知らない天井
拳を壁に打ち付ける。
逃した。
その事実だけが残る。
「スサノオ……!」
殺せたはずだ。追いかけたって良かった。
でもしたくなかった。
追い掛けようとして、足が止まった。どこに向かったかなんてどうでもいい、ただアイツと繋がって、距離を縮めればいい。
そんなことは分かっている。
だが……繋がるのが怖い。
死の間際に見る、あいつの家族を知るのが怖い。
狂おしいほど求めてきたそれを知るのが、どうしようもなく怖いのだ。
抵抗されるとは思っていたが、よもやあそこまでとは。気圧される程とは思いもしなかった。
死にたくない。
スサノオはそう言った。
家族の誰にも言わせなかった言葉を。
俺は聞いてしまった。
死にたくない。
死にたくはないだろう、誰だってそうだ。どんな人間だって、最期が今日この日だとは思わない。
だけど、この俺が、そんな感情に当てられたと?
そしてその一瞬のうちに、アイツは逃げることが出来たと言うのか?
どこに行ったかは検討が着く。ドクトルの元へ戻れないと言うのなら、最も親しいNSの元へ。十中八九ミカエルの所へ飛んだのだ。
彼女が情けをかけるなら、まだ仕留めるチャンスはある。
次こそは――次こそは仕留めなければ。
強い吐き気に襲われる。
視界が揺れた。
「もう少し……あと一歩なんだ」
あと一人殺せばいい。スサノオさえ殺すことが出来れば、あとは。
……出来るのだろうか。
今更だ。
俺の手はとっくに穢れている。
ずっと求めてきたんだ。手に入れると決めたんだ。
家族を――一人の人間としての命を。
あと一歩。あと一歩で……。
「手に入れる……必ず」
逃しはしない。スサノオの魂だけは。
……。
…………。
繋がりが断たれた。
意識が徐々に収束していく。
柔い。
背中が柔い。
どこかに横たわって……。
「いやだから……その…………私はちゃんとトビラまで送ったって…………」
「あぁ? じゃあなんで生きてンだよ」
「さぁそれは………………自力で生き返ったんじゃないかなぁ……」
「とぼけンな。お前が独断で逃がしたンだろ? それか、負けたか」
「負けてないって! ……ちゃんと殺したもん」
「まぁいいや。起きる頃合だ。本人に聞きゃいい」
「えぇ!? ちょ――っとそれはぁ……」
「……聞かれたくないなら正直に言えや」
「だからぁ! 私にもそのぅ……分かんなくてだね……」
「分かった分かった……そんじゃあ、あれな。直接聞いてお前が嘘ついてんなら罰則な。ネットの接続三日切るから」
「ほぁ!? そ、それは勘弁してくださいよぉ!」
……誰か外で口喧嘩しているのか。
どちらも聞き覚えのある声だ。
一方がミカエルだとして、もう一方は――マズいな。
逃げなければ。
もう一人はゼウスだ。目が覚めたところを見つかったら何をされるか分かったものではない。
「う……」体を起こさないと――「い――づぅぅぅ、ぐくく…………」
腹筋に力が込められない。内臓が捩れたかのような痛み。
いや、捩れたというか実際、ダメージがあるのだった。
徐々に思い出してくる。ルシフェルから発勁をもらって、内臓にダメージ。数箇所の切り傷。致命傷となり得たのは発勁だが、どうやら、一命は取り留めたか。
このまま治るのを待っている暇はない。というか事情を聞かれるのは如何にもマズいのだ。
今しがたルシフェルと殺しあってきました。結果はご覧の通りです。
……言いたいか?
言いたくないし、聞き出されたとして、ゼウスを相手にそれではどうなるか分からない。
「そもそもなぁ、神官が同人作家ってのはどうかと思ってんだよオレァ。しかも管轄外の世界で、だろ? あいつに見つかったら大目玉だぜ?」
「えなんで知って――い、いや、してないし! そんなことしてないし! というか誰がそんなこと言ってたし!」
「そりゃオメェ、こないだアイツをアシスタントにしてコキ使ったらしいじゃねェかよ。アイツ大層嬉しそうに話してたぞ」
「マゾなのかなぁ……?」
「そういうわけだ。お前には話したくないことが百も二百もあることなんて重々承知なんだよオレは。分かった上で聞いてんだよ。嘘ついても録なことねェぞ」
「いや大丈夫だから! 私がちゃんと聴くから! ゼウスが出るようなことじゃないって!」
「ハイハイ……一応立場ってもんがあんだろが。ここまで生きてる奴は珍しいんだよ。オレも聞かないと報告できないわけよ。そういうわけで――」
ドアノブが回る。
「おはようスサノオ君! まだ生きてっかァ!?」
勢い良くドアが開かれた。
なんだそのニヤケ面は。あとそんなに明るい気分で話せない。
「…………おはよう」
「時化た面してんなぁ? 何かあったって言いたげだぜ」
言って、懐からタバコを――おい待て。
「ここは禁煙だ」
「分ぁかってるって」
言って、咥える。
何も分かってない。
「ま、概ね? 分かるぜ。そんで俺が言うべきは一つだよなぁ」
何も分かってない。
ゼウスに言うべきことなど一つも――
「お前、ここで終わりにするか?」
――一つもない。
「いや実際よくやったと思うぜ。俺たちからここまで逃げた奴は……えっと……五人もいなかった。もうすぐ侵入から一月になる。それだけでも大した奴だよお前は」
訝しげに睨んだ僕から視線を外し、ポケットをまさぐる。
「他の奴は神官とは戦わなかった。戦ったとしてもヘボと一回だけだ。ミカエル相手に、魔力も碌に扱えず、ここまで生き残ったことは褒めてやる」
僕に差し出されたのは、袋に入った携帯食料。
「……受け取れと?」
「そうは言わねェ。ただ、持っておけ。それを食うことの意味は……分かるよな?」
まだだ。
まだ食べることは出来ない。
まだ僕は、胸を張ってゼウスの前に立てないでいる。




