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空間魔導書と少年魔法使い  作者: atu78963254
帝国事変編
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第三章 理性主義カフェ

「理性主義カフェ……帝都の北西にある」


ウェルズは、釣りの要領で紳士から手に入れたあの名刺を指先に挟み、シャーロットを連れて賑やかな帝都の通りを歩いていた。


「この名前じゃ、看板に『共和派』の三文字を掲げていないだけってところだな」少年は意味ありげに口の端を上げ、帝国最大の敵をこうも早々と釣り上げた自分に感心した。帝国の領土で連邦の共和思想を説くなど、紛れもなく首が飛ぶ重罪だ。


もっとも、半ば無政府状態にある今の帝都では、密告状を警察署の郵便受けに突っ込んだところで、誰も取り合わないだろう。


「言いたい放題か。本当に自由なものだな」


ほどなく、中城区の十字路が見えてきた。石畳を転がる車輪の音に物売りの呼び声が混じり、カフェの近くでは工員たちが工場を忙しく出入りしている。その工場の向かいの街角に、控えめながら品のある佇まいのカフェがひっそりと建っていた。扉を押す前から、焙煎したコーヒー豆の濃厚な香りが清らかな茶の香りとともに隙間から漏れ出し、ひんやりとした空気の中に人を誘う匂いを漂わせていた。


カフェの外の長椅子の脇では、質素な白いワンピース姿の金髪の少女が、俯いてパン屑を撒いていた。足元では白い鳩の群れが羽ばたいている。少女の表情は水のように淡々としていて、降り注ぐ陽光が金髪に柔らかな光の輪をかけ、まるで穏やかな油絵のようだった。どう見ても、午後のひとときを楽しむ貴族の女学生にしか見えない。


だが、ウェルズはふと足を止めた。


「何か……覗かれているような気がする」彼は呟いた。


得体の知れない寒気が背筋を這い上がる。勢いよく振り返って騒がしい通りに視線を走らせると、最後に脇の服屋の、澄みきったガラス張りのショーウィンドウで目が止まった。


ガラスには街の風景が、そして彼自身の姿も映っていた。鏡像の中の自分を見つめ、ウェルズの瞳孔がわずかに縮む。ガラスの中の自分の目つきが、どこかおかしい——そんな奇妙な感覚があった。


隣のシャーロットはきょろきょろと辺りを見回し、何かを嗅ぎつけたように鼻にかすかな皺を寄せた。


「……気のせいだろう」ウェルズは目を伏せて胸のざわつきを押し込めると、踵を返してカフェへ向かった。


二歩ほど進んだところで、シャーロットが「あれ?」と声を上げ、振り返ってあのガラスをちらりと見た。


「どうした?」


「なんでもないよ」少女は首を傾げ、金色の縦長の瞳を瞬かせた。「さっきガラスに映ってたのって……あなた?」


「他に誰がいるんだ」


「だよね」シャーロットはすぐに扉の隙間から漂う香りに気を取られ、小走りで後を追った。「いい匂い!中にケーキあるかな?」


ウェルズは扉を押し開けてやったが、振り返りもしなかった。


チリン——


真鍮の取っ手のついたガラス扉を押し開けると、入口の給仕がすぐさま迎えに出た。恭しい口調ながら、有無を言わせぬ響きがある。「お客様、こちらはアントン様の私的なカフェでございます。本日はご招待のお客様のみをお迎えしております。ご無礼の段、何卒ご容赦くださいませ」


つまり、招待状がなければ、勲章を提げた帝国伯爵であろうと門前払いというわけだ。もっともな話だ、とウェルズは思った。推測が正しければ、ここは共和派の地下サロンなのだから。


ウェルズは懐からあの名刺を取り出し、両手で差し出した。「この名刺は、招待状の代わりになりますか?」


給仕は名刺を目にした瞬間、得心したように目の奥を光らせ、すぐに脇へ退いて道を空けると、深々と頭を下げた。「もちろんでございます。大切なお客様、どうぞお入りくださいませ」


薄暗い廊下を抜けると、ぱっと視界が開けた。葉巻と熱い紅茶の混じった芳醇な香りが漂っている。温かなガス灯の光の下、きれいに整えた口髭の青年がビロードのソファの真ん中に陣取り、興奮気味に両手を宙で振り回していた。周りには、身なりこそ上等だが熱に浮かされたような顔つきの男が数人、腰を下ろしている。


「この世のあらゆる法律は、支配者の利益の隠れ蓑に過ぎない!」口髭の青年の声がよく通った。


「そのとおり!我々が頼れるのは、自然法だけです!」誰かがコーヒーカップをコースターに強く打ちつけて同調した。


火薬樽に火をつけかねない反逆的な宣言に、ウェルズはわずかに眉を上げた。こいつら、本当に首を懸けてお喋りしているな。


見知らぬ足音に、熱を帯びた議論がぴたりとやんだ。一同の視線が一斉にウェルズへ集まる。口髭の青年がすぐさま立ち上がり、大股で歩み寄ってきた。その瞳には、隠そうともしない熱意が燃えている。


「ようこそ、新しいご友人!」彼は両手を熱っぽく差し出した。「私はアントン、とある大企業連合体の責任者です。閣下は何とお呼びすれば?」


「四階の冒険家、ウェルズと申します」ウェルズは相手の手を握り、わずかに体をずらした。「こちらは妻のシャーロットです」


「四階の冒険家!これはまた貴いお客様をお二人もお迎えできるとは。さあ、どうぞお掛けください!」アントンは目を輝かせ、いそいそと席を勧めた。


ウェルズは悠然と腰を下ろし、謙遜の笑みを浮かべた。「アントン氏、買いかぶりですよ。匹夫の勇に過ぎません。誰もが知るとおり、聖階より下は皆凡人で、どれほど強い個人でも、編制の整った軍隊の前ではひとたまりもない。私のささやかな力などより、皆様のお手元にある富と影響力のほうが、力に変えれば私の火球よりはるかに強大でしょう」


そつのない世辞に、場の距離は一気に縮まった。一同は小さく頷き合い、それぞれ自己紹介を始めた。驚いたことに、この秘密の空間に集っていたのは、石炭工場主、軍械技師、哲学科の教授、海軍の航海士、そして銀行家だった。


「アントン氏」ウェルズは給仕から紅茶を受け取り、湯気をふっと吹いた。「先ほどの『法律は支配者の利益を代表する』というお話、具体的にはどういうことでしょう?」


「その最たるものが、貴族のあの忌々しい司法特権ですよ!」話がそこに及ぶと、アントンの頬は怒りで紅潮し、口髭が激しい口調に合わせて小刻みに震えた。「貴族が罪を犯せば、専用の貴族裁判所がかばう!彼らは働きもせずに広大な土地を与えられ、そのうえ厚かましくも都市に納税を求め、我々工場主から骨までしゃぶるように上前を撥ね、好き放題にレントシーキングに走る!これこそ『人は皆生まれながらに平等』への最大の冒瀆です!」


ウェルズは話に合わせて頷きながらも、指の腹でカップの取っ手をそっと撫でた。


貴族裁判所は確かに廃止すべきだ。だが廃止したところで、貴族になれない四階の魔法使いが、なぜわざわざ新しい法に仕える必要がある?


「人は皆生まれながらに平等……響きは美しいですが、現実はどうでしょう?」ウェルズはカップを置き、深い眼差しを向けた。「たとえば巨竜と人間とでは、力に天と地ほどの差がある。それを天秤の両側に載せて、どうやって平等を語るのです?」


「実に鋭い、そしてきわめて価値のあるご指摘です!」アントンの目に論争の熱が宿った。「ですが、お間違えなきよう。我々の言う平等とは、物理的な力や種の違いではなく、権利の平等なのです!竜族が生まれながらに天を翔けるように、人間は知恵で船艦を造る。それが、一方が他方の生存権を奪う理由になりますか?」


隣の哲学教授が磁器のカップの縁を指で軽く叩き、話を引き取った。「自然法思想の核心は、『差異を認めつつ、尊厳の絶対的な平等を追求する』ことにあります。貴族特権が害悪たる所以は、同じ人間を、武力という鉄の腕で異なる権利の階層に分け隔てている点にあるのです」


教授は指先に少しコーヒーをつけ、真っ白なテーブルクロスに重なり合う二つの円を描いた。「魔法使いと平民の違いは、本来、能力の範囲にとどまるべきものです。ところが現行の法律は、身分や地位、果ては呼吸する権利にまで、明文で細かな等級を設けている。生まれによって定められた法的区別は、どれも自然法への恥知らずな裏切りです!」


テーブルクロスの二つの円はゆっくりと滲み、境目が溶け合っていった。


ウェルズはそのコーヒーの染みを二秒ほど眺めた。うまい図だ。ただ残念ながら、この世には火を噴く円もある。


「自然法って結局なんなの?聞いてたら頭がくらくらしてきた」それまで黙々とお菓子を食べていたシャーロットが、金色の縦長の瞳を瞬かせ、きょとんとした顔をした。


アントンはこの美しい少女に目を向け、教師が生徒を導くように少し口調を和らげた。「奥様、自然法とは、天が我々に授けた、奪うことのできない理性の権利です。生きるために、我々は理性的に自然の資源を掘り出す。資源を財産に変えるために、理性的に加工する。協力するために、理性的に平等な契約を結ぶ。そして生き延びるために、理性的に国家と家庭を築く。そのすべてが、理性という礎の上に成り立っているのです」


「理性……って、そんなに大事なの?」シャーロットはその言葉を目ざとく拾った。


「もちろんですとも!理性は我々の魂の光です!」アントンは勢いよく立ち上がり、両腕を広げた。まるで舞台で説教でもしているかのようだ。「理性!とりわけ道具的理性と科学の概念が、人類を宗教の蒙昧と神権の束縛から力ずくで引きずり出したのです!理性を受け入れて以来、人類が生み出した富は過去数千年の総和をはるかに上回りました!神々への愚かな信仰など、きれいさっぱり捨て去りましょう。この世界は、我々自身の手で切り開くべきなのです!」


旧来の神権を鼻で笑うこの演説に、居合わせた全員が揃って頷き、賛意を示した。


ウェルズも一緒に頷いた。実に自然に。


神権が理性によって引き剥がされたのは確かだ。ただしそれは、神が自ら出てこない世界での話だ。このアントン氏はきっと、聖階が手をひと振りして山ひとつを平らに削るところを見たことがないのだろう。そういう時は、跪くことこそが理性的なのだ。


「自由、財産、平等、安全。皆様の掲げる理想には、まことに襟を正さずにはいられません」ウェルズは右手を胸に当て、真摯な面持ちで同調した。「哲学者ルソーはこう言っています。『奴隷と国王は、自然法の前ではまったく異ならない』と。私個人としても、この言葉には深く共感いたします」


それを聞いたアントンの目には、感動の涙さえ浮かんだ。足早に歩み寄ると、ウェルズの手を固く握りしめる。「感激いたしました……!あなたほど強大な四階の魔法使いなら、専制派に忠誠を誓うだけで、富貴栄華などたやすく手に入るでしょうに。実力で爵位や土地を得ようとはせず、我々とともに真に普遍的な平等を求めてくださるとは!その高潔な志は、まさに帝国の奇跡です!」


アントンには見えていなかったが、伏せたウェルズの目の奥は氷のように冷えきっていた。


奇跡、か。彼は黙ってその言葉を受け取った。この男の読みは半分当たっている。実力で爵位を得るつもりがないのは確かだ。


欲しいものは、爵位よりもっと大きいのだから。


「この理論は、この世界ではまず通用しないだろうな」彼は胸の内でつぶやいた。


自然法の根源は、自然状態の無秩序にある。強者が、弱者の寝込みや食事の隙を狙って、何の代償も払わずにその首をへし折れることにある。居眠りしている巨竜にさえ凡人が傷一つつけられないのなら、人類にとって最も理性的な行動は、両膝をつくことだ。


シャーロットは聞いているふりをしながら、実のところ退屈そうにフォークをかじっていた。生まれながらに頂点に立つ竜族の彼女には、凡人たちの平権ごっこなどまるで響かない。それでも表向き、二人はこの熱狂的な集会にすっかり溶け込んでいた。


場の熱気は最高潮に達し、一同はもう新世界の夜明けを目にしたかのように、口々に熱弁を振るった。


「アントン氏の偉大な理想のため、最新の軍事工程の図面を無償で提供しましょう!」軍械技師が胸を叩くと、懐中時計の鎖がちゃらちゃらと鳴った。


「私は海軍に戻って仲間を募ります!ご存じのとおり、海軍の若い連中ほど変革を渇望している者はいませんから!」航海士は義憤に燃えて拳を振り上げた。


「資金のことはお任せください。秘密の基金を設立し、志ある者を集めます。機が熟せば、いつでも決起できるよう備えておきましょう!」銀行家は金縁の眼鏡を押し上げ、抜け目のない冷たい光を目に宿した。


「必要とあらば」ウェルズも頃合いを見計らい、落ち着いた口調で申し出た。「私の魔法で、いつでも皆様の道を切り開きましょう」


「皆様こそ、この時代を照らす松明です!同志の皆様とここで出会えたことは、このアントン、生涯の誉れであります!」


集会は歓喜に包まれて幕を閉じた。アントンは自ら召使いに言いつけ、帰り際の客一人ひとりに、赤みを帯びた見送りの茶を一杯ずつ振る舞わせた。


ウェルズはカップを口元に運んでひと口含み、わずかに目を輝かせた。「これは絶品ですね。ラベンダーのほのかな香りに、梅の甘酸っぱさ、それにオレンジジュースのような爽やかな口当たりまである」思わず、さらに何口か飲んだ。


「ブルディア人の特産品なのですよ」アントンは豪快に笑い、ウェルズの肩を叩いた。「ブルディア人には少々伝手がありましてね。実に勤勉で、尊敬すべき山の民ですよ!」


「ブルディア人……?」ウェルズはわずかに眉を上げ、その名を記憶の中で探った。


「ご存じありませんか?帝国と連邦の境に暮らす小さな民族です。あそこの人々は……」アントンは手で頭の上を示してみせた。「ふさふさした狐の耳と尻尾が生えているんですよ」


ウェルズとシャーロットが連れ立ってカフェを出た頃には、空はすっかり濃い夕闇に包まれていた。通りの街灯が、次々と黄ばんだ光をともしていく。


背後で給仕が恭しく頭を下げ、ほどなく「カチャリ」とカフェの扉に錠が下りた。


「中で話し込みすぎたな。すっかり暗くなった」ウェルズは伸びをした。


何気なく街角へ目をやると、あの白いワンピースの少女はまだ同じ場所に立っていた。ただ、手のパン屑はもうなくなっている。薄暗い街灯の下でただ静かに佇み、地面で羽を休める鳩たちを眺めていた。


「変な奴だな。午後いっぱい鳩に餌をやって、飽きないのか?」


ウェルズは小声でぼやくと、首を振って歩き出そうとした。


その時、異変が起きた。


抗いがたい、魂が何かの引力に引きずられるような異様な感覚が、一瞬にして襲いかかった。ウェルズの首は意思に反して、ぐいと脇の服屋のガラス窓へ向けられた。


澄んだガラスに、驚愕した自分の顔が映っている。だが次の瞬間、鏡の中の像が水面のように揺らいだ——鏡に映る自分の顔の輪郭が歪み、溶け出し、わずか数秒で、あの入口で鳩に餌をやっていた少女の姿に変わったのだ!


ウェルズは息を呑み、心臓が一瞬止まった。反射的に振り返って隣のシャーロットを呼ぼうとしたが、視線は見えない鋼の釘でガラスに打ちつけられたように動かず、体も言うことをきかず、指一本動かせなかった。


街の喧騒が一瞬で遠のき、周囲の世界はまるでラジオの停止ボタンを押されたかのようだった。


鏡の中の少女は小さく首を傾げた。唇は動いていないのに、澄んだ空ろな声がウェルズの頭の中に直接響いてくる。「あなたは賢い。でも……あなたの言葉には、理想への熱意がかけらもない」


「本心から、こういうものが好きなわけじゃない。そうでしょう?」


彼女は淡々と問いかけた。


「……」ウェルズは歯を食いしばった。直感が激しく警鐘を鳴らしている。絶対に口を開いてはならない!ひとたび口を開けば、心の最も奥にある秘密まで、相手にすっかり暴かれてしまう。相手は並外れた心霊魔法で、彼の嘘を見抜こうとしているのだ。


少女は彼の抵抗などまるで気にも留めず、抑揚のまったくない口調で、一方的に語り続けた。


「もしある日、暗闇の中で目を覚ましたとする。気づけばあなたは病床に横たわっていて、記憶を失っている。自分の名前も、貴族なのか平民なのかも、強大な魔法を持っているのか非力なのかも、性別さえも忘れている」


少女の言葉に合わせて、ウェルズの目の前の光景が激しく崩れ始めた。


ガラスも、通りも、街灯も、すべて消え去った。鼻を刺す消毒液の匂いが、どっと鼻腔に流れ込んでくる。


ぞっとして気づいた。本当に、冷たい病床に横たわっている!頭上には青白く眩しい灯り。視線を落とすと、全身が分厚い白い包帯でぐるぐると固く巻かれていた。まるで身動きの取れないミイラだ。自分が誰なのかも分からず、頭の中は真っ白だった。


そして少女の声が、病室の上空に降り立った神託のように四方八方から響き渡り、選択を迫ってきた。


「無知のヴェールの下で……この病室の扉を押し開けた先にあってほしいのは、貧富の差が一万倍の世界?それとも十倍しかない世界?」


「一パーセントの人間がすべての富を握る社会と、たとえ最底辺に落ちても体面を保って生きていける社会。どちらで暮らしたい?」


「この世界に、生まれながらに人より上に立つ貴族がいてほしい?それとも……貴族なんていないほうがいい?」


あまりに真に迫った幻境の中で、生存本能がウェルズの頭をかつてない速さでフル回転させた。


記憶こそ失っていても、損得を計算する頭の中の論理は揺らいでいなかった。


なんとも意地の悪い問いだ。要するにこういうことだ。一パーセントの確率で頂点の権力者になれるが、九十九パーセントの確率で豚や犬のように屠られる世界に転生するか。それとも、五割の確率で小金持ち、五割の確率で普通の人間になるが、少なくとも誰もが平等な権利を享受できる世界か?


病床の自分は何も持っていない。扉の向こうで自分がその幸運な一パーセントになれるなどと、賭ける勇気はなかった。


「全部……後者だ……」


包帯に巻かれた喉から、掠れて乾いた屈服の声が漏れた。


その答えを聞いても、鏡の中の少女は表情ひとつ変えなかった。その姿はガラスの中で薄れて散り始め、風に吹き払われる朝霧のように消えていき、やがて再びウェルズ自身の影像へと形を結んだ。


意識が完全に現実へ戻る寸前、少女の澄んだ空ろな声が、最後の呟きを残した。「帝国の贅沢三昧を目にするたび、いつも思い出す言葉がある——この世の誰もが、私のように恵まれた条件を持っているわけではない、と」


「いつの日か、あなたが本当に、心の底からこの思想を好きになれますように」


ザアッ——!


街の喧騒が潮のように耳へ押し寄せてきた。馬のいななき、行き交う人々の足音が、たちまちウェルズを呑み込む。


ウェルズはぶるっと身震いし、三、四歩よろめくように後ずさると、背中を壁に強く打ちつけ、危うくその場にへたり込みそうになった。全身が冷や汗でぐっしょりと濡れ、まるで氷水から引き揚げられたばかりのようだった。荒い息が止まらない。


「どうしたの?」


隣からシャーロットの澄んだ声がした。巨竜の少女はどこで買ったのか、色とりどりのアイスキャンディーを舐めながら、きょとんとした顔で首を傾げている。「暑すぎて、暑気あたりでもしたの?」


この馬鹿竜、またでたらめを言っている。ウェルズは取り合わず、大敵を前にしたように勢いよくカフェの入口を振り返った。


街灯の下はがらんとしていた。


白いワンピースの少女も、白い鳩の群れもいない。舞い落ちた枯れ葉が数枚、夜風にくるくると回っているだけだった。


あの少女は……もしかすると、初めから一度もそこに立ってなどいなかったのかもしれない。そこにいたのはずっと、無数のガラス窓に映った彼女の「影像」に過ぎなかったのだ。


「大丈夫?顔、真っ青だよ……」シャーロットはようやくウェルズの異変に気づき、慌ててアイスキャンディーを放り出して駆け寄ると、心配そうに彼の全身を見回した。


「俺、さっき……」ウェルズは歯を食いしばったが、声の震えは隠しきれなかった。「聖階の幻術に操られていた!」


「えっ?!そんなことがあったの?」シャーロットは縦長の瞳を大きく見開いた。「私……さっき、なんか空気が変だなとは思ったけど、深く考えてなかった!」


「お前のせいじゃない。相手に敵意はなかった」ウェルズは目を閉じ、ひんやりとした夜気を何度か深く吸い込んで、早鐘を打つ心臓を無理やり落ち着かせた。


よく分かっていた。もし相手がさっき殺す気でいたなら、今頃自分は冷たい屍になっている。全力の抵抗も、聖階にとっては、ほんの少し余計に魔力を使わせる程度のものでしかない。


「行くぞ、早くここを離れよう」


ウェルズはシャーロットの手首をぐいと掴み、足早に夜の人波へと紛れ込んだ。いくつか街区を抜け、周りが魔力の波動などまるでない普通の市民ばかりだと確かめてようやく、背中に針を突きつけられているような圧迫感が消えた。彼は濁った息を長々と吐き出した。


そこでようやく、もう一つのことを量る余裕が生まれた——さっきの三十秒ほどの間、シャーロットは実のところ何の助けにもならなかった。


竜族はこの世界で究極の物理的破壊者だが、戦場が物理から心霊へ移った途端、彼女はただの白紙同然になる。聖階の幻術どころか、そこらの五階の魔法使いが力場壁《ウォール・オブ・フォース》を一枚張るだけで、この小さな雌竜を半日は閉じ込めておけるだろう。


横を見ると、少女はつま先立ちで道端の菓子の屋台を覗き込んでいた。頬はまだ膨らんだままで、さっき二人して死線をかすめたことなど、まるで気づいていない。


ウェルズはこの結論を胸の奥にしまい込み、口には出さなかった。


煌々と灯りのともる商店街を歩きながら、ウェルズはさっきの命がけの遭遇を、猛烈な勢いで頭の中で整理し始めた。


「極致の幻術を使いこなし、共和派に同情的で、能力は鏡か影像に関係し、しかも……女性だ」ウェルズは歩きながら小声でつぶやいた。「シャーロット、この条件を全部合わせて、思い当たる聖階はいるか?」


シャーロットは頬に手を当て、真剣に記憶をたどった。「帝国に出発する前、燭聖が占卜の情報をいくつか見せてくれたの……この条件に当てはまるなら、一番可能性が高いのは一人だけ——連邦の聖階の魔法使い、稜鏡の魔女(プリズムの魔女)。鏡影魔法の頂点で、連邦の銀律守護使の筆頭でもある」


「連邦に、本当に聖階の魔法使いが後ろ盾についていたとはな……完全に想像の外だ」ウェルズは苦笑して首を振った。帝国なら、聖階の強者は頷くだけで世襲の爵位と果てしない封地を手にできる。やはり人の心は千差万別だ。力の頂点に立ってなお、雲を掴むような理想のために己を捨てて人に尽くす、こんな変わり者もいるのだから。


「名前のとおり、あらゆる鏡面に関係してる」シャーロットは情報を思い返しながら言った。「聖階形態は、たぶんもう鏡像生物に転化してる。彼女の鏡影術は人を惑わす残影なんかじゃなくて、実体を持った本物の分身!一番怖いのは、鏡に映った相手の影像を直接攻撃して、本体に本当の傷を負わせられること。それに……周囲十キロ以内に、彼女の姿を映せる鏡面が一つでもあれば、鏡の中から際限なく復活できるの」


「鏡さえあれば無限に復活する不朽、か……」ウェルズは眉間に深く皺を寄せ、それからふっと緩めた。「復活の条件は反則じみて緩いが、破る手立てもいくらでもある。一番手っ取り早くて乱暴なのは、暗影聖階を一人見つけて都市級無光暗黒を使ってもらうことだ。光がなければ影像もない。そうなれば彼女は袋の鼠だ」


ウェルズは胸の内で密かに安堵しながらも、遅れてきた恐怖とともに、さっきの受け答えを一つ一つ振り返った。


あの魔女が見抜いたのは、言葉に表れた「熱意のなさ」だけだった。そして彼女にとって、熱意のない者にもいつか火がつく日が来るかもしれない——だからこそ、あの期待の言葉を残して彼を見逃したのだ。


だが「冷淡な傍観者」と「共和制を絶対に支持し得ない不倶戴天の敵」とでは、まるで話が違う。そしてウェルズ自身は、実のところ筋金入りの質麗皇女党、揺るぎない帝国の皇室擁護派なのだ。


幸い、無知のヴェールの下で何一つ持たなかった「彼」の答えは十分に正直だった。嘘発見の幻術でさえ粗を探せないほどに。その正直さが、彼の立場を覆い隠してくれたのだ。


もしさっき見抜かれたのが冷淡さではなく敵意だったなら、あの通りを生きて出ることすらできなかっただろう。


今夜の出来事は、ウェルズに多くのことを考えさせた。それぞれが口にする崇高な正義のために、無数の強者と凡人が嵐の中心たるこの帝都に集い、いつでも互いを殺す用意をしている。


ふと横を向くと、巨竜の少女は二本目のアイスキャンディーを買ったばかりで、美味しそうに頬張っていた。ウェルズは思わず尋ねた。「シャーロット、お前の正義って何だ?」


シャーロットは氷のかけらを噛み砕き、考えるまでもなく答えた。「いい人を守って、悪い奴を叩き殺すこと」


ウェルズはため息をつき、低くつぶやいた。「簡単そうに聞こえるがな。いい人を守り、悪い奴を裁く——それを寸分の狂いもなくやってのけるには、いったいどんな法律や政治、道徳の体系を築けばいい?」


シャーロットはぽかんと目を瞬かせた。


「昔から、あらゆる哲学者や法学者、神学者が生涯をかけて、そんな完璧な制度を築こうとしてきた。だが悲しいことに、人にはそれぞれ自分なりの真理がある。誰がいい人で誰が悪い奴かさえ、言い争って決着がつかないこともある。だから、世の戦火はいつまでも消えないんだ」ウェルズは通りに次々と瞬く明かりを眺め、静かにため息をついた。


「そんなにごちゃごちゃ考えてどうするの!」シャーロットはアイスキャンディーの棒をくわえたまま、きっぱりと言った。「私にとっては、私に優しくしてくれる人がいい人で、ひどいことする人が悪い奴。それだけ!」


ウェルズは一瞬ぽかんとし、それから白紙のように純粋な隣の少女を見て、仕方なさそうに苦笑を漏らした。


「本当に……ぐうの音も出ないな」

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