表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
剣聖は、棺桶小隊に剣を教えない  作者: 今井 幻


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/40

第37話「届かない声、届く声」

 岩棚の上から、声が降る。


「なぜ押される! 踏み止まれ!」


 ヴァルドーの怒号は拡声の魔導具を通して渓谷全体に反響した。壁に跳ね、天井に跳ね、砕けて降ってくる。声量だけなら、戦場の誰よりも大きい。


 だが声量と指揮は別の概念だ。


 精鋭部隊の前列——右端の大盾兵が、角を持つ中型魔獣の突進を受けた。盾を正面から構えていた。正面から受ければ、衝撃は腕から肩へ、肩から腰へ抜ける。体幹で殺しきれない分が脚を滑らせ、半歩、後退する。


 その半歩が隣の槍兵との間に隙間を作った。


 魔獣は隙間を見逃さない。角を振り、もう一頭が楔のように食い込む。


「根性を見せろ! 王国最強の名が泣くぞ!」


 岩棚からの声は、盾の角度について何も言わなかった。槍兵の間合いについても。退がった半歩をどう取り戻すかについても。


 何も。


 右端の大盾兵は、歯を食いしばった。盾の角度は変えず、姿勢も変えず、ただ同じ構えのまま次の衝突に備えた。「根性を見せろ」と言われて、できることがそれしかなかったのだろう。


 食いしばった歯で盾の角度は変わらない。次の突進でまた半歩退がる。隙間がさらに広がる。


 崩壊の原理は単純だった。


 指揮とは「次に何をするか」を与えることだ。それがない場所では、人間は「今していること」を繰り返すしかない。繰り返しが同じ失敗を再生産し、穴が穴を呼ぶ。


 精鋭部隊の隊列は、その原理に忠実に従って崩れていた。


  *


「大盾——斜め!」


 別の声が、地上から走った。


 高い。若い。岩棚の怒号よりも声量は小さい。だが輪郭が違った。


「角を受けるなら盾を斜めに構えて、衝撃を横に逃がす! 右端の人、半歩前に! そこ、隙間を詰めて!」


 リシェルの声は、くびれ地形の中央から精鋭部隊の前列まで一直線に飛んだ。精鋭は敵だ。だが今、その盾列が崩れれば魔獣がこちらに溢れる。敵の壁を維持することが、味方を守ることになる——教官がそう設計した盤面だった。


 右端の大盾兵が、一瞬だけ迷った。


 上からは「踏み止まれ」。横からは「盾を斜めに」。


 迷いは一瞬だった。盾を斜めに傾けた方が、腕が楽になる理屈は体が知っていた。訓練で叩き込まれた基本動作だ。ただ、混乱の中でそれを思い出す余裕がなかっただけで。


 声が、思い出させた。


 盾が傾いた。次の突進の衝撃が斜面を滑り、横へ流れた。半歩も退がらない。隣の槍兵との隙間が維持された。


 小さな修正だった。たった一枚の盾の角度。


 だが戦線とは、そういう小さな修正の集積で保たれるものだ。


  *


 セラフィーナはゼグラの盲点側——左壁寄りで、巨獣の前脚関節に三度目の精密打を叩き込んだ直後だった。


 剣を引きながら、前方を一瞥する。


 精鋭部隊の隊列。崩壊の速度が、僅かに落ちている。


 ——リシェルの声が効き始めた。


 短い判断だった。視線をゼグラに戻す。巨獣の重心が右に傾いている。健眼側への偏向。関節の損傷が深くなるにつれて、前脚の踏ん張りが利かなくなっている。


 セラフィーナの意識は、もうゼグラだけに絞られていた。精鋭側を見る余裕はない。背後の戦場は——リシェルに預けた。


 リシェルは前方を見ていた。


 精鋭の右列。壁沿いを迂回してきた中型魔獣が、右端の盾兵に圧力をかけている。盾兵の膝が震えている。あと二拍で抜ける。抜けたら右列に穴が空く。


 教官の目がなくても、見える。自分の目で、見える。


「精鋭部隊、右列の前から三番目! 二拍待って、膝を狙って突いて! 突いたらすぐ引く!」


 リシェルの声が、精鋭兵の体を動かす。


 二拍後。


 リシェルの読み通りだった。盾兵の膝が限界を迎える直前に、迂回してきた中型魔獣の体勢が崩れた。壁沿いの狭い導線を駆け抜けてきた勢いが、曲がり際で脚をもつれさせたのだ。


 槍が、その膝を突いた。突いて、引いた。


 魔獣が片膝をつく。隣の兵がその隙に盾で押し返す。半歩分の余裕が生まれる。


 精鋭の兵士は、自分がなぜ「二拍」待てたのか理解していなかっただろう。ただ、声の通りに動いたら、目の前の魔獣の体勢が崩れる瞬間に槍が届いた。それだけの事実だけが残る。


 理屈は分からなくても、結果は体に刻まれる。


 次の突進が来た時、その兵士の盾は——誰に命じられるまでもなく——斜めに傾いていた。


  *


 岩棚の上で、ヴァルドーが拡声の魔導具を握り締めたまま、眼下を見下ろしていた。


「……あの小娘の声で、動いている? 私の精鋭が?」


 声は独り言のように零れた。拡声の魔導具を通さず、誰にも届かない音量で。


「あり得ん……あり得るはずがない……」


 ヴァルドーの顔が歪んだ。何が起きているか追いつけていない人間の表情だった。


「貴様ら、私の命令を聞け! 左翼を押し上げろ! 全員で突撃しろ!」


 今度は魔導具に叫んだ。声が増幅されて渓谷に叩きつけられる。


 左翼を押し上げろ。全員で突撃しろ。


 ——どこの左翼を。どの方向に。何歩。どのタイミングで。誰が先頭で。後衛はどうする。


 何一つ、ない。


 精鋭部隊の兵士たちは聞いていた。声は聞こえていた。拡声の魔導具の声量は戦場の誰にも届く。


 聞いた上で、体が動かなかった。


「左翼を押し上げろ」では、次の一歩が踏み出せない。


「全員で突撃しろ」では、盾を上げるのか下げるのか決まらない。


 決まらないから、動けない。動けないから、直前に体が覚えた動作——斜めに構えた盾、三拍子の槍、半歩の間合い調整——をそのまま繰り返す。


 それはすべて、あの少女の声が刻んだ動作だった。


  *


 リシェルの喉が灼けていた。


 呼吸が浅い。声帯に負荷がかかっている。唾を飲み込む余裕もない。


 それでも声は止まらなかった。止めたら、今この瞬間に保たれている糸が全部切れる。


「第十四歩哨隊、弓手は右壁寄りの群れに集中! 左はガルトが抑えてる、右だけ!」


 第十四歩哨隊の隊長が、リシェルの声を部下に通す。もう自分の判断ではなく、リシェルの言葉をそのまま——崩さずに——中継することに徹している。


 教官がやっていたことの、縮小版。


 リシェルの視線が一瞬そちらを掠め、すぐに前方へ戻った。


 背後で、剣が岩を削る音がした。ゼグラの前脚を捌いた直後の、一呼吸の隙間。


 その隙間に、セラフィーナの体が動いた。声ではない。剣を引いた右腕がそのまま前方——精鋭の中央を一瞥し、左足が僅かに踏み直された。重心が前に寄る動き。「次が来る」ときの、教官の癖。


 リシェルの目がそれを捉えた。


 教官が前方を見た。中央を。足を踏み直した。——盾が間に合っていない。次の波までに上げ直さなければ。


 一呼吸の間も置かず、リシェルの声が飛んだ。


「精鋭部隊中央! 盾は今のうちに上げ直して! 次の波、三つ数えたら来る! 槍兵は盾の後ろに下がって、盾が受けてから突く! 順番を守って!」


 教官の身体が一瞬示した「読み」が、リシェルの目を経て、具体的な行動指示に膨らんで渓谷を渡る。


 精鋭部隊の中央で、盾兵が盾を上げ直した。三つ数える間に態勢を整えた。次の波が来た。盾が受けた。槍が突いた。穴は開かなかった。


 三つ先を読むのは教官の身体だ。


 それを「今、何をすればいい」に変えるのがリシェルの目と声だ。


  *


 崩壊の速度が、目に見えて鈍った。


 精鋭部隊の隊列は依然として乱れている。だが、もう「穴が穴を呼ぶ」連鎖は止まっていた。個々の兵士が、次の一手を持っている。


 その一手を与えているのが誰なのか、兵士たちの体は既に区別しなくなっていた。


 上から降る声は聞こえる。だが体は動かない。


 横から走る声は小さい。だが体が動く。


 動く。生き延びる。もう一度動く。もう一度生き延びる。


 それだけだった。


 戦場で命を預ける相手を選ぶとき、肩書きは関係ない。地位も関係ない。「この声の通りに動けば死なない」——その実績だけが、信頼の全てだ。


 精鋭部隊の右翼で、一人の兵が倒れかけた隣の仲間を引き起こしながら叫んだ。


「嬢ちゃんの声を聞け! あっちに従えば死なねえ!」


 精鋭騎士が——ヴァルドーが自ら選び、自ら鍛え、自ら率いてきた兵が——名前も知らない少女の声に命を預けると宣言した。


 それは戦場の全員に聞こえた。


 岩棚の上にも。


  *


 ヴァルドーの手から、拡声の魔導具がずり落ちかけた。


 慌てて握り直す。


 指が震えていた。寒さではない。


「——何をしている……私の精鋭が……あの落ちこぼれの、小娘に……」


 声は掠れていた。拡声の魔導具を通しても届かないほど小さい。


「嘘だ。嘘だ……私は副団長だぞ。副団長の命令は絶対だ。それが軍の規律だ。軍の秩序だ。私がいなければこの軍は——」


 言葉尻が、震えて途切れた。


「……聞けと言っている! 私の命令を聞け!」


 魔導具に叫んだ。声が割れた。渓谷に反響した。


 精鋭部隊の兵士たちの耳に、確かに届いた。


 そして、何も起きなかった。


 盾は斜めのまま。槍は三拍子のまま。半歩の間合いはそのまま。


 あの少女が刻んだ動きが、ヴァルドーの怒声の上を滑って、そのまま続いていた。


 命令が、命令として機能しなくなっていた。


 声は出ている。音は届いている。だが、それは指揮ではなかった。もう指揮ではなかった。


 戦場に立っている。声を出している。魔導具も握っている。副団長の鎧も纏っている。


 なのに——消えている。


 この渓谷のどこにも、「ヴァルドー・グランセルトの意志」で動いている人間が、一人もいない。


 拡声の魔導具を握る指の震えが止まらなかった。


 もう一度叫ぼうとして、口が開き——閉じた。開き、また閉じた。次の言葉が出てこないらしかった。


「踏み止まれ」も「根性を見せろ」も「突撃しろ」も、既に叫んだ。全て叫んで、何も動かなかった。


 それ以外の言葉を、あの男は持っていない。セラフィーナは知っていた。具体的な盾の角度も、槍の拍子も、退がる歩数も、ヴァルドーが口にしたことは一度もなかった。


 ——それはいつも、セラフィーナがやっていた仕事だった。


 セラフィーナがいた頃は、ヴァルドーの怒声の直後に、彼女の具体的な指示が兵に通っていた。兵が従っていたのは最初からセラフィーナの采配であり、ヴァルドーの声は「開始の合図」以上の機能を持っていなかった。


 追放して以来、本隊の作戦が失敗し続けた理由。北境に来て、この渓谷で、あの怒号が誰にも届かない理由。全ては同じ一本の線の上にある。


 ——だが、その線はあの岩棚の上からは見えないのだろう。


 見えないから、立ち尽くしている。


 声を失った指揮官が、騒音を垂れ流す装置になって、岩棚の上に取り残されている。


  *


 くびれ地形の中央で、リシェルは息を吸った。


 浅い。喉の奥が張り付くように痛い。


 だが声は出る。まだ出る。


「ガルト、次の波まで五つ。休んで」


 左壁寄りで片手剣を構えるガルトの肩が、僅かに下がった。五つ数える間だけ、膝の力を抜く。


「ノエル、左壁から動かないで。まだ」


 ノエルが剣を握り直す気配。焦りが伝わってくる。だが動かない。声が抑えている。


「クレア、右端の兵士、脚を引きずってる。あの人だけ後ろに——」


 声が途切れた。


 視界の端で、教官の構えが変わった。


 ゼグラの前脚を叩き続けていたセラフィーナの剣が、一瞬だけ止まった。追撃しない。深追いしない——ではなく、もう追う必要がないという間合いの取り方。そして半歩、大きく退いた。距離を取っている。これまでの削りとは違う、別の構えに移行しようとしている。


 リシェルの体が強張った。視線がゼグラの前脚へ走る。教官があの間合いを取るのは、相手の崩壊が近いときだ。


 ——前脚の限界が、近い。


 一拍の沈黙——そして渓谷が震えた。


  *


 ゼグラが、吼えた。


 それまでの咆哮とは質が違った。


 狂乱の絶叫ではなかった。


 低い。地鳴りのような、腹の底から渓谷の岩盤を直接揺さぶる振動。魔獣の群れが一斉に動きを止めた。精鋭の兵も、棺桶小隊の若者たちも、一瞬だけ呼吸を忘れた。


 ゼグラの隻眼が動いた。


 健眼——左目が、渓谷の中を舐めるように走査する。


 群がる小さな魔獣の向こう。盾を構える人間の壁の向こう。槍を突く手の向こう。


 そのどれでもない、一つの影を——


 巨獣の首が、大きく右に回った。盲点側。右目があった方。重槍の柄がまだ突き出ている、その横を通って——健眼がようやく捉えた影を、真正面に据えるように。


 損傷した前脚が軋みを上げた。体重が後脚に移る。前脚が地面から浮く。


 セラフィーナは、その挙動を二歩前の段階で読んでいた。


 ゼグラの重心移動が変わった。隻眼の走査が止まった先に、自分がいる。


 ——来る。


 標的が、変わった。


 群れの魔獣でも、崩れかけた精鋭でも、壁として立つガルトでもない。


 自分の関節を、繰り返し、繰り返し、正確に破壊し続けてきた存在。


 セラフィーナ・レイヴェルト。


 怒りが一点に収束する瞬間を、セラフィーナは冷ややかに見つめていた。


 ゼグラの後脚が岩盤を蹴った。


 渓谷の壁が震えた。空気が裂けた。


 質量そのものが、暴力として、一直線にこちらへ向かってくる。


 規格外。指揮だけでは捌けない。教え子の連携では受けきれない。


 ——「物理的な暴力の壁」。


 セラフィーナの左手が、無意識に懐へ伸びた。


 指先が、欠けた剣の鍔に触れた。


 冷たい金属。


 握らなかった。触れただけだった。


 それだけで、十分だった。


 剣聖が、呼吸を一つ落とした。


 右手の剣を握り直す。


 構えが変わった。


 教官の構えではなかった。


  *


 リシェルが見た。


 教官の背中が、変わった。


 同じ人間の、同じ背中で、同じ剣を握っている。だが何かが——空気の温度が、教官の周囲だけ別の季節になったような。


 ゼグラの突進が迫る。


 地面が震えている。岩壁が軋んでいる。黒い角が、闇を割って突っ込んでくる。


 教官は動かない。


 片目を潰された怒りの全てを一人に集めた、規格外の突進の前に。


 動かない。


 リシェルの唇が動いた。教官の名前の形に開き、声にならず、閉じた。手が伸びかけ、止まった。


 あの背中は、退がる背中ではない。


 教官は教え子に「三歩下がれ」と言い続けてきた人だ。


 その人が、今、一歩も退がらない。


 リシェルのノートに書かれていない——教官が一度も教えなかった——唯一の授業が、今から始まる。


 剣聖が、剣聖として立つ授業が。


  *


 ゼグラの咆哮が、夜空を喰い破った。


 黒い質量が渓谷を駆ける。


 セラフィーナの銀灰色の髪が、風圧で煽られた。


 彼女の眼は、巨獣の肩を見ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ