第35話「欠点という名の武器」
渓谷の壁を、風が舐めた。
湿った、冷たい風。その中に混じる異臭を、テオは逃さなかった。
——右。
次いで、左。さらに奥。
三方向から、獣の体臭が流れてくる。濃淡が違う。右は薄い。左はもう少し濃い。正面の奥が、一番重い。
重いということは、数が多い。
薄いということは、まだ遠い。
テオの歯が鳴った。止められない。寒さのせいではない。全身の毛穴が開いているせいだ。
怖い。
膝が笑う。指先が痺れる。渓谷壁の岩肌を掴む手に、力が入りすぎて爪の間から血が滲んでいた。
——怖い。死ぬほど怖い。
だからこそ、わかる。
テオは岩棚を這い、三つ先の香台に手を伸ばした。薄暗い渓谷壁の窪みに据えられた粗末な鉄皿。もう煙は見えない。だが鼻を近づければ、まだ残り香が纏わりついている。
左に一寸。向きをずらした。
それだけで、獣臭の濃淡が変わる。右から吹き込んでいた風に乗って、誘引香の残滓が渓谷の左壁側——ヴァルドーの精鋭がひしめく方向——へ、より強く流れ始めた。
テオの耳が、眼下の闇を拾った。
地面を蹴る無数の爪音。小型魔獣の群れが、左へ逸れていく。
成功だ。
だが、全部じゃない。
正面の獣臭が消えない。重い。近い。護衛獣の残骸を踏み越えようとする、もっと大きな何かの気配。
教官に言われた通りだった。
『怯えること自体は、弱さではありません。怯えを無視することが、弱さです。テオ、あなたの恐怖は——誰よりも正確な方位磁針です』
あの日の声が、骨の奥で鳴る。
テオは震える手で次の香台を探した。嗅ぎ分ける。探す。調整する。この手が止まったら、下にいる仲間に獣の群れが落ちる。
恐怖で指が動く。恐怖で鼻が利く。恐怖が——俺を生かしている。
テオは歯を食いしばった。血の味がした。噛み切ったのは、自分の唇だった。
構わない。
怖いままでいい。この怖さが、今、誰かを生かしているなら。
*
眼下の渓谷では、「道」が動き始めていた。
リシェルの号令から、十数秒。
ガルトが最前列に立った。
護衛獣の巨体が通路を塞ぎ、その隙間を縫って小型魔獣が押し寄せてくる。だが流れは明らかに細くなっていた。テオが上方で香台を調整し、セラフィーナが最後の誘引源を潰した効果が、目に見える形で渓谷を変えていた。
それでも——来る。
隙間をすり抜けた中型魔獣が、まっすぐガルトに突っ込んだ。
四本脚の低い体勢。分厚い頭骨を槍のように突き出し、全重量を乗せた突進。正面から受ければ、常人なら弾き飛ばされて渓谷壁に叩きつけられる。
ガルトは——動かなかった。
片手剣を地面に突き立て、両足を肩幅の倍に開き、腰を限界まで落とした。岩を踏む足裏が、地面そのものと溶け合うように沈む。
衝撃。
鈍い肉と骨の音が渓谷に反響した。
ガルトの身体が、半歩も退かなかった。
中型魔獣の頭骨が、ガルトの胸板に叩きつけられ——そのまま止まった。前脚が空を掻く。質量が行き場を失い、魔獣の後脚が浮いた。
ガルトの左手が、魔獣の角を掴んだ。
持ち上げはしない。横にずらしただけだ。
崩れた体勢の魔獣が、渓谷壁にぶつかって転がった。その上を次の魔獣が踏み、足がもつれ、さらに後続が詰まる。
鈍足。鈍重。
剣を振らせてもらえなかった日々。「お前の遅さには価値がある」と、誰も言ってくれなかった。教官だけだ。あの人だけが、鈍いことの意味を教えてくれた。
速く動けないから、重心が低い。
速く動けないから、踏み込みが深い。
速く動けないから——退かない。
退けない、ではない。退かないのだ。
二頭目の突進を、ガルトは同じ姿勢で受けた。衝撃が両脚を通って岩盤に逃げる。動かない。三頭目。動かない。
渓谷の最狭部に、人間一人分の「壁」が立っていた。
*
リシェルは、その光景を指揮位置から見ていた。
ガルトが止めている。完璧に。
隙間を抜けてくる魔獣の数は、テオの誘導で確実に減っている。だが零にはならない。ガルトが受け止め、停滞した魔獣の側面をノエルの剣が叩く。倒すのではない。体勢を崩して、ガルトの壁の外に転がすだけ。
クレアが左壁際を走った。第十四歩哨隊の弓手が一人、魔獣の破片に脛を裂かれて片膝をついていた。
クレアが布を当てた。一巻き。二巻き。
「立てますか」
短い問い。弓手が頷いた。クレアは次の声を聞く前に背を向け、もう走っていた。
大きな魔法は使えない。だが、「あと一歩」だけ動かせる。その一歩が、弓手の矢を一本増やす。一本の矢が、ガルトの壁にかかる圧力を一頭分だけ減らす。
戦場が——回っている。
リシェルは息を吐いた。目の前に広がる光景は、教官のノートに書き写した何十もの「型」そのものだった。
ガルトが芯になり、テオが流れを逸らし、クレアが戦線を繋ぎ、ノエルが隙間を潰す。リシェルの声がそれらを結ぶ。
——でも、まだ終わっていない。
護衛獣の残骸の向こう。火矢の光が届かない暗がりの奥で、巨大な輪郭が動いていた。
黒角王ゼグラ。
護衛を失い、前方を残骸に塞がれ、進軍速度を落とされていた。だがその圧倒的な質量は、障壁ごとねじ伏せるように前進を続けている。横倒しの護衛獣が悲鳴を上げた。ゼグラの前脚が、味方だった獣の胴体を踏み台にして、残骸の山を乗り越えようとしていた。
左側面が露出する。
その瞬間に、銀灰色の影が走った。
セラフィーナ。
陣形の外、火矢の照明の縁。一閃。
斬撃音は聞こえなかった。代わりに、ゼグラの前脚が不自然に折れ曲がった。関節の隙間。分厚い甲殻の合わせ目だけを、針のように正確に突いていた。
ゼグラの前進が崩れた。残骸の山に前脚を取られ、巨体が前のめりに傾く。
角が——下がった。
リシェルの視界に、あの黒い角が突き出した。分厚い頭骨に守られた左目。そしてその反対側——右目が、火矢の光を受けて鈍く光った。
教官が作った型。
ガルトが支えた壁。
テオが逸らした流れ。
クレアが繋いだ戦線。
その全てが、「この一瞬」のためにあった。
リシェルは知っていた。教官のノートに何度も書いた。「盤面を作るのは教官の仕事。それを回すのは私の仕事。そして——」
声が出た。
「——今です、ノエル!」
*
ノエルは、走っていた。
号令が聞こえた瞬間に、剣を捨てていた。
右壁際。岩壁の根元。教官が、いつからか密かに置いておいた一本の重槍。渓谷防衛戦の戦利品。正規の支給品リストにはない、教官だけが覚えていた余りもの。
教官は知っていた。この瞬間が来ることを。
ノエルの手が、重槍の柄を握った。冷たい。重い。だがこの重さを、ノエルは知っている。
一撃。
俺には一撃しか打てない。二撃目はない。体が持たない。昔はそれが恥だった。周りの奴らが三連撃、五連撃と繰り出す中で、たった一発しか出せない自分が惨めだった。
教官が言った。
『一撃で構いません。その一撃に、全てを懸けなさい。盤面は私が作ります。あなたは——刺すだけでいい』
足が岩を蹴った。
視界の中心に、黒い角がある。前のめりに崩れたゼグラの頭部。分厚い甲殻。額も顎も、槍では貫けない。
だが——右目は開いている。
ノエルの全身が弓になった。左足を踏み込み、腰を捻り、右腕を限界まで引く。重槍の穂先が、火矢の光を一瞬だけ受けた。
投擲。
重槍が空気を裂いた。
渓谷の闇を一直線に貫いて、穂先がゼグラの右目に吸い込まれた。
硬い何かを突き破る感触が、投げた手に返ってくるはずもない距離だった。だが音が返ってきた。甲殻とは違う、柔らかいものを貫く湿った音。
ゼグラの頭が跳ね上がった。
そして——咆哮。
渓谷全体が震えた。岩壁から砂利が落ちた。リシェルの足元が揺れ、第十四歩哨隊の弓手たちが思わず弦から手を離した。
右目から重槍を生やしたまま、ゼグラがのたうった。前脚が残骸を蹴散らし、護衛獣の死骸が壁際に叩きつけられた。苦悶と怒りが混ざり合った、知性のない絶叫が、何度も何度も渓谷の壁に跳ね返った。
ノエルは膝をついていた。
投げ切った右腕が、力を失ってぶら下がっている。肩が軋む。これで終わりだ。もう二投目はない。
だが——槍は刺さった。
ノエルは自分の右手を見た。まだ震えている。けれど、かつて「欠点」と呼ばれたものが穿ったのは、戦場最強の魔獣の目だった。
『一撃で構いません』
教官。届きました。
*
狂乱したゼグラが前進を再開した。
隻眼。右半分の視界を失い、距離感を狂わせたまま、怒りだけで突き進む。残骸の障壁が弾け飛び、通路が抉れた。
だが棺桶小隊は——退かなかった。
「ガルト、二歩左! クレア、左壁に詰めて!」
リシェルの声が飛ぶ。
ガルトが左へずれた。ゼグラの盲点——失われた右目の側に回り込む位置取り。クレアが左壁際で負傷兵を引きずり、射線を空けた。弓手長が弦を引いた。三本の矢がゼグラの首元の甲殻の合わせ目に吸い込まれ、一本が肉に食い込んだ。
致命傷ではない。だが動きが一瞬鈍る。
その一瞬で、ガルトが踏み直す。ノエルが剣を拾い、左壁際へ退避する。リシェルが全体を確認し、次の指示を組み立てる。
ローテーション。
教官が「型」と呼んだもの。押されたら退き、退いたら回り、回ったら刺す。一人が崩れても、隣がすぐ補う。
ゼグラの突進が渓谷壁を抉った。岩の破片が飛び散った。だが棺桶小隊は、その突進の軌道上にいない。常に半歩だけ横にいる。常にゼグラの右目——重槍が突き刺さった盲点の側にいる。
見えていないのだ、この怪物には。
「欠点」たちが、どこにいるか。
岩棚の上で、ヴァルドーが何かを叫んでいた。拡声の魔導具を通した怒号が、渓谷に反響していた。だが言葉になっていなかった。「なぜ」と「止まれ」と「私の」が、順序もなく砕けて落ちてくるだけだった。
誰も聞いていなかった。
代わりに、全員がリシェルの声を聞いていた。
「弓手、次は左首筋。ガルト、三秒後に半歩前。クレア、後列の方、出血が止まっていません」
短く、具体的で、迷いがない。
第十四歩哨隊の兵が一人、ゼグラの突進の余波で飛んだ岩に打たれて倒れた仲間を引きずりながら、前を見た。
——棺桶小隊が、黒角王の猛攻を受け止めている。
たった五人と教官一人。剣も魔法も半端な落ちこぼれだと聞いていた。捨て駒。棺桶。死ぬためにここに来た連中。
そのはずだった。
なのに今、戦場で一番確かな場所は——あの六人の周囲だった。
「……あいつら、本当にあの『棺桶小隊』なのか」
誰かが呟いた。
答える者はいなかった。目の前の光景が、言葉より雄弁だった。
隻眼の黒角王が吠えた。渓谷が軋んだ。
棺桶小隊は、一歩も退かなかった。




