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剣聖は、棺桶小隊に剣を教えない  作者: 今井 幻


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第26話「教官の声が届かない場所で」

 行軍二日目の昼を過ぎた頃、隊列が二つに割れた。


 正確には、割られた。


「棺桶どもは東回りの山道を先行しろ。本隊は街道を直進する」


 伝令の騎兵が巻物を読み上げたのは、今朝の出立直前だった。


 ヴァルドーの直筆署名。棺桶小隊に加え、もう一つの若手小隊——第十四歩哨隊もこちらのルートに回された。


 街道は緩やかで広い。東回りの山道は、獣道に毛が生えた程度の悪路だ。


「斥候部隊として先行し、本隊到着前に渓谷入口の安全を確保せよ」


 命令書にはそう書かれていた。


 リシェルは命令書の言葉を反芻しながら、足元の石を蹴った。


 斥候部隊。聞こえはいい。


 実態は、足場の悪い山道を少人数で先に通させて、魔獣がいたら真っ先にぶつかれということだ。本隊が安全に進むための、使い捨ての先触れ。


 ——教官は、こうなることも読んでいたのだろうか。


 前を見た。


 東回りの山道は幅が狭い。両側に岩壁がせり出し、ところどころで人一人がやっと通れるほどの隘路になる。先頭が足を止めれば、後ろの全員が止まる。先頭が道を間違えれば、全員が崖に落ちる。


 だからセラフィーナが先頭を歩いている。


 隊列は三つの塊に分かれていた。最先頭にセラフィーナが単独で立ち、地形を読みながら進路を切り拓く。その背を追う形で第十四歩哨隊の十三名が続き、最後尾を棺桶小隊の五人が固めている。


 銀灰色の髪が、冬の低い日差しに鈍く光る。右肩に何か長い布包みを負っているが、足取りに乱れはない。凍った岩の上を、まるで乾いた道のように歩く。


 一度も振り返らない。


 *


「リシェル。風が変わった」


 テオが横に寄ってきた。声は小さいが、目だけが忙しなく動いている。


「東から……いや、南東か。山の上から降りてくる匂いが、さっきと違う」


「獣?」


「わからない。でも、さっきまでの土と霜の匂いに、何か混じった。生臭くはない。けど——」


 テオは鼻を二度、短く鳴らした。


「嫌な感じ」


 リシェルは前方に目をやった。教官の背中は隊列のはるか先、第十四歩哨隊の十三名越しに見え隠れしている。この狭い道では声をかけても、前衛を離れてもらうわけにはいかない。


「テオ、そのまま嗅いでて。何か変わったらすぐ教えて」


「ああ」


 テオが隊列の左側に寄り、岩壁に手をつきながら歩き始めた。風上に鼻を向けるための、無意識の位置取り。


 リシェルはそれを見て、視線を前方に移した。


 棺桶小隊の五人は、山道に慣れたように歩いている。ガルトだけは大柄な体が狭い道に窮屈そうだが、足は確実に地面を踏んでいる。ノエルは投擲槍の柄を右肩に担いで、時折岩壁を睨む。クレアは薬草袋の紐を片手で握りながら、足元の石を選んで踏んでいる。


 問題は、その前だった。


 第十四歩哨隊。棺桶小隊と同じ若手で構成された十二名と、二十を少し過ぎた程度に見える下士官の隊長。先導の名目で棺桶小隊の前方に配置されている。


 彼らは、まともに山道を歩けていなかった。


 長槍を持つ手が不安定に揺れ、狭い道で穂先が岩壁にぶつかる度にガチャガチャと金属音を立てる。足場が悪い箇所では列が詰まり、前の兵士の背中に後ろの兵士がぶつかる。


 隊列の間隔が、縮んだり伸びたりを繰り返している。


 ——あれは、怖がっている。


 山が、ではない。この道が魔獣の領域に近いことを、肌で感じているのだ。恐怖が足を乱し、足の乱れが隊列を崩し、隊列の崩れがさらに恐怖を煽る。悪循環の初期段階。


 リシェルのノートには、教官の言葉が記してある。


 *「恐怖は伝染する。だが、秩序も伝染する」*


 あの人たちに今必要なのは、鼓舞ではない。具体的な秩序だ。


 ——だが、まだその時ではない。


 リシェルは前を向き直した。


 *


 それは、山道が少しだけ広がった場所で起きた。


 隊列が緩やかな左カーブにさしかかった時、右手の斜面から灰色の影が三つ、滑り落ちてきた。


 小型の魔獣。岩場に擬態する種だ。体長は犬ほどで、広げた前脚の爪が石を噛む音が、乾いた空気に響いた。


 三匹。


 カーブに差しかかっていたのは、第十四歩哨隊の中盤だった。棺桶小隊の位置から見て、前方二十歩ほど先。セラフィーナはさらにその前——カーブの向こう側へ既に進んでいた。


「て、敵——ッ!」


 悲鳴に近い声が上がった瞬間、隊列が崩壊した。


 魔獣に最も近い二人が反射的に長槍を構えた。だが岩壁と斜面に挟まれた狭い道では、槍を横に薙ぐ空間がない。穂先が岩に当たって弾かれ、石の破片が飛ぶ。


 後ろの兵士が前に詰まる。押し合いになる。


 魔獣は三匹とも斜面の上にいた。上から飛びかかる態勢。槍の穂先は上を向いているが、振り回す空間のない長槍は、ただの棒だ。


「う、動けない——!」


「押すな! 前が詰まってる!」


「槍が、振れない——」


 声が重なる。指示ではなく、悲鳴の連鎖。


 リシェルは反射的にカーブの向こうを見た。


 セラフィーナの背中は、もう見えない。隊列の先頭。カーブの奥で、教官は次の隘路を読んでいるはずだ。ここで足を止めれば、先頭の進軍線が崩れる。後ろで起きた小競り合いのために、全体の進路を誤らせるわけにはいかない。


 ——振り返らない。


 教官は、振り返らない。


 リシェルの中で、何かが切り替わった。


 音が遠くなる感覚はなかった。むしろ逆だった。周囲の全ての音が、同時に聞こえた。魔獣の爪が石を掻く音。兵士の息。槍の柄が岩にぶつかる硬質な金属音。風の向き。テオが左側で鼻を鳴らした微かな音。


 全部が、一枚の絵になった。


 ノートの文字が浮かんだ。


 *「狭路で長物は死ぬ。懐に入られたら短い方が勝つ」*


 *「斜面の敵に背を向ける奴は死ぬ。正面を切れないなら、横に動いて受ける面を作れ」*


 リシェルは息を吸った。


 腹の底から。


「——第十四歩哨隊、魔獣の直下にいる二名!」


 声が山道に反響した。自分でも驚くほど、通る声だった。


 パニックの兵士たちが、一瞬だけ止まった。


 その一瞬で、畳みかけた。


「**槍を捨てて短剣に持ち替え!** 狭路の長槍は壁にしかならない!」


「な——」


「**斜面に背を向けるな! 左の岩壁に背中を預けて、斜面を見上げろ!** 右手の短剣だけ空けておけ!」


 声が止まらなかった。


 止める気もなかった。


 教官の言葉を、そのまま吐き出しているのではない。今、この瞬間、この狭い山道で、あの兵士たちが生きて帰るために必要な言葉を、教官が教えてくれた理屈から組み立てている。


 魔獣は右の斜面の上にいる。だから左の壁を背にして、脅威の方向に体を開く。背中は壁が守る。右手は空いている。敵が飛んでくれば、見えている方向から迎え撃てる。


「後列は下がって間隔を空けろ! 前が動ける隙間を作れ!」


 魔獣直下の一人が、長槍を手放した。


 柄が岩壁にぶつかって乾いた音を立てた。腰の短剣を抜く。手が震えている。だが——抜いた。


 もう一人が続いた。左の岩壁に背を寄せ、右手に短剣を構えて斜面を見上げる。


 魔獣の一匹が、斜面を蹴った。


 弾丸のように滑り降りてくる灰色の塊。だが兵士は、もう正面を斜面に向けていた。壁に背を預け、飛びかかる影を見ている。


 短剣が、魔獣の前脚を弾いた。


 完璧ではない。刃が滑って、爪が腕当てを掠めた。だが——致命傷ではない。


「そのまま押し返して! もう一匹、上から来るよ!」


 テオが叫んだ。


 嗅覚ではない。聴覚だ。頭上の岩場で、爪が石を掴む音を捉えた。


 リシェルはテオの声を即座に拾い、変換した。


「前列、頭を下げろ! 来るのは上、右斜め上!」


 二匹目が飛んだ。


 だが、頭を下げた兵士の上を通過し、後列が空けた空間に着地した。着地の瞬間、体勢が崩れる。


 ノエルの投擲槍が空を裂いた。


 棺桶小隊の位置から二十歩。投擲としてはやや遠い。だが槍は正確に魔獣の胴を貫き、石の地面に縫い止めた。


 三匹目は、斜面の上で動きを止めていた。


 仲間が一匹弾かれ、一匹倒された。獣の本能が、ここは不利だと告げている。


 数秒の沈黙。


 魔獣は岩の色に溶けるように後退し、斜面の上へ消えた。


 *


 静寂が、長く感じられた。


 第十四歩哨隊の兵士たちが、荒い息をついている。魔獣直下にいた一人は短剣を握ったまま、腰が抜けたように左の岩壁に背をつけていた。


 腕当てを掠めた爪傷から、薄く血が滲んでいる。それだけだ。


 死者はいない。


 リシェルは自分の手を見た。


 震えていない。


 それが、少し怖かった。


「……リシェル」


 テオが隣に戻ってきた。声が、どこかぼんやりしている。


「お前、すげぇな」


 リシェルは何と答えればいいかわからなかった。


 視線を前に向けた。


 カーブの先。教官の背中がある——はずだ。今は岩壁に遮られて見えない。


 だが、わかる。


 銀灰色の髪。変わらない歩幅。一度も振り返っていない。


 ——見ていなかった、のではない。


 見なくてよかったのだ。


 後ろは、もう任せていい。教官は、そう判断した。


 だからこそ、振り返らなかった。


 リシェルの喉の奥が、熱くなった。


「……行こう。隊列、詰めて」


 声は、もう震えなかった。


 *


 第十四歩哨隊の隊長が、行軍の合間に後方へ駆け戻ってきた。


「さっきの指示、お前が出したのか」


「はい」


「……助かった。礼を言う」


 短い言葉だった。だが、その目が言っていた。お前たちは、ただの棺桶小隊じゃないのか、と。


 リシェルは曖昧に頭を下げた。


 ——私じゃない。


 全部、教官が教えてくれたことだ。狭路での長物の不利。斜面の敵への対処。パニック時に人間が最初に失うのは距離感だということ。具体的な指示だけが、恐怖に蓋をできるということ。


 ノートの余白に、教官は一度だけ書いた。


 *「私がいない場所で、あなたの声が兵を動かした時。それが卒業です」*


 ——卒業、なんて。


 まだ早い。


 まだ、あの人の背中が見える場所にいたい。


 リシェルは前を向いた。


 カーブの向こう、十三人の隊列越しに、銀灰色の背中がちらりと見えた。


 一度も、振り返らなかった。


 *


 行軍が終わったのは、日が岩壁の向こうに沈みかけた頃だった。


 山道を抜けた先に、それはあった。


 渓谷。


 両側から迫る岩壁が、行く手を狭めている。幅はせいぜい馬車二台分。見上げれば、空が細い帯になって遥か上に見える。


 前方は、さらに狭まっていく。奥へ進むほど、岩壁が近づく。


 後方は、今降りてきた山道。急な斜面を登り返さなければ、戻ることもできない。


 くびれ。


 瓶の首のように、前も後ろも絞られた地形。一度入ったら、出るには前に突き抜けるか、来た道を登り返すしかない。


 リシェルは足を止めた。


 ——ノートに書いた。教官の言葉を。


 *「敵が、お前たちをどこで殺したいか。それを考えろ」*


 *「逃げ道のない場所に追い込んで、前と後ろから潰す。それが一番確実な殺し方だ」*


 風が、渓谷の底を吹き抜けた。


 冬の北風ではない。岩壁に挟まれた空気が、自分自身の重さで沈み込んでいくような、湿った風。


 リシェルは唇を噛んだ。


 教官の読み通り。


 ここは——


「——処刑場」


 声が、白い息になって消えた。


 セラフィーナが、初めて振り返った。


 渓谷の入口に立つ教官の目は、凪いでいた。


 いつもと同じ。壊れた槍を見た時と同じ。ヴァルドーの嫌味を聞いた時と同じ。


 ——だがリシェルには、もうわかる。


 あの凪は、諦めではない。


 全てを読み終えた者の、静けさだ。


 教官の唇が、音もなく動いた。


 声は聞こえなかった。


 だが、その口の形を、リシェルは読み取れた。


 ——*予定通り*。

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