第四章 香草
帝都の通りは騒がしく、人であふれていた。フリーデは一人、石畳を歩いていく。足取りこそ落ち着いているが、頭の中では思考が巡り続けていた。今もなお、人を助ける方法を探しているのだ。
とある街角で硬貨を数枚渡し、煤で顔を真っ黒にした新聞売りの少年から、安インクの匂いがする新聞を受け取る。紙面にさっと目を走らせ、やがて隅の目立たない小さな囲みで視線を止めた。「教会にてミサを執り行います。信徒の皆様のご来場を歓迎いたします。ミサの後には無料でパンを配ります」
「教会か」ざらついた紙面を指先でなぞりながら、彼女は考え込むように呟いた。「どこの土地でも、教会は庶民が支え合う要になっているらしい……前のように闇雲に動いて騙されるくらいなら、資金は専門の組織に託したほうが確実かもしれない」
心を決めて通りを進むと、ほどなく水の流れる鈍い音が聞こえてきた。
ニーナ川だ。帝都が昼夜を問わず垂れ流す工業廃水を抱えたこの大河は、まるで灰色の泥が流れているかのようで、水面には濁った油膜が浮いている。本来の澄んだ姿を束の間取り戻すのは、環境保護局の魔法技師が浄化機械を起動させる時だけだ。フリーデは堤防の縁に立ち、水面にかろうじて映るぼやけた自分の姿を見下ろしてから、川辺に建つ壮麗な建物へと目を移した。
純白の大理石で築かれた教会だった。重厚な木の扉は半ば開かれ、風に揺れる真鍮の鐘が、澄みきった荘重な音色をいつまでも響かせている。厳かで気品がありながら、華美に走ることのない佇まいだ。質素な黒と白の修道服をまとった修道士や修道女が数人、扉の外で震える人々を穏やかに中へ招き入れていた。
フリーデも人の流れに紛れて中へ入った。足を踏み入れた途端、外の喧騒が厚い石壁に断ち切られたかのように遠のく。
シャンデリアには無数の蝋燭が温かな黄色の火を灯し、揺らめく炎が広い身廊を明るく照らし出している。
百人近くが入れる身廊では、樫の長椅子がずらりと並んで人で埋まり、安煙草と汗、それにかすかな薫香の匂いが漂っていた。座っているのは大半がぼろをまとった下層の平民で、身なりの整った中産階級の姿もちらほら混じっている。華やかな装いの貴族たちには、言うまでもなく皇室専用の大聖堂があり、こんな場所に足を運ぶことはない。
フリーデは後ろの列の隅に腰を下ろした。やがて、二階の法衣をまとった司祭が彫刻の施された演壇に上がり、蝋燭の光がその穏やかな顔を照らし出した。
儀式が始まった。少女は背筋を伸ばして静かに座り、精密な記録装置さながらに耳を傾ける。司祭はまず両腕を広げて人々に健康と平安の祝福を授け、続いて朗々とした声で経典の名句を読み上げ、善をなし他者に尽くすよう説いた。声を張り上げて世の貪欲と罪悪を糾弾したかと思えば、声を落として、迷える者は告解室で罪を洗い清めよと諭す。たとえ重罪を犯した者でも、心から悔い改めれば、神はすべての罪を赦してくださるのだと。
「説いているのはどれも助け合いの教えか。なかなかいい」フリーデは内心でそう評した。「告解室での告白は、検察官が手に入れて口頭証拠として提出しても、帝国の法廷では証拠能力を持たないと聞く。なかなか人間味のある法律だ」
ミサの締めくくりに、司祭は沈痛な面持ちで近ごろの帝都の治安の乱れに触れ、信徒たちに警戒を怠らないよう呼びかけた。そして、教会の扉は困っている者のためにいつでも開かれていると告げた。
続いて、援助を願い出る時間になった。
両手がたこだらけの工員が立ち上がり、擦り切れたハンチング帽を取ると、工場主にわざと賃金を払ってもらえないのだと涙ながらに訴えた。司祭は壇上から貪欲な資本家を厳しく非難し、教会が交渉に乗り出すと約束した。次に、右足にギプスをはめ、木の松葉杖をついた工員が足を引きずりながら進み出ると、司祭はやはり医療費の援助を請け合った。最後は、おどおどと目を泳がせる、字の読めない婦人だった。教会の誰かに、息子への手紙を代筆してほしいという。
すると、法律を学んでいるという若い信徒が自ら長椅子から立ち上がり、彼女をそっと支えて、書斎まで付き添うと申し出た。
フリーデはその一部始終を黙って見届けた。蝋燭の光に照らされたこの教会は、冷酷な帝都でただ一つ温もりを放つ避難所のように見える。これなら教会は、こうした問題に真剣に取り組むだろう——彼女はそう推し量った。
「弱者を進んで庇護し、人々をまとめ上げる……帝国の教会は、確かに善良な組織だ」
儀式の最後に全員が起立し、荘厳な聖歌が穹窿の下に響き渡った。歌声がやむと、人々は三々五々帰り始めたが、フリーデは席を立たなかった。寄付をするつもりだったのだ。
動こうとしたその時、隣の席の人影が目に留まった。
少女だった。胸の前で両手を組み、目を閉じたまま聖歌の余韻に浸っている。目尻には透き通った涙が一粒光っていた。何より目を引くのは、頭の上でかすかに震える狐の耳と、スカートの裾の後ろから覗く、ふさふさとした三本の赤い狐の尻尾だった。
フリーデの視線に気づいたのか、狐耳の少女は目を開けると、ひょいと長椅子から飛び降りた。怒るどころか、ぱっと明るい笑顔になって、大きく手を振る。「変だと思いました?帝都の人って、私たちみたいな辺境に住む少数民族を見たことがない人が多いですもんね!」
彼女は屈託なく名乗った。「私、香草っていいます。ブルディア人で、幻術が得意な三階の魔法使いなんですよ」
「ブルディア人も……帝国と同じ信仰を持っているのですか?」フリーデは記憶をたどった。たしか、帝国と連邦の境界付近に暮らす少数民族だったはずだ。
「女神ミトラを信じていることが、私たちと帝国の人たちのいちばんの共通点なんです!」香草の三本の尻尾が楽しげに揺れた。「同族の多くは、休みの日にここへお祈りを聞きに来るんですよ。そうだ、何か悩み事がありそうですね?何かお手伝いしましょうか、きれいなお嬢さん?」
「教会に寄付をしたいのです」フリーデは静かに答えた。
「それは素敵です!」香草の狐の耳が、驚きと喜びでぴんと立った。「最近は助けが必要な人が多すぎて!司祭様も助祭の方々も目が回るほど忙しいんです。揉め事の仲裁に、浮浪者のお世話、治安の維持まで手伝わなきゃいけなくて……警察署なんて事件が多すぎて、とても手が回らないんですから!」
そう言うなり、彼女は風のように駆け出し、壇を降りかけていた若い司祭に向かって元気よく手を振った。「司祭様!こちらに寄付をなさりたい方がいらっしゃいます!」
フリーデは前に進み出ると、余計なことは一言も言わず、懐から分厚い高額紙幣の束をいくつも取り出して司祭に差し出した。
「こ、これは最高額面の金貨券……?!」若い司祭は息を呑み、差し出しかけた手が宙で固まった。その目に警戒の色が滲む。「お嬢さん、なぜ突然、これほどの大金を寄付なさるのですか?」
フリーデには彼の懸念が分かった。帝都では、天から降ってきた贈り物にはたいてい毒が仕込まれている。司祭は、罪深い取引に巻き込まれるのを明らかに警戒しているのだ。
「ただ、あなた方の善行に共感したからです」フリーデの口調は少しも揺らがなかった。「ご心配なく。私の寄付は、いかなる見返りも求めません」
司祭の強張っていた肩が、ようやく緩んだ。彼は深々と頭を下げる。「そうでしたか……ご厚意に感謝いたします。このお金はすべて、救済と治安の維持に充てさせていただきます。一日も早く、この街に平和と安寧が戻りますように」
その時、演壇の脇の暗がりにフリーデの目が留まった。そこには見事な額に収められた肖像画が掛けられ、描かれた若い貴族が鋭い眼差しをしていた。
第三皇子の肖像画だった。
「教会も……皇位争いに加わっているのですか?」肖像画を見つめたまま、彼女は唐突に口を開いた。
司祭は彼女の視線の先を追うと、隠し立てすることなく素直に頷いた。「そうです」
「あなた方が求めているのは、どんな世界ですか?」フリーデは重ねて尋ねた。
「血なまぐさい暴力とも、一方的な抑圧とも違う世界です」司祭の目に強い意志が宿った。「平和を願う我々は、権力者と平民の間に『第三の道』を切り開こうとしています。中立の調停、そして共同富裕。神の導きのもと、世界は必ずより繁栄すると、我々は信じているのです」
フリーデは頭の中で、その言葉の重みを素早く量った。
教会は貴族と財閥、そして大多数の平民の間で審判役を務めようとしている。偉大ではあるが、きわめて危うい構想だ。彼らは第三皇子を政治的な代弁者に選んだ。だが致命的な弱点がある——教会には、後ろ盾となる聖階の強者がいないのだ。
帝国教会が信仰するミトラは原界の女神とされる。だがその次元界があまりに弱小なため、規則によって、彼女が授けられる神術は最大でも六階までに制限されている。そのため帝国最強の司祭も六階止まりで、他の道系のように天使や聖物へ化身することはできない。当然、天地を滅ぼすほどの聖階の戦局で発言権を握ることもかなわない。
とはいえ、宗教が人心をまとめる力は、今なお驚くほど大きい。
狐の耳と尻尾を持つ亜人と帝国の平民を一つにまとめていること自体、一種の奇跡だ。いずれにせよ、教会が情勢を和らげ、貧しい人々を救おうと努めているのは確かで、この寄付は生きた使い道を得たと言えるだろう。
教会を出ると、外はもう薄暗くなりかけていた。香草はフリーデの隣を軽やかな足取りで歩きながら、聞き慣れない辺境の小唄を口ずさんでいる。
「帝都には、ブルディア人がまだたくさんいるのですか?」フリーデは尋ねた。
「ええ!何万人もの同胞が、家計の足しにしようと出稼ぎに来てるんです」香草は遠くでぽつぽつと灯り始めたネオンや魔法の街灯を眺めた。その目には羨望と悔しさが入り混じっている。「帝都って、本当に贅沢三昧の場所ですよね……お金さえあればどんな欲望だって満たせるし、聖階の魔法使いを雇うことだってできる!私は族長の娘ですけど、認めるしかありません。帝都に比べたら、私たちの故郷なんてまるで貧民街です」
彼女はぎゅっと拳を握り、狐の耳を少し伏せた。「でも、それでもあそこは私の故郷です。ここで一生懸命お金を稼いで、いつか故郷をここよりもっと素敵な場所にしてみせます!」
くるくると表情を変える香草を見ているうちに、フリーデはふと、人間の信仰というものを強く知りたくなった。「一つ訊いてもいいですか。気を悪くしないでほしいのですが」
「全然構いませんよ」香草はにこにこと顔を寄せた。「フリーデみたいにかわいい人の質問なら、何でも遠慮なくどうぞ!」
「あなたの神は、実際には存在しないのでしょう?なのに、どうして信じられるのですか?」
理性の化身たる魔導構体であるフリーデには、神という雲を掴むような概念が理解できなかった。祈りと引き換えに力を得るのは、金で能力を買うのと本質的にどう違うのか。しかもこの取引はひどく当てにならない。神はいつでも、授けた能力を取り上げられるのだから。身も蓋もない言い方をすれば、ある生き物の機嫌を取るだけで力が手に入るのなら、その生き物や力のどこに神聖さがあるというのか。
「だからこそいいんですよ!」香草は少しも気を悪くせず、むしろ目を輝かせた。「女神に自分の『意志』がないから、私は信じられるんです!考えてみてください。もし女神が本当に存在していて、自我を持っていて、自分で裁きを下すとして、その裁きが私の心の『正義』とぶつかったら、どうすればいいんですか?」
「つまり」フリーデはその論理を理解しようと努めた。「ミトラが神術を授ける機能を持っただけの『無意識の原界の規則』にすぎないからこそ、至善至美だと考えるのですね?」
「そうです!この絶対中立の観測者という立場だからこそ、信じる価値があるんです。司祭様の言葉を借りれば、女神は不可分の実体で、全能、全知、遍在、そして永遠不変なんですよ!」
「そんなものが本当に存在するのですか?」フリーデはわずかに首を傾げた。
「もちろん存在します!『第一原因』とか『第一の動者』って、考えたことありません?」香草はきわめて重要な概念を持ち出した。
「どういうことですか?」フリーデはきょとんとした。
「どんな結果にも、必ず原因があります。あらゆる物事を源まで遡っていけば、世界を誕生させた『原因』が必ずある。それが第一原因です。それに、世界はどうして動き続けているのか?最初にそれを動かした力が必ずあるはずです。それが第一の動者です」香草は話すうちにどんどん熱を帯び、ついには足を止めて胸の前で両手を重ね、陶酔したような表情を浮かべた。「私が信じているのは、強大な魔法生物なんかじゃありません。本当に世界を開いた、万能の神なんです。女神を信じることで、私は魂の帰る場所と人生の意味を見つけられたんです!」
フリーデの瞳の奥で、かすかな光が瞬く。彼女はその言葉を記憶に刻んだ。
「神の存在について、もう少し聞かせてもらえますか?」初めて触れる新しい知識に、フリーデは強い好奇心を抱いていた。
「もちろん!」神学の話に夢中の狐耳の少女は、堰を切ったように、歩きながら身振り手振りを交えて説明を始めた。「たとえば、私たちの心には『完全』っていう概念がありますよね。でも人間そのものは不完全だから、この概念を私たちが何もないところから思いつけるはずがないんです。外にいる完全な神が、この概念を私たちの思考の中に置いたに決まってます!だから神は必ず存在するんです!」
彼女は深く息を吸い込み、三本の尻尾を興奮気味にぱっと広げた。「考えたことあります?世界はどうして『存在』していて、『無』じゃないのか。どうして何かがあって、何もないわけじゃないのか。世界が私たちにこうして姿を見せているのには、きっと意味があるんです!司祭様が言うには、その意味は、私たちが神を信じ、理性を働かせ、世界を幸せにすることにあるんだって……!」
帰り道、香草はスコラ神学の概念を滔々と語り続けた。フリーデは口を挟まず、舌を噛みそうなうえに哲理に満ちたそれらの言葉を、黙ってすべて記憶庫に書き込んでいった。
「アントンがあれほど嫌う神を、香草はこれほど愛している」フリーデは胸の内で両者を比べた。「人間とは本当に千差万別だ。同じものに対して、これほど違う見方をするなんて」
夜、翠緑の宿では、暖炉の火がぱちぱちと温かな音を立てていた。
部屋で、フリーデは今日見聞きしたことを仲間たちに一通り話した。
「今回は、少なくとも彼らのやり方は分かった」木の椅子に腰掛けたフリーデは、そう話を締めくくった。
ウェルズは空のグラスを手の中で弄びながら聞いていたが、話が終わると鼻で笑って首を振った。「勘だが、そいつはまず通用しないな。こんな食うか食われるかの権力闘争の中で、『信仰』で全員をまとめようってのか?おまけに大勢力の狭間で、誰もが納得する道を切り開こうだと?甘すぎる」
彼はグラスをテーブルに置いた。カチャリと澄んだ音が鳴る。「もちろん、誰にだって心の糧は要る。贅の限りを尽くした権力者だって、肉体の遊びに飽きたら魂の救いを求めるかもしれない。だが、そんなのは結局少数だ。この世の中じゃ、物質と利益に支配された人間が圧倒的な多数なんだよ」
「それで、第三皇子を支持しそうな聖階の強者は誰だ?」ウェルズは、ソファに気怠げにもたれているシャーロットのほうを向いた。
「第三皇子は今の皇后の実子」シャーロットはあくびをして、瞼を半ば落とした。「だから後ろ盾は、皇后の父親——帝国伯爵にして聖階の魔法使いでもある、あの人の可能性が極めて高い。歩んでいるのは惑控道系で、聖階形態は精類」
「妖精か?」ウェルズは顎を撫でた。「破壊力に優れた道系じゃないな。直接の殺傷能力はかなり低い。教会が第三皇子を選んだのも、次善の策ってところか。何しろ連中には、自前の聖階の後ろ盾がないからな」
「いいえ、彼の精類の聖階形態は、戦闘に極めて長けている。黒鴉卿よ」シャーロットが指摘した。
「ほう?じゃあ俺が見くびってたか?」ウェルズは肩をすくめてみせた。
「どうして皇后の子なのに三番目なの?」フリーデは的確に要点を突いた。
「皇帝自身が聖階の強者だから。あれほど強大な生命体は、子を残すのが極めて難しい。ほかに子が生まれるかどうか分からないから、皇子の地位は生まれた順に定めた」シャーロットは楽な姿勢に座り直した。「懐妊の見込みを上げるために、皇帝はずいぶんたくさんの妃を娶った。でも、質麗皇女の生母こそ皇帝の最愛の人だったことは、帝都の誰もが知っている。その愛は娘にも及んで、質麗皇女は皇帝がいちばん大切にする子になった」
「これほど力の差があるのに、どうして教会は距離を置かずに、わざわざこの争いに首を突っ込むの?」フリーデはわずかに眉をひそめた。この変局の中で、教会が痛手を負うのではないかと案じていたのだ。
ウェルズはため息をつき、窓の外の深い夜に目を向けた。「教会は膨大な教会財産を抱えているからだ。帝国の権力がまるごと塗り替わろうってこの嵐の中で、自分だけ無傷でいられる奴なんていない。誰もが国家機構の歯車だ。帝国の弔鐘が鳴る時、誰がために鐘は鳴るのかと問う必要はない——それはすべての人のために鳴っているんだからな」
「じゃあ、勝てないなら逃げればいいじゃない。全部捨てて逃げれば済む話でしょう」シャーロットは気のない調子で言った。
「逃げられないさ」ウェルズはしみじみと言った。「高みにいる聖階だって、家族も友人も、付き従う者もいる。人は自由なものとして生まれた。しかも至るところで鎖に繋がれている。伝説ほどの強者でも、すべての絆は断ち切れない。断言してもいい。あの伝説のアレクシオスでさえ、その決断の一つ一つが絶対的な自由から出たものだったとは限らない」
「そういえば」フリーデはウェルズを見た。「あなたは今日、何を見たの?」
ウェルズは笑みを消し、珍しく険しい目つきになった。「連邦から来た聖階の強者だ。あれこそ本物の偉力だった……彼女の聖階魔法は心像結界。あの時、彼女に俺を殺す気があったら、お前は今ごろ俺に会えちゃいない」
「連邦の聖階が、どうして帝国の泥沼に顔を出すの?」フリーデの問いは鋭い刃のように核心を突いた。
テーブルの上で、ウェルズの指がぴたりと止まった。その言葉に、何かを突かれたかのように。
「帝政を打倒するっていう、連中の理想を実現するためだろうな……」ウェルズは眉間に深い皺を寄せ、無意識に指先でテーブルを叩いた。「だが、彼女にとっては危険が大きすぎる。いくら身を隠すのが得意で、鏡の中の世界に潜めるといっても、所詮は敵国のスパイだ。一度正体が割れれば、帝国の聖階が総出で包囲討伐に来る」
「これほどの危険を冒すからには、それに見合う利益があるはず」フリーデは冷静に分析した。
「利益?まさか帝国を完全に滅ぼして、東大陸を丸ごと一つの超巨大な連邦にしようってわけでもないだろう?」ウェルズは思わず笑い出した。笑い声には自嘲が滲んでいる。「そんな青写真、荒唐無稽にもほどがある。封建的な身分制度はこの土地に深く根を張っている。生殺与奪の権を握った貴族どもに、自分から権力を手放させるなんて、天に登るより難しい!誰もが連邦の初代大統領みたいに、身を捨てて人に尽くす英雄の気概を持っているわけじゃない。私心なく王位を拒み、共和を守る銀律憲法を自らの手で定めるなんてな」
ウェルズは一呼吸置いて、集会で耳にした過激な議論の話を続けた。「それから聞いた話だと、あの共和派は帝国の土地をすべて国有化したいらしい。土地を貴族から取り上げて、人民が地代に搾り取られることさえなくなれば、労働意欲を根こそぎ引き出して、富国強兵が叶うと考えているんだと」
「ずいぶん独特な発想」フリーデは表情を変えなかったが、論理中枢はこの案に一定の合理性があると判定していた。「貴族が土地を独占しているせいで、平民は働く意欲を失っている。公有にすれば、確かに分配の問題は解決できる」
「ふん」ウェルズは肩をすくめた。「連邦の哲学者ロック本人も言ってるだろう。『私有財産は神聖にして侵すべからず』とな。貴族の土地だって、先祖が血を流して勝ち取ったものだ。何の権利があって、一言で公有化なんてできる?」
言われてみれば、それにも一理あるように思える。相反する二つの理念のどちらに最適解があるのか、フリーデにはまだ判断がつかなかった。
だが、ウェルズの次の言葉は彼女の興味を引いた。
「あの連邦の聖階は、面白い哲学の問いを投げかけてきた。『すべての人から生まれつきの身分と条件を奪ったら、人々はどんな世界を築くことを選ぶか?』」ウェルズは肩をすくめ、どうでもよさそうに笑った。「確かにいい問いだ。惜しむらくは、世の中には俺みたいな人間がいくらでもいるってことだ——この一生を愉快に、痛快に過ごせればそれでいい。俺が死んだ後なら、洪水が天まで溢れようが知ったことか!」
「稜鏡の魔女の問いが正当で、正義にかなっていることは、俺も認めざるを得ない。何しろ無知のヴェールそのものが、一種の普遍的な正義だからな。だが、認めることと、それを準則にして行動することは別の話だ」
悪びれもしないウェルズの様子に、フリーデは珍しく言葉を失った。利己をこうも爽やかに、浮世離れしたものとして語れる人間がいるとは、思いもよらなかった。
「……あなたたちの言うことは、どっちも筋が通ってる」ずっと聞き役に回っていたシャーロットが頃合いを見て口を挟み、公平な審判のように双方の論点に頷いてみせた。
しばらく沈黙が続いたあと、フリーデはふと思い出したように言った。「そういえば、私も今日、教会でブルディア人を一人見かけた」
「辺境に住んでる、茶作りがうまい狐の亜人か?」ウェルズは記憶をたどるように言った。「連中の茶葉は確かに世界一流だ」
「うん。ブルディアの女の子とつてができた」フリーデは言った。「一族は連邦と帝国の境にある山岳地帯で暮らしているらしい。若者の多くが帝都に出稼ぎに来ていて、暮らしはとても苦しいけれど、普世教会が庇護しているそうだ」
「故郷を離れた異族なんて、帝国の法律はまったく守っちゃくれない。教会が間に入って取りなすなら、確かにいいことだ」ウェルズにしては珍しく、フリーデも頷ける公正な意見だった。
夕食の時間は議論のうちに過ぎていった。ウェルズとシャーロットが焼き肉と濃厚なスープに舌鼓を打っている間に、フリーデは宿の一階のカウンターへ手紙を受け取りに行った。
意外にも、木の郵便受けには彼女宛ての手紙が二通、静かに収まっていた。
一通目はざらついたクラフト紙の封筒で、奔放な筆跡の差出人は冒険家ビアンカだった。第一皇子の専制派から招待を受けたので、明晩、銃器クラブの宴に出席する、フリーデも一緒にどうか——という内容だ。
二通目からは淡い香りが漂い、流麗な筆跡で綴られていた。差出人は、久しく会っていない旧知の相手だ。
「こんにちは、天下二番目にかわいい美少女フリーデ!あたしは天下一かわいい美少女オーロラ。あたしも最近、帝都に機会を探しに来たんだ。偶然、あなたがここに泊まってるって聞いたの。あたしに会いたかったら、五日後に忘れずに訪ねてきてね。場所は中に書いておいたよ。あ、そうだ、地味な服で来るのを忘れないでね!」
二通の手紙を手に食卓へ戻ると、フリーデは二人にその内容をかいつまんで伝えた。
「明日、専制派の御用哲学者ホッブズが、貴族の銃器クラブで盛大な宴を開くらしい」フリーデはビアンカの招待状をテーブルに置いた。「私たちも行って、話を聞いてみるのはどうだろう」
「ほう?第一皇子の専制派か?」ウェルズの目が、血の匂いを嗅ぎつけた猟犬のようにぎらりと光った。「情報を探るにはいい機会だ。ただし、揃って入るわけにはいかない。時間をずらして入って、互いに知らん顔をしておくのが安全だ」
揺れる蝋燭の明かりの中、三人は視線を交わした。危険に満ちたクラブ行きは、こうして決まった。




