ウェルカム・トゥ・アーク
会話がなんとなく成り立っていない気がする。ユダは相変わらず半裸だし、さっき助けるまで藤高は気を失っていたみたいで、なんだか朦朧としているし。
みんな言葉の節々が曖昧だ。言わんとすることは予測して返しているけれど、これで合っているのかどうか。
言われるがまま軍服を着せられた藤高は惚けた顔で着いてくる。
「ああ、そういえば」
「なに」
「まだ何も食べていませんよね?」
「……それは、まぁ」
ちらりと藤高を見た。随分と疲れきった顔だ。吊るされてた時はそういうプレイでもしたのかと一瞬思ったけど、腫れた頬を見るとそうではないと分かった。
殴られたんだろうな。スサノオは明らかに、藤高のことを嫌っていた。
「顔痛い」
「再度確認しますよ。まだ何も食べていないし、水も飲んでいない。正解ですね?」
「藤高もたぶんそうだよ。な?」
「ここどこ」
「安心しました」
返答になっていない気がするが……いいか。
ユダがポケットから鍵を取り出して、空中で『回す』ような動作を取った。
すると、どこからともなく現れたのは二本のペットボトル。ラベルはボクらもよく知るものだ。
いったいどこから出したのか。
「とりあえず飲んでおいてください。そしてこちらの食べ物には一切手を付けないこと」
「……?」
言っている意味が良く分からない。こちらの、という部分だ。まるここが日本ではないかのような言い方。もしかするとスサノオは、僕ら二人が気を失っている間に海を渡ったのだろうか。
そんな可能性が頭を過ぎったが、すぐに振り払う。
飛行機にしても、船にしろ、多少どころでない無茶がある。やつは行方不明者なのだ。つまり、同時に身分を証明する手段がほとんどないし、刀を持ったままではそういう移動手段を取れない。
ミカエルの他に協力者がいたのかもしれないが、そもそも無理なのだ。
地下室を調べに行ったあの日、周辺は静まり返っていて、すぐさま駆けつけられるような車は一台として無かった。
それを確認するために、わざわざ回り道をして赴いたのだから。
だからここは日本になるはずで……ついでに言えば、長いこと寝ていたならもっと衰弱していたり、臭いもするはずで……つまり。
「こちらって、どういう意味?」
「外に出れば分かりますよ。出来うる限りゆっくりと歩きますが、お二人ともどうか着いてきていただきたい」
説明するより早いので。訝しげに睨んでもいいが、それはそれ、これはこれ。目の前に差し出された一日ぶりの水の誘惑は凄まじい。
喉を通っていく冷たい水に、思わず感動の吐息を漏らした。
それを見てユダは何を思ったか、またポーズを決める。
大した肉体美だ。自慢したいのも少し分かる。
一通り筋肉を見せ終わると、満足したのか半裸のままドアノブを回した。
「行きましょう」
正直言うと、服を着て欲しかった。
ドアを開けると、外の景色が見え――「なんだこれ」
扉の外には奇妙な光景が広がっていた。
どこにも通じていない。
普通、アスファルトとか、日光とか月光とか、もっと……何かがあるはずだ。
靴箱まである、明らかな玄関に据え付けられた扉。なのに、扉の先には何も無く、ただ真っ暗闇が広がっている。
今の時代、どんな田舎と言えども多少の明かりはあるものだ。よほど山の中でもない限り、これほどくらいのは有り得ない。
それともう一つ奇妙なのは、扉を開けても空気の流れが無いことだ。
普通、気圧や気温の差で風が生じてもいいはずなのに、ここにはそれもない。
扉の外は、ただの暗闇だ。
急に空恐ろしくなって、改めて、ユダの顔を見た。
「今、初めて自覚したという顔ですね」
「どこなんだ、ここ」
その問いに、ユダは答えあぐねたようだった。
「……方舟へようこそ」
間を空けて、答えが返ってくる。
スサノオがそう言ったように、ユダはこの場所を『方舟』と呼んだ。
謎が謎を呼び、分からないことが増えていく。
スサノオがなぜわざわざボクをここに連れてきたのか。
そうまでして勧誘したのはなぜか。
方舟とは何処なのか。
いや、方舟とは『何』なのか。
「勇猛果敢ですね。貴方も笑うタイプの人間ですか」
「あれ? もしかして、笑ってたか」
「ええ、ニヤリと」
何度でも言おう。
好奇心というやつは本当に厄介だ。
「さて、忘れていませんね?」
「ユダの後ろを着いていくよ。藤高はボクが連れてく」
「よろしい。ではいきますよ」
ユダの体が虚空へ踏み込んでいく。
ボクも慌ててその後を追い。
最後に藤高の手首を掴んで、無理やりに外へ出た。
◆ ◆ ◆ ◆
ぐわんと揺れる感覚。目眩がして思わず俯いた。
余りにも酷い感覚に、耐え切れず膝を着いた。息が苦しい。なんだこれ。重力が何倍にもなったように感じる。
「大丈夫ですかとは、聞くまでもないようで」
頭上からユダの声が降ってくる。頼りない姿を見せてしまったな。なんだか申し訳なくなって、せめて笑顔で強がって見せようと、うずくまったまま、フッと上を見た。
「ごめん、落ち着くまで――」
ハッとして。
そのまま言葉を失った。
ボクは全てのことを忘れることが出来ない。
だから当然、夢のことだって覚えている。
ユダの向こうに、ボクは夢の景色を見た。
真っ黒な空。
どこまでも続く荒野。
ガタガタ震えているからそう見えるだけ、なんていう言い訳が通じないほど、それはよく知る風景だった。
そうか。
ボクの故郷は、方舟と言うのか。
ぼんやりと、然してしっかりと、その空を目に焼き付けた。
どうせ忘れることも無い記憶だ。けど、それはボクにとって、今までで一番大切な記憶だった。
帰ってきたんだ。夢にまで見た景色。ボクの故郷。
ノアの方舟に。
「どうしました?」
呆けたように見えたのか、ユダは疑うような口調で聞いてくる。
きっと、彼には分からない感覚だろうな。当たり障りなく行こう。
「いや、ちょっと驚いたからさ」
どうとでも取れる返答をして、ユダの手を取った。
「随分楽になった。何かしたの?」
「ええ、少しね。私の近くにいればもう症状は出ませんよ」
つまり、さっきの目眩や動悸は確実になんらかの原因があるということか。故郷はなんとも厄介な場所らしい。
ユダのことをよくよく観察してみても、なんらおかしいところはない。薬、ドラッグといった類のものではないようだ。
それにしても、すごい光景だ。こんな場所が本当に存在していたなんて全く想像だにしていなかった。いったいここは世界地図で言うとどの辺なのだろうか。
「地区名とか分かるか?」
ユダが大きくため息をついた。
「まだ信じていないようで」
「なんのこと?」
「良しとしましょう」
メガネを正して、その視線が前を向いた。
「ここが政世だと信じ続けるならそれもまた一興。ただ、ここからは少々急ぎます。質問は後でまとめて。如何です?」
はてな、と頭の中に疑問符が浮かんだ。さっきからどうも――コイツがポージングを度々するせいもあって――会話が噛み合っていない。
今は質問している場合ではないと言うならそれもいいか。記憶力だけはあるんだ、どんな些細なことでも問いただしてやる。
「いいよ。早く脱出しよう」
そりゃあ故郷に帰ってきたっていうのは重要だけど。
今は、家に帰る方が大事なんだ。
時には好奇心も黙らせないとな。




