第76話「ノル、シェルダ、リンド」
石造りの大浴槽に薬草の束が浮かび、薄い緑に色づいた湯から立ち上がる湯気が屋内を温かくしっとりと満たしている。
天井から水滴がぽとりと落ちると、水面に小さな波紋が起こり、わたしの胸元に届いた。
「はぁ……」
隣で湯船に腰を下ろしたリンドが、気持ちよさげに息を吐いた。
「肩まで浸かってくださいね」
「はい」
久々の湯船にうっとりとした表情を浮かべるリンドの返事とともに、わたしもゆっくりと湯船に身を沈める。
「こんな時にゆっくりしてて、いいんでしょうか?」
言葉とは裏腹に湯面に浮かぶリンドの表情は、薄く目を閉じて弛緩している。
「何か理由はあるのかもしれんが、落ち着いている場合ではないだろうに」
洗い場で体を洗い終えたシェルダが、引き締まった褐色の肌に水滴を光らせながら、湯船へと入ってくる。
「ちょっとあついな──」
腰を下ろしながら、ため息をつく。
「ノル。お前はロア殿から何か聞いてないのか?」
「いえ、何も。二人と同じだと思いますよ」
門の封印を三人で行うことになった翌日、わたし達を呼び出したロア様は、緊張したわたし達に「風呂を用意させたから、ゆっくりと……そうじゃのう。三十分以上はしっかり浸かってから講義開始じゃ」と言い渡した。
疑問を口にする間もなく、浴場へと追いやられてしまい、結局昼間から湯に浸かっている。
「もういいか?」
せっかちなシェルダが、待ちかねたように腰を上げようとする。
「ロア様はゆっくり三十分以上、とおっしゃってましたよ」
苦笑しながらそう言うと、シェルダは不承不承また体を沈める。
「この草はなんでしょうね? 」
リンドが浮かんでいる薬草の束をつついた。
「あまり見たことがないですね」
束を手に取り、見てみるが知っている薬草とは違う。種類の違う草がまとめられ、ギザギザの葉の隙間から、白く小さな花が顔を覗かせている。
「今気付いたが、この湯は少し魔力を含んでるな」
シェルダは、お湯を掌ですくい上げて顔を寄せる。
「魔鉱石の産地に湧く温泉では、湯に魔力を含むと聞いたことはあるが──」
思案を巡らせ始めたシェルダを見て、苦笑する。
「あの──」
リンドが思い出したように、顔を上げた。
「どうしました?」
「すみませんでした」
突然の謝罪に首を傾げる。
「お二人の話も聞かずに、封印のことを請けてしまって……」
リンドが申し訳なさげに、俯いた。
「謝ることなんて、ありません」
わたしが首を振ると、シェルダも──その通りだ、と続く。
里を出る直前に、里長に呼ばれて封印の守り人となった。自分の身体にもう一つの器官が突然できたような感覚と、流れ込んできた情報。
それらを知りながら、新たな封印をつくることを任された瞬間尻込みしてしまった。
そんな情けないわたしの背を押してくれたのは、リンドの言葉だった。
「むしろ、リンドに言わせてしまって申し訳ないくらいです」
龍の元を離れる時に、気丈にしながらも目を腫らし、森で鳥の雛を助けるべきか迷っていたリンド。守ってあげなくてはならない──今もその思いは変わらないのに、旅の中で得た出会いと経験が、急速に彼女を成長させたような気がする。
「いやですね。貴女より遥かに長く生きているというのに──」
「全くだ」
シェルダも同意しながら苦笑いすると、リンドが飛沫を上げて立ち上がる。
「そんなことないです。きっとお二人は、わたしより物事がわかっていて──だから!」
一瞬の間があって、熱が入ってしまったのを恥じるように、リンドは再びゆっくりと湯船に身を浸からせた。
その様子を見ていると、同じくリンドを見て目を細めるシェルダと目が合った。お互いに思わず笑みがこぼれ、それを見たリンドが小さな口を尖らせる。
どのように門を封印するのか、どのような術式なのか、全く見当はつかない。
だけど、ロア様は心の通い合った三人の術者が必要だと言った。
──少なくとも、その条件は満たしている。
湯気の満ちる浴室の温かな空気の中、わたしはそう思った。
◆
「──よいか。おのれの感覚を信じよ。目でなく、鼻でなく、皮膚でなく、その身に魔力を感じるように、世界を感じるのじゃ」
ロアさまの声が段々と遠ざかっていく。同じ部屋にいるはずのシェルダさんや、ノルさんの気配も遠ざかり、今自分がどこにいるのかも忘れてしまいそうになる。
浴場から出たわたし達をロアさまが待ち構えていた。
先導するロアさまについて部屋へと向かう途中、肌が痺れる感覚がしたと思ったら、徐々にその感覚は広がり、足元の感覚がおぼつかなくなった。
シェルダさんやノルさんも同じで、先程の浴槽のお湯のせいだと気付いた時には、わたし達はロアさまの魔法で運ばれ、真っ暗な部屋で三人離れて寝かされていた。
「アノン」
遠くでロアさまが、アノンさんを呼ぶ。
身体の感覚は薄れ、真っ暗闇の中、目を開いているのか閉じているのかも判別がつかない。
「どうした」
遠くでアノンさんの声がしたような気がした。
自分が呼吸をしているのかもわからない。手足がどういう形をしているのか。
意識すると自分の手足は大きく、長く、遠くにあるようで、それでいて掌はすぐそばにあるような気もする。夢の中にいるようで、それでいてはっきりとした意識。頼りにならない身体の感覚から手を離すと、自分が寝ているのか、立っているのか、浮いているのかもわからない。
──ただ、自分の身体の中に一定のリズムに合わせて巡る“感覚”だけがあって、それが“わたし”を形作っていた。
懐かしい母様の顔と淡い優しい光を思い出す。と同時に、自分を形作る感覚の外に、もう一つ“ある”のを感じる。
なんとなく母様と似た──ああ、これはアノンさんだ。
不意に手を伸ばしてみる。すると、またぐにゃぐにゃの手足の感覚が出てきた。
──“それ”はいまはいらない。
アノンさんがそう思った気がした。
もう一度身体から手を離して、感覚のまま、アノンさんに意識を向ける。
すると、瞬時に感覚は触れ合い、更にその奥の広がりへと感覚が広がった。
わたしの許容を埋め尽くすような、感覚の広がり。
──ああ、これが“枝”なんだ。
伸び、別れ、更に伸びて別れる。そして、遥か遠く、更に大きなものがある。そんな予感だけが“枝”の向こうにはある。
近くに感覚を向けると、アノンさんのほかにも感覚はある。大きな大きな、でも静かな湖のようなロアさま。
温かく、爽やかな風のようなノルさん。
力強く、でも静かに燃えるシェルダさん。
感覚が触れると、二人の周りにも枝は現れ、ぬくもりと静かな決意が流れ込んでくる。
二人と繋いだ感覚が、少しの戸惑いと穏やかな喜びと合わさって、波のように枝をわたる。
徐々に光と音が、感覚の奥からせり上がってくる。
──この感覚は離さない。
三人でそう決めて、せり上がる音や光へと意識を落とす。
「──どうじゃ?」
ロアさまの声が響き、手足の感覚が戻ってくる。
まだ、身体は起こせそうにないので、確認できないけれど、ノルさんやシェルダさんがどのような顔をしているのか、わかる気がした。
ロアさまが満足気に頷いた。
「さて、ここからは術式の講義じゃ」
ノルさん、シェルダさんと繋いだ“枝”の感覚を確かめながら、わたしはまだ痺れの残る手の平をゆっくりと握った。




