第29話「断頭台」
地鳴りが、足の裏を叩いた。
「来ます——後方、第二波!」
リシェルの声が渓谷の壁に跳ねた。
セラフィーナは振り返らない。
前方の精鋭部隊——磨き抜かれた鎧の壁が、松明の光を鈍く弾いている。一歩も動かない。動く必要がないのだ。後ろから魔獣が来る。前は塞がっている。挟み潰すだけでいい。
それがヴァルドーの絵図。
「ガルト、構え直し。テオ、数と方向」
背中越しに、短く二つだけ。
「——五、いや六。右壁寄りに三、左に二、中央にでかいのが一!」
テオの声は相変わらず震えていた。だが報告に迷いはない。恐怖を嗅覚に変換する訓練を、テオは何百回と繰り返してきた。
「中央のでかいの、ガルト。左二匹は第十四歩哨隊の弓。右三匹——」
リシェルの中継が走る。
「ノエル、右壁際の先頭だけ。残り二匹はテオが誘導、歩哨隊の槍衾に流して」
「了解」
ノエルの返事は短い。だが剣を持ち替える音は、もう聞き慣れた音だった。
衝突。
壁のように構えたガルトの片手剣に、先頭の中型魔獣が体当たりした。靴底が岩を削る。二歩——押された。だが三歩目はなかった。
ガルトの膝が沈み込む。全体重が地面に杭のように刺さる。
「……通さねぇ」
低い、ほとんど呻きのような声。魔獣の牙がガルトの剣に噛みつき、唾液が腕を伝う。それでも剣は微動だにしない。
右壁際では、テオが投擲短剣の一振りを右壁の岩に叩きつけた。金属音と火花が散る。先頭の魔獣が一瞬だけ首を振った——その横腹を、ノエルの剣が深く抉った。
悲鳴。崩れる。
先頭を失った残り二匹が足を止めた。一瞬の空白。テオは待たなかった。二振り目の短剣を、今度は後方——歩哨隊の手前の地面に向けて投げつけた。岩床を跳ねた金属の甲高い音が、狭い通路を突き抜ける。
二匹の頭が、音のした方向へ揃って振れた。そのまま後方へ駆け出す。
その先には、真新しい槍を構えた第十四歩哨隊の前列が待っていた。
二本の穂先が同時に突き出される。
怯えはあった。手は震えていた。だが槍は折れなかった。
——折れない武器が、どれほど兵の背骨を支えるか。
その事実を、この若い兵たちは三十分前に知ったばかりだった。
左壁側。弓兵が弦を引き絞る。新しい弦は、引いた分だけ正確に力を返した。矢が放たれ、二匹目の脇腹を貫く。
三十秒。
第二波の六匹は、一人の死傷者も出さずに片付いた。
「——損害なし」
クレアの報告が上がる。止血帯を握ったまま、使う機会がなかったことに安堵の息を吐いている。
だが、セラフィーナは知っていた。
これは序章に過ぎない。第一波も第二波も、渓谷の奥から流れてくる魔獣の前哨でしかない。本隊が来れば、この狭い地形は地獄に変わる。
そして——前方の精鋭部隊は、まだ一歩も動いていない。
小康。
渓谷の底に、束の間の静寂が降りた。
松明が爆ぜる音。兵の荒い息。岩壁を伝う水滴の音。それだけが、渓谷の底を満たしていた。
——そこに。
別の音が、降ってきた。
『——聞こえるか、セラフィーナ』
声は上から来た。
岩棚の上。渓谷の縁。松明の光がかろうじて届く高さに、大柄な影が立っている。
ヴァルドー・グランセルト。
その手に握られた小さな筒状の道具が、淡い光を帯びていた。拡声の魔導具。声を何倍にも増幅し、戦場の端から端まで届かせる軍用品。
本来は、指揮官が全軍に命令を伝達するための道具だ。
だがこの男は、それを別の目的に使った。
『見事だったよ、第二波の処理。さすがだ、剣聖殿。落ちこぼれの犬どもに芸を仕込むのは得意らしい』
声が渓谷の壁に反射し、頭上から降り注ぐ。逃げ場がない。耳を塞いでも骨に響く。
セラフィーナは動かなかった。
前方の精鋭部隊から、視線を外さなかった。
『だがな——お前は気づいているはずだ。この地形。この配置。前に壁、後ろに獣。逃げ道なし。お前の手駒だけが、死地に閉じ込められている』
ヴァルドーの声に、酔いが混じり始めた。
優越感に酔う人間の、あの独特の甘さ。自分だけが盤面の全体図を知っていると信じている人間の、底の浅い陶酔。
『覚えがあるだろう? ——あの日と同じだ』
空気が変わった。
リシェルはそれを肌で感じた。教官の背中が——一瞬だけ、呼吸を止めたように見えた。
『五年前。南部戦線。あの渓谷で、お前は副官を死なせた』
ヴァルドーの声は、嘲笑から残虐な愉悦に変わっていた。
『退路を断たれ、予備の兵站を潰され、前後から挟まれた。お前は采配を振った。全力で振った。だが——半手、遅かった。お前の副官は、お前の目の前で死んだ。違うか?』
沈黙。
セラフィーナは何も答えなかった。
『今のこの盤面をなぜ俺が作れたか、教えてやろうか? 簡単だ。お前のあの日の報告書を、隅から隅まで読んだのさ。地形、兵数、崩壊の順序——お前自身が書いた失敗の記録を、一字一句なぞって再現した。お前の古傷を、もう一度、同じ刃で抉るためにな!』
ヴァルドーの哄笑が、渓谷を満たした。
反響が重なり、笑い声が幾重にもなって降り注ぐ。
渓谷の底にいる全員が、その声を聞いていた。棺桶小隊の五人も。第十四歩哨隊の若い兵も。ルッツも。前方を封鎖する精鋭部隊の兵すらも。
リシェルの視界の端で、第十四歩哨隊の何人かが顔を歪めた。恐怖ではない。嫌悪だった。自軍の副団長が、味方の指揮官に向けて過去の傷を嘲笑っている——その事実への、本能的な拒絶。
だが動揺は動揺だ。握った槍の穂先が、わずかに揺れている。
「——耳を閉じなさい」
リシェルの声が割り込んだ。
低く、硬く、だが一切の迷いがない声。
「あの人の声を聞く必要はありません。次の波に備えて、槍の間隔を確認。弓兵は矢数の報告を」
教官の言葉の再現ではなかった。リシェル自身の判断だった。
今この瞬間、兵を動揺させているのは魔獣ではなくヴァルドーの声だ。であれば、それより具体的な指示で上書きする。手を動かせば、耳は塞がる。
ノートに書き留めた教官の講義の一節が、脳裏をよぎる。
——*兵が恐怖で動けなくなった時、精神論は毒にしかならない。手に仕事を与えろ。手が動けば、足も動く。*
「ノエル、剣の刃こぼれを確認。テオ、次の接敵まであとどのくらい」
「……三分。いや、二分半。足音が速い。次は数が多い」
テオの声は震えていたが、答えは正確だった。
リシェルの指示が戦場の末端まで伝わっていく。兵たちの手が動き始める。槍を握り直す。矢を数える。弦の張りを確かめる。
だが——リシェルの視線は、教官の背中に縫い止められていた。
セラフィーナは微動だにしていなかった。
前方の精鋭部隊と正対したまま、右手の佩剣を構えたまま。
ただ——左手だけが、動いていた。
軍服の胸元に、静かに滑り込んでいく。
指先が、何かを掴んだ。
欠けた剣の鍔。
あの欠片——朝霧の中で教官が祈りを捧げていた、誰かの遺品。
セラフィーナの左手が、鍔を握り締めた。
強く。
もっと強く。
欠けた金属の縁が掌に食い込み、軍服の袖口に沿って、細い赤が一筋、伝い落ちた。
『どうした、剣聖殿! 黙り込んだな! あの時もそうだったろう? 何もできず、ただ——』
ヴァルドーの声が途切れた。
途切れたのではない。
声は出ていた。魔導具は光っていた。ヴァルドーの口は動いていた。
だが——渓谷の底にいる誰一人として、その続きを聞いていなかった。
別の何かが、空気を塗り替えたからだ。
リシェルは息を吸おうとして、吸えなかった。
松明の炎が——一斉に、横に靡いた。風ではない。風は吹いていない。渓谷の底の空気そのものが、前方の一点に向かって収縮したように見えた。
セラフィーナが、ゆっくりと顔を上げた。
岩棚の上のヴァルドーを、見上げた。
その顔からは——何も読めなかった。
怒りではない。悲しみでもない。憎悪ですらない。
人間の顔に浮かぶべき感情という感情が、すべて蒸発していた。
残ったのは、瞳孔だけだった。
冷たく、正確に、収縮した瞳孔。
獲物の位置を測定する目。距離と角度と、何手で届くかだけを計算している目。
リシェルは——この目を、一度だけ見たことがあった。
古巣の精鋭騎士がリシェルの荷を蹴り飛ばしたあの日。教官が半歩だけ前に出て、三太刀で全てを終わらせた、あの時の目。
だが、あの時よりも。
遥かに。
——遥かに、深い。
セラフィーナの唇が動いた。
声は、戦場で鳴り響く号令のそれではなかった。
だが——静かに、一語ずつ、渓谷の岩壁を叩くように明瞭だった。狭い岩の壁が声を拾い、増幅し、上へ上へと跳ね返していく。この地形は拡声の魔導具がなくとも、はっきりと発せられた声を残酷なほど正確に伝える。
「——二度も同じ地獄を、ですか」
左手から、血が滴っている。
欠けた鍔を握りしめたまま、セラフィーナは岩棚の上の大柄な影を見据えていた。
「報告書を読んだ、と仰いましたね。あの日の地形。兵数。崩壊の順序。全て再現した、と」
声に、感情はなかった。
感情がないことそのものが、異常だった。
「……ありがとうございます、副団長。おかげで——証拠が揃いました」
ヴァルドーの笑みが、消えた。
何かがおかしい。嘲笑の対象が、嘲笑に反応していない。折れるはずの心が、折れるどころか——こちらを測っている。
「あの日の盤面を、あなたは完璧に再現した。私の報告書を一字一句なぞって」
セラフィーナの声は、教壇に立つ教官の声だった。
講義をしている。
戦場の真ん中で、この女は——講義をしている。
「つまりあなたは、証拠を自分の口で、全軍の前で、叫んでくださったわけです」
間。
渓谷の壁が、沈黙を増幅した。
「報告書を閲覧できる権限は、団長と副団長だけ。あの盤面を再現できるほど詳細に読み込んだ人間は、あなたしかいない。——そしてあなたは今、拡声の魔導具で、それを数百人の兵士の前で自白した」
岩棚の上で、ヴァルドーの表情が凍りついた。
「彼は」
セラフィーナの声が、一段、低くなった。
「自分のための断頭台を——自ら組み上げましたね」
その瞬間。
前方を封鎖していた精鋭部隊の最前列が、半歩だけ後退した。
命令ではない。本能だった。
銀灰色の髪が松明の光を受けて揺れる、その下の瞳が——正確に、自分たちの喉の位置を見ていると悟ったからだ。
後方で、第三波の地鳴りが始まっていた。
だがリシェルの目は、教官の背中から離せなかった。
左手から落ちる血が、渓谷の岩を一滴、叩いた。
その小さな音が——松明の爆ぜる音よりも、魔獣の咆哮よりも、はっきりと聞こえた気がした。




