第八章 雷霆の怒りを訪ねて
空気にはブルディア紅茶の芳醇な香りと、焼き上がったばかりのクレームブリュレの甘い匂いが漂っていた。内装に凝った現代風のこのカフェでは、本来の優雅な雰囲気など、とうに熱狂の声に根こそぎ吹き飛ばされていた。
アントンはビロードのクッションを張った精緻な椅子に片足を乱暴に載せ、金縁のボーンチャイナのティーカップを高々と掲げていた。興奮のあまり、琥珀色の茶が大理石のテーブルにこぼれ落ちる。嗄れながらも昂った声を張り上げ、彼は吼えた。
「我々が勝利した暁には、貴族も皇帝の身内も一人残らず引っ立てて、並べて撃ち殺してやる!これほど長く我々を虐げてきた報いだ!!」
「帝国の人々よ、立ち上がれ!もう二度と貴族に頭を下げるな!」
「立ち上がれ!共和万歳!平等万歳!アントン大統領万歳!」
「この急進主義者どもは、まったくこういう台詞が好きだな」人混みに紛れたウェルズは小さく笑った。
明るく意匠を凝らした照明が、興奮で紅潮したアントンの顔を照らしている。周囲の熱狂的な支持者たちは両腕を突き上げ、その声は津波のように耳をつんざいた。アントンの勢力が野放図に膨れ上がるにつれ、高級茶葉とフランス風の菓子を売りにするこの広いカフェも、今では素性もまちまちな人々で埋め尽くされている。彼らの醸す空気は、明るい大理石やローズゴールドの装飾、精巧な菓子のショーケースと、強烈なコントラストをなしていた。
そもそもこのカフェの立地そのものが、一つの宣言だった。巨大なガラスの掃き出し窓の外、通りを一本隔てて、赤煉瓦の工場が轟々と稼働している——アントン名義の紡績工場だ。高くそびえる煙突が灰白の蒸気を吐き、ちょうど交代の時刻とあって、工員たちが群れをなして鉄の門から溢れ出してくる。粗布の服に綿くずをまとった彼らと、窓の内側の鍍金のシャンデリアとを隔てるのは、ガラス一枚きりだった。
アントンはここで演説するのを好んだ。本人いわく、こうだ。「あのお偉方に見せてやれ。共和国は空論ではない——窓の外で煙を上げているのだ」
勢いは日増しに強まって帝都の外にまで及び、各地に燎原の火のごとく共和派の支部が次々と生まれ、連邦と密かに通じていた。
アントンの鼻の下の小さな口髭が、得意げに跳ね上がる。彼は顔を仰向けて最上級の紅茶を一息にあおると、大股で人混みとデザートワゴンの間を縫って歩き、戦友たちの肩を力強く叩いては、一人ひとりに礼を述べていった。
「アントンさん、海軍では多くの者があなたの考えに賛同しています。海兵隊も、海外から密かに運び込んだ武器と物資を備蓄しています」一人の将校が声を低めて報告した。
「ご苦労でした!私が保証しましょう。たとえ戦いになろうとも、我々には勝算がある!」アントンが大見得を切ると、一同の士気は大いに上がった。
もう一人の大男が前へ割り込んできた。「アントンさん、我々は冒険者を募って私設の傭兵会社を幾つも立ち上げました。区域の治安維持を名目に、市街の地下武装もすでに実質的に掌握しています。応策局と武装警察部の間抜けどもが何度も掃討に来ましたが、結局どいつもすごすごと引き下がりましたよ!」
「見事だ!応策局と帝国警察が無能だからこそ、犯罪がはびこるのです。今この都市の秩序を作り直しているのは、我々なのだ!」
「……」
アントンは挨拶を交わしながら歩み、やがてウェルズの前までやって来た。ウェルズが心得たようにティーカップを掲げると、カップが触れ合って澄んだ音を立てた。
「ウェルズさん、あなたにもお礼を言わねばなりません」アントンは燃えるような目で彼を見据えた。「あなたが手を貸してくださったおかげで、我々の勢力の資源統合が早まりました。あなたのご尽力で、帝国は万人の平等へまた一歩近づいたのです!」
「当然のことをしたまでです」ウェルズは軽く身をかがめると、すぐに目を伏せ、瞳の奥の鋭い光を寸分も漏らさず押し隠した。そして頃合いを見計らい、少し困惑した表情を作ってみせる。「実は……アントンさん、最近、貴族たちの理屈をいくつか耳にして、ひどく戸惑っているのです。連邦の哲学者は『私有財産は神聖にして侵すべからず』と言いました。ならば、彼らが金を出して買った土地が、なぜ神聖にして侵すべからざるものではないのですか?」
アントンの両目に、火のついた火薬樽さながらの狂熱の光が噴き出した。彼はウェルズの肩をぐいと抱き寄せ、大股で掃き出し窓の前まで引っ張っていくと、窓の外で轟音を上げる赤煉瓦の工場を力いっぱい指さした。
「あの工場が見えますか?あれは私のものだ!」
交代の工員たちが鉄の門から次々に出てくる。アントンの指は煙突を、工場の建屋を、蒸気の配管に覆われた煉瓦の壁をなぞっていった。
「あそこの煉瓦は一つ残らず、私が稼いだ金で一つずつ積み上げたものだ。あの織機は、全財産を賭けて連邦から運ばせたものだ。私の労働は、あの工場の隅々にまで混ざり込んでいる!これこそが『私有財産は神聖にして侵すべからず』の真の意味だ——あの哲学者の言う神聖にして侵すべからずとは、実は労働混合論に基づいているのです!あなたの政治哲学は誤りが深すぎる!」
彼の指がぱっと向きを変え、郊外に霞む田畑の輪郭を指した。口調ががらりと侮蔑に変わる。
「では土地はどうか?土地から上がる収益が投じた労働を上回るなら、それは形を変えて他人の労働の成果を奪っていることになる!地代は悪だ!誰も彼もが土地を買って寝そべったまま地代を取るようになったら、誰が新しい技術に投資する?誰があの工場を建てる?」
「それだけではない!」アントンは一段と声を張り上げ、唾を飛ばした。「差額地代がすでに証明している。地代と労働の努力とは、まるで関係がないのだ!肥えた畑は痩せた畑の三倍の収穫を生み得るし、地代の実入りも三倍になる。この三倍の差は運にすぎない、たまたま違う土地が違う人の手に渡っただけだ、と言う者もいるだろう。だが、百の畑を持つ貴族がこの差を勘定したら、その略奪の量は想像を絶するものになるのです!」
ウェルズは考え込むふりをして、さらに餌を撒いた。「ですが、蓮華という女性の話も耳にしました。土地の私有化そのものが歴史的な略奪の結果だと考えているばかりか、会社を興すことさえ全人民の所有であるべきだと言っているそうです」
アントンは髭を逆立て目を剥き、テーブルを力いっぱい叩いた。「あの女は馬鹿だ!投資にも商売にもリスクがあることを、まるで分かっていない!」
彼は不意に上着の内ポケットに手を突っ込み、角がすり減って光る黒革の帳簿を取り出すと、大理石のテーブルに「ぱん」と叩きつけた。ボーンチャイナのティーカップがかちゃかちゃと鳴る。演説の最中でさえ帳簿を肌身離さないのは、商人の本能というものだった。
「あの女の口先だけの言葉など聞いてはいけません。さあ、数字を見てください!」
彼は乱暴に帳簿を開いた。インクと赤ペンの文字がびっしりと並んでいる。指がその一頁を強く突いた——頁を埋め尽くす数字は、どれも目に痛いほどの真っ赤だった。
「一昨年の冬!南の港が凍りついて、商路が丸三か月途絶えた。布二万匹が売れずに全部こちらで抱え込み、倉庫で黴びていった!」彼の指が赤い文字をなぞって下りていく。「これが倉庫代、これが利息、これが欠損——そしてこの欄が、賃金だ。よく見てください、ウェルズさん。あの三か月、私の工員たちは銅貨一枚だって取りはぐれていない!品物を抱え込んだのは誰だ?私だ!欠損を背負うのは誰だ?私だ!蓮華が私の代わりに、銅貨一枚でも背負ってくれたことがあるか?」
彼は荒く息をつくと、帳簿をくるりと半回転させてウェルズの前へ押しやった。まるで法廷に証拠品を差し出すように。
「彼女自身の言葉を借りれば、商品には『命がけの飛躍』が必要だ——品物が倉庫から市場へ飛び移るたびに、それは賭けになる。飛び越えれば利潤、飛び越えられなければこの頁の赤字だ!ならば報酬とは、賭けに勝ったことへの報酬だ!どこに責められる謂れがある?それに、会社を経営するには人脈も技術も手腕も要る。彼女が考えているほど簡単なものではない!全人民所有制は効率の低下を招くだけで、最後には破滅を呼ぶのです!」
言い終えると、彼は「ぱん」と帳簿を閉じた。まるで決着のついた事件の調書を閉じるかのように。
ウェルズははたと腑に落ちたふりをして頷き、黒革の帳簿に一瞬だけ目を留めた。胸の内に、かすかな興趣が湧く——実に面白い。蓮華は帳簿で搾取を告発し、アントンは帳簿でリスクを弁明する。同じ道具なのに、開いてみれば、まるで正反対の二つの歴史が現れるのだ。
彼はこの話を、そっくりそのままフリーデに伝えてやることにした。
雑談が一段落すると、アントンは懐から、金縁に精緻なワインレッドの封蝋が施された手紙を恭しく取り出し、差し出した。
「もう一つ、あなたにお願いしたいことがあるのです、ウェルズさん」
「これは?」
「連邦の歴史学者からの紹介状です。私の代わりに、王立魔法使い学院の学院長と会っていただきたい。同じ魔法使い同士、きっと話も合うことでしょう」
封蝋を一目見て、ウェルズはアントンの目論見を即座に悟った——この男は自分を名代に立てて、聖階の強者を一人抱き込もうとしているのだ。
これほどの最上級の資源への足がかりをただで手にできるとあって、ウェルズは内心とうに小躍りしていたが、表向きはあくまで恭しく応じた。「承知しました。あなたに代わって、彼と会ってまいりましょう」
そして胸の内で、ひそかに付け加える。「会ったあとに何を話すかは、また別の話だがな」
喧騒のカフェを後にし、街の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、今日は実に気分のいい日だとウェルズは思った。
翠緑の宿の重い木の扉を押し開けると、フリーデとシャーロットはもう広間の椅子に腰かけ、長いこと待っていた。
フリーデの三日月のような美しい眉は憂いにきつく寄せられ、傾国の美貌には晴れようのない哀しみが影を落としていた。広間にいた泊まり客たちはしきりに振り返り、酒杯を持ち上げたまま固まっている者さえいる——そのいかにも可憐な姿は、誰が見ても、憂いを晴らしてやりたいという衝動に駆られるものだった。
そんな中、彼女の傍らへ歩み寄ったウェルズだけは、眉一つ動かさなかった。
「どうした?何か気がかりでもあるのか?」腰を下ろしながら、彼は平然と言った。
「今日、変な人に会ったの……」彼女は潤んだ瞳を上げ、今日見たことを一つ残らず話し始めた。
ウェルズは黙って聞き終えると、口の端に皮肉な冷笑を浮かべた。「どぶに隠れていた二匹の臭い鼠が、ようやく姿を現したか」
だが、その目の奥には険しい色が浮かんでいた。よく分かっているのだ。アントンにせよ蓮華にせよ、帝都で風雲を巻き起こそうとする指し手たちの背後には、必ず聖階の魔法使いが控えている。うかつに暗殺に動けば、自ら死にに行くようなものだ。
それで思い出したのが、鼠トロールという怪物だった——何百何千もの普通の鼠を一か所に閉じ込め、蠱毒のように共食いさせて、ようやく生まれるのがあの三階の凶獣だ。強い予感があった。アントンと蓮華、二人のうち最後まで生き残ったほうが、必ずや将来の大きな禍根になる。
「それで、彼女が何を言ってたのか、早く説明してよ!」フリーデがやや焦れったそうにせっついて、彼の思考を遮った。
ウェルズがアントンの言い分をおざなりにかいつまんで聞かせると、案の定、彼女はちんぷんかんぷんという顔をした。
「万一お前に理解されたら、それこそ厄介だ」彼は胸の内で冷ややかに付け足した。
フリーデのぽかんとした眼差しを無視して、ウェルズは立ち上がった。帝都の勢力図はもう大方固まった。残るのは取るに足らない雑魚ばかりだ。
「指し手はもう全員登場した。さて見せてもらおう。最後に笑うのは、いったい誰か」
彼は衣の裾を整えた。「これから高貴なお方に会いに行く。お前たちを連れてはいけない。ここで待っていろ」
扉の閉まる澄んだ音を残して、ウェルズは悠然と出ていった。
広間には、顔を見合わせるシャーロットとフリーデだけが残された。
「あなた、蓮華の言ってたこと、分かった?」フリーデは思わず尋ねた。
「分からない」シャーロットは表情一つ変えず、即答した。
「じゃあ、あなたの考える正義って何?」
「燭聖の言葉が正義」
人形のように整った、感情の欠けたシャーロットの顔を見ていると、フリーデには彼女がただ何も考えずに盲従しているだけに思えて、つい諭さずにはいられなかった。「本当の正義が何なのか、自分の頭で考えるべきよ」
だがシャーロットはゆっくりと振り向き、臆面もなく彼女をまっすぐ見返した。「私は燭聖を信じている。彼女の正義を信じている。もし彼女の行いが罪だとしても、その罪はもっと先の正義のためだと信じる。たとえあなたに疑われても、私は自分が正しいと信じ続ける」
——こうも臆面がないのは、単に白竜の脳みそが足りないだけなんじゃないの?フリーデは胸の内で毒づいた。
ところが、続くシャーロットの言葉は刃のように鋭かった。「むしろあなたこそ、よく考えたほうがいい。自分が正義だと思っているの?誰かに疑われたことはないの?疑われた時、省みたりしないの?」
フリーデはたちまち言葉に詰まった。
口を開いても、声は少しも出てこない。「本当の正義」がどんな姿をしているのか、思い描けなかった。かつて自分に反対した人々の顔が、勝手に脳裏に浮かんでくる——ウェルズ、レシナ、シルヴィ……今になっても、自分の行いがすべての人を満足させられるのかどうか、言い切れない。こんな自分に、本当にまだ正義の使者を名乗る資格があるのだろうか?
苦悩の淵に沈む彼女とは対照的に、シャーロットはなおも淡々として、揺るぎなかった。
その姿を見ているうちに、フリーデはふと香草のことを思い出した。香草にとって、正義とは純粋な信仰だった。シャーロットも同じだ。蓮華も、アントンも、ホッブズも、みな同じ種類の人間なのだ——想像の中にしかない未来の天国を、自らの手でこの世に呼び寄せられると、狂おしいほどに信じている。
「信じる……ひたすら信じる、考えなくていい信仰……?」フリーデは茫然とした目で、低く呟いた。
「私はむしろ、あなたはどうして正義を追い求めなきゃいけないのか、それを考えるべきだと思う」シャーロットは目を半ば細めた。目の前の仲間の不器用さがおかしくてたまらないとでも言いたげだ。「世の中には追い求める価値のあるものがこんなにある。お金、権力、快楽、力、性……どれも雲を掴むような正義より、ずっと現実的。どうして正義じゃなきゃだめなの?」
「それが私の使命だから。私の主の命令だから」フリーデは反射的に答えた。
「だったら、その使命を誰に与えられたのか、本人に直接訊けばいいじゃない」
シャーロットの何気ない一言は、しかし鋭い針のように、フリーデが胸の奥で一度も触れられずにいたかさぶたを、正確に引き剥がした。
彼女の瞳が、たちまち潤んで霞んだ。
正義を捨てれば、この身にまとわりつく罪悪感を下ろして、何ものにも縛られない自由な身になれるのだろうか?
「そうね……」かすかにため息をつき、青ざめた頬で彼女は呟いた。「私の主はもういない……なら、私が正義を追い続けるのは……いったい何のため?」
彼女はしばし朦朧とし、意識は荒涼として死に絶えた暗い深き淵へ墜ちていくようだった。
その時、ひと筋の温かな光が、その静寂を切り裂いた。
苦しい記憶ばかりではない。誰もが彼女に反対しているわけでもない。ヴァージニア、ダリラ、香草……心から感謝してくれた人々の笑顔が、闇の中に瞬く星となった。感謝を受け取ったあの瞬間、魂が震えるほどの喜びを、彼女は確かに感じていた。あのぬくもりは、ただ「命令に従う」だけで得られるものでは決してない。
主を失った今、本当にすべてを投げ捨てて自由に生きることもできるのかもしれない。けれど、心の奥で叫ぶ声がある——そんなのは嫌だ、と。
金色の瞳に、再び毅然とした光が宿った。小さな拳をぎゅっと握りしめると、爪がかすかに掌に食い込んだ。
「私の主の命令だからってだけじゃない。正義はそれ自体が美徳で、生涯をかけて追い求める価値があるものよ」
たとえ行く手が見えなくても、まだ定義できなくても、あの正義の光を追い続けたい。ほんのわずかでも近づけるのなら、それでいい。
その頃、ウェルズはすでに王立魔法使い学院の正門の前に来ていた。
雲を衝く白亜の高楼が剣のように林立し、分厚い防魔煉瓦の壁がこの巨大な学府をがっちりと囲っている。鋳鉄の透かし彫りの門越しに、教学区、試合区、生活区がはっきりと区分けされているのがうっすらと見えた。門の警備に当たっているのは顔を強張らせた若い学生たちで、ほとんどが一、二階の魔法使いにすぎない。
「学院の卒業の条件は何だったか?たしか、一階魔法を五つ放てれば卒業できたはずだが?」
揃いの制服を着込み、せいぜい力場飛弾を捏ねるくらいしか能がなさそうな「お子様たち」を眺めて、ウェルズは思わず面白がるような笑みを浮かべた。もっとも、よくよく数えれば、その大半は彼と大して年が変わらないのだが。
「止まれ!何者だ?」先頭の少年魔法使いが杖を掲げ、厳しい声で問い詰めた。
「お前たちの学院長に会いに来た。これが紹介状だ」
ウェルズは足も止めず、指先を軽くひねった。眩い暗金の光がふっと現れ、掌ほどの小さな次元門となって、手紙を少年の鼻先へぴたりと差し出した。
その眩い金の光に、門番の学生たちは揃って目を見開いた。高階の教師でさえ容易には扱えない空間魔法が、自分たちと変わらない年頃の青年の手から繰り出されたのだ。その光景はあまりに衝撃的だった。
恐る恐る封蝋を確かめると、学生たちは慌てて仕掛けを動かした。重い鉄の門が耳障りな軋みを上げ、ゆっくりと開いていく。
「ありがとう」
ウェルズは礼儀正しく頷き、悠然と校内へ踏み入った。
革靴で石畳を踏んだ途端、地中を流れる魔力回路が感じ取れた——校内全体の地下に恒定防魔土壌が敷かれ、虚体や霊体が地下から潜り込む余地を一切断っている。宙にはかすかに魔力の波紋がちらついていた。恒定不可視探知の魔像が巡回しているのだ。あちこちの死角には、緊急力場発生器まで据え付けられている。
「さすがは世界最高峰の魔法学院、かつて幾人もの聖階を育てた学府だ」ウェルズはひそかに感嘆した。
だが、その厳重な守りとは裏腹に、校内は混乱としか言いようのない有様だった。
行き交う制服姿の学生や召使いばかりではない。本来は広々としていた芝生の運動場が、今は色とりどりのテントでぎっしりと埋め尽くされている。行き場を失った学生の親族たちだ。テント区画の周囲には巨大な石の魔像が鉄塔のように威容を誇ってそびえ、無言で睨みを利かせていた。
「学生の皆さん、みだりに学校から離れないでください!校外での生命の安全は保証できません!どうしても離れる場合は、必ず準備を整え、連れ立って行動してください……」拡音魔法による放送が、校内の空に響き渡っている。
掲示板の前には人だかりができ、切羽詰まった懸賞の張り紙が隙間なく貼られていた——教授や学生たちが傭兵を募り、市中に取り残された学友や家族を救い出そうとしているのだ。苦肉の策として、この守りの堅い学院は、帝都における学生専用の避難所になっていた。学院は地下鉄道まで徴用し、外から密かに物資を運び込んで、この巨大な難民キャンプを支えている。
「帝都の無政府状態のせいで、ずいぶん多くの人間が割を食っているな……」
ウェルズはため息をつき、まっすぐ事務区画へ向かった。
建物の下で、足早に通りかかった三階の魔法教授を呼び止め、ウェルズは手紙を見せた。「学院長にお目にかかりたいのです。ご安心ください、紹介状がありますし、悪意はありません」
「学院長ならこの建物の五階だ。そのまま上がっていきたまえ」教授はうんざりした様子で上を指した。
場所は分かったものの、ウェルズは階段を上る気にもならなかった。五階の学院長室のあたりに目星をつけると、その身の傍らに再び暗金色の空間の漣が広がった。
案の定、漣は形を成した途端、目に見えない障壁に激しく弾き返された——事務棟全体が空間錨定結界に覆われていて、並の転移魔法では門ひとつ開けないのだ。
「見事な仕掛けだ。だが惜しいな、俺は止められない」
ウェルズの指先がかすかに動き、『咫尺の書』(しせきのしょ)の力が音もなく流れた。彼の視界の中で、堅固な錨定結界は一瞬にして幾千本もの空間座標の糸へと解きほぐされる——そのうちの一筋をそっと払いのけるだけで、人一人がやっと通れる隙間がこじ開けられた。その隙間に暗金色の門扉が再び開き、ウェルズは次元門へ一歩踏み込むと、そのまま学院長室へ押し入った。
空間が切り替わった次の瞬間には、もう広く明るい執務室の中にいた。挽きたての上等なコーヒーの濃い香りが鼻をくすぐる。ローズウッドの机に精緻な茶卓、革張りのソファと、調度は一通り揃っていた。
「おや?誰かね?近頃の若者は本当に礼儀を知らないな。ノックすらしないとは」
執務机の向こうでは、深紫の魔法のローブをまとった青年が椅子の背にもたれていた。端正な顔立ちの彼は、穏やかな、どこか好奇心さえ覗く笑みを浮かべて、忽然と現れたウェルズを眺めている。
「一介の訪問者に過ぎません。ウェルズと申します」ウェルズは軽く身をかがめたが、その目は憚ることなく相手を眺め回していた。「尊き『雷霆の怒り』、想像していたお姿とはずいぶん違いますね。雷電を操る聖階といえば、憤怒の形相をした白髭の老人だろうと思っていましたが、まさか物腰の柔らかな紳士だったとは」
「はは」青年の学院長は爽やかに笑った。「四階魔法の『三相』ひとつで片付く些事さ。お望みなら、いつでも君の思い描くような爺さんの姿になってみせるよ」
その魔法のことはウェルズも聞き知っていた。肉体を少年、青年、老年のあいだで自在に切り替えられるという。活力に満ち、病に苦しむこともない若い体を、望まない者がこの世にいるだろうか?この聖階もむろん例外ではないのだ。
ウェルズはそれ以上無駄口を叩かず、わずかに目を動かした。純粋な魔力が凝ってできた、湛藍の光を放つ魔法使いの手が忽然と浮かび上がる。瞬時に発動したその戯法で紹介状をそっとつまみ上げ、学院長の机にぴたりと置いた。
「ふむ……連邦の歴史学者の紹介状か」青年の学院長は封蝋を軽く撫で、目に興味の色を浮かべた。「こういうものには目がなくてね。覆い隠された秘史を集めるのは、私の数少ない楽しみの一つなんだ」
顔を上げた彼の目が、かすかに光った。「だが、ここは話をするのに向いた場所ではない。壁に耳ありというやつだ。私の半次元界に客として来てみないかね?」
それは探りであると同時に、極めて危険な誘いでもあった。
半次元界が聖階の魔法使いにとって何を意味するか、ウェルズはよく知っていた。時代遅れで攻め落とされやすい実体の魔法使いの塔と違い、半次元界は主物質界に依拠して存在する独立した空間だ。幾重にも空間的な暗号化が施されているため、アレクシオスのような伝説の怪物であっても、他の聖階の半次元界の座標を突き止めることはできない。そこは彼らの絶対の領域だ——工房であり、図書館であり、宝物庫であり、そして最も致命的な殺戮の場でもある。
ひとたび足を踏み入れれば、たとえ同格の聖階であろうと、己の生殺与奪をその天地の主に委ねるも同然だった。
「もちろん、喜んで」ウェルズは臆する色もなく微笑んだ。
自分は聖階ですらない。それはウェルズ自身がよく分かっていた。相手が本気で殺す気なら、わざわざ魔力を費やして半次元界を開くまでもない。この執務室で極大化電撃束を一発叩き込めば、灰すら残らないのだ。
青年の学院長は満足げに頷き、立ち上がった。低く晦渋な詠唱に合わせて、どこからか雷鳴の轟きがかすかに響いてくる。古風な雷紋を刻んだ眩い門扉が、執務室の中央にゆっくりと開いた。
六階魔法、異界転送。
彼は優雅に「どうぞ」の仕草をし、先に立って光の中へ足を踏み入れた。ウェルズもすぐ後に続く。
門扉をくぐった瞬間、源のない光が滝のように降り注ぎ、ウェルズは眩しさにわずかに目を細めた。
目の前に広がっていたのは、地上の楽園と見紛うばかりの私有の荘園だった。正面には精緻で華麗な豪邸が建ち、右手には底まで透き通った小さな湖が配されている。湖畔には湛藍の微光を放つ奇妙な植物が植えられ、清々しい草木の香りが濃く満ちていた。
次元晶壁は巨大なサファイアさながらに淡くきらめき、その境界には藍色の樹々が数多く生えている。
吸能樹だ、とウェルズは聞いたことがあった。ガジュマルのように無数の細長い気根を垂らし、虚空からエネルギーを汲み上げて半次元界へ還元するのだという。
ここに太陽はなく、柔らかな天光が穹窿からどこからともなく降り注いでいる。ウェルズがひそかに窺秘の眼を開くと、視線は表層を突き抜けた——豪邸の中には恐ろしい波動を放つ魔法の道具が山と積まれ、半透明の幻影の召使いが幽霊のようにその間を行き交い、音もなく雑事を片付けている。
この空間の基底構造を、彼はたちどころに解析してのけた。
「あなたの半次元界は実に精妙な構造ですね」ウェルズは心から感嘆した。「豊穣、白昼、永遠の春、そして秩序の、四重の付与結界を同時に施しているとは」
雷霆の聖階はわずかに口を開いて驚いたような顔をしたが、それはすぐに感心した笑みへと変わった。「君は実に見る目のある若者だな」
しばしウェルズを眺めていた彼は、不意に興が乗ったらしく、手を上げて豪邸のほうを示した。
「目利きの客が来るのは珍しい。本題に入る前に、まずは主人らしくもてなさせてもらおうか——私の収蔵室を見ていくというのはどうかね?凡庸な客には、こんな待遇はしないよ」
ウェルズは快く応じた。むろん承知の上だ。これは自慢であると同時に、もう一重の探りでもある——獲物に狩人の爪と牙をじかに見せつけるのだ。
二人は肩を並べて豪邸に踏み入った。天井の高い玄関ホールを抜けると、長い廊下が目の前に延びていた。両側には防護の符文を嵌め込んだ水晶の陳列ケースがずらりと並び、ケースの中に灯る温かな光が、どんな魔法使いでも正気を失いかねない秘宝の数々を一つ一つ照らし出していた。
一見質素な革の背負い袋が展示台の上に浮かんでいる。わずかに開いた口の奥は、底の見えない仄暗い灰色の虚空だった——外見をはるかに超える容量を持つ次元袋だ。傍らのビロードの盆の上では、暗紅の宝珠を連ねたネックレスが静かにとぐろを巻いている。宝珠の一つ一つに、放たれる時を待つ火球が封じられており、引きちぎって投げれば、たちまち爆炎が上がる。その先には、掌ほどの象牙の小像が一列に並んでいた——グリフォン、巨象、猛獅子——合言葉ひとつで、血肉を備えた真の姿の神獣となって従い、主のために敵陣へ切り込むのだ。
見て回るうちに、ウェルズは目移りするばかりだった。ずらりと並んだ力場の腕輪、暗矢を自動で受け流す防護の指輪、正体不明の存在を封じた黒鉄の瓶……ここにある品のどれか一つでも外へ流れれば、それだけで外の世界に血の雨が降るだろう。
聖階の魔法使いとはいったい何なのか?この廊下を歩けば、答えは自ずと知れる——彼らは資源を呑み込む底なしの穴であり、そしてここは、その巨大な口の胃袋なのだ。
廊下の中ほどで足を止めた学院長の口ぶりには、隠しきれない得意の色が滲んでいた。「だが、これらはどれもありふれた玩具に過ぎない。本当の至宝は、奥にある」
廊下の突き当たりは、円形の密室だった。
密室の中央、黒曜石の台座の上に、人の頭ほどもある水晶球が静かに浮かんでいた。内部では霧が渦を巻いてたゆたい、まるで小さな世界をまるごと封じ込めたかのようだ。
「留影水晶だ」学院長は手を上げて球体を軽く撫でた。その目には収集家特有の優しさが滲んでいた。「歴代の皇室史官の家宝で、帝国数百年の最も重要な留影の記録が封じられている。鉱脈三つと引き換えに、落ちぶれた史官一族の末裔からようやく譲り受けたものだ」
彼は指を軽く弾いた。
「ぶうん——」
水晶球の中の霧が、ぱっと晴れた。密室の中央に立体の幻影がゆっくりと広がっていく。豪華絢爛な大殿の上、建国の皇帝が巨獣タラスクの屍の上に立ち、大司教の手から帝冠を受け取ろうとしていた。文武百官がひれ伏して拝礼し、万歳三唱の声が数百年の時を貫いて、密室の中にかすかに響き渡るようだった。
「建国の大典の留影だ」学院長の声には一抹の誇らしさが透けていた。「ウェルズ君、見たまえ——これが歴史だ。数百年前のあの一日が、そっくりそのままここに封じられている」
彼はこちらを振り向き、興味深げに問いを投げた。「歴史学者の紹介状なのだから、それについて語り合おうじゃないか。ウェルズ君、歴史とは何かね?」
ウェルズは幻影の中でゆっくりと降りていく帝冠を見つめ、少しも迷わずに口を開いた。
「真に客観的で独立した歴史は、存在しません」
「ほう?」学院長は眉を上げ、目の前の生きているかのような幻影を指した。「現にこうして君の目の前にあるじゃないか」
「私に見えているのは、光と影だけです」ウェルズは首を振った。「では伺いますが、あの光景の中でひれ伏している老臣は、心から服しているのでしょうか、それとも怒りを呑み込んでいるのでしょうか?大司教が帝冠を被せたあの瞬間、彼は神の代理人を祝福していたのでしょうか、それとも刀剣に頭を垂れていたのでしょうか?この水晶は光の一筋一筋まで忠実に記録していますが、人の心は一筋たりとも記録していません」
「我々が世界を知るには、まず言語という媒介を経なければなりません。そして歴史学者が出来事を文字に書き記す時、出来事は彼らの言語によって再び媒介される。この二重の翻訳を経れば、いわゆる真実性などとうに跡形もありません。最終的に我々が目にできるのは、歴史学者自身の立場だけなのです」
「言語の媒介とは?」
「最も簡単な例を挙げましょう。歴史学者が、皇帝は竜の玉座に座っていた、と書く。心霊の領域に通じた聖階の強者がその場に居合わせて全員の思考を同期させでもしない限り、今この瞬間あなたと私が思い浮かべている竜の玉座は、決して同じ形ではありません」
学院長はしばし考え込み、水晶球にそっと手を置いた。幻影の霧が散り、帝冠も大殿も数百年前の万歳の声も、ことごとく水晶球の中へと吸い込まれていった。
「君の言いたいことは分かった」彼は水晶球の滑らかな表面を撫でながら、思案げに言った。「伝説魔法であっても、かつての世界を完璧に再現することはできない。文字は想像の引き金に過ぎず、頭の中の加工場は人それぞれ違う。留影魔法は断片を記録できても、壮大な歴史を解き明かすには粗すぎる……君は本当に、この世に客観的な歴史が存在するとは信じないのかね?」
「『客観』などというものは、初めから存在しません。あるのは、我々の脳が思い描いた客観だけです」ウェルズは淡々と応じた。
「では、苦心して歴史を解釈したところで、何の役に立つのかね?」学院長はわずかに身をよじり、少し残念そうな顔をした——鉱脈三つで買い取ったのは、どうやら高価な光と影の玉一つに過ぎなかったらしい。
「もちろん、政治体制の動員のためです。それこそが今日の話の核心でもあります」ウェルズは口の端に危険な弧を描き、くつくつと低く笑った。「帝都にいらっしゃるのですから、多少はお耳に入っているでしょう。今、外では多くの人間が、それぞれ違うやり方で歴史を解釈しようとしています。アントンの『進歩史観』、親王の『英雄史観』、蓮華の『唯物史観』、教会の『団結史観』、そして立憲派の『唯心史観』」
「多少は耳にしたが、深くは通じていない。で、ウェルズ君。君自身はどれが一番気に入っているのかね?」
「当然、唯物史観です」
「なぜかね?聞くところでは、あれは小娘のわけの分からない戯言に過ぎないというが」
「気に入っている理由は、もちろん、あれが復讐を奨励する史観で、私自身の歩む道と図らずも一致するからです。ですがそれ以上に重要なのは、彼女の提示した核心概念——『歴史とは一つの処境である』。私はこの思想に深く魅了されているのです」
「詳しくお聞かせ願いたい」
ウェルズはすぐには答えなかった。その視線は学院長の肩越しに、密室の奥にぽつんと据えられたもう一つの展示台へと注がれていた。
その展示台は実に七重の力場結界に包まれ、符文が幾重にも重なり、警戒の厳重さはここのどの収蔵品をもはるかに上回っていた。だが結界の中心に祀られているのは、掌ほどの黒檀の箱に過ぎない——蓋は開けられ、中には一見平凡なカードの束が横たわっている。カードの裏には漆黒の星空が描かれている。ただ静かにそこにあるだけなのに、ウェルズの窺秘の眼には針で刺すような警告が走った。
「あんなものまで収蔵しておられるのですか?」ウェルズは顎でしゃくってみせた。「『残局牌』」
「ほう?あれを知っているのか」学院長の目に感心の色がよぎったが、それはすぐに、怖気の抜けきらない苦笑へと変わった。「言い伝えにある、次元界の旅人が遺した造物だ。どの牌面にも、指しかけの棋局が描かれている——それらの棋局を誰が指したのか、なぜ中断したのか、誰も知らない。牌の束から一枚引けば、その残局は引いた者の運命を借りてその場で決着する。勝てば、宝物庫か、一つの願いかもしれない。負ければ、魂を異界に囚われるか、親友が敵に回るか、死ぬまで悪運に取り憑かれるかもしれない。勝敗はすべてあの凝固した残局が決める。抗うことも、免れることもできない」
「引いたことはおありですか?」
「冗談じゃない」学院長はきっぱりと首を振った。口調は珍しく真剣だった。「五階の同僚が一枚引くのを見たことがある。牌面の棋局は彼の勝ちだった——一夜にして、荘園が爵位の証書ごと、降って湧いたように彼の名義になった。狂喜した彼は、この牌は天が授けた階段だと会う人ごとに吹聴した。我々は皆、もうやめておけと止めたよ。口では分かったと言っていたが、三日後にはやはり二枚目を引いた——そして、その魂は二度と戻ってこなかった」
「危険だと分かっていながら?」
「分かっていた」学院長は漆黒のカードの束を見つめ、声を落とした。「ウェルズ君、隠さず話そう。あれを密室へ運び込んだ日、私は木箱ごと抱えて歩いた。ほんの短い道のりのあいだに、同じ考えが三度も頭をよぎったのだ。たかが牌一枚、私の力なら、悪運を引いたところで耐えきれないこともあるまい、とね」
彼は自嘲気味に笑い、幾重にも重なる符文を指さした。
「私でさえこの有様だ。まして他人は言うまでもない。だから七重の結界に閉じ込めた——盗人除けというより、あらゆる者の手を遠ざけるためだ。私自身の手も含めてな。この牌をここに封じたのは、あれに触れる愚か者が金輪際現れないようにするためなのだよ」
「なら、あれこそ最良の教材です」ウェルズはゆっくりと七重の結界に歩み寄り、力場越しに漆黒のカードの束を見つめた。「蓮華の言う『歴史とは一つの処境である』が指しているのは、まさにこれです。牌面に出る禍福ではなく、この牌そのものが」
「どういうことかね?」
「まず一つお尋ねします。七重の結界に閉じ込めるにあたって、いっそ壊してしまおうとはお考えにならなかったのですか?」
「壊せないのだ」学院長は首を振った。その声にはわずかな無念さが滲んでいた。「次元界の本源の造物だ。解析も焼却も試したし、力場道系の解離光線でさえ、まったく歯が立たなかった。あれはただ『在る』のだ——だから閉じ込めるしかなかった」
「それです」ウェルズが指先で力場結界を軽く叩くと、漣が輪になって広がった。「壊せないものは、封印するしかない。そしてこの牌がこの世にある限り、引きたがる者は永遠に現れ続ける。追い詰められた乞食、一発逆転を夢見る博徒、自惚れた天才。何も持たない者にとっては、たとえ十枚のうち九枚が奈落で、残りの一枚だけが宝物庫だとしても、この一引きは命を賭ける価値がある。牌は引く者が誰かなど気にしないし、引く者も自分の手を止められない。あなたにできるのは、誰の手も届かないよう、結界を厚く重ねることだけです」
振り返った彼の眼差しは、刃のように鋭かった。
「そして歴史とは、テーブルの上に広げられたまま、誰にも封印されていない牌なのです。蓮華の言いたいのは、世界は絶えず牌を配り続ける機械のようなものだということです——それは人々を、それぞれ固定された処境へと放り込む。そして処境そのものが、その人々の前に置かれた牌の山であって、昼夜を問わず彼らに『一か八か、このテーブルをひっくり返せ』という誘惑を差し出し続けている。処境が消えない限り、あの『反抗』という名の牌に手を伸ばす者は、一日たりとも絶えない。聖階であれ乞食であれ、賢者であれ愚者であれ、この誘惑は分け隔てなく降りかかります」
「いささか抽象的に聞こえるが、具体的な例を挙げてもらえるかね?」
「たとえば、農民はなぜ貴族の地代の取り立てに反抗するのか?『土地貴族』という処境そのものが、千万の農民の前に広げられた一組の牌だからです。連邦はどうしたか?彼らは封印しなかった——貴族を残らず断頭台へ送り、テーブルそのものを取り払ってしまった。テーブルも牌もなくなれば、当然、もう誰も手を伸ばしはしない。この問いに、連邦は答え終えたのです」
「では帝国は?日増しに膨れ上がる財閥と、限界まで賃金を押し下げられた労働者——この牌は結界一つ張られることなく、堂々とテーブルに広げられている。毎日のように、追い詰められた誰かがそれに手を伸ばす。だから帝国というこの機械は、この問いの苦しみに繰り返し耐えねばならない。真の解法が現れるまで、帝国に平和は訪れません」
政治においては、これを否定性の解消と呼ぶ——この言葉をウェルズは口にしなかった。相手に与えるにはまだ早い概念というものがある。
学院長はわずかに眉を寄せ、木箱を覆う力場の外側を指先で軽く叩いた。「だが、上古の時代には奇異で強大な種族が数多くいて、帝国と対立したものの、最後には皆滅ぼされたはずだ。彼らにとっては、この問いは完全に消えたことにならないかね?」
ウェルズは軽く笑い、目を鋭くした。「あなたは牌を引く者と牌の山を混同しておられます。上古の種族は、手を伸ばして牌を引く博徒に過ぎません——博徒を一人焼き殺したところで、牌の山はテーブルの上に何事もなく広げられたまま。次に通りかかった者が、また手を伸ばすだけです。処境と結びついているのは『制度』であって、何か特定の血脈ではありません。帝国のテーブルにこの牌が置かれている限り、高貴で強大なあなたに踏みつけられる者が必ずいて、テーブルをひっくり返したがる者も必ずいるのです」
「面白い」学院長は漆黒のカードの束を見つめてしばらく黙り込み、不意に朗らかに笑った。「すっかり立ち話が長くなってしまったな、失礼した。行こう、ウェルズ君。湖のほとりで茶でも飲もう」
二人は豪邸を出て、湖畔に戻った。学院長が無造作に手を振る。魔力が巡り、下位造物術が発動した。淡く木の香る背もたれの高い椅子が二脚と丸テーブルが一つ、草地の上に忽然と召喚される。
ウェルズは椅子を引いて悠然と腰を下ろした。傍らの幻影の召使いがすぐに漂い寄り、忽然と現れたポットを持ち上げて茶を注ぐ。湯気とともに、最上級の紅茶の芳醇な香りがふわりと広がった。
「君の言うとおりなら」学院長は精緻な磁器のカップを持ち上げ、先ほどの話題を継いだ。「我々のような既得権益者は、必ず負けるということにならないかね?蓮華の理論は、とかく途方もなく長い時間の尺度を持ち出すのが好きだろう?千万億兆年と絶えず続く問いの前では、底辺の人間が試みる回数さえ十分に多ければ、いつかは盤面ごとひっくり返される」
そこで彼は話の向きを変え、わずかに身を乗り出して、ウェルズをまっすぐに見据えた。「ならば、どうすればこの歴史の否定性を、一挙に、そして永久に消し去れるのかね?」
「処境を改善することです」ウェルズは少しも迷わず答えた。「すべての人が腹いっぱい食べられるようにし、最も基本的な生理的欲求を満たす。そうすれば、彼女が凝集できる大衆の力を大幅に削げます。生きるか死ぬかの足掻きから抜け出せば、人は近視眼的になる。生活の中で遭遇する大きな危機も、どこか取るに足らない別のところから来ているのだと思い込むようになるのです」
「一理あるな」学院長は椅子の背にもたれた。「では、君の言うように蓮華が理論上必勝なら、私が今すぐ蓮華の側につかない理由があるかね?」
ウェルズはすべてを見透かしたように、口の端の笑みをさらに深めた。「それがあなたにとって、あまりに不利だからです。あなたはピラミッドの頂点に立ち、帝国というこの巨大な機械から膨大な物資を汲み上げる側の人間だ。蓮華の思い描く世界で、彼女があなたにこの巨大な不公平を独占させ続けると思いますか?」
彼は手を上げ、背後の豪邸をゆっくりと指した——次元袋や火球のネックレスや不動の杖が山と積まれた、あの廊下を。
「先ほどの廊下に並んでいた品々の一つ一つ——巻物を書く純血竜の皮、天角獣の一角、叙事詩級の装備を打つ稀有な鉱脈、さらにはこの半次元界を築くのに要した膨大な魔力晶石——お忘れなく、彼女の麾下の黒軍が叫んでいるのは『すべてを均分せよ』なのですよ」
学院長は沈黙した。ウェルズは彼の急所を突いたのだ。
空気がにわかに粘り気を帯びた。ウェルズは鋭敏に察した。身の回りの静電気が音もなく高まっている——袖口の起毛が一本一本逆立ち、湖面には小さな電光の花が幾つも忽然と弾けた。この雷霆の聖階は指一本動かしていない。ただ心の揺らぎだけで、半次元界全体の大気を震怒させたのだ。
ウェルズはティーカップを持ち上げ、涼しい顔で一口すすった。
数呼吸ののち、静電気はゆっくりと引いていき、湖面にも静けさが戻った。
「だが、たとえ私が彼女を支持しなくても」学院長の声は穏やかさを取り戻していた。先ほどの取り乱しなど、まるでなかったかのように。「彼女を信じる者は、やはり雑草のように絶えず反抗するだろう。それはどうしたものかね?」
「損得を天秤にかけるしかありません」ウェルズはティーカップを置き、不意に話を変えた。「そういえば、先ほどあなたの廊下で、不動の杖を一本見かけたようですが?お借りしてもよろしいですか?」
学院長は怪訝に思いながらも、手を上げて招き寄せた。暗い色の鉄の杖が空を裂いて飛んできて、ウェルズの掌にぴたりと収まる。何の変哲もない短い鉄の棒で、目につくのは端についた小さな押しボタンくらいのものだった。
ウェルズは立ち上がり、鉄の杖を宙に横に掲げ、親指でボタンを押して、手を離した——
鉄の杖は空中に静止し、微動だにしなかった。まるで世界そのものに釘で打ち付けられたかのように。
「押してみてください。もちろん、全力を出す必要はありません」
学院長は思わず笑って指を一本伸ばし、杖を軽く押した。巍然として動かない。少し力を込めても、杖は磐石のごとく揺るがなかった。掌にかすかな雷光が透けたところで、ようやく鉄の杖は「かちっ」と音を立てて元の位置から外れ、草地に落ちた。
「これが答えです」ウェルズは身をかがめて鉄の杖を拾い上げた。その口調は冷ややかで、まるで精密な計算機のようだった。「不動の杖は本当に揺るがせないわけではありません——閾値を超える力を加えれば、外れる。ですが、この世の圧倒的多数の人間の力が永遠にその閾値に届かない限り、彼らにとって、それは永遠に不動に等しい」
「秩序も同じです。あなたがあの牌を閉じ込めた七重の結界こそ、帝国が今やっていることです。わずかな利益を投げ与えて彼らの内部の団結を崩し、同時に絶対の武力で弾圧する。秩序維持による収益が鎮圧の支出を上回っている限り、あなたの支配は永遠に続けられます。もちろん、この試しの遊戯に終わりはありません——理論上は、彼女はたしかに必勝です。いつの日か、閾値を越える一押しが現れる。ですが、彼女が勝利するその日を、我々は無期限に遅らせることができる……世界の終末が訪れる日まで」
束の間、沈黙が落ちた。
ウェルズは急かさず、ただ静かに茶をすすっていた。学院長の指先がカップの縁を二度軽く撫で、それから止まるのが見えた——先ほどまで雷光を帯びていたあの目が、再び止水のように静まっていく。
相手が口を開く必要はなかった。想像の中にしか存在せず、本当により良いのかも分からない未来のために、手の中にある現実の権柄と資源を差し出すのか?既得権益者がこの算術にどんな答えを出すか、ウェルズは知り尽くしていた。何しろ旧来の制度のほうが、彼により多くを与え、より高い場所に立たせているのだから。
「なるほど……」青年の学院長ははたと悟ったように息を吐き、不動の杖を受け取って掌で重さを量った。その視線は密室のほうへ向けられている。「私があの牌を閉じ込めたのと同じことか……壊せないものは、封じ込めて、誰の手も届かなくする。真の公平や平等など、そもそも実現する必要はない。現状を支持する力が、反対する力を永遠に押さえつけていれば、それで足りる」
ウェルズは笑った。さすがは聡明な聖階の強者、一を言えばすぐに通じる。
だが学院長は、すぐにまた疑問を投げかけてきた。「ならば、アントンの連邦派を支持するという選択はなぜ駄目なのかね?大統領を直接選挙で選ぶ連邦でも、重大事となれば、結局は我々のような人間に頭を下げるしかないだろう?」
「共和制度に比べれば、帝国のこの体制の中に留まったほうが、あなたの得られる権力はずっと大きいからです」ウェルズは人心を惑わす悪魔のように、言葉巧みに誘いかけた。「何をためらうことがありましょう?あなたが帝国で享受している地位、無上の栄誉、そして合法的に支配できる資源の比率は、連邦には永遠に与えられないものです。連邦であなたが子孫に伝えられるのは、銅臭のする『金』だけだ。ですが帝国では、あなたは尊き階級と地位を永遠に伝えていくことができる」
話はそこまでにとどめた。自分の任務はもう果たした——ウェルズにはそれが分かっていた。
彼の目算では、知識の伝授を生業とするこの学院長が、思想を封じ込める専制的な皇室擁護派に肩入れすることは断じてあり得ないし、思考を拒むほど狂信的な教会と手を組むことなどなおさらない——この二つの選択肢は、ウェルズが訪ねてくる前から自動的に消えていた。そして今日のこの席の語らいが、さらにアントンの連邦派と蓮華の革命派をも消し去ってくれた。
五つの選択肢のうち、四つが消された。この雷霆の聖階に歩める道は、最後の一本だけ——立憲派だ。
「哲学の造詣では、私は君にはるかに及ばないようだな」学院長は心から納得した様子でティーカップを掲げ、一息に飲み干した。
その後もしばらく楽しく語らううちに、場の空気はすっかり和んだ。学院長はまだ話し足りない様子で、また一つ深遠な問いを持ち出した。
「哲学者たちは歴史性と時間性について、極めて独特な見解を持っていると聞いたことがある。ウェルズ君、少し解説してもらえるかね?」
「ええ。実はこれは、ある究極の哲学的問いに関わっています——なぜ存在があって、無ではないのか?」
「どういうことかね?」
「簡単に言えば、なぜ私という個体がなければならないのか?なぜ私はこの世界の運行を感知できるのか?そして世界を感知するには、時間の流れの感知が欠かせません。では、我々が世界を感知する時間は、いったいどのように働いているのか?」
学院長はしばし思案し、思わずといった様子で答えた。「過去はもう取り返せず、我々は今を生き、未来はまだ来ていない?」
「違います」ウェルズは指を振った。「人はまず目標を持ち、そこで初めて行動を起こす。先ほどのあなたもそうです。まず頭の中に『茶が飲みたい』という未来の目標が生まれたからこそ、手がティーカップに伸びた。だから、『未来』が『現在』に先立つのです。また、先ほど論証したとおり、真実で客観的な歴史は存在しない。過去の歴史をどう語るかは、すべて我々の現在の政治的な必要次第です。だから、『現在』が『過去』を決めるのです」
「面白い!実に面白い!」学院長はしきりに頷き、その目に知的な輝きを宿した。そして勢いよく手を上げ、ウェルズの両目をまっすぐに指さした。「では、最初のあの究極の問いの答えは、いったい何なのかね?なぜ存在があって、無ではないのか?」
ウェルズは聖階の強者の視線を受け止め、一語ずつ区切るように、この上なく冷酷な答えを告げた。
「世界にはもともと意味などありません。あらゆる意味は、人が生まれ落ちることで、初めて人によって与えられるのです」
茶の香りも薄れたころ、二人はさらに二言三言、雑談を交わした。そろそろ頃合いだ、とウェルズは見て取った。
「そろそろ、お暇しなければならないようです」ウェルズは優雅に立ち上がり、ほど近い異界転送の門へ視線を投げた。「ただ、帰る前に一つ私的なお願いがあるのですが、叶えていただけるでしょうか?」
「ほう?遠慮なく言いたまえ。今日の君には大いに教えられた」
「天宮にはお入りになれますか?」ウェルズの言う天宮とは、帝都の上空に浮かぶ、最も守りの厳重な皇室の浮遊城のことだった。
「理由さえ見つければ、もちろん入れるさ」学院長は傲然と笑った。何しろ聖階である。この天下に彼を阻める場所など、指折り数えるほどしかない。
「では、私に代わって、この手紙を質麗皇女にお渡しいただきたいのです」
内心では狂喜がこみ上げていたが、ウェルズはおくびにも出さず、懐から密書を一通取り出して、木のテーブルにそっと滑らせた。
青年の学院長は手紙にちらりと目を落とし、ウェルズを意味ありげに見つめてから、それを袖の中に収めた。
「いいだろう。天宮は今、幾重にも封鎖されているが、機会を見つけて陛下に謁見しよう。その折に、この手紙は私から彼女に渡しておく。ただ……」
学院長は言葉を切り、雷光のような眼差しでウェルズの偽装を貫こうとした。「どうにも気になってね。君のような一介の若者が、どうやって質麗皇女と繋ぎを取ったのかね?そもそも、彼女が今、天宮に軟禁されていることを、なぜ知っている?」
「それは秘密です」ウェルズはかすかに微笑んだ。むろん本当の理由は、皇女に残した「陰影標記」がいまだに解除されていないからだ。
「どうやら、聖階の魔法使いにも解けない謎になりそうだな」学院長は気を悪くするでもなく、さして気にも留めずに掌を上げた。雷光が一閃し、異界転送の門が再び開く。
ウェルズは身を翻し、片足を空間の門扉の外へ踏み出しかけた。その時、背後の穏やかだった声が不意に沈み、雷霆のような殺伐とした響きをわずかに帯びた。
「つい今しがた、運命が私にある予感をもたらした。折命密使と窃星者……彼らはもう帝都に到着している。十分に備えておくことだ、『咫尺の書』の主よ」
ウェルズの足が一瞬止まった。だが振り返ることなく、そのまま門扉をくぐり抜けた。
降り立ったとき、目に映ったのはあのコーヒーの香りの漂う執務室ではなく、事務棟の五階の、がらんとした廊下だった。
ウェルズが振り返ると、背後の雷紋の門扉がゆっくりと閉じていき、固く閉ざされた学院長室の扉とともに、二つの世界を音もなく隔てた。
彼は思わず笑って首を振った。この聖階は転送門の出口を扉の外に定めたのだ——来るときに扉を叩かなかったのだから、帰りに私の扉をくぐる必要もあるまい、というわけだ。礼を尽くしつつ、棘は真綿に包んでおく。これこそ聖階流のもてなしというものだ。
がらんとした廊下に立ったまま、彼はほどなく笑みを消した。学院長が最後に残した言葉の意味が、はっきりと分かったからだ。
あの二匹の恐ろしい怪物が暗がりに潜み、そこへ連邦の最上級の間諜まで加わっている今、帝国の聖階たちが大手を振って姿を現すことは決してない。うっかり三対一で囲まれでもすれば、聖階とて墜ちることになるのだ。
つまり、帝国の根幹を揺るがす災厄でも起きない限り、高みにいる聖階たちが、帝都で今まさに起きている殺戮や動乱に軽々しく介入することは決してない。
秩序の維持者を失った帝都は、この先、より徹底した、より血腥い無秩序へと滑り落ちていく。




