第25話「細工返し」
出征前夜——。
夜が最も深い刻限をとうに過ぎた頃。
セラフィーナは宿舎の扉を開けた。
音はなかった。
廊下に出ると、冬の夜気が軍服の襟元を刺す。息が白い。北風が石壁の隙間を鳴らしている。
右手に手燭。左手にランタンを一つ。火は絞ってある。
振り返らずに歩き出した、その三歩目で。
「——教官」
背後。
声は小さく、しかし迷いがなかった。
リシェルが戸口に立っていた。軍靴を履いている。寝巻きではない。
「起きていましたか」
「……はい」
問い返さなかった。この隊員が、教官の足音で目を覚ます人間でないことは知っている。
つまり、最初から寝ていなかった。
セラフィーナは廊下の奥へ顎をしゃくった。
「全員起こしなさい。戦闘装備で。一分」
リシェルが踵を返す音が、石の廊下に一度だけ響いた。
*
一分後、五人が揃った。
誰も声を出さない。教官が深夜に全員を叩き起こして「装備で」と言ったのだ。質問する暇があれば靴紐を結ぶ——それが棺桶小隊の流儀だった。
セラフィーナは手燭を右手に、ランタンを左手に持っていた。
手燭の炎は小さく、廊下の壁を舐めるように揺れている。五人の顔が半分だけ照らされ、半分は闇に沈んでいる。
「兵器庫へ行きます。声は出さないこと」
六つの足音が、夜の砦を東へ向かった。
*
兵器庫の前に着いた時、番兵の姿はなかった。
正確には、あった。壁際の地面に。空の酒瓶を抱き、口を開けて眠っている。
ノエルが何か言いかけたが、セラフィーナが視線だけで黙らせた。
番兵には触れない。酒瓶にも触れない。眠ったままにしておく方が都合がいい。
錠前に手をかける。
鍵は——持っていた。
リシェルが僅かに目を見開いた。教官はいつこの鍵を手に入れたのか。だが問わない。問う前に理解しようとする。それがリシェルの癖であり、教官がこの隊員に見出した才能の核だった。
重い石の扉が、闇の口を開けた。
*
兵器庫の内部は冷えていた。
石壁が冬の寒さをそのまま蓄えている。手燭の灯りが天井の低い空間を這い、木箱の列に薄い影を落とした。
セラフィーナは迷わず歩いた。
棺桶小隊宛の木箱は、奥の壁際に三つ。他の部隊の箱とは離れた場所に無造作に積まれている。
封蝋を見た。
テオが横から覗き込む。その鼻が、ほんの僅かに動いた。
「教官」
「分かっています」
赤みがかった蝋。テオが八日間かけて見分けた、あの色だ。
セラフィーナは佩剣の柄頭で封蝋を割り、蓋を開けた。
*
最初の箱。
剣六振り、盾三枚。
手に取り、刃を指で弾く。鍔元を握り、柄を回す。盾の裏の革紐を引く。
「これは問題ない」
次の箱。
槍四本。矢筒四つ。弓二張り。投擲槍の替え穂先。
セラフィーナは槍を一本抜き、手燭に翳した。
何も見えない。
だが彼女は槍を灯りから離し、両手で柄を軽く握った。
そして、ごく僅かに——撓ませた。
音がした。
木の繊維が軋む、微かな。健全な槍からは出ない種類の音。
「……亀裂が入っている」
声は平坦だった。
四本すべてを同じように確かめた。四本中三本から、同じ軋みが返ってきた。
残る一本は無傷。おそらく、全部を壊すと露骨すぎるという判断だろう。一本だけ生かしておけば、「たまたま不良品が混じっていた」と言い逃れができる。
——小賢しい。
次に弓の予備弦を手に取った。
指先に触れた瞬間、分かった。
湿っている。
それも、水に浸けたような濡れ方ではない。布で丁寧に湿気を含ませ、時間をかけて繊維を劣化させる——そういう手口だった。指を離すと、ぬめりが残った。
「——腐ってる」
テオが呟いた。彼の鼻は、糸から立ち上る微かな腐敗臭を拾っていた。
「ふざけ——」
ノエルの声が跳ねた。
「——んな」
セラフィーナが右手を上げた。
掌を五人に向けた、ただそれだけの動作だった。
声は出していない。
だが五人の口が、同時に閉じた。
兵器庫に沈黙が落ちる。手燭の炎だけが揺れている。
ノエルの拳が白くなるほど握り締められていた。ガルトは両手を膝に置き、太い指が木箱の縁を軋ませている。テオは顔から血の気が引いていた。クレアは唇を引き結び、弦を見つめたまま動かない。
リシェルは——教官を見ていた。
教官の顔には、何もなかった。
怒りも、驚きも、失望も。
まるで天気予報を確認しただけのような顔で、セラフィーナは腐った弦を箱に戻した。
「予想通りです」
その一言に、五人の空気が変わった。
怒りが消えたわけではない。ただ、教官の声が怒りより先に届いた。
「触ったものは全て元の位置に戻しなさい。一本残らず。向きも角度も、開ける前と同じに」
*
リシェルが最初に動いた。
槍を元の溝に嵌め直す。角度を思い出し、隣の槍との間隔を揃える。
テオが矢筒の位置を微調整する。この男の記憶力は、恐怖に裏打ちされている。怯えるからこそ、周囲の細部が焼きつく。八日間兵器庫を見続けた目は、箱の中身の配置すら覚えていた。
ガルトとノエルが盾と剣を戻す。クレアが弦を元の包みに収める。
五人の手つきは正確だった。教官が「戻せ」と言った以上、戻す。理由は後で考える。
一分もかからなかった。
セラフィーナは箱の中身を一瞥し、頷いた。
五人の顔が、手燭の灯りの中で教官を見上げている。
セラフィーナは振り返り、全員に向けて指示を出し始めた。
「リシェル。軍監記録官を呼びなさい。西棟の突き当たり。呼んだらここへ戻ってくること」
「はい」
「テオ、ガルト」
ランタンを差し出した。
「裏手の雑品倉庫に予備の槍が五本、弓弦の束が一つある。先月、私が検品して『まだ使える』と書き置きした品です。これを持って行きなさい。人目につかないよう運び出して、馬房の飼い葉の下に隠すこと」
テオがランタンを受け取った。
「明朝の搬出はガルトが担当します。行軍順は後衛第三列、輜重車の七番。荷の下に敷く予備の毛布に紛らせなさい。あなたの体格なら、毛布の束を運んでいても不自然に見えない」
ガルトが無言で頷く。
「馬房への隠匿が済んだら、そのまま宿舎へ戻って寝ること。ここには戻らなくていい」
「了解」
テオとガルトが動く。二人の足音が石の廊下に遠ざかっていく。ランタンの灯りが角を曲がるまで、揺れる光の筋が壁に残っていた。
セラフィーナはノエルに目を向けた。
「ノエル。南棚の最下段を見なさい」
ノエルが振り返る。兵器庫の南側、壁に沿って並んだ木棚の一番下。
手燭を翳す。
埃を被った長い布包みが一つ、棚板の奥に横たわっていた。
「渓谷の防衛戦で回収した重槍です。引き出しなさい」
ノエルが膝をつき、棚の奥から布包みを引きずり出した。
埃が舞う。ノエルが布を捲ると、鈍い鉄の光が手燭に照らされた。
穂先。柄。
ノエルの手が、槍の柄を握った。
一瞬、動きが止まる。
手の中で重さを確かめている。柄を回し、穂先を灯りに翳す。亀裂はない。刃は生きている。
「……教官、あの槍——武具掛けから消えてたのは」
「使う場所を待っていただけです」
ノエルの喉が鳴った。何かを飲み込む音だった。
「クレア、薬草袋を」
クレアが袋を開き、重槍を布と乾燥草で包む。長さがあるため完全には隠れないが、一見して武器と分からない程度にはなった。
「行軍中はこの槍は私が預かります。二人とも、明朝は普段通りの装備で出立すること。——宿舎へ持ち帰ったら、そのまま寝なさい。ここには戻らなくていい」
ノエルが包みの柄側を、クレアが穂先側を持った。
ノエルの歯が鳴った。怒りか、それとも——。
「ノエル」
「……何だよ」
「あなたの怒りは正しい。ですが、今は使い道がない。明日から先の戦場で使いなさい」
ノエルは何も言わなかった。だが、包みを握る拳の白さが、返事の代わりだった。
二人が兵器庫を出ていく。廊下の壁燭台の残り灯が、遠ざかる二つの影をぼんやりと照らしていた。
*
兵器庫にはセラフィーナだけが残った。
手燭を箱の縁に置く。
炎に照らされた教官の横顔は、凪いだ水面のように静かだった。
*
リシェルが戻ってきたのは、それからほどなくだった。
半歩後ろに、コートを羽織ったルッツ・ヴァイスがいる。封印用の蝋と印章を入れた革袋を抱えている。目の下の隈が、手燭の灯りの中で一層濃く見えた。
記録室の机に突っ伏して仮眠を取っていたところだったのだろう。だがその足取りに、迷いはなかった。
数刻前の夕暮れ、教官に説き伏せられたあの時と同じ手で、ルッツは革袋の口を開けた。ただし、あの時より少しだけ——動きが速い。
ルッツは開かれた木箱を見た。
「記録官殿。これから、三つの箱の中身の状態を確認していただきます」
セラフィーナが槍を一本、箱から抜き上げた。
「品物には手を触れないでください。あなたの手で汚染されれば、のちの検証で証拠能力が落ちる。——代わりに、あなたの耳と鼻で確かめてもらいます」
ルッツが僅かに眉を上げたが、頷いた。
セラフィーナは槍の柄を両手で握り、先ほどと同じようにごく僅かに撓ませた。
——軋み。
木の繊維が擦れ合う、微かな音。ルッツの顔色が変わった。
「健全な槍からは出ない音です。柄の内部に亀裂が入っている。四本中三本が同じ状態、一本は無傷」
セラフィーナは音を聞かせるように、もう二本を順に撓ませた。同じ軋みが、冷えた石の空間に三度繰り返された。最後の一本だけが沈黙を返す。
ルッツの喉仏が上下した。
次に、セラフィーナは箱に戻されていた弦の包みを開き、一束を摘まみ上げてルッツの顔の前にゆっくりと差し出した。
「嗅いでください」
ルッツが鼻を寄せた。
一拍。
顔を背けた。
「……腐敗臭がする。微かだが——」
「繊維が湿らされ、内側から劣化しています。表面にぬめりがある」
セラフィーナは弦を元の包みに収め直し、箱に戻した。
ルッツは羊皮紙を広げ、ペンを取った。
書き始める。
*——槍四本のうち三本、教官が柄を撓ませた際に木質の軋み音を確認。内部に亀裂の存在を示唆する異常音。残一本は異常なし。予備弦、記録官が直接嗅覚にて腐敗臭を確認。繊維の劣化が認められる——*
ペンの走る音だけが、石の空間に反響した。
「記録完了しました」
「では——三箱とも閉じ、封印を」
ルッツが新しい蝋を溶かし、一箱目の留め金に垂らす。赤い雫が固まる前に、軍監記録官の印章が押された。
同じ手順を、二箱目、三箱目と繰り返していく。蝋を溶かし、垂らし、印章を押す。三度の金属音が石壁に静かに反響した。
公式の封印が、三つの箱すべてに並んだ。
これで、三つの箱はいずれも「軍監記録官が中身の状態を確認し、封印した」という記録に残る。
もし今後、誰かがこの箱を開けて中身を入れ替えようとすれば——封印の破損が、改竄の動かぬ証拠になる。
逆に、このまま戦場で箱を開けたとき、中から出てくるのは亀裂の入った槍と腐った弦だ。
記録官の封印つきで。
「——罠の中に罠を仕掛けた、ということですか」
ルッツの声は低かった。
セラフィーナは答えず、懐から細い糸を取り出した。
黒い。
炉の煤を獣脂に溶いて繊維に染み込ませた糸——煤糸と呼ばれるものだった。
触れれば切れる。切れた箇所に、黒い煤の痕が残る。そして、繋ぎ直しても色の途切れた箇所が露見する。
セラフィーナは三つの箱の留め金に、それぞれ一本ずつ煤糸を張った。
蝋の封印と留め金の隙間。肉眼では、意識して探さなければ見えない。
「これで、この箱に今後誰かが触れれば分かります」
リシェルが息を詰めた。
教官は、怒っていない。
怒りの代わりに——仕掛けている。
「記録官殿」
「はい」
「煤糸を張った日時と位置を、別帳簿に追記してください。三箱分」
「……承知しました」
ルッツが書き加える。日付、時刻、箱の識別番号、煤糸の位置。
ペン先が羊皮紙を引っ掻く音がやんだ時、セラフィーナは小さく頷いた。
「記録官殿、今夜のことはこれで全てです。お戻りください」
ルッツは一礼し、革袋を抱えて兵器庫を出ていった。
石の廊下に足音が遠ざかり、やがて消えた。
*
兵器庫にはセラフィーナとリシェルが残った。
セラフィーナは手燭を持ち上げ、庫内を一巡した。
棚の位置。箱の並び。床に散った埃の足跡。
手燭の灯りで石の床を照らし、踏み荒らされた埃を靴底で均していく。リシェルも無言でそれに倣った。
二人が兵器庫から出た。
セラフィーナが石の扉を引き、重い音を殺しながら閉めた。錠前に鍵を差し込み、回す。金属が噛み合う小さな音。
扉の表面を一度だけ手で触れ——施錠を確かめた。
壁際では、番兵がまだ眠りこけている。酒瓶を抱いたまま。その寝息すら変わっていない。
*
夜風が吹いていた。
雲は厚く、星はない。手燭の灯りだけが、二人の顔を照らしている。
リシェルの目が、教官の横顔にある。
手燭の炎が揺れるたび、教官の銀灰色の髪が明滅する。その表情は最初から最後まで変わらなかった。凪いだまま。壊れた弦を見ても、腐った糸に触れても、眉一つ動かさなかった。
でも——リシェルには分かる。
教官がこの顔をしている時は、怒っていないのではない。
怒りを、既に別のものに変換し終えているのだ。
「教官」
リシェルの声は、自分でも驚くほど低かった。
「……あの男は、私たちを殺すつもりで、あの箱に」
「はい」
即答だった。
「戦場で予備に切り替えた瞬間、槍は折れ、弦は切れる。事故に見える。それが狙いです」
リシェルの奥歯が鳴った。
寒さではない。
「……殺す」
その声は、ノエルのような爆発ではなかった。もっと静かで、もっと深い。教官と自分たちを殺そうとした人間への、煮詰まった怒り。
セラフィーナはその目を、まっすぐに見返した。
「リシェル」
「……はい」
「怒るな」
短かった。
リシェルの肩が強張る。
「敵は——」
セラフィーナの声が、僅かに下がった。
手燭の炎が風に煽られ、一瞬だけ教官の目に光が走る。
「——勝ったと思い込んでいる時が、一番鈍い」
リシェルが、息を止めた。
「そこを斬るのです」
手燭が揺れ戻った。
教官の顔は、もう闇に半分沈んでいた。
「怒りを燃やすなら、薪を選びなさい。今夜の闇は薪にならない。——戦場なら、なります」
言葉を切った。
続きは言わなかった。
だがリシェルには伝わった。
教官が言い切らない時は、「自分で考えろ」という意味だ。
リシェルは一歩、前に出た。
「教官」
「何ですか」
「……搬出経路の確認を。ガルトが輜重車の七番に入れた後、行軍中に別荷の位置を誰が把握しておくべきか」
セラフィーナの目が、ほんの一瞬——ほんの一瞬だけ、和らいだ。
リシェルにしか見えなかっただろう。手燭の炎が揺れた、その一拍の間だけのことだった。
「私とあなたです。位置は後衛第三列の七番車、毛布の最下層。行軍中は近づく必要はありません。必要になるのは、戦場に着いてからです」
リシェルが頷いた。
煤糸の位置。別荷の搬出経路。封印の日時。七番車の位置。
全部、頭の中に入れた。
ノートは出さない。
教官が「筆跡は出すな」と言ったのだ。であれば、ノートにも残さない。
「今夜は以上です。寝なさい。夜明けまでまだ少しある」
「……はい」
リシェルは踵を返しかけて——止まった。
振り返らずに、呟いた。
「教官の分の二時間も、ちゃんと寝てください」
返事はなかった。
リシェルの足音が、廊下の闇に消えていった。
セラフィーナは一人、手燭を吹き消した。
闇が戻る。
教官は目を閉じなかった。
東の空に、まだ朝の気配はない。
*
寝たのか、寝なかったのか。
棺桶小隊の誰に聞いても、はっきりした答えは返ってこなかっただろう。
だが、出立の角笛が砦の広場に響いた時——五人は寸分の遅れもなく隊列の末尾に立っていた。
朝餉の粥を流し込み、装備を点検し、広場に集まる頃には、東の空の底に鈍い光が滲み始めていた。冬の夜明けは遅い。分厚い雲を裏側から照らす白い光は、朝というより闇の終わりに近かった。
六人が纏うのは、いつもと同じ使い古した装備だった。鞘の先が割れた剣。磨り減った革の剣帯。あちこちに繕い跡のある軍服。見栄えのする代物は一つもない。
広場は人と馬で溢れていた。討伐軍の総勢は三百に近い。正規兵、支援部隊、輜重車列。霜の降りた石畳の上を、鉄と革と獣の匂いが這っている。
兵士たちの吐く白い息が、明けきらない空に混じって砦の上空を覆っていた。
「——全軍に告ぐ!」
広場の中央。馬上。
ヴァルドー・グランセルトの声が響いた。
豪奢な鎧が松明の残り火を弾いている。大柄な体に纏った戦装束は、遠目には威厳に見えなくもない。声は大きく、よく通る。
「本日より、黒角の魔獣討伐作戦を開始する! 王国最強騎士団の名にかけて、一匹残らず殲滅せよ!」
兵士たちが槍の石突きで地面を打つ。規則的な音が広場に反響した。
ヴァルドーの目が、末尾の小隊を見つけた。
六人。繕いだらけの装備。
馬を寄せてきた。
「おや、セラフィーナ。貴様らもいたのか」
セラフィーナは顔を上げなかった。隊列の先頭に立ち、真っ直ぐ前を向いている。
「全軍参加と伺いましたので」
「ははっ。殊勝なことだ」
ヴァルドーが馬上から見下ろす。
その目が、隊列の後方——輜重車列の方へ流れた。各部隊の補給箱が積まれた荷車の列。その中に、棺桶小隊宛の三つの箱もある。軍監記録官の封印がついたまま、昨夜と同じ位置に。
口元が、僅かに歪んだ。
笑みだった。
隠しきれていない種類の笑み。勝利を確信した人間の、油断の形。
あの箱の中身が何であるか、ヴァルドーは知っている。折れる槍。腐った弦。戦場の真ん中で予備に手を伸ばした瞬間に、捨て駒どもは詰む。
——そのはずだ。
「精々——死なないように立ち回るのだな」
リシェルの拳が、隊列の中で音もなく握り締められた。
ノエルの視線が鋭く上がりかけたが、テオが肘で横腹を突いた。ノエルが視線を落とす。
セラフィーナだけが、顔を上げた。
凪いだ目が、馬上の男を見た。
「ええ」
短い。
「予定通りに」
ヴァルドーの笑みが、一瞬止まった。
予定通り。
その言葉の意味を、男は考えた。考えて——何も引っかからなかった。
この女はいつもこうだ。短い言葉で、何かを匂わせるような顔をする。だが所詮は追放された敗残者だ。何ができる。武器は壊れ、弦は腐り、予備はない。
ヴァルドーは鼻で笑い、馬を返した。
その背中を、六つの目が見ていた。
リシェルは教官の横顔を盗み見た。
教官の表情は変わらない。
昨夜と同じ凪。壊れた槍を見た時と同じ顔。ヴァルドーの嫌味を聞いた時と同じ顔。
——だが、昨夜の教官の言葉が蘇る。
*「敵は、勝ったと思い込んでいる時が、一番鈍い」*
リシェルは前を向いた。
拳を開いた。
怒りは消えていない。ただ、形が変わった。
煙ではなく。
刃の形に。
*
角笛が二度鳴った。
討伐軍が動き出す。
三百の兵が、北の渓谷へ向かって進軍を開始した。
その末尾に、六人。
繕いだらけの小隊が、他の誰よりも静かに、歩き出した。




