表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
剣聖は、棺桶小隊に剣を教えない  作者: 今井 幻


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

27/40

第27話「ゴミ箱」

 リシェルの視界が、ゆっくりと教官の背中に戻った。


「予定通り」。


 その一言が、口の形だけで伝わった。声もなく、音もなく。


 ——なのに、胸の奥で何かが座った。ぐらついていた足元に、杭を一本打ち込まれたような感覚。


 セラフィーナは、もう振り返らなかった。


 前方の暗がりに目を向けたまま、右肩の布包みを下ろし、岩壁の根元に立てかける。それから佩剣の位置を腰の左で確かめ、くびれの幅を二歩で測った。


「あなたたちは、私の十歩後方。このくびれが最も狭まる位置に」


 棺桶小隊の五人に向けた、短い指示だった。


 次に、後方に控えている第十四歩哨隊の隊長へ目を移した。


「第十四歩哨隊。棺桶小隊のさらに三十歩後方に、岩が庇のように張り出した場所がありましたね」


 声は、いつもの温度だった。冷たくもなく、温かくもない。ただ正確な声。


 隊長が慌てて振り返る。「は、はい。ありました」


「そこまで下がって、隊列を二列に組み直しなさい。長槍は山道の方角へ横に構えて壁にする。重要なのは密度です。隙間を作らないこと」


「し、しかし——後方を向くのですか。ここで待機して前方の本隊と合流では——」


「合流の見込みがあるなら、私が指示を出す前にそうしています」


 一言で切った。


 隊長の喉が動いた。それ以上は問わなかった。


 第十四歩哨隊が、来た道の方へ——山道に向かって後退していく。長槍の穂先が岩壁に触れ、硬い音が反響した。


 セラフィーナはそれを見届けることなく、再び前方の闇へ目を向けた。


 棺桶小隊の五人が、指示通りの位置に足を運んでいく。教官の十歩後方。岩壁が左右からぐっと迫り出し、幅が一気に絞られる地点。入口では馬車二台が並べた幅があったが、ここでは人が二人並べば肩が触れる。それが、くびれの中で最も狭まる場所だった。


 テオが——鼻をひくつかせていた。


「教官」


 テオの声が、かすかに上擦った。


「……匂い、また変わりました」


 リシェルの足が止まった。行軍中、テオが察知した南東からの風の変化。あの時は正体がわからなかった。


 だが今、テオの顔は——違った。


 怯えてはいる。いつものように怯えている。だが、その怯えの底に、既知の色があった。知っている匂いを嗅いだ人間の、確信に似た恐怖。


「甘い、です。焦げてるような……信号砦の、あの——」


 テオの言葉が途切れた。


 セラフィーナだけが、テオの目を見ていた。


 何も言わなかった。


 ただ、小さく顎を引いた。


 ——その沈黙が、棺桶小隊の五人には十分だった。


 信号砦。あの廃墟で見つけた、焚き跡。クレアが特定した狂暴化薬剤の空き瓶。テオが鼻で嗅ぎ当てた、軍用の誘引香の残り香。


 あの匂いが、ここにある。


 ノエルの顎が、わずかに引き締まった。クレアの指が、薬草袋の紐を握り直した。ガルトは片手剣の柄を握ったまま、足を肩幅に開いた。


 誰も、声を上げなかった。


 リシェルは教官の目を見た。教官は、五人の顔を順に見渡して——それだけだった。


 配置は変わらない。指示は変わらない。


 *予定通り*。


  *


 最初に聞こえたのは、音ではなかった。


 足の裏だった。


 渓谷の底を走る振動。石と石の隙間を伝って、靴底から脛を這い上がってくる、低い震え。


 リシェルは反射的に地面を見た。小石が、微かに跳ねていた。


「——前方」


 セラフィーナの声が、くびれの壁に反射した。


 渓谷の奥。暗がりの中に——光が滲んだ。


 松明だった。一本、二本、三本。やがて横一列に並んだ炎が、渓谷の幅をそのまま埋めた。


 炎の下に、鎧が見えた。


 揃いの胸当て。磨かれた兜。手入れの行き届いた長剣を腰に下げた、正規の——精鋭の騎士たち。


 後方から、第十四歩哨隊の隊長が声を漏らした。


「……本隊だ。味方が来た——」


 安堵。


 それが声に滲んだ瞬間、リシェルの中を冷たいものではなく、*理解*が走った。


 味方が来た。


 前方から。


 渓谷の奥側から。


 ——本隊は、街道を直進しているはずだった。東回りの山道と合流するのは、渓谷を抜けた先の平地のはずだった。


 なぜ、前方にいる。


 精鋭部隊は足を止めなかった。松明の列がゆっくりと前進し、くびれの入口を完全に塞いだ。盾を並べ、槍を前に出す。まるで——こちらに向かって陣を敷くように。


「な……なんで、止まって——」


 後方の第十四歩哨隊から、若い兵の震える声が反響してきた。


 リシェルは前方を見た。精鋭の盾の壁。その向こうに、退路はない。


 渓谷が、沈黙した。


 精鋭部隊は動かない。棺桶小隊も動かない。後方の第十四歩哨隊からは、兵の荒い呼吸だけが聞こえる。


 冬の渓谷の底に、風の音すらなかった。


 ——その静寂を、上から割った声があった。


 精鋭部隊の盾の壁の、さらに奥。渓谷の縁に張り出した岩棚の上に、松明を掲げた一団がいた。


 その中央に——大柄な影が、腕を組んで立っていた。


 豪奢な鎧が松明の光を弾く。兜の下から覗く顔は、闇の中でも口元だけが見えた。


 笑っていた。


「——まったく、手間をかけさせる」


 怒鳴るような声だった。だが渓谷の岩壁が音を拾い、増幅し、何度も跳ね返して底まで落とした。狭い空間に反響が重なり、声は実際の音量以上に鮮明に届いた。


 ヴァルドー・グランセルトの声だった。


「たかが落ちこぼれの掃除に、精鋭を一個中隊も割くことになるとはな。これもあの女のせいだ。無駄に足掻くから、手順が増える」


 リシェルは拳を握った。爪が掌に食い込んだ。


 ヴァルドーは、静まり返った渓谷を見下ろして——笑みを深くした。


「ゴミはゴミ箱へ、だ」


 残響が、岩壁の間を転がって消えた。


 沈黙が戻った。


 ——だが、一瞬だった。


 テオが、叫んだ。


「——来る!!」


 その声は、怯えだった。純粋な、剥き出しの恐怖。


 だがリシェルはもう知っている。テオの恐怖は、誰より正確な警報だ。


 後方。山道の上。


 暗がりの中に、紫がかった煙が立ち昇っていた。


 甘い匂い。焦げた匂い。風に乗って渓谷の底へ沈み込んでくる、あの匂い——信号砦の廃墟に染みついていた、軍用の誘引香。


 煙は一筋ではなかった。山道の左右、岩棚の上、斜面の窪み。複数の香台が、同時に火を噴いている。


 そして。


 地鳴りが来た。


 足の裏の振動が——*足音*になった。


 無数の、爪が岩を掻く音。低い唸り。短く途切れる咆哮。それが重なり合い、混ざり合い、一つの濁流になって山道を下ってくる。


「ま……魔獣……」


 第十四歩哨隊の誰かが呟いた。


 呟きは、すぐに悲鳴に変わった。


「魔獣だ! 後ろから——後ろから来てるぞ!!」


 最後方の第十四歩哨隊が、真っ先にそれを受ける位置にいた。隊列が崩れかけた。若い兵たちが、反射的に前方——棺桶小隊を飛び越え、精鋭部隊のいる方角へ走り出そうとする。味方のいる方へ。安全な方へ。


「*止まれ*」


 リシェルの声が、岩壁に跳ねた。


 自分でも驚くほど、低い声だった。


「持ち場を離れるな。長槍を後方に向けたまま壁を保て。前は味方が塞いでる——前に逃げても押し返される。あなたたちの槍が最後の壁。今、崩れたら全員死ぬ」


 第十四歩哨隊の隊長が、リシェルの顔を見た。


 十二名の若い兵が、リシェルの顔を見た。


 ——この声を、知っている。山道で魔獣に襲われた時、パニックの中で唯一聞こえた、あの声。


 隊長が、唾を飲み込んだ。そして、短く叫んだ。


「——聞いた通りだ! 持ち場に戻れ! 槍を構え直せ!」


 槍が揃い直された。震える手で、だが揃った。


 リシェルは前方へ向き直った。


 棺桶小隊の四人は——もう動いていた。


 ガルトが、くびれの最も狭い位置に足を据えていた。両側の岩壁がすぐそこまで迫った隘路。人二人が並べば肩が触れる幅を、ガルトの大柄な体が中央に立つだけで半分以上塞いでいる。残りは左右の岩壁が埋めた。片手剣を正眼に構え、肩幅より広く足を開き、重心を落としている。後方から来る魔獣に正面を向けて——栓。瓶の首に押し込まれた栓だった。


 ノエルがガルトの右斜め後ろ。剣を抜き、左手は空いている。槍がない今、一撃のタイミングを体で探っている。


 テオはガルトの左後方。目を閉じてはいない。耳を、そして鼻を、後方の闇に向けている。


 クレアは棺桶小隊の最前方寄り——つまりセラフィーナに近い側。薬草袋を開き、止血布を膝の上に広げていた。前方の教官と後方の仲間、どちらにも駆けつけられる位置。


 誰も、教官の指示を待っていなかった。


 教官が「立つべき位置」を教えた。その位置に、自分の足で立っている。


 リシェルは前方を見た。


 セラフィーナは——精鋭部隊の盾の壁と向き合ったまま、一歩も動いていなかった。


 右手は佩剣の柄に触れていない。左手は体の横に下ろしたまま。


 背筋は、真っ直ぐだった。


 後方から迫る魔獣の咆哮が、渓谷の壁を揺らしていた。紫の煙が夕暮れの空を這い、誘引香の甘い匂いが岩壁の間に充満していく。


 前方の精鋭部隊は、微動だにしない。松明の列が、こちらを照らしている。


 逃げ場は、ない。


 前も。後ろも。


 リシェルのノートの記述が、脳裏を走った。


 *「逃げ道のない場所に追い込んで、前と後ろから潰す。それが一番確実な殺し方だ」*


 教官が教えてくれた言葉だった。


 それが今、自分たちに向けられている。


 第十四歩哨隊の若い兵の何人かが、座り込んでいた。長槍を支えにして、かろうじて崩れ落ちるのを堪えている者もいた。歯の根が噛み合わない音が、三十歩先から聞こえた。


 前は精鋭。後ろは魔獣。


 上は、細い帯のような空だけ。


 棺桶。


 この地形は——棺桶だ。


 蓋を閉じられた。


 リシェルは教官を見た。


 セラフィーナ・レイヴェルトは、前方の盾の壁を見つめていた。


 ヴァルドーの嘲笑が降り注いだ時も。魔獣の咆哮が背中を叩いた時も。若い兵が座り込んだ時も。


 ——表情は、1ミリも動いていなかった。


 瞬き一つしない、凪いだ目。


 教官の左手が、ゆっくりと軍服の胸元に触れた。


 そこに何があるのかを、リシェルは知っている。


 朝霧の中で祈りを捧げていた、あの——


 教官の指が、胸元の上で止まった。


 握り込まなかった。


 ただ触れて、確かめて、そして手を下ろした。


「——リシェル」


 名前を呼ばれた。


 振り返らないまま。後方の魔獣の咆哮と、前方の精鋭の沈黙に挟まれたまま。


 教官は、いつもと同じ声で言った。


「第十四歩哨隊を立たせなさい。座った兵は死にます」


 それだけだった。


 策も、激励も、説明もない。


 ただ——*次の一手*。


 リシェルは息を吸った。


「聞こえましたね」


 第十四歩哨隊に向き直った。座り込んだ兵の、虚ろな目を見た。


「立ってください。槍を握ってください。——私たちの教官が、まだ立っています」


 声は震えなかった。


 教官が立っているなら。


 あの背中が真っ直ぐなら。


 まだ——*予定通り*だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ