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剣聖は、棺桶小隊に剣を教えない  作者: 今井 幻


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第24話「帳簿の裏に、刃を仕込む」

 宿舎の扉を閉めた瞬間、外の歓声が遠くなった。


 五人の目が教官に集まる。狭い部屋に六つの寝台。壁の漆喰はところどころ剥がれ、隙間風が首筋を撫でる。ここが棺桶小隊の全領土だ。


 セラフィーナは寝台の縁に腰を下ろした。


「座りなさい」


 短い指示。五人がそれぞれの寝台に腰を下ろすまで、教官は待った。


 夕食の乾パンと塩漬け肉はすでに配膳されていた。誰も手をつけていない。


「食べながら聞きなさい。食べないのは許可していません」


 ノエルが舌打ちしながら乾パンをちぎった。ガルトが黙って塩漬け肉を口に運ぶ。リシェルが水差しを全員に回す。テオだけが、まだ食べ物に手を伸ばせずにいた。


「テオ」


「……はい」


「食べなさい。明日から、あなたの鼻と耳はこれまで以上に必要になります」


 テオの指が乾パンを掴んだ。噛む。硬い。いつもと同じ味のはずだが、今は砂を噛んでいるような気がした。


 セラフィーナは全員が咀嚼を始めたのを確認してから、声を落とした。


「これから伝えることは、この部屋の外に出してはなりません」


 リシェルの手がノートへ伸びかけて、止まった。


「書いて構いません。ただし、それを他人の目に触れさせた瞬間、私たちは終わります」


 リシェルが頷く。ノートを開く。


「討伐作戦の準備期間は、おそらく十日から二週間。その間に、三つの仕事を終わらせます」


 教官の声には、いつもの訓練指示と同じ温度があった。淡々として、具体的で、感情がない。


 それが、かえって五人の背筋を伸ばした。


 この声を聞いている限り、自分たちは死なない。


 それだけは、もう疑わなくなっていた。


 *


「テオ」


 名前を呼ばれた瞬間、テオの咀嚼が止まった。


「明日から補給車列が砦に入ります。あなたは毎日、車列の荷降ろしを手伝いなさい」


「……手伝い、ですか」


「志願すれば断られません。人手は常に足りていない。ただし、本当の仕事は別にあります」


 セラフィーナの視線がテオの鼻を指した。


「誰が、何を、どの木箱に触ったか。あなたの鼻と耳で覚えなさい。特に——私たちの部隊に割り当てられる補給箱に、通常と違う人間が近づいた場合」


 テオの喉が鳴った。


「それは——」


「深夜でも、です」


 教官は言い切った。


 テオは乾パンを飲み込んだ。味はしなかった。だが腹の底に、乾パンの硬さとは別の、何か固いものが落ちた気がした。


「……わかりました」


「無理はしなくていい。怪しまれるくらいなら、離れなさい。あなたの目は、あなたが生きていなければ意味がない」


 その一言で、テオの肩から力が少しだけ抜けた。


 教官は「死ぬな」とは言わない。代わりに、生きている自分にしかできない仕事を与える。


 それが、この人のやり方だった。


 *


「クレア」


「はい」


 クレアの返事は小さいが、迷いがなかった。


「信号砦で見つけた薬品の件。あの空き瓶の中身を、あなたの知識で特定できますか」


「……残留物があれば。匂いと粘度、それから変色の具合で、おおよその成分は」


「砦の薬品庫に出入りする名目は、すでに用意しました。衛生官の補助という形で申請を出してあります。許可は明日には降りるでしょう」


 クレアが目を見開いた。


「もう、申請を——」


「信号砦から戻った日の夕方に出しました」


 ノエルが口の中の肉を飲み込みながら呟いた。


「……いつの間に」


 教官はその呟きを拾わなかった。


「クレア。薬品庫で扱う薬品の在庫を正確に記録しなさい。特に、通常の前線補給には含まれないはずの成分——それがこの砦の薬品庫にあるかどうかを確認してください」


 クレアの右手が、無意識に背中へ回りかけた。


 止めた。


 代わりに、薬草袋の紐をぎゅっと握った。


「わかりました。見つけたら——」


「見つけても、動かさないでください。在庫数と保管位置だけを記録しなさい。物が消えれば、相手は気づきます」


「……はい」


 *


「リシェル」


「はい」


 即答。ノートの上にペンが構えられている。


「あなたには、装備の再配分を任せます」


「再配分、というのは」


「討伐作戦に向けて、各部隊に武器と防具が再配分されます。その際、私たちの部隊に何が割り当てられるか——品目、数量、状態を、一つ残らず記録しなさい」


 リシェルのペンが走る。


「それから」


 教官の声が、ほんの一段だけ低くなった。


「守将殿には、何も知らせません」


 リシェルのペンが止まった。


「……守将殿は、今は私たちの味方では」


「味方です。だからこそ知らせない」


 五人の視線が集まる。


「守将殿がこの件を知れば、ヴァルドーに逆らう判断を迫られます。逆らえば潰される。逆らわなければ、証拠を握りつぶす側に回らされる」


 セラフィーナの声は、淡々としていた。


「あの人を守る最善は、何も知らない状態に置くことです」


 リシェルのペンがゆっくりと動いた。ノートの隅に、小さな丸印を一つ。


 何を書いたかは、リシェルだけが知っている。


「ガルト、ノエル」


 二人が同時に顔を上げた。


「あなたたちは通常通り訓練を続けなさい。全力で。手を抜けば目立ちます」


 ガルトが黙って頷く。ノエルが鼻を鳴らした。


「俺たちは囮ってことか」


「違います。あなたたちが普段通りに動いていることが、全員の安全を保証する壁です」


 ノエルの口が閉じた。


「壁」という言葉を、ガルトが隣で静かに噛みしめているのが見えた。


 セラフィーナは寝台から立ち上がった。


「以上です。明日から、それぞれの持ち場につきなさい。——報告は、この部屋でのみ。口頭で」


 五人が敬礼した。


「記録はあなたたちの手元だけに留めなさい。外部に渡す必要が生じた場合は、私が自分の手で書き直します。あなたたちの筆跡は、この部屋から一文字も出しません」


 リシェルが頷いた。その意味を、一番深く理解したのは彼女だった。


 ノートが敵の手に渡れば、筆跡から書き手が特定される。教官は、自分だけがその危険を引き受けるつもりだ。


 教官は窓際に歩み寄り、外を見た。中庭の松明が、冬の夜風に揺れている。


 その背中に、リシェルが問うた。


「教官」


「何ですか」


「……私たちは、勝てますか」


 沈黙。


 松明が一つ、風に煽られて消えた。


「勝つという言葉が何を指すかによります」


 振り返らないまま、教官は続けた。


「全員生きて帰ること。それが私の勝利の定義です。——それ以外のことは、後から考えます」


 リシェルはノートを閉じた。


 表紙を、今度は強く押さえなかった。


 *


 三日後。


 砦は討伐作戦の準備で、蜂の巣を突いたような騒ぎだった。


 補給車列が北の街道から次々と砦に入り、兵器庫の前には木箱が積み上がっていく。鍛冶場では刃を研ぐ音が朝から晩まで途切れず、馬房からは軍馬の嘶きが響いた。


 その喧騒の中を、テオは荷運びの一人として紛れていた。


 重い木箱を運ぶ。下ろす。中身を確認する兵站係の横で、汗を拭くふりをして、鼻をひくつかせる。


 荷を運ぶ兵士の手の油。木箱を封じる蝋の匂い。積み荷を覆う防水布に染みた馬の汗。


 テオの鼻は、それらを全部分けて嗅いだ。


 三日間で、引っかかったことがある。


 補給物資の木箱には、ほぼ全てに茶色い一般的な封蝋が使われていた。しかし——棺桶小隊宛の箱の一部に、テオの鼻がわずかな違和感を拾った。色味が微妙に違う気がする。赤みがかっている——ように見えた。


 ように見えた、としか言えない。


 松明の光の加減かもしれない。他の部隊の箱と並べて確認したわけでもない。三日では、まだ比較に足るだけの数を嗅いでいなかった。


 テオは報告を急がなかった。教官が求めたのは、勘ではなく事実だ。


 もう少し嗅がなければ。もう少し数を重ねなければ。


 *


 同じ頃。


 クレアは砦の薬品庫の片隅で、棚の在庫を数えていた。


 衛生官の老兵は、クレアの几帳面な仕事ぶりを気に入っていた。「若いのに真面目だな」と何度か声をかけられた。クレアはその都度、薄く笑って「覚えることが好きなんです」と答えた。


 嘘ではない。覚えることは好きだ。


 ただ今は、覚えたくないものを覚えている。


 薬品庫の奥、鍵のかかった戸棚。その中に、通常の前線補給品目にはない瓶が三つ。


 ラベルは「高濃度鎮静剤」。


 だが匂いが違う。クレアの鼻は薬師の家系で育った鼻だ。鎮静剤にこの刺激臭は混じらない。


 信号砦で嗅いだ匂いと、同じ系統。


 クレアは棚の品目と数量を正確にメモした。瓶には触れない。位置も動かさない。


 教官の言葉が、指先を律していた。


「物が消えれば、相手は気づく」


 だからクレアは記録だけを残す。


 薬草袋の内側に折り込んだ小さな紙片に、数字と棚番号だけを。


 *


 リシェルは装備の割り当て表を手に、兵器庫の前に立っていた。


 棺桶小隊に回される装備は、量だけ見れば十分だった。剣六振り、盾三枚、槍四本、弓二張り、矢筒四つ。予備の弦。投擲槍の替え穂先。


 リシェルは一つずつ木箱を開け、中身を確認した。


 剣を抜いて刃を見る。盾の革を叩く。槍の柄を握る。弓を軽く引いてみる。


 どれも、一見したところ問題はなかった。


 ただ——リシェルには、教官が「一つ残らず記録しなさい」と言った時の声の温度が引っかかっていた。


 あの人が「一つ残らず」と言う時は、「一つでも見落とせば死ぬ」という意味だ。


 だからリシェルは、品目と数量だけでなく、刃の研ぎ具合、柄の摩耗、弦の張り、矢羽の状態まで、懐のノートに書き込んだ。


 *


 五日目の夜。


 宿舎の暗がりで、報告が行われた。


 最初はクレアだった。


「薬品庫の奥、施錠棚の三番。ラベルは高濃度鎮静剤ですが、成分が違います。揮発性の刺激臭と、微かな甘い残り香。これは——」


 クレアが言葉を選んだ。


「動物の興奮状態を、不可逆的に高める薬剤に近い特徴です。信号砦で見つけた空き瓶と、同じ系統のものだと思います」


 セラフィーナは頷いた。


「数は」


「三瓶。うち一瓶は残量が半分以下です。最近使われた形跡があります」


「補充の記録は」


「ありません。表の台帳にも、入庫の記録がない。——つまり」


「正規の補給ルートを通っていない」


 クレアが小さく頷いた。


「触らないでください。数だけを覚えていなさい。——もし討伐作戦の直前に、数が減っていたら」


「報告します」


「その時は、残った瓶の保全が最優先になります。中身ごと確保できるよう、手順を考えておいてください」


 クレアの目が、一瞬だけ強くなった。


 薬草袋の紐を握る手に、もう震えはなかった。


 続いてリシェル。


「装備の割り当ては完了しました。品目、数量、状態を全て記録してあります」


「刃の状態は」


「研ぎは標準的です。ただ——」


 リシェルは一瞬、言葉を切った。


「どれも、良くも悪くもない。他の部隊と比べて特別に劣る品が回されている印象はありません。少なくとも、今の時点では」


 セラフィーナは窓に目を向けた。北の夜空は雲が厚い。星は見えない。


「今の時点では。——いい観察です」


 リシェルの背筋が、少しだけ伸びた。


 テオはこの夜、報告をしなかった。


 教官もテオには問わなかった。まだ足りない——その判断を、教官は斥候に預けていた。


 *


 六日目。七日目。


 砦の喧騒は日ごとに増していた。


 テオは荷運びを続けた。補給車列は数度に分けて到着し、その都度テオは木箱の封蝋を確認した。


 日を重ねるごとに、鼻が拾う情報は厚みを増していった。


 茶色い蝋。茶色い蝋。また茶色い蝋。他の部隊宛の箱は、ほぼ例外なく同じ匂い、同じ色合いの封蝋で統一されている。


 だが棺桶小隊宛の箱に限って——やはり僅かに赤みがかった蝋が混じる。三日目に抱いた違和感は、数十の木箱を嗅ぎ比べた今、もう偶然では説明がつかなくなっていた。


 ただし、テオはまだ報告していなかった。


 教官が求めているのは「気がする」ではない。「間違いない」だ。あと一日、二日。他の部隊の箱と棺桶小隊の箱を嗅ぎ分けて、例外がないことを確認してからでも遅くはない。


 テオは鼻先を木箱に向けながら、次の荷を担いだ。


 *


 八日目の深夜。


 月は雲に隠れている。


 兵器庫は砦の東棟にある。石造りの重い扉に錠前が一つ。夜間は番兵が一人つくことになっているが、この日の番兵は空の酒瓶を抱えて壁際で眠りこけていた。


 テオは兵器庫の向かい——馬房との間の狭い通路に身を潜めていた。


 教官の指示は明確だった。


「補給車列だけではなく、兵器庫そのものを見なさい。夜に動く人間がいれば、それが答えです」


 八日間、テオは毎晩この位置にいた。


 最初の七日間は何も起きなかった。


 八日目の夜。


 足音が聞こえた。


 テオの耳が、その足音を識別した。軍靴の底が石畳を叩く音。だが通常の見回りの歩幅ではない。足音を殺そうとしている。不規則に止まり、周囲を窺い、また歩き出す。


 テオは息を止めた。


 暗がりの中に、人影が浮かんだ。


 大柄な体躯。肩幅が広い。腰には剣を帯びている。だがその手には剣ではなく、小さな革袋のようなものが握られていた。


 人影が兵器庫の扉の前で立ち止まった。懐から鍵を出す。


 番兵を一瞥する。眠っている。鼻を鳴らした——その癖を、テオは知っていた。


 セドリック。


 合同訓練の監督役として砦に残された、ヴァルドーの腹心。


 鍵が錠前に差し込まれる。金属が擦れる微かな音。扉が開き、セドリックが中に滑り込んだ。


 テオの心臓が跳ねた。


 追うか。


 追わない。教官はそう言った。「怪しまれるくらいなら、離れなさい」と。


 だがテオは動かなかった。逃げるためではなく、見るために。


 兵器庫の扉は完全には閉まらなかった。セドリックは内側から押さえただけだ。すぐに出るつもりだとわかる。


 隙間から、覆いをした手燭の微かな光が漏れた。


 光の動きを追う。兵器庫の奥——棺桶小隊の補給箱が積まれている区画へ向かっている。教官から聞いた配置と一致する。


 木箱の蓋が開く音。蝶番の軋み。


 中で何をしているかまでは見えない。


 時間にして、四半刻(約三十分)。


 光が動いた。木箱の蓋が閉まる音。足音が扉に近づいてくる。


 テオは身を縮めた。


 扉が開いた。


 セドリックが滑り出る。錠前を閉める。


 その瞬間——開いた扉から、兵器庫の中の空気がテオの潜む通路へ流れ込んだ。


 テオの鼻が震えた。


 油の匂い。かすかな金属の匂い。そして——木を削った時に出る、あの乾いた粉の匂い。


 日中の兵器庫にはない匂いだった。刃を研ぐ油でもなければ、木箱そのものの匂いでもない。何かを削った、あるいは傷をつけた時の、新しい木と金属の混じった匂い。


 テオは息を殺したまま、さらに嗅いだ。


 セドリックが錠前を確認し、踵を返した。テオの潜む通路の前を通過する。一歩、二歩。


 その服から、同じ匂いが漂った。革袋に残った油。袖口についた木の粉。


 テオの記憶が、それを焼きつけた。


 セドリックは番兵の足元の空き瓶を慎重に迂回し、東棟の角を曲がって消えた。


 テオは、数を数えた。


 百まで。


 百を数え終えても、足音は戻らなかった。


 ゆっくりと息を吐いた。


 手が震えていた。膝も。全身が汗で冷えている。冬の夜風が、濡れた肌着を容赦なく刺した。


 怖い。


 怖いが——。


 テオは震える手で、自分の耳と鼻に触れた。


 教官が「必要だ」と言った場所を。


「……見た」


 声に出したのは、自分に確認するためだった。


 見た。覚えた。匂いも、時間も、足音の癖も。


 封蝋のことも。八日かけて鼻が積み上げた、あの赤い蝋のことも。今夜、全てを教官に報告する。


 テオは藁の中から身を起こし、宿舎への道を辿った。


 月は、まだ雲の向こうにいた。


 *


 宿舎に戻ると、教官は起きていた。


 寝台の縁に腰を下ろし、窓の外を見ている。手元に明かりはない。暗がりの中で、銀灰色の髪だけが微かに光っていた。


 テオが扉を閉めた音で、他の四人は起きなかった。


「……教官」


「聞いています」


 テオは息を整えた。


「まず封蝋の件を。——八日間、補給車列の箱を嗅ぎ続けました。棺桶小隊宛の箱にだけ、他と違う封蝋が使われています。赤みがかった蝋です。信号砦で嗅いだものと、同じ匂いでした」


 セラフィーナは微動だにしなかった。


「他の部隊の箱には」


「ありません。全て茶色の一般蝋です。棺桶小隊の箱だけです」


「——続けなさい」


「今夜、セドリックが兵器庫に入りました。鍵を持っていました。棺桶小隊の木箱のあたりで、三十分ほど作業を」


 テオは一度、唾を飲んだ。


「中で何をしていたかは、暗くて見えませんでした。ただ——出てきた時に、扉の隙間から匂いが漏れました。油と、金属と、木を削った粉の匂いです。セドリックの服にも同じ匂いがついていました」


 セラフィーナの横顔が、闇の中で微かに動いた。


「何を見たか、ではなく——何の匂いがしたか、で報告するあたり」


 一拍。


「あなたはもう、立派な斥候です」


 テオの喉が詰まった。


 震えが止まった。


 教官は窓から目を離さなかった。


「よく戻りました。寝なさい。——明日からの仕事が、変わります」


 テオは敬礼を返そうとして、やめた。暗すぎて教官には見えない。


 代わりに、小さく「はい」と答えた。


 寝台に潜り込む。毛布は冷たかったが、胸の奥だけが熱かった。


 *


 九日目の夕暮れ。


 テオが眠りに落ちた後も、セラフィーナは眠らなかった。


 夜明けまでの時間を使い、三人から受けた報告を一枚ずつ紙に書き写した。クレアの口頭報告から薬品庫の棚番号と在庫数と品名を。リシェルの口頭報告から棺桶小隊に割り当てられた装備の品目と数量を。そしてテオの口頭報告から、信号砦で発見した封蝋の特徴と、砦の補給箱で確認された赤い封蝋の分布を。


 三枚の紙片。すべて同じ冷たく正確な文字。セラフィーナの筆跡だけが、そこにあった。


 隊員の名前は一文字も記されていない。


 その紙片を懐に収め、セラフィーナは砦の西棟へ向かった。記録室が並ぶ薄暗い廊下を歩く。


 足音は立てない。教官ではなく、かつて戦場で暗殺者すら捕捉した「剣聖」の歩法だ。


 突き当たりの小部屋。扉を叩く。


「——はい」


 中から返ってきた声は若く、そして怯えていた。


 扉を開ける。


 狭い部屋に机が一つ。その上に帳簿が積まれ、インク壺と羽根ペンが置かれている。窓は一つ。砦の北壁に面しており、冬の夕暮れの残照がかろうじて手元を照らしていた。


 机の前に座っているのは、二十代半ばの若い男だった。文官の制服は皺が寄り、目の下に隈がある。記録官という仕事の地味さと、前線に派遣された不運とが、その顔に等しく刻まれていた。


「セラフィーナ・レイヴェルト。第零教導小隊の教官です」


 名乗っただけで、文官の背筋が強張った。


 この砦で「剣聖」の名を知らない者はいない。左渓谷の防衛戦以降、棺桶小隊の教官は兵士たちの間で半ば伝説になっている。


「あ——記録官のルッツ・ヴァイスです。何か、記録に不備でも」


「不備はありません。ただし、これから不備が生まれます」


 ルッツの目が泳いだ。


 セラフィーナは扉を閉め、机の前に立った。


 懐から紙片を取り出す。


「これを見てください」


 三枚の紙片が机の上に並んだ。いずれもセラフィーナの手による、簡潔で正確な文字だった。一枚目には薬品庫の棚番号と在庫数と品名。二枚目には棺桶小隊に割り当てられた装備の品目と数量。三枚目には封蝋の色と形状の比較——信号砦で確認された特徴と、砦の補給箱で確認された特徴が並記されていた。


「これは——」


「表の補給台帳と、実際に砦に届いた物資を照合した記録の一部です」


 ルッツの顔から血の気が引いていくのが、薄暗い部屋でもわかった。


「数が合わないんです」


 セラフィーナの声は平坦だった。


「正確に言えば、数は合っています。台帳の上では。ただし、私たちの部隊に割り当てられた補給箱には、正規の兵站には使われない封蝋が使われている箱が混じっている。そして、この砦の薬品庫に、前線補給の品目にはない薬品が保管されている」


 ルッツの手が、机の縁を握った。


「それは——私に、何を」


「あなたの仕事を聞いているんです、記録官殿」


 セラフィーナの声は変わらない。だがその目が、ルッツを正面から射抜いた。


「軍監記録官の封印は、副団長の署名より重い。あなたが封印した帳簿は、軍法の場で動かぬ証拠になる。——違いますか」


 ルッツが唾を飲み込んだ。


 違わない。それが軍監記録制度だ。だからこそ記録官は中立の立場に置かれ、政治的圧力から保護される——建前では。


「……何を記録しろと」


「事実だけを」


 セラフィーナが三枚の紙片を指で押さえた。


「表の補給台帳は、あなたが日々つけている通りのままで構いません。誰にも見せてください。何も隠すことはない」


 ルッツの眉が寄る。


「ただし——もう一冊、帳簿を作ってください。こちらには、実際に各部隊へ配布された装備の品目・数量・状態を記録する。表の台帳との差異が出た場合は、その差異だけを正確に」


「別帳簿……」


 ルッツの声が掠れた。


「それは、副団長閣下の補給を——」


「不正と呼ぶかどうかは、あなたが判断することではありません。あなたは記録官です。事実を記録するだけでいい」


 セラフィーナの言葉は、一切の感情を欠いていた。論理だけが、刃のように並んでいた。


 ルッツの手が震えていた。


「もし……もしこれがヴァルドー副団長の耳に入ったら」


「入りません。知っているのは、私と私の部下五人だけです」


「だが、もし——」


「記録官殿」


 セラフィーナが一歩、前に出た。


 ルッツが反射的に椅子を引いた。


 だが教官は、それ以上は近づかなかった。


「この砦には、二十歳にもならない若者が大勢います。彼らはこれから、討伐作戦に駆り出される。あなたの帳簿が正しければ、死ななくていい人間が死なずに済むかもしれない」


 ルッツの手の震えが止まった。


 止まったのは、震えが収まったからではない。両手で机の縁を掴んで、力ずくで止めたのだ。


「……保証はあるんですか。私の身の安全の」


「ありません」


 即答だった。


 ルッツが息を呑んだ。


「ただし」


 セラフィーナの目が、わずかに和らいだ。


 ルッツにはそう見えた。あるいは、窓からの残照が途切れかけただけかもしれない。


「正しい記録だけが、あなたと若者たちを生かします。帳簿が残れば、あなたの仕事は軍法の場で認められる。帳簿がなければ——」


 言い淀んだのではない。間を置いたのだ。


「全ては、なかったことになります。あなたが見たものも。彼らが死んだ理由も」


 部屋の隅で、インク壺の中の液体が微かに揺れた。


 北風が窓を叩いている。


 ルッツは長い間、何も言わなかった。


 机の上の紙片を見つめていた。三枚の紙。同じ手が、同じ冷たい正確さで書いた文字。この女は自分の手だけで書いたのだ。何人の報告をまとめたにせよ、辿れるのは彼女一人だけになるように。


「……一つだけ」


 ルッツの声が、ようやく戻った。


「帳簿は私の手元に置きます。封印は毎日更新する。それ以外の保管場所は——」


「それで構いません。あなたのやり方で」


 セラフィーナが頷いた。


「ただし、もし帳簿に万が一のことがあった場合に備えて——私の部下が、同じ数字を別の場所に保管しています」


 ルッツが薄く笑った。笑ったのか、顔が引きつったのか、自分でもわからなかった。


「……逃げ道は、ないんですね」


「記録官殿。逃げ道がないのは、最初からです。あなたはこの砦の記録官であり、記録を怠れば——副団長の暗躍がまかり通った時、責を負うのは記録を残さなかった官吏です」


 ルッツの顔が、今度こそはっきりと歪んだ。


 それは恐怖ではなかった。


 自分が逃げようとしていたものの輪郭を、初めて正面から見せられた人間の顔だった。


「——わかりました」


 ルッツは引き出しから新しい帳簿を取り出した。


 表紙は無地。何も書かれていない。


「今日から始めます」


 セラフィーナは紙片を三枚とも回収し、懐に戻した。机の上には何も残さない。


 踵を返し、扉に手をかけたところで、止まった。


「記録官殿」


「……はい」


 振り返らなかった。


「あなたの名前は、帳簿に残ります。正しい側に」


 扉が閉まった。


 廊下に教官の足音は響かなかった。


 ルッツは無地の帳簿を開き、羽根ペンを取った。


 手はまだ震えている。


 だが、ペン先がインクに触れた瞬間——震えが、文字の形に変わった。


 *


 その夜。


 宿舎に戻ったセラフィーナは、窓の外を見ていた。


 北の空は重い雲に覆われ、星は一つも見えない。


 だがセラフィーナの目は、雲の向こうではなく——もっと近い場所を見ていた。


 兵器庫の方角。


 東棟の屋根の輪郭が、闇にぼんやりと溶けている。


 彼女の右手は、軍服の胸元に触れていた。


 布越しに感じる、小さな硬い形。


 それが何であるかを問う者は、この部屋にはいない。


 教官は目を閉じた。


 一瞬だけ。


 開いた時、その目はいつもと同じだった。


 冷たく、透明で、何も読めない。


 ただし——今夜の透明には、方向があった。


 東。兵器庫。


 そしてその先にいる、一人の男の方角へ。

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