僕の名前は
エピローグが一話に入り切らなかったので初投稿です。
二人の呼吸だけが響き、徐々に静まっていく。
どちらかが合わせるでもなく。
ルシフェルは、今にも泣きだしそうな声で言う。
「殺してくれ……」
剣を収める。
「お前の手で、終わらせてくれ」
ゆっくりと、歩み寄る。
ルシフェルの言葉を反芻する。
「ああ……終わらせてやる」
血が止まらない。放っておけば、ルシフェルの命はここで途切れる。
その前に、僕の手で、奪ってしまうのは簡単だ。
ただ振り下ろせばいい。
収めた刃を抜き、首を撥ねれば。きっとルシフェルは抵抗などしない。彼はもう全てを諦め、ただ終わる時を待っている。
待っていた、という方が正しいかもしれない。
ルシフェルはきっと、諦めがつくのを待っていた。暴走した自分を止めて欲しかった。どうにもならない願望を、終わらせて欲しかった。
見た目に反して、なんというか稚気のような……なんという我侭だろうか。そして、なんてささやかな破滅の思いだろう。
ルシフェルはずっと背負ってきたんだ、どうにもならない自分自身を。
何度だって思う。
終わらせることは簡単だ。
「だが、それは今じゃない」
ルシフェルに触れ、魔力を流す。
ずっと考えていたことが、ルシフェルとの戦いで確信に変わる。
魔力は戦うためのものだとずっと思っていた。
けど、違う。魔力を他人に与えられるということは――
「お前の命は、今俺の手に渡った」
――他人の傷をも癒せるということ。
今それをすれば、自分の回復には回せないのだが。
まぁ、いいか。助けられるなら。自分の命など、どうでも。
ドクトルは僕に興味があると言ったんだ。どうせ、死なせてはくれない。
そんな、一種の諦観の中、ミカエルにも魔力を分けて血を止める。
ルシフェルと目が合った。
驚いているな。当然か。
ルシフェルは、僕が手を下すと思っていたのだろう。
僕自身そうしようと決めていた。
それも、少し前の話だが。
ゼウスの言葉を思い出す。
「お前、本気出してなかっただろ」
ルシフェルの心は乱れたまま。魔力も碌に扱えず、あの赤いオーラだって、本領は発揮できていない。
治癒も遅く、強化も半端。加えて銀剣だって使えなかった。
そんな時に勝ったって、僕はやはり、とても納得できそうにない。
大きく、大きく息を吐いた。
「敗けたと思うならそれでもいい。けど俺は納得していない。だから――」
これは、もう、決めたことだ。
自分の命を捨てるのではなく。
相手の命を奪うのではなく。
「だから、今度は、本気のお前に、戦って勝つ」
僕は優しくないんだ。
相手が望んだ通りの最期など与えてやらない。
僕はいつだって奪う側だ。
だったら、相手の命の権利だって、勝手に奪ってみようと思う。
「簡単に終わらせてなんかやるか。生きるんだよ。俺が殺すその日まで」
傷を塞いでいく。
ゆっくりと。時間を掛けて。
ルシフェルの傷を癒していく。
「生きろ。俺の家族として」
足に力が入らない。
なんて言い訳をして。
崩れるように、ルシフェルを抱き締める。
「これが、俺の思う勝利だ」
けれどもまぁ、意識が保てないのも事実だ。
なんせお互いボロボロで、なのに自分のことは治していないのだから。
ドクトルは見ているだろうか。
見ているなら――悪いと思う。
また、お前を頼ることになりそうだ。
僕はポケットの中の鍵に触れた。
◆◆◆◆
……。
…………。
………………。
温かい感触だ。
何か柔らかいものの上にいる。
背中の感覚からそれが分かった。
目を閉じていた。
手がある。
足がある。
それだけ知ると、僕はゆっくりと目を開けた。
その天井を、僕は知らない。
だけど、そこにいるのが誰なのか、ここが誰の部屋なのか、僕はなんとなく分かった。
いつもは騒がしく起きていたな、と思い返して、せめて今日くらいは静かにしようと思った。
「おはよう、ドクトル」
体を起こして周囲を見渡す。
すぐ近くに、そいつはいた。
「うん、おはよう。今日は随分静かだ」
メガネをかけた、細身の、白衣の幽霊。
僕を見つめながら、退屈そうに豆を挽く。
「ちょっと待っててよ。今コーヒー淹れるから」
言って、ドクトルは作業に戻る。
変わり映えのしない部屋だな、と呑気なことを思いながら僕は――「なんでまた、上を着てないんだよ俺は」――体に付いた新たな傷跡をなぞる。
「……夢じゃなかったんだな」
「あ、叫ばないでね。静かに噛み締めて」
「……」釘を刺すな、釘を。
せっかくいい気分で雄叫びを上げようとしたのに。
ため息をついて、仕方ないから確認しておく。
「俺は勝ったのか」
「それを決めるのは君だろ?」
「言われてみれば、そうか」
まだ実感がない。生きているというだけで――いや、違うな。この晴れ晴れとした気分を前に、負けたと言うのは野暮が過ぎる。
「……勝ったんだな」
勝ったんだ。僕は確かに勝利した。一歩に過ぎないが、しかし大きな一歩。
ルシフェルはきっと、もう死のうとはしないだろう。
それだけで良かったと思える。無駄ではなかったと。
「そう思えたようで何より」
「……ドクトル、約束の相手はちゃんと教えておけよ」
「あれ、言ってなかった? まぁ――もう知ってるんでしょ?」
「知るのに随分手間取ったんだがな」
粉末になったコーヒーをフィルターにセットする。どこからともなく出現したケトルには既に熱湯が入っている。
コーヒーのいい香りがした。
「じゃ……この一杯を飲んだら、もうお別れかな……」
ドクトルは、寂しそうな顔をして。
「そうか? 少なくとも、お前はそんなつもりではないだろう」
「バレた?」
もう一度、ため息をついた。
結局、こいつから離れることはできないのだ。こいつ自身が興味を失うその日まで。
「君はやっぱり面白いね。俄然興味湧いてきたよ」
言って、近くのテーブルにコーヒーの入ったカップを置く。
「でも、しばらくこうして話せないっていうのは本当さ。君はこれから約束を果たしに行く。だろ?」
ベッドの隣に立ち、着替えを渡してくれる。
「ああ、その通りだ」
袖を通しながら、刀を見る。
カップの横に置かれた刀。なんだか場違いだ。
やはりあれは、僕が提げているのが一番似合う。
熱いコーヒーを口に含む。
随分と、美味くなったと思う。
最初に飲んだあの泥水のような物とは随分な差だ。
僕は成長できただろうか。
見違える程とは言えないまでも、少しは。
確かめに行こう。
ゼウスに会って、確かめよう。
あの男ならきっと、僕を納得させてくれるから。
「ま……僕が言うのもお門違いかも、だけどさ。お疲れ様。頑張ったね」
否定はしない。ドクトルが生かそうとしなければ、きっとルシフェルは……ああ、そうそう。
「家族の魂は成仏させてくれ」
「あれ。生き返らせなくていいの?」
「いいんだ。皆死んだことになってる」
僕も、死んだことになっているから、もういいんだ。
死者は還って来ないのだから。
人間としては還ってこないのだから。
それに、家族は他にもいるから。
「……あのさ」
「なぁに」
「その…………ありがとう。お前のおかげでここまで来れた」
改めて言うと、なんだか照れ臭い。
ドクトルは目を閉じて。言葉の意味を考えてから、ゆったりとした調子で返した。
「君は、本当にいい子だな」
それは、いつかの言葉。
けれど、遥かに優しい声。
柔らかく、温かで、包み込むような――僕の欲しかった声音。
「残念だけど、恨まれはすれど感謝されるようないわれはないんだよね。君を助けたのだって興味本位だし、その分の対価もきっちり貰ってる」
「ゼウスから?」
「おや、今日はなんとも察しがいいね」
コーヒーを飲む。
相変わらず、今日は美味いと思った。
「あれだけのことがあったんだ。少しは察しも良くなるとも」
そして、今日が最後か、とも。
願わくば、いつか落ち着いて、全てのことを聞きながら、ゆっくりと飲んでみたいものだ。
僕はいつの間にか、ドクトルの珈琲が好きになっていたらしい。
「さて、それじゃ……そろそろ行くよ」
名残惜しいが、もう時間だ。
行かなくては。
「鍵は持っておいて」
「いいのか?」
「もちろんだよ。それは君にあげたものだからね。大事にしてくれよ、一個しかないんだから」
もう一度感謝を述べると、ドクトルは「いいって」と受け流し。
「うん。出口はそこの扉だよ」
僕の背中を、ふわりと押す。
言葉だけで、僕はもう、戻ろうという気にはならない。ドクトルはそれを知っていたし、僕も、どこかでそれを期待していた。
扉に向かって歩いていく。
一歩ずつ。
たくさんのことがあった。
ルシフェルに勝てた。
家族を得た。
夢を見つけた。
やりたいことがなんなのか、教わった。
歩むべき道があると知った。
強き人と出会い。
仲間を知り。
復讐を越えて。
目覚めた時と同じようでいて。
ほんの少しだけ前に進んだ景色へと、僕は踏み出そうとしている。
誰も知らない世界へ、僕は行こうとしている。
怖いかと聞かれれば、それは怖いに決まっている。
僕は、僕のままでいられるのか。
それが、不意に怖くなるんだ。
「そうだ。そういえば君に一つ、聞き忘れてたことがあったよ」
ノブに手を掛けた僕に、ドクトルは問い掛ける。
「最後にさ。君の名前を教えてよ」
何を今更、と言いかけて、やめた。
違うからだ。
僕の思った答えとは違うものを、ドクトルは求めている。
聞かれているのは『俺』ではない。
聞かれているのは『僕』の名前だ。
「俺は……」
もし。もし叶うなら。
お前に呪いを掛けてもいいかな。
僕の名前を忘れるなという呪いを、お前に掛けても。
それだけで、どこまでも、歩いて行けると思うから。
「僕の名前は、武神 勇志」
ドクトルは満足そうに笑った。
「勇ましい志しか。……いい名前だよ。実に君らしい名前だ」
「ありがとう」
「じゃあ、ほら、行って。ゼウス様が待ってるから」
僕はこの名前が嫌いだった。
「勇」は兄の名前だから。その意志を継げと、その志しを持てと、言われている気がして。
けれど、もう迷わない。
僕の名前は武神 勇志だ。
俺の名前は、スサノオだ。
そこに、なんの矛盾もありはしないから。
「それじゃ、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」




