二人の武神
何かが軋む音がした。
僕の中で、決定的な何かにヒビが入る。
記憶の奥底、厚く重く閉ざしたはずのそれにヒビが入った。
あの言葉が脳裏を巡る。
父さんのあの言葉。
お前に――
「……違う」
――お前に兄がいれば。
「違う! 俺に兄はいない……!」
お前に兄がいれば、こんなことにはならなかった――
「お前は俺の兄じゃない……! 家族でも! お前のことなど知るものか!」
「なら、この繋がりをどう説明する? 顔立ちが同じだということは? 何か他に、納得出来る理由があるのか」
「能力だ……! そうなんだろう!? お前の能力で俺に化けてる! そうすれば俺が動揺すると思って――」
「なら背丈だって同じにする。実力だって揃えるだろうさ。お前相手に、最初から素顔を晒していただろう」
「黙れ! だまれ、黙れ黙れ黙れ!! 違う! そんなはずは、そんなはずは無い……!」
手が震える。
脚の力が抜けていく。
構えることが出来ない。
納得してしまう自分がいるのが怖かった。
それが正しいと、どこか理解している自分が恐ろしかった。
自分はここまで走ってきたのだ。たった一人、そう、たったの独りで。誰の手も取らず、誰の言葉も借りず、ただ一人でここまで来たのだ。
それは単に、僕が僕であることを証明したかったから。
僕に「他の誰か」など必要ないと、証明したかったから。
父さんは知っていたのか? 母さんは知っていたのか? 僕に兄がいて、それが方舟に住んでいて、違う世界で名を馳せていることを。知っていて、それでなお、僕を騙していたというのか?
「俺、は、僕は…………お前のことなど知らない……」
だとしたらなぜ。
なぜ教えてくれなかったんだ。
なぜあの時素直に死んでしまったんだ。
なぜあの時兄を呼び戻さなかった。
何も、誰も、失わずに済んだかも知れない可能性を、なぜ自ら捨てていたのだ。
「知らないか。……それはそうさ。父さんや母さんだって俺を知らない」
ルシフェルはその上着を脱ぎ捨てて、真っ黒な軍服を顕にした。
黒い髪にそれが混じると、まるで、その手足や顔だけが、ぼんやりとこちらを向いて浮かんでいるように見えた。
僕と同じ顔が、僕を見つめる。
「お前に兄はいない。それはある意味真実だ。父さんも、母さんも、お前の妹さえ。……俺のことなど微塵も知らなかっただろうとも」
「ならば、何を根拠に……!」
「お前、鈍いな」
その長髪を搔き上げて、後頭部で一つに結い止める。
「ここは死者の國。そこまで言えば分かるか?」
構えた。
背筋に怖気が走った。
分からない。
こいつのことが分からない。
「お前の前に『一人いた』のさ。ま………辛い思い出なんだろう。二人は忘れようと努めてたが」
僕も慌てて構え直す。
だが、意識がそちらへ向かない。只今は、ルシフェルの独白に、釘付けにされる。
「お前の兄は死産だった」
そして、そこで全てが繋がる。
「産まれて間も無く方舟に来たのさ。……最初から十五の身体と知能を与えられ、自分がどうなったのか理解するのに時間は要らなかった」
ふぅ、と大きく息を吐き。
空間に痺れが混じる。
「そういうわけだ。そろそろ返してもらおうか」
何を、と言うより早く、ルシフェル距離を詰めて鍔迫り合う。
「お前に預けていた全てを!」
銀剣は渡さない。あれがあるだけで厄介だ。ただでさえ地力に差のある相手、魔力が無ければ勝ち目がない。
「くぅ……!」
押される。
手加減されていたのだ。
何が、実力だって合わせる、だ。今までだって十分手を抜いていたんじゃないか。きっと本気になれば、今すぐにでも首を落とせるものを。
舐めるな。そう息巻くことは出来るが、しかし押し返すことが出来ない。
左腕の力が随分落ちているのが致命的だ。イマイチ踏み込むことができない。
決め手がない。
この状況を切り抜けるだけの決め手が。
逃げ出したかった。
許容できない。
与えられた事実が余りにも大きすぎて、それを、受け入れることができない。
嘘なんて吐いていなかったんだ。
父さんはただ、あの時ちゃんと、子供を産めていれば良かったと思っていた。
そうすれば、僕はこうならなかったと思っていた。
こんな……戦うことしか頭に無い男には、ならなかった。
「お前が産まれたのは、俺の一年後……驚いたものだ。忘れるためにそうまでするかってな」
「黙れ!」
魔力を吹かす。
均衡に持ち込んだ。
「だが効果は薄かったみたいだな。だから三人目を作ったのさ」
妹のことまで貶すのか。
「だまれェエ……!」
それだけは、許さない。
あの子は優れた人間だ。
優しく、配慮があって、快活で。
きっと年齢を重ねれば、ミカエルのようになっていた。そうして、たくさんの友に囲まれて。
「俺から奪っておいて! 好きに勝手に!!」
足払いでルシフェルの体制を崩す。
すかさず下がったルシフェルに突きを合わせる。難なく弾くか、ならば。
「語るなァア!!」
弾かれた勢いを利用して回転。力を上乗せして手首を狙う。
警戒した。すんでのところで減速を掛け、ルシフェルの刀を巻き込む。
「がぁっ!」
刀を巻き落とす。
これで相手は徒手。こちらが間合いで有利だ。
「言ったはずだぞ」
首を切り落とそうとして、硬質な感触に阻まれる。
強化部位を変え――いや違う。
ルシフェルの周囲が歪んで見えた。
僕とは比較にならないほどの――
「お前の土俵には、もう付き合えない」
――高密度な鎧。
呆気に取られた瞬間だ、ルシフェルの掌、そのがさついた表皮が鳩尾に触れる。
「武神流」
この男、まさか。
柔術まで扱えるのか。
「紅霞」
その場から一歩も動かずに。
踏み込む力と、勁の伝達。各部の筋肉でそれを増幅させて、僕の体表で炸裂させる。
強く後ろに引かれるような。
視界が紅く明滅する中、吹き飛ばされて地面に強く口付けする。
「ばっ……く、ぐ……」
口に鉄の匂い――生温い――液体が食道を遡り――
「ゆっくり治してろ。お前の魔力はそれで尽きる」




