第72話「門へ至りて、門より出ずる」
薄暗い図書館の片隅に設けられた地下への階段。
足元を照らす燭台もなく、先の見えない漆黒の闇が、立ち入ろうとする俺達を拒絶している。
ロアが魔法で周囲を照らしつつ先行し、俺達も続く。
階段を降りきったところで、壁に開けられた大穴が現れた。
「わしが死んでから造り始めたとも思えんな……。やつめ、周到に準備しておったのやもしれん」
洞窟状になった通路を進む。
「ノベリー様は大丈夫でしょうか?」
ノルが心配気に漏らした。
「応急の回復はしておいた。命に別条はないじゃろ」
硬い岩盤をくり抜いた壁は、緩やかに下っている。
先はまだ見えない。
「ノベリーには、サガンの身柄を拘束するよう、指示しておったのだが──やつめ、牙を隠しておったのだろう」
「ノベリー殿も相当な使い手だろうが、サガンはそれ以上ということか……」
シェルダの呟きが、暗い洞窟内に響く。
……
どれほど下ってきただろうか。列の中央を行くリンドに声をかける。
「大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
そう答えるものの、息は少し上がっている。無理をしないように伝え、更に進む。
しばらくすると、洞窟内の停滞した空気に、仄かに揺らぎが生じた。
「おそらく先に空洞があるのぉ」
ロアが岩肌に手を置くと、壁から天井、そして床へと光の帯が蛇のように走り、洞窟内とその先を照らす。
「あれか……」
徐々に広くなる通路の先、不気味なほどの静けさの中、空洞への入口が大きく口を開けていた。
ロアを手で制し、先行する。
警戒しながら入口から空洞に入る。ロアの放った光は空洞の中ほどまで至り、岩肌の地面を照らす。
地面には削り取った軌跡が螺旋に渦巻いており、その中央、すり鉢状となった底にそれはあった。
俺の後に続いたシェルダが小さく呟く。
「『門』……だな」
ミディガルで見た『門』。その大きさを超える次元の裂け目が『向こう側』の風景を見せていた。
──おそらくこれも俺には違って見えているのだろう。
「シェルダ。『向こう側』が見えるか?」
俺の問いにシェルダが首を振る。
「いや、私には黒い塊にしか見えない」
「そうか……」
俺の呟きは、空洞内の淀んだ空気に溶けていく。
ロアが入口から顔を覗かせた。
「ふむ、待ち伏せを仕掛けてくるようなら、可愛げもあったがの──」
そう言って、空洞の中央へ視線をやる。
その先には、白いロングコートを羽織った白髪の男が後ろに回した手を組んだまま、『門』を見上げている。
ロアに続くように、中央へと向かう。
俺達に気づいていないはずはない。しかし男は微動だにしない。
ロアはそれを気に留めるでもなく、中央へと向かう。
まるで、罠など無いと、始めからわかっているかのように、スタスタと歩を進める。
『門』から十歩ほどの距離で、ロアはピタリと足を止めた。
「久しいのぉ。サガン。随分と司書長の職務を増やしたと見える」
ロアが発した皮肉の言葉を受けて、サガンはゆっくりと振り返った。
オールバックの白髪は漆喰で固めているかのように無機質に頭に張り付き、薄い眉からはその感情が読めない。
漆黒の闇の中に浮かぶ顔は青白く、真っ白な司書の制服と相まって亡霊のようだが、赤みがかった瞳だけがどこか歪な生気を宿している。
「……これは、バズロア図書館長。お久しゅう御座います」
張り付いた能面顔、口だけが動いて声を発しているような錯覚を覚える。
「随分と──愛らしくなられたようで」
ロアが鼻を鳴らす。
「よく言うわ。送ってきた刺客からわしの今世のことは聞いとるじゃろうが」
サガンは薄笑いを顔に張り付け、声を発さない。
「単刀直入に聞こう。何が目的じゃ? まさか、世界をその手に収めるなどとは言わんよな?」
腰に手を当てて、ロアは栗色の髪を揺らす。
「目的……ふむ……」
ロアの問いに、まるで謎かけでもされたかのように、サガンは顎に手を当てて目を伏せる。
「目的、目標、意図……どれもしっくり参りませんな。何故『こう』したのか、理由はありますが目的と言ってよいものか──」
サガンの独り言のような言葉を遮るように、ロアは、サガンの向こう、『門』をその華奢な指で指し示した。
「帰りたいんじゃろ?」
「帰りたい……?」
ロアの発した一言をノルが戸惑いながら複唱する。
「ふふ」
サガンはその薄い唇から、吐息のような小さな笑い声を漏らした。
「今からおよそ五百年前の手記じゃ──西方のとある街に無名の魔術師がおった。その魔術師は、不老長命を願い、焦がれ、狂うた末に、ある暴挙に至った」
突然始まったロアの昔語りに戸惑いつつも、耳を傾ける。
「魔術師はある谷に溢れていた瘴気を集め、己の身に取り込むことで、目的を達しようとしたそうじゃ」
「馬鹿な。そんなことをすれば──」
シェルダが目を見開く。
「うむ、普通であれば死に至り──そして屍人となるだけよ」
ロアが頷いた。
「しかし、その手記によれば、その魔術師は命を取り留め、若返った。そして、ほどなくしてその街を立ち去ったという」
では──。
「その魔術師が──こいつだと?」
「厳密に言うと──違うのじゃろうがな。その手記によれば、その魔術師が瘴気を取り込んだ後、数日は呆然としておったが、その後はまるで別人になったかのようだったそうじゃ」
「別人って、若返ったからか?」
問うた俺をロアが横目で見て首を振る。
「普通に考えればそうじゃろう。──じゃが、手記によれば、生き延びて数日後に突然狂喜して、助けた知人を困惑させた。そして、口調も表情も変わったその魔術師は蔵書を読み漁り、ある日忽然と姿を消した──」
サガンは再び手を後ろで組み、じっとロアを見つめている。
「『メノスへ帰る』という言葉を残してな」
「メノス……」
リンドが自分の知識と照らし合わせるように呟き、目を泳がせる。
「知らんで当然じゃ。ルヴァニアの民にとっては、触れ得ぬもの、触れてはならぬものじゃからの」
──ロアはサガンを指して、五百年前の魔術師だと看破している。だとすれば……。
「メノス……『門』の向こう側のことなのか?」
門の向こう側に目をやる。
「うむ。ルヴァニアと対になり、共に重なり合いながらも決して交わってはならぬ世界──それがメノスじゃ」
「そこに『帰る』というのは……」
ノルがロアを見た。
「推測はできる。だが──できれば、そのあたりを本人から聞きたいものじゃの」
ロアが改めてサガンに向き直る。
サガンは口元を歪め、唇の端を持ち上げた。
「大賢者とは良く言ったものですな。──古今東西の知の集積。比喩でなくそれを成すのは、まさにあなた一人。まさか、五百年前の塵芥の如き、かの人間の手記などが残っていようとは……」
サガンが口元を手で隠すように覆う。
「それで、答えてはくれんのか?」
門の向こう側、瘴気のゆらめきと共に、獣の尾が入口を撫でるように、音もなく映りこんだ。
──瞬間、門の向こう、メノスから覚えのある気配の圧が悪寒を伴い俺を打つ。
「……っ! 下がれ!」
ロアの体を抱えて、門から距離を取る。
「これは……!」
同じく飛び退ったシェルダの声が微かに震える。
メノスに映し出されていた風景を、巨大な黒い狼の顔が覆い隠した。
暗闇に赤い稲妻が走ったかのような裂けた目。口元から瘴気を立ち上らせ、レヴォルフがこちらを見ている。
「いるのか?」
「ああ──」
シェルダの言葉に頷き、ロアを降ろす。
俺達の反応など気にもせず、サガンは薄く笑う。
「答え──ですか? まぁ、当たらずも遠からずというところでしょうか」
サガンは抑揚なく言葉を続ける中、レヴォルフがゆっくりと門から顔を出す。
「しかしながら──私に答えを差し上げる義理はありません。今の私に必要なのは理解ではない、あと少しの時間です。この身になって五百年……人の身というのは……なんと時の流れの遅いことか」
レヴォルフの頭部が完全にメノスから出てきたことで、広場を瘴気が舞う。
「ふむ。話はここまでにしましょう……、もう『私』も待ちかねています」
サガンが振り返ると、レヴォルフはその口を大きく開ける。
並んだ牙からは瘴気が立ちのぼり、血液にも似た口内の赤色と混じり合う。
「一体何を……」
ノルの呟きが虚空に消え入る中、サガンはレヴォルフの口内へと歩み寄っていく。
サガンが口内へ立ち入るや、レヴォルフはゆっくりとその口を閉じ、サガンの姿は──口内へと消えた。
状況が分からず、立ちすくむ俺達にロアが言う。
「もそっと、下がれ」
言われるがまま後退りするのに合わせて、レヴォルフは一歩ずつ歩を進める。
レヴォルフが歩を進め、体が門を抜けるにつれ、その身に宿っている瘴気の圧が増す。
全身を現したレヴォルフは、ゆっくりと尾をくねらせ、周囲を探るように鼻先を天井へ向けた。
そして、身震いをすると、牙の覗く口を歪ませた。
「この瘴気……半身の比では……」
シェルダが絶句する。
「これが本体なの……?」
リンドをかばうように、ノルは自分の後ろにやる。
レヴォルフが頭を下げた。
瞬間、体内に瘴気が凝縮し、首と肩口の体毛が蠢き、黒く盛り上がる。
盛り上がった体毛は次第に形を変え、裂けるように口を開き、赤い眼を開く。
三つ首になった頭部。それぞれの口から瘴気が漏れ出る。そして首元が小さく蠢き、黒い狼のたてがみの奥からゆらりと人間の上半身が起き上がる。
青白い体。狼に癒着した腹部には黒い血管が浮き出ている。きっちりと固められていた白髪は、長さを変え、乱れたままの髪の隙間から赤い眼光が覗く。
「サガン……」
俺の呟きに反応するかのように、レヴォルフと一体化したサガンが大きく、大きく息をついた。
「いかん!」
ロアが俺達に手をかざすのと同時に、レヴォルフが雄叫びを上げて膨大な瘴気を発した。
瘴気の奔流が地響きとともに、周囲の岩盤を揺らす。
ロアの防壁の中、土煙と瘴気が巻き起こり、俺達の視界を奪った。
一瞬とも、数分ともしれない振動が止み、振り返る。
「皆無事か?」
「はい──大丈夫です」
リンドが、凛としながらも微かに震えの残る声で答えた。
土煙が徐々に収まるにつれて生じる違和感。
それに促されるように上を見る。
先程まであった天井の岩盤は消え失せ、くりぬかれた天井からは、ぼんやりと月明かりが差し込み、異形となったサガンとレヴォルフ、そして門を照らしている。
「さぁ──これからが本番です」
静かに、はっきりと宣言したサガンの抑揚の無い声が、言葉を失った俺達の周囲に木霊した。




