第86話「であい」
海沿いの小さな漁村が見えた。
粗末な家々が並び、軒には漁に使うのであろう、網がかけられている。
「ほんとにこんなところにいるのか?」
アノンに問いかけると、頭の葉をゆらゆらと揺らしながら、周囲を探る。
「あっちだな」
指さしたのは、村を見下ろせる、岬の高台だった。
村の外れから岬のほうへと上がっていく。音のしない森のなか、木々の合間を縫うように歩を進める。
岬の突端。
うねるように曲がった一本の木が、海を見下ろすようにぽつんと立っていた。
その木の側へと向かう。
「そこだ。ねむってる」
木の根元に、黒い靄の塊があった。
靄の塊は、風景と同化したように動きを止めている。
アノンは眠っているといった。
どれほどの時間をそうしているのかはわからない。
ただ、そこからの眺めを見て、何故そこで眠っていたのかは、わかる気がした。
潮の香りはせず、波が打ち寄せる音はしない。
だが、寄せては返す波と空だけは、無機質な風景の中で、その世界が確かに動き続けていることを教えてくれている。
靄の前に膝をつく。
悠久を生きる龍にも、転生を繰り返す賢者にも知られていなかった存在。
ルヴァニアの神話に語られる、龍に嫉妬し、ドラゴンをルヴァニアへ生んだとされるその存在は、まるで木のたもとに疲れて蹲っているように見えた。
腰に下げた短剣がカチャリと音を立てる。
──ああ、わかってる。
靄にそっと触れ、撫でる。
薄い、ふわりとした感触が手に触れた。
メノスにあって、メノスの物には感じられなかった手触りが、俺の掌から伝わってくる。
靄が震えるように蠢いた。
「起こしてごめんよ──」
添えた手を、靄がゆっくりと包みこむ。
おそるおそる、探るように。
「会いにきたんだ」
アノンもそっと靄に手を添えた。
「ああ。あいにきた」
水面に水滴が落ちたかのように、二人で触れた手の先から靄の中心に向かって、波が伝わり、広がった。
靄が大きく蠢き、手に触れる感触が変化していく。
サラサラとした水のような手触りから、ざらざらした硬い粒だった感触になり、それが滑らかな手触りに変わっていく。
──何が起きているのか。
不穏を頭で言葉にする前に、アノンの言葉が頭に響く。
「だいじょうぶだ──」
次第に靄の中で触れている物は形をなし、馴染み深く、判別できるようになる。
壊れ物のような、小さな、小さな手。
嬰児のような細く柔らかい手が、指先に触れ、成長してくように大きくなっていく。
靄は胎動を繰り返し、徐々にその陰は薄くなっていった。
俺の手の中で成長していくその手を、そっと握る。
靄の胎動が収まった時、そこには、俺の手を握り、座り込んだ子どもがいた。
黒く長い髪は身を隠す程に伸び、その隙間から覗いた黒い大きな瞳が不思議そうにこちらを見ている。
「俺はユキオ。こっちはアノンだ」
子どもはパクパクと何度か口を動かし、小さく声を上げた。
「あ……あぁ……うぅ」
自分の出した音に驚いたように、目を見開く。
落ち着かせるように、頬に手を当てて軽く撫でる。
「名前はあるかい?」
俺の言葉がわかっているのか、確信はない。
だけど、言葉をじっと聞き、意味を噛み締めるように瞳を巡らせているのを見ると、通じていないようには見えない。
「な……まえ……」
「そう──名前だ。俺達は、きみをなんて呼んだらいい?」
手を握ったまま問いかける。
長く密な睫毛に縁どられた黒い瞳が、目を泳がせる。
「……なまえ……ない」
小さく、呟くような答えに、俺はゆっくりと頷いた。
「そうか。だったら、俺が名前をつけてもいいかい?」
ピクリとした後、黒い瞳が俺の顔をじっと見つめ、二、三度目瞬いた。
「“イドル”というのはどうかな──」
リンドから貰った本。
この旅で何度も読み返した、一人の少年の冒険譚。
主人公は何も持たず、不遇な生まれながら、聡明な母の教えと持ち前の機転と度胸で困難を好機に変え、人との繋がりを増しながら物語は広がっていく。
その主人公の名前──。
「アノンと旅をしながら、きみの名前を考えてたんだ。そうしたら、この名前がとても合うと思ったんだ」
アノンがうんうんと頷く。
「──どうかな?」
黒い瞳が目を瞬かせた後、口を動かした。
「いどる……いどる……イドル……」
自分に言い聞かせるように、幾度かくり返しはっと顔を上げた。
「気に入ったかい? イドル」
「……うん」
黒い瞳がひときわ見開かれ、俺とアノンを見た。
「よし、じゃあ……」
収納空間から、俺の予備のシャツを取り出し、頭からすぽんと被せる。
膝まで隠したシャツの袖を捲ってやると、イドルは不思議そうに着せられた服を撫でた。
「──行こうか」
「いく?」
「ああ。ルヴァニアへ」
差し出した手に、イドルがおそるおそる触れた。
その手をそっと握り、バズロアとその先のルヴァニアへと目を向けた。
アノンがイドルの肩へと移動した。イドルはアノンへ指先を伸ばす。
帰り道。
来た時と同じ時間をかけて、歩いていく。
話す時間も、話すことも沢山ある。
イドルの手を引いて歩きはじめる。
俺とイドル。繋いだ手の間を、バングルから生じた爽やかな風が、ふわりと通り抜けた。




