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剣聖は、棺桶小隊に剣を教えない  作者: 今井 幻


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第23話「罠の設計図」

 南東の空を見つめていたセラフィーナの視線が、ゆっくりと室内に戻った。


 広間の空気が変わっている。五人は黙ったまま、教官の次の言葉を待っていた。


 セラフィーナは石の皿を指した。


「順を追います。まず——これが何のために焚かれたか」


 誘引香の焚き残し。甘い焦げた匂いがまだ微かに漂う、東側の壁際。


「信号砦は放棄されていた。駐留兵はいない。つまりここで誘引香を焚いた者は、この砦を魔獣に占拠させることを目的にしていた」


 リシェルがノートを開いた。指先が白い。それでもペンは動いている。


「次に、狂暴化の薬剤」


 西側の木箱に視線を移す。褐色の小瓶三本。栓が抜かれ、中身は空。


「魔獣を引き寄せるだけでは足りなかった。狂暴化させて、被害を確実にする必要があった。——誰の被害を」


 問いかけの形だった。だが答えを待つ間はなかった。


「この砦の奪還命令が、なぜ棺桶小隊に下ったのか。考えてみなさい」


 テオが口を開きかけ、閉じた。


 ノエルが代わりに吐き捨てた。


「……俺たちに、ここを踏ませるためか」


「半分正解です」


 セラフィーナの声に抑揚はない。講義をしている時と同じ温度だった。


「奪還命令そのものは罠の本体ではありません。予行演習です」


 クレアが顔を上げた。


「予行……?」


「この砦に残された証拠を見なさい。誘引香を使い、狂暴化薬を撒き、魔獣を特定の場所に集める。——この手順は、もっと大きな規模で再現できる」


 セラフィーナは木箱の蓋を指先で示した。鷲の翼と剣を組み合わせた紋章の封蝋。


「副団長直轄の兵站系統。つまり、この規模の物資を動かせる人間は一人しかいない」


 全員が息を呑んだ。


 テオの顔から血の気が引いていた。斥候として危険を嗅ぎ分ける鼻が、今は自分自身に向けられた恐怖の匂いを拾っているかのように、鼻梁に皺が寄っている。


「あの副団長が……俺たちを……」


 声が掠れた。


 クレアは利き手を背中に回したまま、もう片方の手で自分の肘を掴んでいた。指が食い込んでいる。


 セラフィーナは二人を見た。見て、そのまま続けた。


「ヴァルドー副団長は、近いうちに大規模な討伐作戦を起こすでしょう」


 断定だった。


「北境の魔獣被害は拡大している。——拡大させられている、と言うべきですが。この状況を放置すれば、副団長自身の管轄能力が問われます。彼にとって最も都合の良い解決策は一つ」


「……討伐戦で手柄を立てて、同時に邪魔者を消す」


 リシェルの声だった。


 ペンが止まっている。ノートの上に文字はなく、ただペン先が紙に押し当てられたまま動かない。


「その通りです」


 セラフィーナは頷いた。


「討伐作戦の混乱に紛れて、棺桶小隊を最も危険な持ち場に配置する。誘引香で魔獣の主力を誘導し、狂暴化薬剤で被害を拡大させる。私たちが全滅すれば、それは『討伐戦における不幸な戦死』として処理される。——そしておそらく」


 声の温度が一段下がった。


「今までの魔獣被害の原因まで、死んだ私たちに押し付けるつもりです」


 広間の空気が凍った。


 比喩ではない。冬の信号砦は元々冷えきっていたが、五人の吐く息が白くなったのはこの瞬間からだった。


 ノエルが壁を殴った。


 拳の皮が擦れる鈍い音。石壁は微動だにしない。


「ふざけんな——」


「ノエル」


 名前を呼んだだけだった。


 ノエルの拳が止まった。殴った手を開いて、また握って、それからゆっくり下ろした。


「……殴りたいのは壁じゃねえんだよ、教官」


「知っています」


 セラフィーナはそれだけ言った。


 入口の方から、剣の柄が軋む音がした。ガルトだ。見張りの位置から一歩も動いていない。だが背中越しにも、肩の筋肉が盛り上がっているのが分かった。


「教官」


 ガルトの声は低い。普段より更に低い。


「俺たちは、どうすればいい」


 短い問いだった。ガルトらしい。余計な言葉がない。だからこそ、その声の底にある熱が剥き出しになっていた。


 セラフィーナは広間の中央に立っていた。


 天井の煤。壁際の暖炉と、中央にだけ偏った焚き火の痕跡。匂いを外に漏らさないよう、わざわざ換気の悪い場所で焚いた誘引香。


 周到だった。


 だが——周到すぎた。


「ガルト。あなたの問いに答えます」


 セラフィーナは振り返らなかった。視線は天井の煤に向いている。


「何もしなくていい」


 五人が息を止めた。


「証拠はここにある。動かさないでください。瓶も、皿も、封蝋も。この砦に残っているすべてが、あの者の首を絞める縄になる」


 テオが声を絞り出した。


「で、でも教官……相手は副団長だぞ。騎士団のナンバー2だ。俺たちがいくら証拠を見つけたって、握り潰されるだけじゃ——」


「テオ」


 セラフィーナが振り返った。


 テオの言葉が途切れた。教官の目が、テオの不安そのものを真正面から受け止めていた。逸らさず、否定もせず。


「あなたの懸念は正しい。権力で握り潰される可能性は、ある」


 認めた。


 テオの目が見開かれた。教官が不安を肯定するのは珍しかった。


「だから、握り潰せない形にする」


 セラフィーナの声は平坦だった。戦場で「三歩下がれ」と言う時と同じ声。事実を述べているだけの声。


「証拠を突きつけるだけでは不十分です。あの者は言い逃れの天才だ。『部下が勝手にやった』『知らなかった』——いくらでも逃げ道を用意するでしょう」


 ノエルが舌打ちした。「じゃあどうすんだよ」


「仕掛けてきてもらいます」


 五人が黙った。


「討伐戦が始まれば、あの者は必ず手を打つ。私たちを殺すための手を。——その手を、衆目の前で『失敗させる』」


 セラフィーナは石の皿の横を通り過ぎ、広間の中央に戻った。


「失敗すれば、それは証拠になる。失敗した謀略は、成功した謀略より百倍雄弁です。なぜなら——生き残った被害者が証言できるから」


 リシェルのペンが動いた。


 今度は文字を書いている。教官の言葉を、一語も落とすまいとするように。


「罠だと分かっていて、踏み込む……ということですか」


「そうです」


 セラフィーナの答えに迷いはなかった。


「ただし、ただ踏み込むのではない。罠の形を知った上で、その罠が『誰の意志で仕掛けられたか』を証明できる状態で踏み込む。——向こうは私たちが何も知らないと思っている。それが、唯一にして最大の隙です」


 クレアが、ようやく自分の肘を掴んでいた手を離した。


「教官。薬剤の瓶は——」


「動かすなと言いましたね。その通りです。今は触れない。ただし」


 セラフィーナはクレアを見た。


「あなたの目と鼻が覚えていることは、誰にも握り潰せません。瓶の形状、残滓の色と匂い、調合の特徴。あなたが特定したことは、あなたの中にある。それが最も安全な証拠保管です」


 クレアが頷いた。小さく、だが確かに。


「テオ」


「は、はい」


「あなたが嗅いだ誘引香の匂い。渓谷の底で嗅いだものと同じだと言いましたね」


 テオの目が据わった。恐怖が薄れたわけではない。だが、教官に名前を呼ばれ、役割を確認されると、この男の背筋は自然と伸びる。


「……同じだ。間違いない」


「その鼻を信じなさい。あなたの嗅覚は、今後さらに重要になる」


 セラフィーナは広間を一巡した。東の壁。西の棚。天井。入口。


 そして五人を——正確には四人と、入口のガルトの背中を見渡した。


「砦に戻ります。今日見たもの、嗅いだもの、触ったものを、五人の中だけに留めなさい。砦の誰にも話してはいけない」


「守将にも?」


 リシェルの問いは鋭かった。


「守将にも、です」


 一拍の間。


「守将は悪い人間ではない。だが、副団長の政治的圧力に抗えるだけの力がない。知らせれば、守将自身を危険に晒すことになる」


 リシェルは頷いた。ノートを閉じ、懐に押し込んだ。


「出ます。ガルト、先頭」


「了解」


 ガルトが入口から一歩踏み出した。外の風が広間に流れ込む。冬の北風。霧は薄くなっていたが、空は灰色のまま低く垂れ込めている。


 テオが二番目に出た。足音の間隔が狭い。恐怖が消えていないのだろう。だが足は前に出ている。


 ノエルは壁を殴った手を開いたり閉じたりしながら、無言で続いた。


 クレアが四番目。利き手を庇うように体の後ろ側に回したまま、一度だけ振り返って広間の西側——褐色の瓶があった場所を見た。


 リシェルが五番目。


 セラフィーナが最後に砦を出た。


 出る間際、一度だけ立ち止まった。


 広間の中央。天井の煤。


 この場所で誘引香を焚いた人間は、砦を魔獣に喰わせることで証拠を消すつもりだったのだろう。砦が奪還されるとは思っていなかった。


 周到だが、詰めが甘い。


 いつものことだ。


 セラフィーナは砦を出て、扉を——蝶番が一つ外れた、斜めに垂れ下がった厚い板材を、元の位置に押し戻した。完全には閉まらない。だが、外から見れば放棄されたままの廃砦に見える程度には。


「行軍序列、往路と同じ。テオ、先行は不要。ガルトの後ろにつきなさい」


 帰路は、来た時より静かだった。


 誰も喋らなかった。雪混じりの風が横から叩きつけ、枯れた灌木が道の両側で揺れている。


 テオが時折、鼻をひくつかせていた。斥候の癖だ。危険を嗅ぐ癖。だが今は、広間で嗅いだあの甘い焦げ臭を振り払おうとしているようにも見えた。


 ノルトエイン砦の外壁が見えた時、セラフィーナの足が止まった。


 正門の前。


 見慣れない馬車が二台、停まっている。


 豪奢、という言葉がそのまま車輪をつけたような代物だった。金の縁取り。磨き上げられた黒漆の車体。護衛の騎馬兵が四騎、馬車の左右に整列している。


 その鎧が、セラフィーナの目を引いた。


 王国最強騎士団の紋章。


「教官——」


 リシェルが声を低くした。


「ええ」


 セラフィーナの声に変化はなかった。


「予想より、早い」


 *


 砦の中庭は、いつもと様子が違っていた。


 普段は訓練や荷運びで雑然としている広場に、兵士たちが整列している。三百人近い砦の守備兵のほぼ全員が、中庭の中央に組まれた即席の演壇に向かって並んでいた。


 演壇の上に、男が立っている。


 大柄な体格。豪奢な鎧。肩当てに施された金の装飾が、曇天の薄い光の中でも鈍く光っている。


 ヴァルドー・グランセルト。


 王国最強騎士団、副団長。


 セラフィーナの元上官にして、彼女を追放した張本人。


「——諸君!」


 ヴァルドーの声が中庭に響いた。芝居がかった抑揚。腕を大きく広げ、兵士たちを見下ろす姿勢。


 セラフィーナは正門を潜り、中庭の端に立った。五人がその後ろに並ぶ。


 誰にも気づかれない位置。演壇からは最も遠い、門の影。


「北境を脅かす魔獣どもの暴虐は、もはや看過できぬ段階に至った!」


 ヴァルドーの声は、よく通る。声量だけは一級品だった。


「原因は——練度の低い末端部隊が、いたずらに魔獣を刺激し、事態を悪化させたことにある!」


 セラフィーナの表情は動かなかった。


 横で、ノエルの歯が鳴った。


 セラフィーナの手が軽くノエルの前腕に触れた。一瞬だけ。ノエルの歯の音が止まった。


「だが安心せよ! 私が直々にこの砦へ赴いたのは、諸君らを見捨てるためではない!」


 ヴァルドーは拳を掲げた。


「王国最強騎士団の名にかけて——北境最大の脅威、黒角王ゼグラの討伐を宣言する!」


 中庭がどよめいた。


 黒角王。その名前は、北境の兵士なら誰でも知っている。噂の域を出ない情報。だが、それだけで兵士たちの表情が変わった。


 歓声が上がった。


 拳を突き上げる者。隣の兵と肩を叩き合う者。副団長の名に安堵する者。


 セラフィーナは演壇の上のヴァルドーを見ていた。


 男は歓声を浴びている。両腕を広げ、頷き、兵士たちの熱を全身で受け止めるポーズを取っている。


 視線が合った。


 ヴァルドーの目が、中庭の隅——門の影に立つセラフィーナを捉えた。


 一瞬だけ、男の口元が歪んだ。


 笑みだった。


 優位に立つ者が、足元の虫を見つけた時の笑み。


 セラフィーナは視線を外さなかった。


 外す理由がなかった。


「——この討伐戦は、北境に駐留するすべての部隊が参加する! 例外はない! 全軍を挙げて、黒角王の首を獲る!」


 歓声がさらに大きくなった。


 ヴァルドーの視線がセラフィーナから離れた。満足そうに頷き、再び兵士たちに向き直る。


「詳細は追って各隊に伝達する。——だが一つだけ、今この場で約束しよう。この戦いが終わった時、北境の脅威は消え去り、諸君らの武勲は王都に届く!」


 最後の一文で、歓声は最高潮に達した。


 セラフィーナは視線を演壇から外した。


 隣のリシェルが、ノートを懐に入れたまま、右手でその表紙を押さえていた。爪が白い。


「教官」


 リシェルの声は、歓声の中では聞こえないほど小さかった。


「あの人が言ったこと——『末端部隊が魔獣を刺激した』って」


「私たちのことです」


 セラフィーナは即答した。


「そして討伐戦で私たちが死ねば、その責任は永久に私たちのものになる。死人に口はありませんから」


 リシェルの唇が引き結ばれた。


 歓声が中庭を満たしている。ヴァルドーが演壇を降り、守将と握手を交わしている。守将の笑顔は硬い。だが逆らえない。


 セラフィーナは門の影から動かなかった。


 五人も動かなかった。


 歓声の中で、六人だけが沈黙していた。


「教官」


 テオの声。小さい。だが掠れていない。


「さっき言った『予想より早い』って——これのことか」


「ええ」


 セラフィーナは中庭を見ていた。ヴァルドーの豪奢な鎧が、曇天の光を受けて鈍く光っている。


「証拠を残した者が、証拠を回収する前に次の手を打ってきた。焦っている」


「焦っている……のは、いいことなんですか」


 クレアの問い。


「焦る人間は、手を早める。手を早めれば、準備が粗くなる。——そして」


 セラフィーナの視線が、ヴァルドーの背中に据えられた。


「粗い準備は、大きな穴を残す」


 風が変わった。北風が中庭の砂埃を巻き上げ、演壇の旗がはためく。


 ヴァルドーが護衛に囲まれながら砦の応接室へ消えていく。その背中は堂々として、自信に満ちていて、一点の曇りもなかった。


 セラフィーナは目を閉じた。


 一瞬だけ。


 開いた時、目の奥にあったものを、五人は見た。


 あるいは——見た気がした。


 教官の目には色がない。冷たく、透明で、感情が読めない。いつものことだ。


 だが今、その透明の奥に、何かが沈んでいた。


「宿舎に戻ります」


 教官はいつもの声で言った。


「夕食の後、全員で明日の訓練内容を確認します。——通常通りに」


 通常通り。


 その言葉の意味を、五人はもう知っていた。


 通常通りとは、何も変わらないという意味ではない。


 教官がそう言う時は、変わるのは教官の頭の中だけで、自分たちはまだ知らされていないだけだ。


 リシェルは懐のノートを握ったまま、教官の背中を追った。


 中庭の歓声は、まだ止んでいなかった。

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