カムダウン・ア・リトル
しばらく歩き続けると、ユダがはたと足を止めた。
何も無いはずの方舟をキョロキョロと見渡す。
「時間ですね」
そんなことを言い出した。
「いいですか? 今からこの鍵を使って、あなた方をある部屋に送ります。そこでどんな事があっても、誰がいても、表情を崩さないでください」
「ユダ、お前はどうするんだ?」
「遅刻した体で、あなた方二人のすぐ後ろに着きます」
急に不安になってきた。
ボクの追及を他所に、ユダは胸ポケットから古ぼけた鍵を取り出した。
「“マド”が開きます。出来るだけ速やかに入ってください」
空間に突き立てられた鍵が、独りでに回った。
その鍵を中心にして、突然真っ黒い穴が目の前に開く。
ドアの先に見えた暗闇が、また目の前に広がっていた。
ユダの方を見てみると、早く入るように手で促している。質問は後でする約束だ。言うことを聞けと言いたげな顔。
藤高の手首を引っ張って、二人一緒に穴の中へ飛び込んだ。
◆ ◆ ◆ ◆
そういえばユダは常に周囲に気を配っていたな。まるで誰かを探しているかのような――いや、逆か。
まるで誰かの尾行を警戒するように。
どうやらボクらを逃がしたことは、バレたくないようだった。
アイツが方舟でどんな立場なのかは知らないけれど、どうやらそこまで立派な人間でないことは伺い知れる。遅刻しても平気とは、普段からよほど適当なのだろう。
そんなやつだからこそ、あの時スサノオの家で佇んでいたのかもしれない。
そういえばあの日、スサノオは人払いをユダに頼んだ様子だった。敢えて言うことを聞かなかったのか、それともわざとボクだけを通したのか。答えは分からないけれど、おそらく後者が正しいのだろう。でなければ、ボクを煽るような言葉を的確に吐くわけがないからだ。
さて、そんなこんな、穴の中でようやく目を開けて見ると、そこには簡素な扉が一つだけ立っていた。
ミカエルの部屋にあったドアとは少し違う。こちらの方が年季が入っている。
意を決して開いて、その先へ足を踏み入れた。
敷居を超えるとそこは広い会議室だった。
ぎっしり、と形容してもいいくらい、人が詰め込まれている。これでは話し合いどころではない。
そんな中、遅れて入ってきたボクら二人に視線が集まる。
ボクは思わず藤高の手を離して顔を伏せさせた。
ユダに言われたことを実行する。
どんな事があっても。
――こんなことがあってたまるか。
そこに誰がいても。
――みんな、同じ顔だ。
吐き気を抑えて、必死に平静を取り繕う。
何十人といる人間がみな、同じ顔、同じ表情、同じ服装で部屋に黙って立っている。
よく社会人をそんな風に揶揄するが――少なくとも、これはものの例えじゃないし、見たままに感じたことだ。
黒い髪に黒い目。
短く切り揃えられた髪。
そして最後に、絶句するほど、ボクと似た顔立ち。
藤高の顔を伏せた理由がそれだ。
自分はまだいい、奇妙な事態だけど、この顔ならまだ誤魔化せる。
ただ藤高は良くない。コイツは似ても似つかないから。
逃亡者だとすぐにバレてしまう。
出来るだけ違和感を出さないように、静かに黙ってそこに立つ。服の下で脂汗がじとりと広がって不快だ。
早く来てくれとユダに念じても、どうせ届かない。今はただ時が過ぎ去るのを――
「よし始めるよ。アンタら準備はいいね」
――部屋の前方から声がした。
「一人来てない神官がいるが、まぁいい。なんてこたぁ無い任務さ。ぽっと出の助力なんていらないさね」
女性の声だ。少し嗄れた、年季と気合いの入った声。
全員が前を向く。
ただそれだけで、厳しい人なのだろうと容易に想像出来る。そんな声だ。
「魔導石の方はアタシが持って帰る。アンタらは周囲の警戒、もし邪魔立てがあるようなら――そうさねぇ――殺っちまって構わないよ。どうせ足はつかないんだ」
その言葉と共に、ゆらりと立ち上がった女性が一人。声の主だ。
ノースリーブの白いシャツに、不釣り合いなほどゴテゴテしたボトムス。それが長い脚に収まって、スッキリとした出で立ちに見える。
目は鋭く、濁った赤色をして、少しやつれている。
短く整えられた髪は黒く、疲れ切った顔立ちとは正反対に艶めかしい。
それだけならまだ、ただの女性、歳若い大人の女性だ。
その右手に持つ、突っ立てられた六尺程の棒が、やたらと馴染んでいなければ。
「作戦は以上だ、好きにやんな。警戒範囲は『どれだけ広げても』構わない」
思わず息を飲んだ。
邪魔者は殺してもいい――警戒範囲はどれだけでも良い――つまり――
「……」
――好きなように暴れろということ。
恐怖が目に浮かんだのかもしれない。
女性と目が合った。
次の瞬間、何かがボクの内側に触れる。
ヒヤリとした感触が背筋を走る。
後ずさろうとして。
「変なのが二人混じってんね」
女がボクらを睨みつけた。
「アンタら、道開けな」
同じ顔の人間たちが、ざっと音を立てて一本の道を作った。女はゆっくりとそこを歩いてくる。
「そういやミカのアホが言ってたねぇ……男を二人ばかし捕まえて、その処理に困ってるって……まったくアイツの人好きも大したもんだ」
目の前だ。
今気付いたけど、女はタッパがあった。
ボクを悠々と見下ろしながら、手に持った棒で顎をゆっくりと突き上げる。
「分からないでもないがね、中々の優男じゃないか」
不気味な赤い瞳。
「嫌いじゃあないが、もうちっと頭は働かせた方がいい」
装え。
やつらと同じように。
藤高に目を向けさせるな。
頭の中で数字を思い浮かべる。
「方舟じゃあ人間の処理は二つに一つだ。楽しむだけ楽しんで捨てるか、さっさと消しちまうか」
1,1,2,3,5,8……
「アタシゃあ断然後者が好きだがね」
13,21,34……
「さて、見た目はよく似せたと褒めてやろう」
数列を数えろ。
55……。
フィボナッチ数列は自然の数列。地球のあり方を教えてくれる。
89――
「惜しかったよ、もうちっとだけ目に光がなきゃ――――あ?」
全てはこの数列に帰依し、全てはこの法則に従う。最も美しく、最も普遍的な数列。頭の中で唱えて暗示をかけろ。
周りとボクとは同じだ。目の色も、頭の中も心の中も。顔も服装も何もかも。
心を動かすな。フィボナッチ数列のように冷静で美しく、均等で黄金比のように崩れない。
ふっと上から見るような感覚があった。
冷静に全体を見ることができている。
そうだ、例えば目はこんな感じで、目尻をこうして、眉間に皺は寄せず――
「…………」
「お前、どっちだ?」
――微笑んでも、無表情でもいるような、どこか完成された――幸せそうな顔。
それが今この部屋に満ちていて、ボクが取るべき正解の表情だった。
心のうちはもちろんそんな場合じゃない。すぐ見破られるだろう、こんなものは時間稼ぎだ。なんとかして打開策を見つけなければ。
目の前の女は黙らせた。後は何かないか、何か納得させられるだけの材料は。
何か、何か、何か。
この部屋には、机も、椅子も、窓もない。どころか、皆個人的な荷物すら、持っていなかった。
改めて、集団が孕む異常性に気が付いた。
まるで、機械だ。
いつまでもこんなことは続けていられない。ボクの方がおかしくなってしまう。マジマジと見られているだけで重圧なんだ、誰でもいいから助け舟を。
「いやー申し訳ない、筋トレをしていたらスーツが破けちゃいまして……おや?」
ガチャっとわざとらしく音を立てて、それからユダの声――なんだお前筋トレでスーツ破けるってふざけてんのか――なんとかなりそうだ。
「おやおや、マステマ先輩。良くないですよ私兵に絡むのは」
ごめん、やっぱり感想欲しいわ




