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剣聖は、棺桶小隊に剣を教えない  作者: 今井 幻


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第28話「予定通りです」

 最初の魔獣が長槍の穂先に突き刺さった時、第十四歩哨隊の兵は確かに手応えを感じた。


 穂先が肩口から深く食い込み、魔獣が一声吠えて崩れ落ちる。隣の兵も突いた。刺さった。前列五本の長槍が一斉に伸び、山道を埋め尽くす群れの先頭が次々と地面に転がった。


 主武装は、生きていた。


 だが魔獣の数が多すぎた。


 三匹目を仕留めた兵の穂先が、魔獣の肋骨に食い込んで抜けなくなった。引き抜こうともがく腕を、後続の魔獣の体重が押しつぶす。柄がみしりと軋み、兵士の手から弾かれた。


 別の兵は突いた反動で姿勢を崩し、のしかかる魔獣の爪を避けて長槍を手放した。


 前列五人のうち、二人が主武装を失った。


「予備を! 予備槍を!」


 隊長の叫びに応じて後列の兵が補給箱を蹴り開けた。束ねられた予備槍を引き抜き、前列へ投げる。


 受け取った兵が構えた。突いた。


 ——柄の中ほどから、乾いた音がした。


 穂先が地面に落ちた。


 手元に残った柄は、断面が妙に白い。木の芯が見えている。折れたのではない。最初から、折れるようにできていた。


「は——?」


 声にならない声が漏れた。


 もう一人が、別の予備槍を受け取った。構えた。


 ——二本目が折れた。


 三本目も。


 補給箱から引き抜く端から、どの予備槍も同じ場所で折れていく。柄の中ほどに走る、刃物で入れたとしか思えない直線的な切り込み。


 前列の兵が同時に柄だけを握りしめている光景は、悪い冗談のようだった。


「弦が——弦も切れた!」


 後列で弓を張ろうとした兵の声が、渓谷の壁を跳ねた。替えの弦を張った瞬間、引き絞る前に千切れたのだ。湿って腐った繊維が、指の間からほどけていく。


 主武装の長槍は刺さった。予備だけが、壊れている。


 リシェルは見た。


 第十四歩哨隊の目から、光が消えていくのを。


 主武装を失った兵には、もう何も残っていない。退路がない。前は精鋭が塞いでいる。後ろから魔獣が来る。手元にあるのは折れた棒切れだけ。


 隊列が崩れ始めた。腰を抜かす者、叫ぶ者、折れた柄を投げ捨てて走り出そうとする者。


 ——ああ、とリシェルは思った。


 これが罠の全部だ。


 逃げ場を塞いで、武器を壊して、あとは魔獣に食わせるだけ。


 ノートに書いた言葉が脳裏を走った。


 *「殺意は一手では完成しない。退路を断ち、判断力を奪い、最後に希望を折る。三手目が来た時、人は立てなくなる」*


 教官がかつて、何気なく口にした言葉だった。


 あの時は、盤外戦術の講義だと思っていた。


 違う。


 教官は——これを、知っていた。


 リシェルの視線が、前方に向いた。十歩先、精鋭の盾の壁と正対したまま微動だにしない銀灰色の背中。


 背後で起きている惨劇に、振り返らない。


 声を荒げない。


 ただ、いつもと同じ声量で——渓谷の岩壁が音を拾い上げて運ぶ、あの静かな声で。


「……予定通りです」


 悲鳴が止まった。


 折れた槍を握りしめていた兵の手が、止まった。


 いま——なんと言った?


「反撃演習を始めます」


 セラフィーナは振り返らなかった。前方の精鋭部隊から視線を外さないまま、右手を軽く上げ、二本の指で後方を指した。


 リシェルへの合図だった。


 意味は一つ。


「——展開」


 リシェルの声が、くびれ地形に反響した。


 ノエルが動いた。背中の布包みを解く。中から、油紙に丁寧に包まれた予備槍が三本。ガルトが腰の革袋から同じ油紙の包みを引き抜く。弓弦の束。蝋引きされた、乾いた弦。テオの脚絆の内側からも、小ぶりの投擲短剣が二振り滑り出た。クレアの薬草袋の底には、追加の止血帯と鎮痛薬が仕込まれていた。


 一人ひとりの荷に、少しずつ分けて隠してあった。


 *別荷*。


 教官が出征前夜に、リシェルと二人きりで確認した「本当の補給品」。


 輜重車の帳簿上は七番車に計上されている。だが実物は、棺桶小隊の全員が自分の身体に巻きつけて、ここまで運んできた。


 教官は最初から知っていた。補給箱が壊されることも。槍が折れることも。弦が腐ることも。


 だから——*別の荷*を用意した。


「第十四歩哨隊、前列!」


 リシェルは叫んだ。ノエルが投げた予備槍を空中で受け取り、最前列の兵——折れた柄だけを握りしめて呆然としていた若い兵士の手に、柄を叩きつけるように押し込んだ。


「握って。突いて。折れません」


 兵士の瞳が揺れた。


 槍の穂先に手を添え、力を込めた。——折れない。


 その顔に色が戻るのを確認する前に、リシェルは次の槍を次の兵に渡していた。ガルトが弓兵に乾いた弦を放り、「張れ」とだけ言った。


 ガルトは弦を投げた直後、くびれ最狭部に足を戻した。後方から一匹目の中型魔獣がのしかかるように突進してきたのを、幅広の片手剣の腹で真正面から受け止めた。岩壁との隙間がない。この男の体が通路そのものを塞いでいる。


 魔獣が牙を剥いた。


 ガルトは一歩も退かなかった。鈍重な足が、地面を噛んでいる。


「——通さねえ」


 テオが左後方から「二匹目、右壁寄り!」と叫ぶ。ノエルが右斜め後方から踏み込み、壁際を擦り抜けようとした細身の魔獣の首を、短く鋭い一振りで斬り落とした。


 棺桶小隊は、訓練通りに動いていた。


 ガルトが塞ぐ。テオが見つける。ノエルが仕留める。クレアが前方で待機し、誰かが傷つけば即座に止血に入れる態勢を崩さない。


 そしてリシェルが、後方の第十四歩哨隊と前方の棺桶小隊をつなぐ。


「第十四歩哨隊、二列目! 長槍を下段に構えなさい! 突くな、押し返せ! 壁になれ!」


 声は震えていなかった。


 教官の言葉を、崩さずに通す。


 それが、リシェル・アルノーに与えられた役割だった。


 *


 第一波が退いた。


 正確には、退いたのではない。後方の魔獣の密度が一時的に薄まっただけだ。山道の幅では一度に押し込める数に限りがある。先頭の数匹がガルトの壁と第十四歩哨隊の槍に阻まれて斃れ、後続が死体を乗り越えるのに数十秒の間が生まれた。


 その数十秒を、セラフィーナは逃さなかった。


「ルッツ」


 名前だけを呼んだ。


 第十四歩哨隊の後方——岩庇の陰から、小柄な人影がおずおずと前に出てきた。


 若い文官だった。


 兵士ではない。剣も盾も持たず、代わりに腕に抱えているのは、革紐で封をされた木箱と、書記台に使う厚い帳面だった。


 第十四歩哨隊の兵たちは、目を丸くした。いつからいた。なぜここにいる。


 リシェルだけが知っていた。


 教官が手配したのだ。討伐行軍の編成名簿に「記録係」として一名を紛れ込ませていた。第十四歩哨隊の隊長にすら事前に伝えず。——証拠を開示する瞬間に、立会人が戦場にいなければ意味がない。


 セラフィーナは前方を向いたまま言った。


「箱を開けなさい」


 ルッツの手が震えていた。


 革紐を解き、木箱の蓋をこじ開ける。蓋の裏に押された蝋の封印が、松明の光に赤く光った。


 箱の中から、ルッツが両手で取り出したのは——手のひらを少し超える長さに切り出された、槍の柄の断片だった。


 断面が白く、木の芯が剥き出しになっている。そして柄の表面に、刃物で入れたとしか思えない直線的な切り込みが走っていた。


 第十四歩哨隊の兵たちの目が、ルッツの手元と、自分たちの足元に転がる折れた予備槍の残骸との間を行き来した。


 同じだ。


 切り込みの角度も、深さも、木の芯が見える断面も。


 たった今、戦場で折れた予備槍と——寸分違わず、同じ傷。


 ルッツの箱からは、もう一つ。短く束ねられた弓弦の切れ端。繊維が変色し、指で摘まんだだけで千切れそうに湿って腐っている。


「これは……」


 第十四歩哨隊の隊長が、声を失った。


 ルッツは帳面を開いた。手は震えていたが、声は文官の声だった。事実だけを、淡々と読み上げる声。


「軍監記録官ルッツ・ヴァイスの封印記録。出征三日前、第零教導小隊——通称『棺桶小隊』向け補給箱三番、五番、八番より採取。封印日時、封蝋の状態、ともに正規の手続きを経て封印済み」


 声が渓谷の壁を伝った。


「この箱は出征三日前に封じられ、本日に至るまで一度も開封されていません」


 ルッツは柄の断片を掲げた。松明の光が切り込みの直線を照らした。


「にもかかわらず——中の柄には、この通り刃物による切り込みが入っています。封印の前に、補給品の中身が細工されていたことになります」


 誰も声を出せなかった。


 魔獣の遠吠えが山道の向こうに反響している。次の波が来るまで、あと少し。


 だが、この瞬間——渓谷の底にいる全員の目が、ルッツの手の中の柄断片と、足元に散乱する折れた予備槍を見比べていた。


 戦場で折れた現物。そして出征前に封印された証拠。


 二つの傷が、完全に一致している。


「……ってことは」


 第十四歩哨隊の若い兵が、掠れた声で言った。


「俺たちの武器は、最初から……壊されてたのか?」


 リシェルは見た。


 若い兵士たちの顔から、恐怖の色が消えていくのを。


 代わりに浮かんだのは——怒りだった。


 折れた槍を握りしめていた手が、白くなるほど力が入っている。歯を食いしばる音が聞こえた。


「誰だ」


 隊長が低く言った。


「誰がやった」


 その目が、前方を向いた。


 くびれ地形の向こう側。精鋭部隊の盾の壁。その後方の岩棚に、松明に照らされて立つ大柄な影。


 全員が、同じ方向を見ていた。


 セラフィーナはその視線の先にいた。


 精鋭部隊と正対したまま、ゆっくりと——本当にゆっくりと、腰の佩剣に手をかけた。


 鯉口を切る、乾いた金属音。


 渓谷の壁が、その小さな音を増幅した。


 銀灰色の髪が、薄暗い渓谷の底で松明の光を弾いた。


 抜刀。


 リシェルは何度もこの人の剣を見てきたが——今、鞘から抜かれた刃は、訓練場で見たどの瞬間よりも静かだった。


 怒りではない。焦りでもない。


 *予定通り*。


 全てが、この人の読み筋の上にある。


 セラフィーナが口を開いた。


「さあ——ここからが本番です」


 その声は、いつもと同じ音量だった。


 渓谷の底に、低く、静かに響いた。


 だがリシェルの耳には、教官が初めてこの小隊に立った日と、まったく同じ声に聞こえた。


 あの日、教官はこう言った。


 *「強くなれとは言わない。生き残る位置取りだけを教える」*


 あの言葉が嘘でなかったことを、リシェルはもう知っている。


 後方で、魔獣の第二波の足音が近づいてくる。


 ガルトが片手剣を構え直した。テオの目が暗闇の奥を読んでいる。ノエルが剣を握り直し、岩壁根元の重槍にちらりと視線を送った。クレアが止血布を膝の上に広げ直す。


 第十四歩哨隊の兵たちが、真新しい——折れない槍を構えた。


 その顔に浮かんでいるのは、もう恐怖ではなかった。

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