第57話「わからないことと、わかること」
青い鐘楼亭。
夢中になって働いていると、注文を通す、母さんの元気な声が聞こえた気がしてはっとする。
元々寡黙だった父さんは、四年前に母さんが亡くなってから、余計口数が減った気がする。
それでも母さんの葬儀の三日後には店を開けた。
その日の仕込み中。父さんがぼそりと言ったことが忘れられない。
──母さんとの約束だからな。
まるで、自分に言い聞かせるように言ったその言葉に、詰まった胸を無理矢理動かして、うん──と、答えるしかなかった。
二年前から、キトニアは騒がしい。食堂では、魔族領の併合の話題が出ない日はない。
魔族領の一員になれば、攫われた子どもを救えるかもしれない。そう上手く行きっこない。
少なくとも今後は止められる。魔族が求める物は人と資源、今後はミディガルに攫われるようになるだけだ。
交通がよくなり、キトニアは潤う。いや、その上がりは魔族の糧になるだけだ。
終わりの見えない議論が、お酒とともに消費されていく。
父さんに聞いたことがある。
どっちがいいと思うの?──と。
そうしたら、父さんは溜まった皿を洗いながら「わからない」とだけ言った。
あたしは、キトニアが、キトニアでなくなることが許せない。魔族だって信用できない。だから反対。
親友にも伝えた思いを再度口に出した。
それでも父は「俺には決められない」と鈍い反応しか返してはくれなかった。
ムギが魔族を連れてくることになったらしいぞ──食堂のお客さんが、お酒のコップを置いたあたしに言った。
かつての親友は、鎧のようなかっちりした服装を着込んで、まるで別人のように大人たちに混じって、ミディガルとの併合を進めていた。
出発の日。
推進派の住人たちの見送りを受けるムギを遠目から見ていた。腰まで垂らしていた綺麗な黒髪を肩でバッサリと切り、旅装に身を包んだ姿が遠く見えた。
そのムギと一緒に、ユキオは来たのだそうだ。途中でレオニさんの子どもを救ったのだとも。
その話を聞かせてくれたお客さんは「推進派の自演かもしれないぞ」と、言ったけど、あたしはそれだけは違うと思う。
ムギは何があってもそういうことだけはしない。
でも、わからない。何がわからないのかもわかってないのかもしれない。
だから──聞きたくなった。
──
「聞かせて。──あなた達は、キトニアを支配しにきたの?」
不躾かもしれない。怒るかも。
だけど、目の前の黒髪の人間は、無精ひげが伸びてきた顎を擦りながら、少し考えてから口を開いた。
「俺は、違うな」
「俺は、ってどういうこと? じゃあ、あの魔族はどうなの?」
肩透かしのような答えに、つい言葉に力が入る。
「さあ?」
「さあ、って……」
巫山戯てる。
思わず睨みつける。
でも、視線の先の人間はまるで気にすることなく、話し続ける。
「国の考えることだ。感情や理屈だけで動いているわけじゃないしな。俺にはわかりかねるよ」
確認するように頷きながら、答える。
無責任だ、と思う。
「あの魔族とあなたは無関係だってこと?」
「いや? 関係はあるさ。一緒に旅した仲間だからな」
まるで、干して乾いたシーツを殴っているような、空虚にも思える感触に少しイライラする。
「じゃあ、何かわかるでしょ?」
「さて、どうかな。少なくともあいつも、俺の知ってるミディガルのお偉いさんも、弱い者から奪うのを喜んでやるタイプじゃない。とは思うけどね」
あたしの目を覗き込むように見ながら、微笑みながら答える間の抜けた顔に、眉間に籠もった力とイライラが、溶けてため息になって出ていった。
「はぁ……わけわかんない」
「付き合って──、話してみなきゃ、わかんないさ」
悟ったような、見透かしているような不思議な表情にもやもやが増したような、そんな気がした。
……
仕事を済ませて寝室に戻ろうとしていると、厨房から漏れる光に気がついた。
そっと覗くと、父さんが明日の仕込みをしている最中だった。
コトコトと音を立てる鍋の前で、野菜のブイヨンを煮込む父さんの姿に、寄り添う母さんの面影が見えた気がした。
「ねえ、父さん──」
つい、声をかける。
「どうした?」
父さんが少し振り返ってこちらを見る。
「えーと、……明日の朝はいつも通りでいいよね?」
「ああ」
無理に取り繕った問いに後が続かない。
「あのさ……。併合のこと。どう思ってるの?」
沈黙に耐えかねて父さんの背中に向かって問いかけた。
父さんは竈の火加減を調整しながら、そうだな──と、小さく呟いたあと。
「わからないな」
と、以前と同じように言った。やっぱり──厨房を出ようとした瞬間、父さんの言葉が続いた。
「魔族は何を食べるんだろうな?」
「え? 何ってそれは……」
──知らない。
「ムギちゃんがミディガルから連れてきたんだろう?」
「そうらしいけど」
「うちに魔族の客がきたことはないからな」
「うん」
「もし、機会があれば話を聞きたい」
意外だった。
「なんで? 父さんはキトニアが魔族に併合されてもいいの?」
それに返事をせず父さんはお玉で鍋からブイヨンを一すくいして、小皿に取った。
「味見してくれ」
「……いつもの味だよ。美味しい」
根菜や乾燥させた香菜の風味が混ざりあった優しい味と香り。山鳥の骨からじっくり煮出した旨味が温もりを胸にじんわりと伝えていく。
「この味がわかるやつなら、話ができる。もっと美味い物があると言うなら聞かせてもらいたい」
「……」
「俺にはどうしたらいいのか、何が正しいのかはわからん。何より、彼らがどうしたいのか、何を食べて何を好むのか。わからないことは決められない」
それで、いいのだろうか。
キトニアの暮らしを──この店と変わらない長閑な暮らしを願うあたしの気持ちは、併合を拒む気持ちと結びついているはずだ。
でも──
「さぁ、明日も早い。もう休め」
「うん」
厨房を後にして、ベッドに寝転んでもモヤモヤは晴れない。
窓から差し込む月明かりに手をかざして、母さんに似てきた手の輪郭をじっと見ていた。
……
翌日のお昼時、扉のベルが鳴って民兵長ハグスさんが顔を出した。
赤い髪に獅子髭、欠けた右耳はかつて傭兵をしていた頃の傷なのだという。
「おう、シャオ。いつものを頼む」
空いた席に座り、出した水を一息に飲むとおかわりを催促しながらいつもの注文をする。
ハグスさんは、併合に反対している。この間顔を出した民会でもハグスさんは、自分たちが奴隷狩りを退治すること、キトニアの進む方向は自分達で決めなくてはならないということを熱弁していた。
それは正しいと思う。ただ、その『正しい』でいいのか、昨夜からあたしの中で揺れている。
食事を終えたハグスさんの側に立つ。お昼時のお客の波も去った。
「ハグスさん。ムギが連れてきた魔族からは、いつ話を聞くの?」
あたしの問いに、ハグスさんが腕組みしながら答える。
「今度の民会に、招聘することになるらしい」
「そうなんだ」
「しかし、まさか、『魔犬』イングウェルが来るとは意外だったな。青っちょろい文官が来たら、吠え立てて追い返してやろうと思ってたが」
有名なのだろうか。ピンと来ないあたしの反応に気づいて、ハグスさんは言葉を続ける。
「イングウェル家は魔族でも有数の武人の家でな。俺も若い頃、前の当主を戦場で見たことがあるが、そりゃあ凄かった」
そうだ。
ハグスさんは、外に出て魔族のことも知っている。
「ねえ、ハグスさん。魔族は何を食べてるの?」
「ん? そりゃあ、俺達とそう変わらないぞ。一度魔族の軍の配給を食ったが、まぁまぁだったな」
まぁ、ここのメシとは比べようがないがな──と、ハグスさんは付け加えた。
「そっか……一緒なんだね」
昨夜の父さんの問いの答え。
じゃあ、うちのスープの味も──、きっとわかるのだろう。
「おいおい、魔族からも飯代を奪うつもりか? まぁ、ヤツの財布に一撃加えてくれれば儲けものだがな!」
ハグスさんは豪快に笑って店を出ていった。
その背を見送って綺麗に平らげられた皿を重ねていく。
そして、積み重ねた皿を持ち上げて、テーブルを拭いて厨房へと戻った。
明日は店休日。
ユキオ達に、夕食が食べられるお店を紹介しとかないと──。
……
夕闇が徐々に土レンガの街並みを暗く染めて、窓から漏れる温かい灯りが道に溶けている。
あたしは扉の前にいる。
かつて毎日のように見ていた扉。
一つ大きく息を吐いて、胸に置いていた手を扉に伸ばす。
最初に一回。
次に短く二回。
それをもう一度繰り返す。
二人でふざけて決めたノックの合図は、いつしか二人だけの習慣になった。
バタバタと室内から駆けてくる音がする。
扉の金具が軋み、屋内の光が漏れる。
驚いた顔をしたムギが、そこにいた。
紐付きのチュニックに、落ち着いた臙脂色のスカート。
肩で切り揃えた髪が少し乱れている。
「急に来てごめん──。もう一回、ちゃんと、話したくなった」
ムギが、小さく息を整えてから、「うん」と言う。
ランプが灯る室内へ、あたしは足を踏み入れる。




