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剣聖は、棺桶小隊に剣を教えない  作者: 今井 幻


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第30話「盤面の再設計」

 二分半。


 その数字が、セラフィーナの頭蓋の内側で反響した。


 テオの報告。第三波の接近。第二波より数が多く、速い。


 ——それだけあれば、十分だ。


 左掌が脈を打つように痛んでいた。鍔の欠けた縁が刻んだ傷口から、まだ血が滲んでいる。


 セラフィーナは剣を鞘に戻した。


 音もなく。呼吸ひとつ乱さず。たった今まで精鋭部隊の喉元を睨んでいた瞳が——数秒で、渓谷全体を舐め始めた。


 右。左。足元の地面。壁の傾斜。風の向き。


 殺意は消えていない。ただそれは、もう表情には出ない場所へ格納された。沸騰した水が、圧力鍋の蓋の下で静かに回り続けているように。


「クレア」


 名前を呼ばれた瞬間、衛生兵が反射的に駆け寄った。


「止血帯を」


「は、はい——」


 差し出された細布を受け取る。セラフィーナは自分の左掌をちらと見た。指の間から、松明の光で黒く見える線が一筋。痛みは認識している。だが戦闘行動に支障が出る深さではない。


 布を手早く巻き、端を歯で引いて締めた。


 その間も、視線は一度も地面から離れなかった。


 足元に転がっているもの。


 折れた槍。軸が斜めにひしゃげた穂先。腐った弓の弦。そして——先ほど衆目の前に晒した不良品の木箱。蓋が開いたまま、くびれ地形の壁際に散らばっている。


 ガラクタの山。


 普通の指揮官なら、視界にすら入れない。


 セラフィーナは膝をつき、折れた槍を一本拾い上げた。


「——使えます」


 独り言のように呟いた。だがその声は、教壇で定理を読み上げるときの声色だった。


 リシェルの背筋が、無意識に伸びた。


 あの声だ。


 教官が「教え始める」ときの、冷たくて明瞭な、一音の無駄もない声。


 *


 セラフィーナは折れた槍の柄を逆さに持ち、穂先を下にして地面を指した。


「ガルト」


「おう」


「この槍を六本、地面に斜めに埋めなさい。穂先が後方——山道側に向くように。角度は四十五度。深さは掌二つ分」


 ガルトが一瞬だけ瞬いた。


 折れた槍。柄が短く、穂先は歪んでいる。振るえば折れる。突けば曲がる。武器としては死んでいる。


 だが——地面に埋めれば。


 斜めに突き立った鉄の棘。


「……対突進の牙か」


「正解。四十五度なら、中型魔獣の体当たりの衝撃を地面に逃がせます。槍が保つ必要はない。一回止めれば、それでいい」


 ガルトの顔に、何かが灯った。


 不良品の槍。折れて使い物にならないと、ヴァルドーの手下が嘲笑った槍。その死骸が——地面に埋められた瞬間、魔獣の脚を止める牙になる。


「壊れた武器で、陣地を作るのか」


「壊れた武器は武器としては使えません。ですが杭にはなる」


 セラフィーナは既に次を見ていた。


 散らばった木箱。蓋が外れた空の補給箱。中身は軍監記録官の前で全て開封済み——つまり、箱そのものはただの木材。


「ノエル。その箱を三つ、ガルトの右側に縦に積みなさい。一番下の箱には岩を詰めて重しにする。上二つは空のまま」


「……盾かよ」


「盾です。下が重く上が軽ければ、魔獣がぶつかっても下半分は動かない。上の箱が吹き飛ぶことで衝撃を吸収する。使い捨ての壁」


 ノエルが舌を鳴らした。感心と呆れが半分ずつ混じった音だった。


「あんた、ほんとに何でも使うな」


「使えないものはありません。使い方を間違えているだけです」


 その台詞を聞いた瞬間——リシェルのノートに書き殴られたある一行が、脳裏を走った。


 *「教官語録:欠点とは、配置を間違えた長所のこと」*


 折れた槍は武器としては欠陥品。だが杭としてなら長所になる。


 空の箱は荷物としては無価値。だが使い捨ての壁としてなら機能する。


 ——自分たちと、同じだ。


 器用貧乏のリシェル。臆病なテオ。鈍重なガルト。一撃のノエル。魔力不足のクレア。


 欠点を配置し直されて、武器になった五人。


 この人は、人も物も、同じ目で見ている。


 同じ冷徹さで。同じ正確さで。——同じ信頼で。


 *


 ガルトが折れた槍を地面に叩き込む鈍い音が、くびれ地形に響いた。


 一本目。岩混じりの地面に、斜め四十五度。穂先が山道側を向く。


 二本目。一本目から腕二つ分の間隔。


 セラフィーナの目が、ガルトの作業を一瞥しただけで離れた。この男は一度「正解」を理解すれば、精度を勝手に上げていく。鈍重さの裏にある頑固な正確さは、とうに信頼の対象だった。


 ノエルも動いていた。片手で空箱を持ち上げ、もう片方の手で壁際の拳大の岩を拾っては箱に放り込む。口は悪いが手は速い。「壊れた武器を使う」という発想が気に入ったのか、口元がわずかに歪んでいた。


 そしてセラフィーナは、テオを見た。


 くびれ最狭部の左壁際。投擲短剣を二振りとも使い切った斥候が、次の指示を待つ目でこちらを見ていた。その目は、怯えてはいない。ただ、研ぎ澄まされている。


「テオ」


「……はい」


「匂いの報告を」


 テオの鼻がわずかに動いた。眉が寄る。風を読んでいるのではない。風に混じったものを選り分けている。


「……後方から。獣の匂い、さっきより濃い。でも——それだけじゃない」


 間。


「甘い。焦げたような、甘い匂いが。風が変わるたびに、濃くなったり薄くなったりする」


「方向は」


「後方の……右寄り。渓谷の壁に沿って、山道の上のほうから流れてきてる」


 セラフィーナの目が、一瞬だけ細くなった。


 誘引香。あの匂いが、まだ焚かれている。


 ——だが、匂いには「向き」がある。


 香台には煙の出口がある。風向きと煙の出口の角度で、匂いが流れる方向が決まる。


 つまり——向きを変えれば、魔獣の流れも変わる。


「テオ。あなたに、一つ仕事を頼みます」


 テオの肩が微かに強張った。


「左壁の根元、三歩後ろに獣道があるのを覚えていますか」


「……ある。小型の魔獣が通った跡。幅は人一人分。上に向かって登ってる」


「その獣道を登りなさい。渓谷の壁の上に出られるはずです。そこから山道側を見下ろせば、香台が見える。匂いの元を辿ればいい。あなたの鼻なら、見つけられます」


 テオの喉が、小さく鳴った。


 獣道を一人で登る。渓谷の壁の上。仲間から離れる。教官の声が届かない場所。


 ——怖い。


 当たり前だ。怖いに決まっている。


 だがテオは、もう「怖い」という感覚の意味を知っていた。恐怖は、危険が近いことを教えてくれる警報だ。警報が鳴っているなら——それだけ、この任務は重要だということだ。


「香台を見つけたら、向きを変えろ……ってことですか」


「その通り。煙の出口を、前方に——精鋭部隊の側に向けなさい。匂いの流れが反転すれば、次の波から魔獣の一部はあちら側に引き寄せられます」


 テオの目が見開かれた。


 敵が仕掛けた罠を——そのまま、敵に返す。


「全部は無理でも構いません。流れの一部を逸らすだけで、後方の圧力が減る。一割減れば、ガルトの壁が保つ。二割減れば、私たちの手数が余る。三割減れば——」


「精鋭の連中が、自分たちの道具で喰われる」


 セラフィーナは答えなかった。


 だが否定もしなかった。


「一つだけ。香台の近くには獣がいます。匂いに寄ってきた小型の個体が周囲にいる可能性がある。あなたの短剣は二振りとも手元にないでしょう」


 テオの手が腰に触れた。空の鞘。


「行きがけに回収します。一振り目は右壁の岩の根元。二振り目は後方通路の——」


「地面に刺さったまま。覚えています」


 セラフィーナが、ほんの僅かに頷いた。


「往復に使える時間は、長くありません。ですが、急いで足音を立てれば本末転倒です」


 テオは唾を飲み込んだ。そして、言った。


「——教官。俺の鼻を信じてくれてますか」


「信じていなければ、この任務は出しません」


 短い沈黙。


 テオは踵を返し、まず右壁の岩の根元へ走った。第二波で叩きつけた一振り目が、岩の割れ目に引っかかっている。引き抜いて、鞘に戻す。次に後方通路——ガルトの背中を回り込み、暗がりに膝をついて地面を探った。二振り目の柄が指に触れた。回収。


 二振りを腰に収めたテオは、そのまま左壁の根元へ滑るように移動した。獣道の入り口。人一人分の隙間が、壁を登るように上へ伸びている。


 一度だけ振り返った。松明の明かりの中に、教官の銀灰色の髪が見えた。


 振り返るのは、それきりにした。


 暗がりの中へ、音もなく消える。


 その足音は——既に、斥候のそれだった。


 リシェルの耳でも、三歩目で聞こえなくなった。


 *


 テオが消えた直後、セラフィーナはくびれ地形の中央に戻った。


 前方——精鋭部隊の壁は動かない。ヴァルドーの岩棚も変わらない。ただし先ほど半歩退いた最前列が、じりじりと元の位置に戻ろうとしている気配はあった。だが完全には戻れていない。足が、まだ覚えている。


 後方——ガルトが四本目の折れた槍を地面に打ち込んでいた。斜め四十五度の鉄の牙が、山道側に向かって並ぶ。ノエルが積み上げた木箱の壁は、ガルトの右手側に二列。下段の箱には拳大の岩が詰まり、上段は空。見た目は粗末だが、中型魔獣の一撃を一度は受け止める。一度で十分だ。


 セラフィーナは全員を見渡した。


「ガルト」


 六本目を打ち終えた大男が、汗を拭いもせず振り返った。


「あなたの位置はそのまま。中央の蝶番。左右どちらが崩れかけても、あなたが踏み止まる限り戦線は繋がる」


「おう。いつも通りだ」


「いつも通りではありません」


 声のトーンが、一段だけ変わった。


「今日は、あなたの後ろに下がれる場所がない。退く余地はゼロです。その代わり——」


 セラフィーナの目が、ガルトの足元に埋まった折れた槍の列を示した。


「あなたの手前に、牙が六本。中型以下なら一度は止まる。止まった瞬間に叩きなさい。向こうから突っ込んでくる分には、あなたが振る必要はない。踏み込んで、重心を前に預けて、受ければいい」


 ガルトの口が、不器用に歪んだ。


 笑っている——のだろう。多分。


「退くな、ただ立て……ってことだろ。得意分野だ」


「ええ。あなたの得意分野です」


 次。


「ノエル」


 壁際に戻ったノエルが、岩壁根元に立てかけた重槍をちらと見た。


「まだです」


 即答。


 ノエルの眉が跳ねた。


「まだって——」


「あの槍は、まだ撃つな。今ではない」


「いつだよ」


「その時が来れば、わかります」


 沈黙。


 ノエルの口元がわずかに引き攣った。反論したい。「いつ」を知りたい。だがこの教官が「今ではない」と言うとき、それは「もっと大きな獲物がいる」と同義だと——もう学んでいた。


「……わかった。その時まで、剣で繋ぐ」


「そうしなさい。ただし、無理に前に出ないこと。ガルトの背中の右斜め後方。そこがあなたの位置です。壁を抜けてきた個体の横腹だけを狙いなさい」


 ノエルが顎を引いた。


 最後に——


「クレア」


 衛生兵が背筋を正した。


「治療の優先順位を確認します。致命傷は後回しにしなさい」


 クレアの目が、一瞬だけ揺れた。


「戦場で一番大事なのは、今にも死ぬ兵を助けることではありません。あと少しで動けなくなる兵を、もう一歩だけ動かすことです」


 その言葉を、クレアは聞いたことがあった。


 あの日。役割を与えられた日。


 *「大きな魔法は要らない。味方が倒れた時に、あと一歩だけ動かせる力——それがあなたの武器です」*


 あの日と同じ言葉。だが、あの日とは重みが違った。


 今、ここで、本当に兵が倒れる。本当に「あと一歩」が生死を分ける。


「……はい。止血と鎮痛だけに集中します。動ける兵を、一人でも多く戦線に繋ぎます」


「お願いします」


 お願い、という言葉。


 教官がこの言葉を使うのは、相手の仕事を本当に必要としている時だけだと——五人全員が、もう知っていた。


 *


 ガルトの槍杭が六本、完成した。


 ノエルの即席壁が、右翼を薄く覆った。


 テオは、もう姿が見えない。


 第三波の地鳴りは——もう、足の裏に伝わっていた。


 後方、山道の暗がりの奥。松明の光が届かない場所で、何かが蠢いている。第二波の倍は下らない。


 残された時間はもう、秒で数えるしかなかった。


 セラフィーナが、振り向いた。


 前方でも後方でもなく——中央。


 リシェルの方を。


「リシェル」


 呼ばれた瞬間、リシェルの全身が総毛立った。


 恐怖ではない。


 教官の目が、自分だけを見ている。


 あの目。戦場の全てを一望する瞳が——今この瞬間だけは、リシェル・アルノー一人に焦点を合わせている。


「テオが香台を操作すれば、後方の圧力は変わります。ガルトの壁と槍杭で、中央は保つ。ノエルは温存。クレアが戦線を繋ぐ」


 セラフィーナが一歩、リシェルに近づいた。


「ですが——それぞれの判断を、誰が束ねますか」


 リシェルの心臓が、一拍だけ止まった気がした。


「テオの報告を聞いて、ガルトに指示を出す。ノエルを抑え、クレアに優先順位を伝える。第十四歩哨隊との連携を調整する。——それができるのは、ここに一人しかいません」


 わかっている。


 わかっているのに、言葉にされると震える。


「中央はあなたが回しなさい」


 教官の声は、静かだった。


 怒鳴りもしない。鼓舞もしない。精神論は一切ない。


 ただ事実を、事実として告げている。


「私は、全体を見ます」


 ——全体を見る。


 つまり、中央は見ない。


 中央は——リシェルに委ねる。


 第二波の防衛を代行した時とは、次元が違う。あの時は教官が前方にいて、振り向けば背中が見えた。だが今度は、教官の視線は全体に向けられる。中央の判断は、リシェルの声だけが頼りになる。


「……教官」


 声が震えそうになった。歯を噛んだ。止めた。


「一つだけ、聞いてもいいですか」


「手短に」


「教官は——私が間違えたら、止めてくれますか」


 セラフィーナの表情は、変わらなかった。


「間違えません」


「でも、もし——」


「あなたは、私のノートを全て書き取った人間です。私の言葉を、崩さず通せる人間です」


 一拍。


「私が全体を見るのは、あなたが中央を回すからです。逆ではない」


 意味が、一瞬遅れて沁みた。


 教官が全体を見られるのは——リシェルが中央を支えるから。


 自分は、教官の余裕を作る側なのだ。


 リシェルは息を吸った。


 吐いた。


 もう一度吸った。


 そして、頷いた。


「——了解しました。中央は、私が回します」


 声が震えなかったのは、奇跡ではなかった。


 最初の訓練から今日まで。教官の言葉を書き取り、理由を考え、指示を翻訳し、声を張り、兵を動かしてきた全ての日が——今この一瞬のために、喉の筋肉を鍛えていたのだ。


 セラフィーナが、背を向けた。


 それは信頼の形だった。


 中央を任せた相手に背を向けるということは——振り返る必要がないと宣言しているのと同じだ。


 銀灰色の髪が、松明の光を受けてゆらりと揺れる。教官の視線は既に全体へ——前方の精鋭部隊の配置、後方の槍杭、右翼の木箱壁、テオが消えた獣道の入り口、第十四歩哨隊の陣列。そのすべてを、一つの盤面として把握し始めている。


 リシェルは拳を握った。


 懐のノートの重みを感じた。


 教官の全ての言葉が、そこに詰まっている。


 ——回しなさい、と言われた。


 なら、回す。


「ガルト!」


 リシェルの声が、くびれ地形に響いた。


「槍杭の手前、三歩! そこで構えて! 第三波は数が多い、最初の衝突は杭に任せて体力を温存!」


「おう!」


「ノエル! ガルトの右斜め後方、動くな! 壁を抜けた奴だけ!」


「言われなくてもわかってる!」


「第十四歩哨隊——弓兵は左壁寄り! 槍兵はガルトの左を補完! 射線を塞がないように間隔を空けて!」


 後方三十歩、第十四歩哨隊の弓手長が、一瞬だけ目を見張った。


 あの小さな女の声が——迷いなく、的確に、自分たちの配置を指定している。


「クレア! ガルトの五歩後方に待機! 壁際に寄って射線から外れて!」


「了解!」


 声が、渓谷の壁に反響して返ってきた。


 全員が動いた。


 全員が——リシェルの声で、動いた。


 第三波の咆哮が、山道の暗がりから轟いた。地面が揺れた。松明の炎が横に流れた。


 リシェルは、怖かった。


 当たり前だ。


 だが——教官が背を向けている。


 その背中が、怖さより重かった。


「来ます! 構え!」


 リシェルの声が、第三波の咆哮を切り裂いた。

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