのは、ウェルズが何かを振るって受け止めた一筋の軌跡だった。
その手に現れたのは、華麗な装丁の魔導書である。鎖を帯びた漆黒の書物で、金色に輝く流紋と分厚い表紙を備えていた。精緻な細工は極上の芸術美と豪奢な気品を一つに溶け合わせ、ひと目見ただけで忘れがたい記憶を刻みつける。
いかにも貴重そうな見た目に反して、この書は想像を絶するほど頑丈だった。灼熱光線を受け止めても傷一つ残らない。付与を施した半身鎧よりも、なお強靭なのだ。
「ここで明かすつもりはなかったんだが……まあ、仕方ない」車両の扉の向こうから援軍が続々と入ってくるのを見て、ウェルズは小さく息をついた。
どこか冷ややかな笑みを浮かべたまま、片手で書を握り、自らの魔力を注ぎ込む。たちまち車内の魔力が搾り取られるようにそこへ集まり、窓のカーテンが見えない風に巻き上げられた。
「解除……『咫尺の書』(しせきのしょ)の封印を」
呟きとともに、表紙に巻きついていた鎖がふわりと緩み、戒めを解いた。宙に躍る鎖は解き放たれた竜のように自在で、神威さえ帯びている。次の瞬間、魔力を受けた書がひとりでに開き、光り輝く書頁が狂風の中で勝手にめくれていった。やがて止まったのは、書式だけが整い、まだ何の図も刻まれていない一頁だった。
「簡単な火球術で……片付けてやる」
圧倒的な気迫をまとったウェルズは、片手で魔導書を構えて魔力を操った。一枚の書頁が、解離するように上端から崩れていき、最後には音もなく消え失せる。同時に、威力を満々と湛えた火球が忽然と現れ、雷霆のごとく撃ち出された。
華々しい爆発は、目の前の車両の半分を吹き飛ばしてもおかしくないほどだった。それでもこの制御火球術は、ウェルズの完璧な制御のもと、目の前の邪教徒数名だけを燃え尽きた灰に変えた。炎は春風が頬を撫でるように跡形もなく消え、邪教徒に担がれていた被害者たちも、支えを失って空っぽの床に落ちただけで済んだ。
魔力の流れがわずかに止まり、ウェルズは掲げていた手を下ろした。
「目の利かぬ邪教徒どもめ」
敵はすべて消し去ったかに見えた。だが危機は、今まさに音もなく迫っていた。
赤い絨毯の上に、蚊の鳴くようなかすかな足音が生じる。目に見えないものこそ最も致命的な危険なのだと、制御火球術を放ったばかりのウェルズは思いもしなかった。
潜んでいた短剣が、不意に抜き放たれる。暗殺者が不可視化を解いて姿を現したその瞬間、自信に満ちていたウェルズは、ようやく敵がすぐ傍らまで迫っていたことに気づいた。もはや、迫りくる短剣をみすみす見つめることしかできない。
反応する暇もないその寸刻、ウェルズの目の前に現れたのは、思いもよらない光景だった。
絢爛たる魔法の光がまだらに入り組んだ法陣。それは一瞬だけ現れ、すぐに麗しい人影に取って代わられた。最後に、視界を埋め尽くす白熱の斬撃の軌跡。
剣の軌跡はまたたく間に過ぎ去った。それなのにウェルズには、一つの世が移り変わるほど長く感じられた。
重い物が床に落ちる音がした。胴を真っ二つに断たれた刺客だ。その屍の傍らに立っていたのは、金縁の白いドレスをまとい、精緻に鍛え上げられた長剣を手にした少女だった。瑰麗な軍礼風のドレスが、この上なく艶やかな曲線をぴたりと包み込んでいる――硬く張った白地のコルセットが豊かすぎるほどの双丘を高々と押し上げ、繁雑で晦渋な金色の魔法呪文が、今にもこぼれ出しそうなその膨らみに沿って張りつめるように走る。腰は片手に収まりそうなほど細くしなやかに絞られ、そこから一転して、軽やかで華麗な丈の長い軍装風のスカートへと広がっていた。純白の軍用ロングブーツが、すらりと伸びたふくらはぎの線を寸分の隙もなく包んでいる。
「あなたは誰?どうしてこの書を手に入れたの」振り返ってウェルズを見据える。白く艶やかなその顔には、情を感じさせない冷気がひとすじ漂っていた。
これほど予想外の事態を前にしても、ウェルズは微笑みを浮かべて問い返しただけだった。
「そっちこそ誰だ。なぜ俺がお前の質問に答えなきゃならない」
少女の手から、長剣がふっと消えた。問い返された彼女の答えはごく簡潔で、それでいて十分に衝撃的だった。
「私の名前はフリーデリカ。この『咫尺の書』の化身よ」
衣装に押し上げられた艶やかな曲線の前に片手を添え、淡々と答える。目も眩むような金色の紋様をあしらったそのドレスは型にとらわれない意匠で、フリーデの肢体と相まって一幅の優美な絵画を成している。
「化身を持つ魔導書だと……記録のとおりだ。あの伝説の魔法使いが作った魔導書か」フリーデの答えを聞いたウェルズの脳裏で、無数の記憶が一本につながった。
魔導書の製作は、きわめて煩雑な工程を要する。希少な素材と十分な魔導の知識、そして長い時間が必要だ。
だがそれほど莫大な代価と引き換えに得られるのは、図書館にも匹敵する膨大な知識と、魔法能力の大幅な強化である。魔導書は数多くの魔法を記録してその発動時間を短縮できるうえ、それ自体が膨大な魔力を蓄えられる。しかも書ごとに性質が異なり、特定の魔法分野においてはこの世に二つとない増幅能力を持つ。
世界にわずか十数冊しかない魔導書のうち、化身を持つのはたった三冊。いずれも一人の伝説の魔法使いが作り上げた伝説の遺宝であり、空間魔法で世に名を馳せる『咫尺の書』もその一つだった。
「質問に答えて。あなたは誰?どうしてこの書を手に入れたの」
フリーデの冷ややかな詰問にも、ウェルズはつかみどころのない答えを返すだけだった。
「俺の名はウェルズだ」そこまで言うと、唐突に彼女へ手を差し伸べる。「俺と契約を結べ、フリーデリカ」
「お断りよ。空間は非常に危険な力なの。あなたみたいな素性の知れない人に握らせるわけにはいかない」フリーデは当たり前のように答えた。
そう答えた瞬間、ウェルズの操っていた魔導書が不意にぴたりと閉じ、彼は制御権を失った。
魔導書はもう、自分の使用を受け付けない。ウェルズはまだ魔導書と契約を結んでおらず、引き出せるのは力の一部にすぎなかった。魔導書を自称する目の前のフリーデの制御下にある以上、使用権を取り上げられるのも当然だ。
「契約を結ぶのは、俺たち双方にとって悪くない話だと思うがな」ウェルズは気にも留めずに呟いた。
「あなたの提案を裏付ける証拠は何もない」
「付き合ってみなきゃ分からないだろう?」
「お断り」
その時、ウェルズの脳裏に閃きが走り、わざと気取った仕草で前髪をかき上げると、フリーデを指さした。
「お前、可愛いな」
「褒めてくれてありがとう」
きっぱりと拒む彼女の様子に、ウェルズはわずかに肩をすくめただけだった。
「とにかく……まずは後ろに気をつけたほうがいい」
ウェルズの声が終わるか終わらないかのうちに、彼女の背後の扉から数人の邪教徒が飛び出してきた。その刹那、フリーデの軽やかな姿は風のように踏み出していた。相手が呪法を唱えるより早く目の前まで一気に踏み込み、ストレートの一撃で一人を沈める。散開する間すら与えず、鋭い回し蹴りで残る敵を薙ぎ払った。
「手が早いな」
フリーデの金縁のマントが翻り、滝のように流れる長い髪と相まって、詩か絵画のような美しい光景をつくる。反応する暇もないほどの間に、精鋭の邪教徒数人がすでに倒されていた。この戦闘技芸の恐ろしさには、どんな傍観者でも呆気にとられるに違いない。
「この人たちは何?どうしてこんなことをするの?」体が床に倒れる音が響くなか、彼女はウェルズという名の謎めいた少年を振り返って尋ねた。
ウェルズはすでに、使えなくなった書を仕舞っていた。不測の事態にも悠然とした態度を崩さず、問われると、まるで宝物でも鑑定するように顎を撫でながら倒れた者たちを眺める。「揃いの黒衣に輪の紋章。こいつらは終末救贖者の邪教徒どもだ。もっとも、俺は個人的に『人類自浄会』と呼ぶほうが気に入ってるがね」
「……?」
「そう呼ぶ理由はな、こいつらが自分の同類を最速で消し去ることに熱中しているからさ。どんな方法だろうと、どんな手段だろうと構わない。残虐さより効率を重んじる連中でね。必要とあらば、この狂人どもは身内だって殺す」ウェルズは肩をすくめただけだった。
ウェルズの言葉を聞くと、彼女は迷うことなく次の方針を決めた。
「この列車の邪教徒を掃討しなきゃ。列車に乗っている人を、誰一人傷つけさせるわけにはいかない」
「なぜだ?」ウェルズは興味深げに尋ねた。
「それが私の使命だから。私が創られた意味は、正義に則って行動し、すべての人を助けることにあるの」朱唇をそっと開き、彼女は揺るぎない言葉を紡いだ。それこそが彼女の存在理由であり、そのためなら全力を尽くすつもりだった。
それを聞いたウェルズは、小さく何度か笑った。「ずいぶんご立派だな?なら俺と契約を結べば、邪教徒をもっとうまく片付けられるんじゃないか?」
「素性の知れない人とは契約を結ばない」ウェルズは信用に値しない――言外にそう告げていた。何しろ彼は、自分の問いを何度もはぐらかしているのだ。なぜ自分がこの人物の手に落ちたのか、それがかなり気にかかっていた。けれどそれ以上に気がかりなのは、自分を作った主が今どこにいるのかだった。
二人ともよく分かっていた。魔導書の従属契約は、ひとたび結べば容易には解けない。ましてフリーデは、この書に宿る力をどれほど多くの者が狙っているかを知り抜いている。その力が悪事に使われれば、恐ろしい結果は想像するに余りあった。
「怖いなら、ここに残っていてもいい」そう言うなり、細くしなやかな指先をくいと曲げ、ウェルズの腰のベルトに掛けられた魔導書を、ひとりでに手元へ呼び戻そうとした。
「こんな邪教徒どもを片付けるなんて、赤子の手をひねるようなものだ。俺も一緒に参加させてもらって構わないだろう?」
今にも抜け出しそうな書をなだめるようにぽんぽんと叩き、ウェルズは帽子のつばを軽く持ち上げた。まるで淑女から晩餐の誘いを受けたかのように。
彼女が提案をきっぱりはねつけても、ウェルズは気にも留めなかった。一緒にいさえすれば、いずれ契約を承諾させる機会は必ず来る。自分の今後の計画にとって、彼女の力は絶対に欠かせないのだ。
前へ進んで三両目の車両で、二人はさらに数人の邪教徒を次々と倒した。最後の一人は奥に隠れて呪文を詠唱していたが、魔法攻撃がもう間に合わないと悟るや、木の杖を振りかざしてフリーデに襲いかかった。ところが彼女が軽やかに身をかわすと、その邪教徒は空を切って窓に激突し、そのまま車外へ放り出された。高速の衝撃を受けた体は、ひと塊の血と肉に変わり果てた。
「本当に俺と契約を結ばないのか?」二人とは言っても、主力はやはりフリーデだった。その戦いぶりは常人を遥かに凌ぎ、ウェルズが呪文を一節唱える間もなく敵を片付けてしまう。
「俺たちにとって、悪くない話のはずだ」
「その質問はこれで三度目。私の答えは変わらない。お断りよ」
「お前は俺と契約を結ぶことになるさ」
拒まれたウェルズは淡々と笑い、確信をもって言い切った。それを聞いたフリーデには彼の自信が理解できなかったが、それ以上は何も言わなかった。
がらんとした車内を、二人はさらに先へと進んでいく。ウェルズが乗り込んだ時には人でごった返していたこの夜行便も、今や車内に響くのは、風がカーテンをはためかせる音だけだった。テーブル付きの上等な座席にはマッシュポテトが置かれたままで、グラスにはジュースがまだ残っている。皿のプリンに至っては、ほんの数口なめただけだった。
「ついさっきまで、ここには人がいたんだな。邪教徒にどこへ連れていかれたのやら」
「早く助け出さないと」フリーデは低く呟くと、足早に進み出て、また一つ車両の扉を押し開けた。
扉を開けた瞬間、狂風が彼女の整った顔に吹きつけた。目の前に現れたのは、すぐ眼前に迫る一発の火球だった。
激しい爆発が車両の前部を吹き飛ばした。その凄まじい衝撃に、十数メートル離れたウェルズまでもが左腕を上げて火光を遮る。
「無事か?」ウェルズがそう思った矢先、燃え盛る火光と烈火の中から、反撃の斬撃が空を裂いて飛び出した。狙うは前方の車両に立つ、邪眼をあしらった魔法の杖を手にした邪教徒の導師だ。
その疾い斬撃は、導師の前に立っていた邪教徒二人を胴から両断し、最後は透明な護りの覆いにぶつかって、勢いを失い消えた。続いて火光の中から姿を現したのは、突進を始めた戦袍の少女だった。
少女はすぐさま身を躍らせ、爆破された車両の隙間を飛び越えた。同時に奥の扉が押し開けられ、魔法を操る邪教徒が数人、加勢に現れる。
「増援?」三階の火球術を護盾で防いだことは、今のフリーデにとっても大きな消耗だった。魔力を供給する契約者がいない以上、魔力の支出は自分で賄うしかない。
「奴らを足止めしろ。お前たちの宿命を果たせ」加勢が駆けつけたのを見ると、邪眼の長杖を手にした導師は軽く杖を振り、さらに前方の車両へと去っていった。残されたのは、まだいくらか距離のある四人の邪教徒で、いずれも呪文を唱えている最中だった。
「逃がさない!」それを見たフリーデはすぐに追いかけようとした。この導師を遠くへ行かせれば、きっとろくなことにならない。直感がそう告げていた。
ところが白いブーツが一歩踏み出した途端、床から猩紅の枝が伸びてきて、たちまち両足に絡みついた。続けざまに呪法の呪詛を受けたフリーデは、体の動きが鈍り、関節が唐突に石と化していくのを感じた。
放たれた法術は迷酔藤召喚、緩慢術、石化術。そして最後の必殺の一手は、白熱した高エネルギーの雷霆光線だった。
これほど多様な負の効果を受け、フリーデはもはやまともに動けない。長剣を構え、攻撃による傷をできる限り抑えるしかなかった。
命中する寸前、灰色に翳った陰影の光の幕が忽然と現れ、雷霆を弾き散らした。獰猛にうねる雷霆は雷の蛇のようにもがいたが、一寸たりとも先へ進めず、幕の向こうのフリーデを傷つけることはできない。
フリーデが振り返ると、車両の間に立つウェルズが新たな呪文を詠唱し、彼女にかかった緩慢の魔法を解いていた。
「お前の使命は正義を行うことじゃなかったのか?何をぼさっとしてる?」
呼びかけを聞いたフリーデは、すぐさま後ろへ跳び退いた。かと思うと連結通路で跳び上がり、誰の目にも届かない車両の屋根へと上がっていった。
それを見た邪教徒たちは、すぐさま魔法でやみくもに屋根の上のフリーデを狙った。けれど車両の上を駆ける彼女は予知していたかのように、元素の光線を命中の直前でことごとくかわしていく。雹が降りしきるような足取りで、瞬く間に車両の最前部へ到達した。十数メートルの距離など、彼女にとっては目と鼻の先も同然だった。
純白のロングブーツが跳ね上がり、その姿は燕のように軽やかに宙を舞った。
星空が辺りを覆い、明るい月の光が人影ひとつない荒れた岩場を照らしている。冷ややかな表情を浮かべた彼女の美しい顔も、同じ光に照らされていた。次の瞬間、突き下ろした長剣が凄まじい力をまとい、屋根の下の邪教徒たちへ襲いかかる。
鋼鉄製の屋根が一瞬で砕け、ガラスのように破片となって飛び散った。深い藍色の星芒の剣風が破れ目から吹き抜け、その衝撃を受けた邪教徒たちはたちまち戦闘力を失う。彼らのただ中へ降り立ったフリーデは、最後に周囲を薙ぎ払う一太刀で締めくくった。
完璧な銀白の軌跡が走る。優雅で軽やかなその戦いを目にすれば、誰であれ、舞姫のような絶美に息を呑むことだろう。
「流星墜撃」――この剣技は、フリーデの手にかかればまるで芸術だった。
後方に取り残されたウェルズも、この時は魔法を放って邪教徒と渡り合っていた。フリーデが屋根を踏み砕き、天から降ってくるまでは。
「華麗な一撃だな。危うくお前に置いていかれるかと思ったぞ!……」
歩み寄ってきたウェルズは軽い口調でそう言ったが、フリーデには取り合う気など少しもなかった。前方の車両から、不吉な気配をかすかに感じ取っていたのだ。
有無を言わさず、彼女はすぐさま進み出て扉を押し開けようとした。だが濁った波動に指先を弾かれる。
「力場壁か……中はあまり穏やかじゃなさそうだな?」波動を目にしたウェルズはゆっくりと近づきながら、少し歩調を緩めた。彼もまた、その波動から異様な死の気配を感じ取っていた。張り巡らされたこの空間結界の内側には、明らかに何かが隠されている。
それでもフリーデは足を止めなかった。それどころか魔力を集め、車両全体を封じている防壁を打ち破ろうとする。開いた五指に力場を破る魔力術式を集めるその手際は、彼女の精妙な法術操作の腕前を示していた。
ドレスグローブをはめた細い五指が、ゆっくりと扉へ押し当てられていく。あと数センチというところで、薄暗い光の膜が忽然と現れ、酸に蝕まれるような音を立てた。
数秒がまたたく間に過ぎ、魔力は封じの呪文を突き破って、扉の向こうに隠されていたすべてを二人の眼前に晒した。
真っ先に押し寄せてきたのは、猩紅の禍々しい波動だった。身をもって受けて初めて、その深刻さが分かる。余波に触れただけで、ウェルズは眩暈が込み上げてくるのを感じた。
「これは……」ウェルズは低く呟き、額を押さえた。
目の前に広がっていたのは、見るに堪えない地獄の絵巻だった。数両分の乗客が供物とされ、その屍は冒瀆の法陣の真ん中に積まれている。六つの隅には黒衣の邪教徒が立ち、最後に、杖を持ったあの導師が、骸の上――法陣の中央に佇んでいた。
その光景に衝撃を受け、それ以上考えを巡らせる暇もないうちに、邪教徒たちの詠唱は早くも終わろうとしていた。
「真の神アレクセイよ、我らは命を捧げん!慈悲を賜り、約されし救いを降したまえ!」
前へ出て阻む暇はない。驚きながらも、フリーデはすぐさま手を翻して魔法陣を組み上げた。何と、あの冒瀆の法陣の力の一部を、ウェルズの足元へ導いたのだ。精妙な操作によって法陣はまたたく間に完成し、ウェルズをその内に閉じ込めた。ちょうど同じ時、邪教徒たちの詠唱も結びを迎えた。
声が途切れたその瞬間、隅に立つ邪教徒たちの血肉がことごとく一つの不吉な紅い炎へと凝り固まり、陣法の中心めがけて飛んでいった。次々と六つ、生命エネルギーの凝った紅い炎が流星のように邪教徒の導師の体内へ吸い込まれていく。その冒瀆の気配は常人を狂わせるに足り、たとえ幸運にも生き延びたとしても、この怪しいエネルギーに冒されて悪夢にうなされ続けることになる。
「来たれ……!我が主の……!」
導師の熱狂的な言葉が終わらぬうちに、法陣の下から巨大な嘴が唐突に開き、中央の導師をあらゆる屍とエネルギーもろとも一呑みにした。歯の根が凍るような咀嚼音が響く。続いて鋭い鉤爪が召喚法陣の縁に掛かり、凄まじい震動に列車が揺れた。しばしの後、全身紫がかった藍色の巨大な悪魔が、法陣から猛然と這い出してきた。
二本の脚で直立した奴は、両翼を広げた。この鳥の姿をした悪魔の巨体を収めきれず、車両はたちまち内側から裂けていく。紫藍の体躯は醜く獰猛で、その鋭い爪は瞬く間に銀髪の少女へと突き出された。想像を絶する速さだ。雷霆のごとき迅さの攻撃を、躱すことなどまず不可能だった。
「ガキン!」
受け止めようとしたフリーデの長剣は、一瞬で鉤爪に貫かれた。折れた刃は床に落ちるや崩れ去り、障害を突き破った鋭い爪は、そのまま彼女の腹へ突き刺さる。細くたおやかな腰が、刺し貫かれた。
「……!」
あまりに速く、あまりに急な出来事だった。ウェルズには反応する余裕など微塵もなく、ほんの一瞬気を取られた間に、悪魔の爪は目の前のフリーデを貫いていた。
「せめて私が……本来の力を取り戻していれば……」
貫かれたフリーデは、わずかに苦痛の色を浮かべた。腹の傷口からは淡い紫の魔力が幾筋も散り、その体には汚染の兆しが表れている。
「なんだ、魔導構体か。つまらん」
自ら貫いたフリーデが人間を模した魔導の産物にすぎないと見て取ると、悪魔は鋭い爪を引き抜いた。真っ赤な喉の奥から、紙やすりを擦り合わせるような耳障りな声が漏れる。腹を貫かれた彼女はすぐさま傷口を押さえ、数歩退いた。折れた刃はすでに解け、一筋の白い煙と化していた。
「差がありすぎる」
悪魔の気配から、ウェルズは手の施しようがないという無力感を味わっていた。
またしても終末の邪教の狂気を思い知らされた。歴とした三階の魔法使い――どこの国でも厚遇される存在が、今や躊躇なく自らを生贄に捧げ、当世の誰にも召喚できないと言っていいほどの恐るべき存在を呼び出したのだ。
少なくとも、五階以上の悪魔だ。
冷や汗がウェルズの頬を伝って落ちた。戦い慣れたフリーデでさえ、この悪魔の前ではもはや反撃の力がない。もし悪魔がこちらに手を出す気になれば、おそらく自分は十に十の死を免れないだろう。
皿ほどもある黄色く澄んだ縦長の瞳が、ウェルズの足元に新たに組まれた法陣をじろりと眺め回した。
「人間、貴様は賢いな。自分を法陣の召喚者の一人に書き換えるとは。惜しいかな、法陣をゆっくりすり減らしてから貴様を生きたまま食らう暇はない」
頭部の嘴から、耳をつんざく甲高い声が響いた。悪夢の中でしか聞けないような、荒唐無稽な笑い声だ。立ち上がった鳥の姿の悪魔は両翼を広げ、羽ばたきとともに大量の残骸を空へ巻き上げた。残骸はすぐに、疾走する列車の後方へ置き去りにされていく。宙へ舞い上がった悪魔は北へ向かい、その巨体は次第に星空へと溶け込んで、やがて見えなくなった。
なおも走り続ける列車の上には、惨憺たる有様のなかに立ち尽くすウェルズとフリーデだけが残された。
「大丈夫か?」
安全を確かめてから、ウェルズはフリーデが急ごしらえした法陣から歩み出た。足元に一瞥をくれて、ようやく先ほど彼女が魔法陣を書き換えた意図を悟る。
一般に、異界の生物を召喚する魔法陣には戒律による拘束が付け加えられている。召喚生物を命令に従わせると同時に、召喚者への反噬を防ぐためだ。フリーデは召喚法陣の主を、とっさにウェルズへ書き換えたのである。悪魔を彼の指示に従わせることこそできないが、数時間は悪魔が彼を攻撃できないようにするには十分だった。
「この程度、何でもない」冷たい表情を崩さぬまま、彼女は腹を押さえていた白い手を離した。拳がまるごと入るほどだった傷口は今では銅貨ほどの大きさにまで縮み、新たに注がれた魔力によってゆっくりと塞がりつつあった。
あの状況では、二人とも悪魔を止めることはできなかった。だが悪魔が自ら去ったことで、列車に残った人々の命も、ウェルズの命も救われたのだ。
「なぜ奴は残って、列車の残りの連中を皆殺しにしなかった?」
ウェルズは思いを巡らせた。悪魔という生き物は、性急であったり、怒りっぽかったり、狂っていたりと、それぞれ違いはある。それでも人間の惨状を眺めるのを好むという共通点だけは必ずある。人間を殺す愉しみを、悪魔がそう易々と見逃すはずがないのだ。
なのにこの悪魔は、すぐさま翼を広げてこの地を去った。
「考えられるのは一つだけ……きっと何か急用でもあったんだろう」
だからといって、事件が終わったわけではない。
思考を引き戻し、ウェルズは血痕だけが残った法陣を越えて、車両の前端へ向かった。扉を開けると、そこは血にまみれた運転室だった。灼けつくような黒煙が中から噴き出している。その燃え方の激しさは、この列車が全速力で疾走していることを物語っていた。ブレーキは、すでに壊されている。
「列車は乗っ取られて、進路を変えられている」一両目の車内で、ウェルズは外の景色に目をやった。車外には荒涼とした岩場が広がるばかりで、予定の路線とはまるで違う。
「今、列車は廃鉱山へ続く廃線を走っている。何事もなければ、この列車はまもなく崖に行き着いて、あそこの落ちた橋から崖下へ転落するはずだ」ウェルズはこの近辺の鉄道地図を思い返し、邪教徒の残した法陣と考え合わせて結論を出した。「どうやら奴らは元々、乗客ごと自分たちもまとめて生贄に捧げるつもりだったらしい。俺たちに計画を狂わされて、急遽悪魔の召喚に切り替えたんだろう」
「つまり、この列車はこのまま崖に突っ込むっていうの?」
「そうだ」
聞き終えたフリーデは押し黙った。列車に残った人々をどうすれば救えるか、計算しているらしい。だが明らかに、彼女の力では、飛び降りる際に一人か二人を抱えていくのが精一杯だった。
まさにその時、好機をつかんだウェルズが静かに口を開いた。その声は確信と揺るぎない信念に満ちていて、いつも彼の周りにまとわりついている謎めいた自信そのものだった。
「普通の人間が俺たちの立場にいたなら、打つ手なし、手の打ちようもないだろう。だが今は、お前と俺がここにいる。それだけで、すべてに転機が生まれる」
「何か手があるの?」自信たっぷりな彼の言葉に、フリーデの白く艶やかな顔には困惑と不信の色が浮かんだ。その万全の自信が何を拠り所にしているのか、見当もつかない。
「決まってるだろう。列車を予定の線路へ戻すのさ。魔法を使って、崖の断ち切れた先と、橋の出口の空間をつなげる」
「……!」その言葉を聞いた瞬間、フリーデはウェルズの言わんとすることを悟った。
彼はそのまま、一節の呪文を唱えた。三階の魔力では発動できない魔法だったが、その呪文は彼女の推測を裏付けた。夜明けの光が闇を切り開くように。
それはフリーデリカの過去の記憶を呼び覚ますに足る呪文だった。かつて伝説の魔法使いのそばで仕えていた日々が蘇る。わずか数年のうちに、彼らは山を越え川を渡り、人跡未踏の絶体絶命の地へ赴き、死地に秘められた奥秘を探し求めた……そして彼女は振り返ることなく、そのすべての危険に立ち向かった。世界を救う希望を手にするために。
「両面一点……」
金の瞳がわずかに細められた。驚きの極みに達したかのようだった。自分がこんな反応を見せることになろうとは、おそらく思ってもみなかったのだろう。
この魔法は、四階空間魔法の極致と称されている。両面一点は二つの空間節点を束の間一つの空間門の節点へと融合させ、物や人を二つの異なる位置の間で瞬時に行き来させられる。
彼女の主はかつて、この呪法の上位版を用いて、一つの都市を築くための物資を、一日のうちに数千キロ先の目的地へ送り届けたことがある。そしてまさにその呪文が、今、目の前のウェルズの口から再び紡がれたのだ。
「あなた……どうして……」彼女の低い呟きは、ウェルズの問いかけに先を越されて掻き消えた。
彼はのんびりと笑い、悠然と袖口を整えていた。
「どうする?わざとらしく意地を張って、列車ごと奈落の底へ落ちていくのを眺めて、乗客全員を道連れにするか。そうして奈落に落ちてしまえば、二度と真相を探し出すことはできない……」
言い終えると、ウェルズは彼女を見据え、不遜に両腕を広げた。
「それとも俺と契約を結んで、すべてを正しい道へ導き直すか」
その言葉に、フリーデの表情がわずかに固まった。やがて静かな双眸をそっと閉じ、何かを思案しているようだった。
答えは言うまでもない。当然、唯一の正しい選択だった。
こうして彼女は、体内に秘めた魔力を解き放った。湧き立つ星の光と突風に、銀髪とマントが揺れる。華奢な体に宿る魔力は華やかで贅沢な燦然たる金の魔法陣へと姿を変え、足元から広がっていった。背後へ、さらには壊れかけた列車の外にまで延び、目に映るすべてを覆い尽くさんばかりのそれは、さながら麗しく咲き誇る一輪の聖蓮だった。
絢爛たる光を浴びながら目を閉じ、細い十指を組み合わせる。優雅な声が、呪文を低く紡ぐ。
「万法の源たる原界の名において至高の規則に従い、契約儀式を開かん」
環を成して連なる魔法陣は、至高無上の魔法規則そのものを表している。それらはゆっくりと回転し、働きながら、この場全体を契約の儀式を執り行う場へと聖化していった。
「これは奥秘の門、知識の頂へ導くもの。これは呪法の鍵、世の律を書き換えるもの。これは書、『咫尺の書』」
空ろに澄んで遥かに響く彼女の声は、聖歌のように耳に心地よく、いつまでも余韻を残した。柔らかなその声は、白い手が人の心の弦を爪弾くかのように、期待を抱かせ、待ち焦がれさせる。その詠唱に合わせて、ウェルズの右手の甲に、魔力でできた金色の光の輪が浮かび上がった。
「この書を読み書きする資格を、汝に授けんと欲す。汝、この約を受け入れるか?」
「もちろんだ」自信に満ちた笑みを浮かべ、この時を長く待ちわびていたウェルズは、当たり前のようにそう答えた。
「我が心をもって契約を納め、我が魂をもって遵うことを誓い、我が六芒星の印をもって契約を具現せん」
ウェルズは右手を高く掲げた。手の甲の光の紋様がまばゆい金の輝きを放ち、次第に収束して形を成していく。
「至高の規則に従い、『咫尺の書』と契約を結び、万法の精髄を我が用に収めん!」
ウェルズの最後の言葉とともに、手の甲の光は、くっきりとした六芒星を形づくった。
契約が成立した瞬間、ウェルズは腰に提げた魔導書との間に、心念を繋ぐ橋が架かったのを感じた。思考を書へ、そして目の前のフリーデへと伝えられる。すぐさまその力を使うと、心念の命じるまま、魔導書がひとりでに腰から飛び出し、彼の手に収まった。
「さあ、俺たちでこのすべてを救ってやろうじゃないか……!」ウェルズは軽く跳び上がり、並外れた身体能力で車両の屋根へ上がった。
ここからは、蒸気の煙突から立ちのぼるもうもうとした煙の匂いが嗅ぎ取れる。そして、わずか数十秒のうちに突っ込むことになる崖の断崖が、はっきりと見えた。
まさにこの生死の境で、ウェルズは呪文を詠唱し、自らの魔力のすべてを魔導書へ注ぎ込んだ。
魔力と詠唱に応えて、フリーデの周りに小さな魔法陣がいくつも現れ、魔法の光の粒があふれ出した。小さな魔法陣から無数の鎖が密に伸び、彼女の前の巨大な魔法陣へと差し込まれていく。鎖はその中から巨大な錠を引きずり出し、宙に浮かべた。
「律令解放、具現せよ。これぞ咫尺の権能『空間畸変』」
急がず緩まず、白魚のような人差し指でそっと触れる。錠は一瞬で消え去り、解錠は成功した。
止まることのできない列車は、闘牛士に向かう雄牛のように一気呵成に崖へと突進した。終点に触れるまさにその瞬間、線路の果てに、円形の金色の輪が忽然と現れる。空間魔法による連結の転送門だ。
転送門へ飛び込んだ列車は、数百メートル先にある通常の線路へと完璧につながった。フリーデのもたらす精密な座標指定の力があればこそ、列車は門をくぐった後も通常の線路に乗り、脱線することなく走り続けられたのだ。
ウェルズが振り返って遠くを望むと、転送門の向こうには壮大な大橋が架かっていた。ただ、その橋の上を走る列車はない。代わりに、転送門から送り出される車両が一両、また一両と増えていく。最後には列車全体が廃線から通常の線路へと移り終え、星の彩りを放っていた転送門もまた消え去った。
車両の上で、狂風がフリーデの銀髪を一筋一筋くっきりと舞い上げ、ウェルズのコートを激しくはためかせている。
遠ざかっていく橋を眺めながら、彼は誕生日の贈り物をもらった子供さながらに、たがが外れたような高笑いを上げた。




