第十三章 拮抗
「まあいい。自分から残業を買って出る奴がいるとはな。なら行け」その言葉を聞いても、ウェルズは気に留めた様子もなく魔導書をめくり、彼に「増速致勝」を掛けた。
相手は神の名にかけて誓ったのだ。強化されたあとで手のひらを返し、ウェルズに襲いかかる心配もなかった。
「ずいぶん余裕がありそうですね?五階の、ほぼ全盛の悪魔だというのに」ウェルズの落ち着きぶりに気づき、ジョージは少し興味を引かれた。
「蛮力しか能のない奴など恐るるに足らん」彼はただ淡々と答えた。
ジョージはそれ以上口を開かなかった。増幅を受けた茶髪の少年は、祝福を施した長剣を提げて戦陣へ飛び込み、鷲魔への攻撃に加わる。
彼が切り込んだのは、ちょうど挟み撃ちにうってつけの位置だった。
「こっちですよ、悪魔!」
突きの一撃が悪魔の脚に傷を刻む。聖化された長剣は悪魔の自己治癒を鈍らせるのだ。攻撃を受けた奴は鋭い爪を振るい、身を翻して、新たに加わったジョージへ襲いかかった。
退くのは難しいと見て、彼は長剣を横に構えてその一撃を受け止めた。薙ぎ払われた鳥爪が長剣と激突し、荒々しい力が刃から腕を伝って少年の全身に響き渡る。
「わお、これは想像を絶する怪力ですね。これを何度も受け止めるなんて、君が本当に人間なのか疑いたくなりますよ」
ジョージも思わず何度か空咳をこぼした。受け止めた衝撃だけで臓腑が軋む。フリーデのような人ならざる者でもなければ、こんな攻撃を安定して受け止め続けることなどできはしない。
「四階の人間でも、これほど立て続けに攻撃を受ければ内臓を痛めるだけ。彼を援護しなければ」
戦闘に集中していたフリーデは、わずかに意識を割いて考えた。ジョージを援護すると決めるや、隙を突いて鷲魔の右腕に跳び乗る。絡みついて動きを封じつつ立て続けに斬りつけ、左爪の反撃が迫ったところで不意に後方へ宙返りして離脱し、空中で回転斬りを放った。地面に降り立ったその瞬間、宙に凝集していた三筋の星霞の剣風が締めの一撃となり、そろって左爪に命中した。
ウェルズは傍らで補助魔法を繰り出していた。狂った鷲魔がフリーデへ滅茶苦茶に攻撃を浴びせ続けると、すかさず蔓が悪魔の両脚を絡め取り、そこへジョージが的確に攻撃を叩き込む。
だが狂暴化した鷲魔は、なおも強烈な復讐心に燃えていた。フリーデに幾度も傷を負わされた末、ついに耐えきれず狂乱し、標的をフリーデへと移す。ジョージがいくら妨害しようと、もはや見向きもしない。巨大な悪魔は力を溜めて跳躍すると、猛然と彼女へ襲いかかった。
敵が急速に迫るのを見るや、フリーデはただちに後退し、お手本のような走り方で距離を取ろうとした。だが鷲魔のほうがわずかに速い。すぐ後ろに迫る悪魔が爪牙を振るうたび、彼女の背後に深い穴が穿たれ、轟音が響く。そしてついに彼女に追いついた奴は、狂ったように両爪を高く掲げ、同時に振り下ろした。その落下点の中心にいるのは、フリーデだった。
「おいおいおい!男の子ってのはそんなにモテないものなんですか?」ジョージの姿が一閃し、その勢いのまま鷲魔の最後の翼を斬り落とす。だがその激痛すら、鷲魔の動きを微塵も止めはしなかった。
フリーデは瞬時に身を翻して防御の構えを取った。両爪が彼女の頭上へ叩きつけられ、横に構えた長剣と双爪がぶつかった場所から轟音と烈風が広がる。その重い勢いに足元の地面はたちまち陥没してひび割れ、土煙が舞い上がった。数トンの鋼鉄すら砕きかねない全力の一撃が、彼女の身に落ちたのだ。
舞い上がった土煙が彼女の清楚な顔をわずかに汚したが、表情は相変わらず平然としている。頭にあるのは、魔力で身体の損傷を一つ残らず修復すること、ただそれだけだった。
ウェルズもまた、頭を殴りつけられたような衝撃に襲われた。一気に膨大な魔力を吸い上げられ、眩暈が幾重にも押し寄せてくる。
「出てこい、アレクサンドラ!」
眩暈に襲われながら、ウェルズは天に向かって声を張り上げた。その声がまるで号砲のように、変化の引き金となった。
その声と同時に、大広間の天井が突如崩れ落ちた。降り注ぐ瓦礫の行く先は、全力の攻撃の最中で避ける暇もない悪魔だった。
「万物はおのおのその位に在り、万事はおのおのその律に循う。これ、越ゆべからざる真理なり!」
瓦礫は重力に乗って鷲魔の頭を直撃し、少なからぬ傷を与えた。だが真に致命的だったのは、その石塊の上に立つ桃色の髪の少女だ。彼女は高らかに呪文を唱え、あの猛々しい長刀に魔力を注ぎ込む。明るく瞬く淡い青の光が、辺りを包み込んだ。
「これ背律の制裁なり。この界にあらざる生物に降れ!」
煉獄騎士の核心たる能力は秩序の掌握だ。彼らは己を厳しく律して秩序を守り、秩序に背く者を滅ぼす。煉獄から次元界を越えてこの地に現れた悪魔は、当然ながら秩序に反している。ゆえに彼女が発動した能力である秩序の光は大きく強化され、手にした象徴がその効果をさらに一段引き上げていた。
淡い青の光が場全体を覆う。この光に照らされると、秩序に背く生物は呪詛によって身体能力を削がれ、異界由来のあらゆる能力が大幅に弱体化する。その矢面に真っ先に立たされたのが狂化だった。一瞬にして、悪魔は無尽蔵に思えた己の力が衰え始めるのを感じた。
光が降り注いだのち、落石の上から放たれた彼女の優雅な跳躍斬りは、見事に長い一筋の痕を刻んだ。その鋭い刃は、なんと鷲魔の左腕をそのまま斬り落としたのである。
鷲魔は悲鳴を上げ、大量の青い血が大地を汚す。その強靭な生命力は弱体化してなお恐るべきもので、切り口からはいくつもの肉芽が盛り上がっていた。今ここで断たれた腕を繋げられれば、ものの数分で元通りになってしまうだろう。
「今のうちにこいつを仕留めろ……!唯一の機会だ!」
ウェルズは迷わず右手を高く掲げて叫んだ。手の甲で六芒星の紋様が煌々と輝く。彼はあらゆる抵抗を解き、魂に宿るすべての魔力をフリーデへと開け放った。
それを見たジョージは、今こそ決着の時だと悟った。惜しげもなく逆手で剣先をつまみ、祝福を施した長刃を投げ放つ。狙う先はフリーデだ。
「それを使ってください!四階神術『聖戦の刃』を掛けた武器です!」
手を伸ばして飛んできた長剣をつかむと、フリーデの手の中で魔力が旋風となって渦巻いた。ほんの一瞬で、会心深残、破甲鋭化、破敵、呪詛といった魔法が長剣に付与される。
続けてフリーデは大きく踏み込んで跳び、猛然と突きを放った。その身は飛矢のごとく一閃し、苦痛に歪んで傾いた悪魔の脚を踏み台にして、鋭い長剣を胸の真ん中へ突き立てる。強烈な衝撃に、淡い青の血が悪魔の背中から弾け飛んだ。恐怖に染まった悪魔の双眸と、彼女の冷ややかで混じりけのない金の瞳が交わる。
だが、これで終わりではない。次の瞬間、彼女は跳躍して身を翻し、刃を引き抜くと同時に体操選手さながら悪魔の身体を跳び越えた。宙返りの最中にも優美な身のこなしで続けざまに剣を振るい、幾筋もの燦然たる光影が幻のように瞬いては消える。そして着地と同時に銀白の外套が高く翻り、輝くようなその姿が、鷲魔の最後の心臓へ一突きを送り込んだ。
連続の斬撃と二度の刺突は、一瞬で鷲魔の硬い皮の下にあるものすべてを挽き肉に変えた。とりわけ四つの心臓は念入りに狙われ、ひとつ残らず切り刻まれていた。
「ぐ……ああああ!!」生命力が失われたことで狂化が解け、悪魔は嘶くような叫びを半ばまで上げるのがやっとで、ゆっくりと崩れ落ちて息絶えた。片腕を失った重い巨体が力なく倒れ込む。だが優雅に身を引いたフリーデリカを押し潰せるはずもなく、地面の割れた敷石を粉々にしただけで、灰塵が一気に舞い上がった。
それを見たウェルズは小さく息をつき、戦いが終わったことを悟った。ジョージも手を叩いて称えている。
「わお!!今の技、めちゃくちゃ格好いいですね。私にも教えてくださいよ」
大型の獲物を狩るための剣術技能で、その名を「タイタン狩り」という。
鷲魔が倒れた今、大広間にはもはや彼らと一合でも打ち合える敵はいない。四階の陰影騎士は生き残っていた邪教徒をこの場で一人残らず斬り伏せ、残る陰影生物と悪魔も、たやすく片付く相手に過ぎなかった。
フリーデは鷲魔の死体に目をやった。魔法を幾重にも帯びていたあの長剣は、悪魔の血に侵され、もはや力の欠片も残っていなかった。




