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剣聖は、棺桶小隊に剣を教えない  作者: 今井 幻


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第36話「勝利装置」

 セラフィーナの視界に、すべてが見えていた。


 ゼグラの前脚が二寸沈む。右目を失った巨体が、失われた距離感を補おうと頭を僅かに左に傾ける。その一瞬、首の甲殻の合わせ目が開く。食い込んだ矢が揺れる。前脚の関節が軋む音。次の突進は右——健眼側に寄る。三秒後。


 見えている。


 全部、見えている。


 セラフィーナの剣が動いた。ゼグラの右前脚の関節を叩く——のではなく、その手前で止めた。切っ先が一瞬だけ右を指し、次いで低く沈んだ。脚。右に寄る。脚を狙え。


 リシェルは、それを見逃さなかった。


 教え子の中で最も器用で、最も中途半端で、最も「教官の動きを崩さずに読める」少女は、教官の剣筋の角度と重心の移動だけで次の盤面を読み取った。


「全員左へ一歩! ガルト、腰を落としたまま! 弓手、三秒後に右首筋!」


 リシェルの声が渓谷を貫いた。


 短く、具体的で、迷いがない。三秒前に教官が剣で示した「因果」が、リシェルの喉を通って「行動」に変わる。教官の身体と隊員の動きを繋ぐ、たった一本の回路。


 ガルトが左壁寄りで腰をさらに深く落とした。片手剣を地面に突き立て、肩幅の倍に足を開く。ゼグラの突進が来る。健眼側に偏った軌道が、ガルトの正面を僅かに右へ逸れた。巨体が通過する風圧と地面の振動がガルトを揺さぶる。だが低い重心が揺れを吸い殺した。足裏が地面を噛んだまま、半寸も動かない。


 退かない。


 半歩も、退かない。


「弓手——今!」


 第十四歩哨隊の弓手が弦を放った。矢が右首筋に飛ぶ。甲殻に弾かれた。だが、ゼグラが首を振った。それだけで十分だった。


 ゼグラの意識が矢に向いた一瞬。セラフィーナの剣が前脚の関節を再び叩いた。同じ箇所。同じ角度。先ほど入れた亀裂の上を、正確になぞるように。


 悲鳴に似た咆哮が渓谷を震わせた。


 ゼグラの前脚が崩れかけ、巨体が前のめりになる。一瞬だけ、頭が下がる。


「ノエル、まだ動くな!」


 リシェルの声。ノエルが左壁際で剣の柄を握り直す動きが、一拍で止まった。


 重槍はもうない。右目に突き立てた、あの一投で使い果たした。残っているのは拾い直した剣一本。だがノエルの目は、ゼグラの体勢が崩れるたびに走り出しそうになる。教官が盤面を作り、リシェルが合図をくれる。それまでは、息を殺す。


 セラフィーナは剣を引いた。深追いしない。ゼグラの体勢が戻る前に半歩退き、左側面——盲点の側へ滑るように消える。


 読んで、伝えて、動かす。


 それだけの繰り返しだった。


  *


 リシェルの呼吸が浅くなっていた。


 喉の奥が灼ける。声を出すたびに空気が足りない。それでも声は出た。声だけは、絶対に途切れさせない。


 教官が前衛で「因果」を読む。三秒先の崩壊、五秒先の隙、十秒先の安全圏。それは戦場全体の規格を一人の人間が把握しているということで、常人にはただの混沌にしか見えない情報の洪水だった。


 リシェルの仕事は、その洪水を飲み干して、一口サイズに分けて配ることだ。


「クレア、左壁の二人目、肩の傷が開いてます。布が足りなければ外套を裂いて」


 これはリシェル自身の目で見えた。中央の指揮位置から左壁際のクレアと負傷兵の様子は、松明の明かりで十分に視認できる。


 リシェルが頭上に向かって声を投げた。渓谷壁の上方——テオが張りついている岩棚へ。


「テオ、風が変わります。香台を右に一寸」


 渓谷壁の上方で、テオが岩肌にしがみつきながら香台に手を伸ばした。指先が震えている。爪の間から血が滲んでいる。恐怖で全身が硬直しかけるたびに、リシェルの声が鳴る。具体的な指示。考える暇を与えない言葉。テオの手が香台を動かした。一寸、右へ。


 怖い。


 死ぬほど怖い。


 だが、怖いからこそ風の匂いが分かる。恐怖が五感を研ぎ澄ます。教官がそう教えてくれた。


「ガルト、次は軽い。受け流していい」


 ガルトの前を中型の魔獣が駆け抜けようとした。ゼグラの狂乱に巻き込まれまいと逃げる雑魚。ガルトは片手剣の腹で魔獣の突進の軌道を僅かにずらした。倒さない。殺さない。ただ、ここを通さない。通さなければ、後ろの味方は死なない。


 それだけで、いい。


 渓谷の反対側——右壁寄りで、ゼグラが暴れていた。盲点を突かれていることに気づかない隻眼の巨獣は、健眼で捉えた影を片端から薙ぎ払おうとしている。だがその影は常に半歩先にいる。セラフィーナが、ゼグラの視線の先にちらつく「餌」として自分を使いながら、削りを続けていた。


 リシェルには見えている。教官が何をしているのか。


 盤面を作っているのだ。


 生徒たちが勝てる盤面を、自分の身体で。


 ——だから私は、声を止めない。


 セラフィーナの剣が、ゼグラの左脚付け根を掠めた。傷を入れたのではない。切っ先が甲殻の合わせ目をなぞるように走り、すぐに引いた。


 リシェルの目が、その軌道を追っていた。


 ——左脚の付け根。あそこが次の隙になる。


「弓手、次は左脚付け根を狙って。当たらなくていい、注意を逸らすだけで十分です」


 もう、教官の声を待っているのではなかった。教官の剣が示した「次の一手」を、リシェルが自分の目で読み取り、「弓手にできること」に噛み砕いて届ける。短い指示が飛ぶ。第十四歩哨隊の弓手が、一瞬だけ顔を上げた。


 指示を出しているのは、正規の将校ではない。たった数ヶ月前まで「棺桶小隊」と呼ばれていた落ちこぼれ部隊の、一番若い隊員だ。


 だが、その声には迷いがなかった。


「左脚付け根」。具体的だった。「当たらなくていい」。求めすぎていなかった。「注意を逸らすだけで十分です」。自分に何ができれば生き残れるのかが、一文で分かった。


 弓手は矢をつがえた。迷わなかった。


 あの声の通りに動けば、死なない。


 そう思ったのは、弓手だけではなかった。


  *


 第十四歩哨隊の隊長は、もう怒鳴ることをやめていた。


 五分前まで、彼は自分の声で部下を動かそうとしていた。だが怒鳴るほどに兵は萎縮し、ゼグラの突進の余波が岩壁を抉るたびに隊列が崩れた。立て直す間もなく次の衝撃が来る。声が届かない。届いても、何をすればいいのか分からない。


「——盾の列、右に半歩ずれてください。そこに魔獣が二頭来ます。受けたら左に流して。流した先はガルトが塞ぎます」


 リシェルの声だった。


 隊長が出すべき指示を、あの少女が出した。しかも隊長が把握できていなかった「二頭」の接近まで言い当てていた。


 三秒後、本当に二頭が来た。


 盾の列が半歩ずれた位置で受けた。左に流した。ガルトが塞いだ。誰も死ななかった。


 隊長は何も言えなかった。


 次の指示も、その次の指示も、リシェルの声が先に飛んだ。


「槍兵、無理に突かないで。盾の後ろで構えていてください。来たものだけ刺せば大丈夫です」


「大丈夫です」。


 その一語が、妙に効いた。戦場のど真ん中で「大丈夫です」と言い切れる声を、隊長は自分の喉から出せなかった。なぜなら大丈夫かどうか分からなかったからだ。


 だがあの少女には、見えているのだ。教官が読んだ三秒先が。五秒先が。


 見えているから、「大丈夫です」と言える。


 岩棚の上から、ヴァルドーの声が降ってきた。拡声の魔導具を通した怒号。「根性を見せろ」「踏み止まれ」「なぜ退く」——。


 隊長はその声を聞いた。聞いて、意味を探した。「根性を見せろ」。どこに。「踏み止まれ」。どの位置で。「なぜ退く」。退かないとどうすればいい。


 答えがなかった。


 リシェルの声には、常に答えがあった。


「右へ半歩」。それだけで足りた。


 隊長は静かに口を閉じた。自分の声の代わりに、あの少女の声を兵に通した。「聞こえたな。その通りに動け」——それだけを、低い声で繰り返した。


 命令ではなかった。中継だった。


 棺桶小隊の教官がやっていることを、今、第十四歩哨隊の隊長がやっている。リシェルの声を、自分の部下に通す。声の回路が、一つ増えた。


  *


 ゼグラが吠えた。


 渓谷が軋んだ。砕けた岩片が降り注ぎ、松明の火が揺れた。


 だが棺桶小隊は、揺れなかった。


 ガルトが前方左壁寄りで地面に根を張っている。魔獣が突っ込んでくるたびに、その巨体が微動だにしない壁として機能する。倒さない。殺さない。ただ受けて、横にずらす。詰まった魔獣が互いを押し合って動けなくなる。その隙に、隣の兵が槍で仕留める。


 ガルトは鈍い。遅い。誰よりも遅い。だからこそ、誰よりも深く腰を落とせる。誰よりも低い重心で、誰よりも長く同じ場所に立っていられる。


「——退かなくていいよ、ガルト。次も来るけど、同じのが来るだけ」


 リシェルの声が、鉄よりも固い確信をくれた。同じのが来るだけ。ならば受け方は変えなくていい。ガルトは右足をさらに半寸だけ踏み込んだ。


 渓谷壁の上では、テオが獣のように岩肌に張り付いていた。


 唇を噛み切った血が顎を伝っている。指の感覚はとうに消えた。爪が剥がれかけている。だが鼻だけは利く。風が運ぶ獣臭の僅かな偏りを、恐怖で研ぎ澄まされた嗅覚が一寸の単位で追っている。


 風が変わった。左から獣の臭いが濃くなる。中型が三頭、突進の態勢に入っている。


 下からの指示はまだ来ない。


 テオの手が先に動いた。香台の角度を一寸左にずらす。それだけで、三頭の導線が変わる。ゼグラの暴れる軌道と重なって、三頭は渓谷壁に激突した。棺桶小隊の陣地には届かない。


 リシェルの声がなくても、動けた。


 教官が叩き込んだ「立ち位置」の原理が、テオの身体に染み込んでいた。恐怖が五感を研ぎ、五感が判断を生む。もう「怯えるだけの臆病者」ではない。


 テオは臆病だ。死ぬほど怖い。いつだって怖い。


 だから、誰よりも早く気づく。


 ノエルは左壁際で剣を構えたまま動かなかった。右肩がまだ痺れている。重槍を投げた代償。二撃目はない。それでも剣は握れた。一撃の刺客は、使える武器が変わっても一撃を狙う。


「ノエル、まだ待って。あなたの出番は、教官が作る」


 リシェルの声に、ノエルが小さく舌を鳴らした。


 分かっている。分かっているから動かない。苛立ちではなかった。その舌打ちは、自分を繋ぎ止めるための音だった。飛び出したい衝動を、リシェルの「まだ」で殺す。何度も殺す。殺し続ける。


 教官が隙を作る。リシェルが合図をくれる。そのときだけ、全部を賭ける。


 それが、自分の役割だ。


 左壁際の奥で、クレアが第十四歩哨隊の兵士の肩に外套の切れ端を巻いていた。薬草はもうほとんど残っていない。布も足りない。だから外套を裂いた。自分のではない。先ほど治療した兵が「使ってくれ」と差し出したものだ。


 最低限の治療。大きな魔法は使えない。


 だが「あと一歩だけ動ける」ようにすることはできる。


 肩を押さえた兵が立ち上がった。槍を握り直した。戦列に戻った。


 一人。


 たった一人。だがその一人が戦列に戻ったことで、隣の兵士の負担が減った。負担が減った兵士の槍が、一拍だけ早く魔獣を仕留めた。仕留められた魔獣の分だけ、ガルトの前に来る圧力が減った。


 連鎖していた。


 一人を繋ぎ止めることが、十人を生かす。教官が言った通りだった。


 ——「戦場で一番大事なのは、味方が倒れた時にあと一歩だけ動かせる力だ」


 クレアは次の負傷者のもとへ膝をついた。


  *


 セラフィーナはゼグラの左側面で剣を構えたまま、一瞬だけ後方を見た。


 見えた。


 リシェルの声が渓谷を支配している。その声に導かれて、ガルトが壁を張り、テオが風を読み、ノエルが牙を研ぎ、クレアが命を繋いでいる。第十四歩哨隊の槍が、リシェルの指示通りの角度で突き出されている。


 かつて「剣も魔法も中途半端」と評された少女の声が、この戦場を回している。


 かつて「怯えすぎて使い物にならない」と言われた少年が、魔獣の導線を操っている。


 かつて「鈍重すぎて前線に出せない」と笑われた男が、誰よりも確かな壁になっている。


 かつて「一撃しか打てない半端者」と蔑まれた青年が、その一撃でボスの目を穿った。


 かつて「魔力が足りない」と諦められた少女が、あと一歩の治療で戦線を繋いでいる。


 落ちこぼれはいなかった。


 捨て駒は、もういなかった。


 教官が設計し、教え子たちが体現する一つの装置。誰かが崩れれば隣が補い、誰かが退けば別の誰かが前に出る。歯車が噛み合い、回り続ける。止まらない。止められない。


 ——上出来です。


 セラフィーナはその言葉を喉の奥に仕舞った。


 今ではない。まだ終わっていない。


 ゼグラから目を離し、背後を振り返った。棺桶小隊の陣形の向こう——くびれ地形の出口側に、ヴァルドーの精鋭部隊が固まっている。


 それが、崩れ始めていた。


  *


 精鋭部隊の重装騎士が一人、盾を叩き落された。


 魔獣の突進だった。テオが香台の向きを変えたことで、魔獣の群れの導線はヴァルドー側へ偏り続けている。棺桶小隊が処理しきれなかった分ではない。最初から、そちらへ流れるように設計されていた。


 精鋭は強い。装備も練度も、棺桶小隊の比ではない。


 だが指揮がなかった。


 岩棚の上からヴァルドーが叫んでいる。「退くな」「前に出ろ」「隊列を直せ」。全て正しい言葉だった。全て意味のない言葉だった。「退くな」——どこに立てばいいのか。「前に出ろ」——何歩。「隊列を直せ」——どの形に。


 具体性がなかった。


 精鋭の兵士たちは自分の判断で戦っていた。個々の腕は立つ。だが個々の判断がぶつかり合い、互いの動線を邪魔し合い、盾が重なるべき場所に隙間が生まれ、槍が揃うべき場所で一人だけ前に出すぎた。


 そこに魔獣が突っ込んだ。


 一人が吹き飛ばされた。隣の兵が庇おうとして半歩出た。その背後が空いた。空いた場所に次の魔獣が来た。


 連鎖だった。


 棺桶小隊の「噛み合い」と真逆の連鎖。一つの穴が隣の穴を広げ、広がった穴が三つ目の穴を作る。


 精鋭の一人が剣を振った。魔獣を仕留めた。仕留めた直後に別の魔獣が横から体当たりしてきた。姿勢を崩した。踏ん張ろうとした足が、味方が落とした盾の縁を踏んだ。滑った。膝をついた。


「——立て! 根性を見せろ!」


 ヴァルドーの声が岩棚から降ってきた。


 膝をついた兵は、声の方を見なかった。見る余裕がなかった。見たところで、何をすればいいのか分からなかった。


 前衛のセラフィーナが、一瞬だけ視線を精鋭側に走らせた。前方の地形は彼女の位置から見通せる。膝をついた兵のすぐ右——先ほど叩き落とされた味方の大盾が、壁際に転がっているのが見えた。


 セラフィーナの足が、半歩だけ右にずれた。ゼグラの盲点を維持しながら、身体の向きが一瞬だけ精鋭側に開いた。剣の切っ先が、低く、右斜め前を指していた。


 リシェルはその動きを見ていた。教官の視線が向いた方角。膝をついた兵。その右にある大盾。三つを結ぶ線が、リシェルの頭の中で一本になった。


 リシェルの声が、戦場を横切った。


「そこの方、右の盾を拾って。背中を壁に預けて立てば踏ん張れます」


 膝をついた兵は、右手を伸ばした。大盾の縁を掴み、壁に背をつけて立ち上がった。盾を構え直した。


 死ななかった。


 声の通りに動いたら、死ななかった。


 その兵は——棺桶小隊の少女の声を、次からも待った。


 一人だった。まだ一人だけだった。


 だが、精鋭部隊の隊列がさらに崩れるたびに、リシェルの声は届く範囲を広げていった。セラフィーナが前衛で身体の向きや剣の角度を変えるたびに、リシェルはその動きの中から「次に何が起きるか」を読み取った。声は一度も飛んでこない。それでもリシェルには読めた。教官の動きを、一年間見続けてきたから。


「前列、下がりすぎです。三歩だけ前に。——魔獣は左から来ます、盾をそちらに」


 それは棺桶小隊への指示と同じ文法だった。短く、具体的で、迷いがない。


 二人目の兵が、その声に従った。


 三人目が従った。


 指示通りに動けば、死なない。


 その事実が、恐怖の中で最も確かな足場になった。


 ヴァルドーの怒号と、リシェルの采配。


 岩棚の上から降る声と、戦場の中央から飛ぶ声。


 どちらを聞けば生き残れるか——答えは、もう出ていた。


  *


 精鋭部隊の前列がまた一つ崩れた。


 盾を落とした重装騎士が仲間の肩を借りて後退する。その隙間から魔獣が二頭突入した。精鋭の後列が慌てて槍を突き出すが、角度が揃わない。一頭を仕留め損ね、逆に角で肩当てを砕かれた。


 岩棚の上で、ヴァルドーが拡声の魔導具を握り直した。


「なぜだ——なぜ崩れる! 貴様ら王国最強の精鋭だろうが!」


 声が渓谷に反響した。


 だがその反響は、反対側のもう一つの声に呑まれた。


「ガルト、十秒休んでいい。次の波まで間があります。——弓手、装填だけ。撃つのは私が言ってから」


 リシェルの声。静かで、短くて、何をすべきかが分かる声。


 松明の揺れる光の中、戦場には二つの絵が並んでいた。


 くびれ地形の出口側——精鋭部隊が魔獣に押され、隊列を失い、ヴァルドーの怒号だけが虚しく響く崩壊の絵。


 くびれ地形の中央——棺桶小隊を核にした防衛線が、一人の少女の声で回り続ける秩序の絵。


 六人。たった六人と、その声に従う若い正規兵たち。


 それが今、この渓谷で最も堅い場所だった。


 ゼグラの咆哮が夜空を裂いた。隻眼の巨獣が首を振り、重槍の柄が岩壁に当たって軋んだ。狂乱は止まらない。だがその狂乱すら、棺桶小隊の陣形は受け止めていた。


 受け止めて、受け流して、繋いで、回す。


 崩れない。


 崩れない装置が、そこにあった。


 渓谷壁の上で、テオが香台から手を離さずに息を吐いた。白い息が闇に溶けた。恐怖はまだある。ずっとある。でも、その恐怖が教えてくれる。次に何が来るか。どこから来るか。


 風が変わった。


 テオの鼻が僅かな臭いの変化を拾った。魔獣の群れの密度が——前方、精鋭部隊の方でさらに上がっている。


 棺桶小隊の側ではない。ヴァルドーの精鋭が固まっている側。


 テオには、それが何を意味するか分からなかった。


 だが教官には分かっているはずだ。


 セラフィーナはゼグラの盲点で剣を構えたまま、前方を見た。


 精鋭部隊の隊列が、目に見えて歪んでいた。魔獣が集中している。香台が導いた通りに。


 崩壊は、まだ始まったばかりだった。


 そしてそれは——止まらない。


 止めるべき声が、あの岩棚の上にはないのだから。

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