第27話「ゴミ箱」
リシェルの視界が、ゆっくりと教官の背中に戻った。
「予定通り」。
その一言が、口の形だけで伝わった。声もなく、音もなく。
——なのに、胸の奥で何かが座った。ぐらついていた足元に、杭を一本打ち込まれたような感覚。
セラフィーナは、もう振り返らなかった。
前方の暗がりに目を向けたまま、右肩の布包みを下ろし、岩壁の根元に立てかける。それから佩剣の位置を腰の左で確かめ、くびれの幅を二歩で測った。
「あなたたちは、私の十歩後方。このくびれが最も狭まる位置に」
棺桶小隊の五人に向けた、短い指示だった。
次に、後方に控えている第十四歩哨隊の隊長へ目を移した。
「第十四歩哨隊。棺桶小隊のさらに三十歩後方に、岩が庇のように張り出した場所がありましたね」
声は、いつもの温度だった。冷たくもなく、温かくもない。ただ正確な声。
隊長が慌てて振り返る。「は、はい。ありました」
「そこまで下がって、隊列を二列に組み直しなさい。長槍は山道の方角へ横に構えて壁にする。重要なのは密度です。隙間を作らないこと」
「し、しかし——後方を向くのですか。ここで待機して前方の本隊と合流では——」
「合流の見込みがあるなら、私が指示を出す前にそうしています」
一言で切った。
隊長の喉が動いた。それ以上は問わなかった。
第十四歩哨隊が、来た道の方へ——山道に向かって後退していく。長槍の穂先が岩壁に触れ、硬い音が反響した。
セラフィーナはそれを見届けることなく、再び前方の闇へ目を向けた。
棺桶小隊の五人が、指示通りの位置に足を運んでいく。教官の十歩後方。岩壁が左右からぐっと迫り出し、幅が一気に絞られる地点。入口では馬車二台が並べた幅があったが、ここでは人が二人並べば肩が触れる。それが、くびれの中で最も狭まる場所だった。
テオが——鼻をひくつかせていた。
「教官」
テオの声が、かすかに上擦った。
「……匂い、また変わりました」
リシェルの足が止まった。行軍中、テオが察知した南東からの風の変化。あの時は正体がわからなかった。
だが今、テオの顔は——違った。
怯えてはいる。いつものように怯えている。だが、その怯えの底に、既知の色があった。知っている匂いを嗅いだ人間の、確信に似た恐怖。
「甘い、です。焦げてるような……信号砦の、あの——」
テオの言葉が途切れた。
セラフィーナだけが、テオの目を見ていた。
何も言わなかった。
ただ、小さく顎を引いた。
——その沈黙が、棺桶小隊の五人には十分だった。
信号砦。あの廃墟で見つけた、焚き跡。クレアが特定した狂暴化薬剤の空き瓶。テオが鼻で嗅ぎ当てた、軍用の誘引香の残り香。
あの匂いが、ここにある。
ノエルの顎が、わずかに引き締まった。クレアの指が、薬草袋の紐を握り直した。ガルトは片手剣の柄を握ったまま、足を肩幅に開いた。
誰も、声を上げなかった。
リシェルは教官の目を見た。教官は、五人の顔を順に見渡して——それだけだった。
配置は変わらない。指示は変わらない。
*予定通り*。
*
最初に聞こえたのは、音ではなかった。
足の裏だった。
渓谷の底を走る振動。石と石の隙間を伝って、靴底から脛を這い上がってくる、低い震え。
リシェルは反射的に地面を見た。小石が、微かに跳ねていた。
「——前方」
セラフィーナの声が、くびれの壁に反射した。
渓谷の奥。暗がりの中に——光が滲んだ。
松明だった。一本、二本、三本。やがて横一列に並んだ炎が、渓谷の幅をそのまま埋めた。
炎の下に、鎧が見えた。
揃いの胸当て。磨かれた兜。手入れの行き届いた長剣を腰に下げた、正規の——精鋭の騎士たち。
後方から、第十四歩哨隊の隊長が声を漏らした。
「……本隊だ。味方が来た——」
安堵。
それが声に滲んだ瞬間、リシェルの中を冷たいものではなく、*理解*が走った。
味方が来た。
前方から。
渓谷の奥側から。
——本隊は、街道を直進しているはずだった。東回りの山道と合流するのは、渓谷を抜けた先の平地のはずだった。
なぜ、前方にいる。
精鋭部隊は足を止めなかった。松明の列がゆっくりと前進し、くびれの入口を完全に塞いだ。盾を並べ、槍を前に出す。まるで——こちらに向かって陣を敷くように。
「な……なんで、止まって——」
後方の第十四歩哨隊から、若い兵の震える声が反響してきた。
リシェルは前方を見た。精鋭の盾の壁。その向こうに、退路はない。
渓谷が、沈黙した。
精鋭部隊は動かない。棺桶小隊も動かない。後方の第十四歩哨隊からは、兵の荒い呼吸だけが聞こえる。
冬の渓谷の底に、風の音すらなかった。
——その静寂を、上から割った声があった。
精鋭部隊の盾の壁の、さらに奥。渓谷の縁に張り出した岩棚の上に、松明を掲げた一団がいた。
その中央に——大柄な影が、腕を組んで立っていた。
豪奢な鎧が松明の光を弾く。兜の下から覗く顔は、闇の中でも口元だけが見えた。
笑っていた。
「——まったく、手間をかけさせる」
怒鳴るような声だった。だが渓谷の岩壁が音を拾い、増幅し、何度も跳ね返して底まで落とした。狭い空間に反響が重なり、声は実際の音量以上に鮮明に届いた。
ヴァルドー・グランセルトの声だった。
「たかが落ちこぼれの掃除に、精鋭を一個中隊も割くことになるとはな。これもあの女のせいだ。無駄に足掻くから、手順が増える」
リシェルは拳を握った。爪が掌に食い込んだ。
ヴァルドーは、静まり返った渓谷を見下ろして——笑みを深くした。
「ゴミはゴミ箱へ、だ」
残響が、岩壁の間を転がって消えた。
沈黙が戻った。
——だが、一瞬だった。
テオが、叫んだ。
「——来る!!」
その声は、怯えだった。純粋な、剥き出しの恐怖。
だがリシェルはもう知っている。テオの恐怖は、誰より正確な警報だ。
後方。山道の上。
暗がりの中に、紫がかった煙が立ち昇っていた。
甘い匂い。焦げた匂い。風に乗って渓谷の底へ沈み込んでくる、あの匂い——信号砦の廃墟に染みついていた、軍用の誘引香。
煙は一筋ではなかった。山道の左右、岩棚の上、斜面の窪み。複数の香台が、同時に火を噴いている。
そして。
地鳴りが来た。
足の裏の振動が——*足音*になった。
無数の、爪が岩を掻く音。低い唸り。短く途切れる咆哮。それが重なり合い、混ざり合い、一つの濁流になって山道を下ってくる。
「ま……魔獣……」
第十四歩哨隊の誰かが呟いた。
呟きは、すぐに悲鳴に変わった。
「魔獣だ! 後ろから——後ろから来てるぞ!!」
最後方の第十四歩哨隊が、真っ先にそれを受ける位置にいた。隊列が崩れかけた。若い兵たちが、反射的に前方——棺桶小隊を飛び越え、精鋭部隊のいる方角へ走り出そうとする。味方のいる方へ。安全な方へ。
「*止まれ*」
リシェルの声が、岩壁に跳ねた。
自分でも驚くほど、低い声だった。
「持ち場を離れるな。長槍を後方に向けたまま壁を保て。前は味方が塞いでる——前に逃げても押し返される。あなたたちの槍が最後の壁。今、崩れたら全員死ぬ」
第十四歩哨隊の隊長が、リシェルの顔を見た。
十二名の若い兵が、リシェルの顔を見た。
——この声を、知っている。山道で魔獣に襲われた時、パニックの中で唯一聞こえた、あの声。
隊長が、唾を飲み込んだ。そして、短く叫んだ。
「——聞いた通りだ! 持ち場に戻れ! 槍を構え直せ!」
槍が揃い直された。震える手で、だが揃った。
リシェルは前方へ向き直った。
棺桶小隊の四人は——もう動いていた。
ガルトが、くびれの最も狭い位置に足を据えていた。両側の岩壁がすぐそこまで迫った隘路。人二人が並べば肩が触れる幅を、ガルトの大柄な体が中央に立つだけで半分以上塞いでいる。残りは左右の岩壁が埋めた。片手剣を正眼に構え、肩幅より広く足を開き、重心を落としている。後方から来る魔獣に正面を向けて——栓。瓶の首に押し込まれた栓だった。
ノエルがガルトの右斜め後ろ。剣を抜き、左手は空いている。槍がない今、一撃のタイミングを体で探っている。
テオはガルトの左後方。目を閉じてはいない。耳を、そして鼻を、後方の闇に向けている。
クレアは棺桶小隊の最前方寄り——つまりセラフィーナに近い側。薬草袋を開き、止血布を膝の上に広げていた。前方の教官と後方の仲間、どちらにも駆けつけられる位置。
誰も、教官の指示を待っていなかった。
教官が「立つべき位置」を教えた。その位置に、自分の足で立っている。
リシェルは前方を見た。
セラフィーナは——精鋭部隊の盾の壁と向き合ったまま、一歩も動いていなかった。
右手は佩剣の柄に触れていない。左手は体の横に下ろしたまま。
背筋は、真っ直ぐだった。
後方から迫る魔獣の咆哮が、渓谷の壁を揺らしていた。紫の煙が夕暮れの空を這い、誘引香の甘い匂いが岩壁の間に充満していく。
前方の精鋭部隊は、微動だにしない。松明の列が、こちらを照らしている。
逃げ場は、ない。
前も。後ろも。
リシェルのノートの記述が、脳裏を走った。
*「逃げ道のない場所に追い込んで、前と後ろから潰す。それが一番確実な殺し方だ」*
教官が教えてくれた言葉だった。
それが今、自分たちに向けられている。
第十四歩哨隊の若い兵の何人かが、座り込んでいた。長槍を支えにして、かろうじて崩れ落ちるのを堪えている者もいた。歯の根が噛み合わない音が、三十歩先から聞こえた。
前は精鋭。後ろは魔獣。
上は、細い帯のような空だけ。
棺桶。
この地形は——棺桶だ。
蓋を閉じられた。
リシェルは教官を見た。
セラフィーナ・レイヴェルトは、前方の盾の壁を見つめていた。
ヴァルドーの嘲笑が降り注いだ時も。魔獣の咆哮が背中を叩いた時も。若い兵が座り込んだ時も。
——表情は、1ミリも動いていなかった。
瞬き一つしない、凪いだ目。
教官の左手が、ゆっくりと軍服の胸元に触れた。
そこに何があるのかを、リシェルは知っている。
朝霧の中で祈りを捧げていた、あの——
教官の指が、胸元の上で止まった。
握り込まなかった。
ただ触れて、確かめて、そして手を下ろした。
「——リシェル」
名前を呼ばれた。
振り返らないまま。後方の魔獣の咆哮と、前方の精鋭の沈黙に挟まれたまま。
教官は、いつもと同じ声で言った。
「第十四歩哨隊を立たせなさい。座った兵は死にます」
それだけだった。
策も、激励も、説明もない。
ただ——*次の一手*。
リシェルは息を吸った。
「聞こえましたね」
第十四歩哨隊に向き直った。座り込んだ兵の、虚ろな目を見た。
「立ってください。槍を握ってください。——私たちの教官が、まだ立っています」
声は震えなかった。
教官が立っているなら。
あの背中が真っ直ぐなら。
まだ——*予定通り*だ。




