第22話「点と線」
半日の行軍は、ほとんど無言だった。
テオが五十歩先を歩く。斥候の基本通り、獣道の痕跡を読みながら、時折立ち止まっては鼻を上げる。
その背中を見ながら、リシェルは自分の呼吸を整えていた。
山道は緩やかだが、冬の朝の空気は肺を刺す。霧はノルトエイン砦を出た頃よりも薄くなっていたが、代わりに風が出てきた。北西からの、乾いた風。
ガルトが隊列の最後尾を歩いている。盾がない分、いつもより歩幅が広い。それでも足音だけは重い。体格が鳴らす音は、装備を軽くしたくらいでは消えない。
「見えた」
テオが低く言った。
山道が折れる先に、石造りの小さな塔が覗いていた。
信号砦。
ノルトエイン砦から北西に半日。魔獣の侵攻が激しくなった際に人員が引き上げられ、半年以上無人のまま放置されている中継拠点。
セラフィーナは隊列を止めた。
「テオ。風は」
「北西から。砦の正面側に吹き下ろしてます」
「匂いは」
テオが鼻をすぼめた。二秒。三秒。
「……獣。でも薄い。居るとしても、小さいのが数匹」
セラフィーナは頷いた。
砦の外壁が見える距離まで進む。正面の扉は内側から破られていた。蝶番が一つ外れ、厚い板材が斜めに垂れ下がっている。
セラフィーナは扉の破損面を見た。
爪痕が三本、左上から右下へ。板の裂け方は外側に膨らんでいる。
「中から出たものがつけた傷です。入ったものではない」
リシェルがノートに手を伸ばしかけて、やめた。今は書く時間ではない。
「中に残っているのは、出損ねた個体。大型はいません。テオの鼻が正しければ、小型が二匹から三匹」
ノエルが槍の柄を握り直した。
「教官。陣形は」
「いつも通り。ガルト、入口で受けなさい。ノエルは二撃目を温存。リシェル、奥の部屋の数と構造を声に出して。クレアは後方で待機」
五人が動いた。
言葉は少ない。だが、その少なさの中に、全員の位置と役割が収まっている。半年前なら、この指示では誰も動けなかった。
セラフィーナは最後に砦に入った。
*
信号砦の内部は、予想通りだった。
一階は通信室と倉庫を兼ねた広間。二階は見張り台に続く梯子がある小部屋。広間の奥に、物資を保管していたであろう棚が倒れ、木箱の残骸が散乱している。
糞の臭いが充満していた。
小型の魔獣——犬ほどの大きさの牙猪が二匹、広間の隅で唸っていた。
ガルトが入口に立つ。幅広の片手剣を両手で構え、低く腰を落とした。盾がなくても、この男の体は壁になる。通路の幅がガルトの肩幅とほぼ同じだった。抜けようがない。
一匹目が突進した。
ガルトが剣の腹で受け流す。弾かれた牙猪が壁にぶつかり、よろめいたところをノエルの剣が叩いた。一撃。急所ではないが、動きが止まる。
二匹目がガルトの足元を狙って低く飛んだ。
「左足、引いて」
リシェルの声が飛んだ。
ガルトが左足を半歩引くと、牙猪の突進が空を切った。着地の隙にノエルが踏み込み、首の付け根を突く。
静かになった。
「もう一匹」
テオが奥の部屋を指差した。梯子の下の暗がりから、低い唸りが聞こえる。
セラフィーナは動かなかった。
五人を見ている。
「リシェル」
「——テオ、音を立てて。梯子の右側。ガルト、梯子の左で待って。出てきたら受ける。ノエル、ガルトの後ろから」
三匹目は、テオが梯子を蹴った音に反応して飛び出し、ガルトの剣腹に弾かれ、ノエルに仕留められた。
制圧完了。
セラフィーナは死骸を一瞥した。
「三匹。テオの鼻は壁越しでも正確ですね。上出来です」
テオが少しだけ胸を張った。ほんの一瞬だけ。すぐに周囲を嗅ぎ始める。それが、この半年で身についた癖だった。
「砦内を確認します。リシェル、二階。テオ、この広間の隅を全部嗅ぎなさい。壁際、特に風の通らない場所。クレア、倒れた棚の裏と木箱の残骸を確認。中身が残っていれば、触る前に私を呼びなさい。ガルト、入口の見張り。ノエル、ガルトの交代要員として待機」
指示が終わる前に、五人はもう動いていた。
セラフィーナは広間の中央に立ち、天井を見上げた。
石壁に煤がこびりついている。ここで何かを焚いた痕跡。暖を取るための焚き火にしては、位置が不自然だった。暖炉は壁際にある。だが煤は、部屋の中央——換気の悪い場所に集中している。
煙を外に逃がしたくなかったのか。
それとも、匂いを閉じ込めたかったのか。
セラフィーナの目が、細くなった。
*
最初に声を上げたのは、テオだった。
「教官」
広間の東側。倒れた棚の裏、壁と棚の隙間に押し込まれるように置かれていた平たい石の皿。その上に、黒く焦げた残滓がこびりついている。
テオは皿を持ち上げず、膝をついて顔を近づけていた。
「この匂い」
セラフィーナが隣にしゃがんだ。
「どんな匂いですか。言葉にしなさい」
テオは眉をしかめた。嗅覚を言語に変換する訓練は、まだ十分ではない。
「……甘い。焦げてるのに、甘い。松脂じゃない。獣脂でもない。もっと——鼻の奥に残る。粘る感じ」
セラフィーナは黙っていた。
「あの匂いと同じです」
テオの声が低くなった。
「渓谷の底で嗅いだ、あの匂い。教官が覚えておけって言った——」
「覚えていましたね」
セラフィーナの声には、感情がなかった。
平たすぎた。テオは教官のその声を、初めて聞いた気がした。褒めているのでも、叱っているのでもない。何かを確認しただけの、乾いた声。
セラフィーナは立ち上がった。
「軍用の誘引香です」
広間にいた全員の動きが止まった。
リシェルが二階の梯子から顔を出している。ノエルが入口から振り向いた。ガルトだけは外を向いたまま動かなかったが、肩が強張ったのが見えた。
「魔獣を特定の方向へ誘導するために、軍が使用する香です。民間には流通しない。製造も管理も、すべて騎士団の兵站部門が握っている」
テオは石の皿を見下ろした。
甘い匂いが、鼻の奥でまだ粘っていた。
*
次に声を上げたのは、クレアだった。
「教官。こちらを見てください」
広間の西側。倒壊した棚の下敷きになっていた木箱の残骸。その中に、他の補給品とは明らかに異質な小瓶が三本転がっていた。
クレアは瓶に触れていなかった。教官の指示通り、呼んだだけだ。
セラフィーナが近づく。
小瓶は指三本分ほどの大きさで、褐色の硝子でできている。栓はすべて抜かれており、中身は空。だが内壁に、粘度の高い液体の残滓がわずかに光っていた。
「クレア。薬学の知識で判断しなさい。この瓶の中身は何だったと思いますか」
クレアは膝をつき、利き手——右手を背中に回した。先日の訓練で叩き込まれた癖がもう出ている。左手で瓶を一本持ち上げ、光に透かした。
残滓の色。粘度。そして、かすかに立ち上る刺激臭。
「……覚醒作用のある薬草の蒸留液が基剤です。でも、それだけじゃない」
クレアの顔が曇った。
「この刺激臭は、狂暴化を促す添加物の特徴です。士官学校の薬学課程で、禁制品の一覧に載っていました。魔獣の恐怖心を消して攻撃衝動だけを増幅させる——」
「名前は」
「正式名称は覚えていません。でも、通常の物資庫には絶対に置かない種類のものです。配合が難しくて、専門の調合師にしか作れない。流通量も極めて少ないと講義で——」
「十分です」
セラフィーナの声は、さっきと同じ平たさだった。
だが、その平たさの質が変わっていた。テオが感じた「乾いた声」が、今度はクレアにも伝わった。
感情が消えているのではない。
感情を押し殺す力が、異常に強いのだ。
セラフィーナは木箱の残骸に目を移した。
木箱は標準的な軍の補給箱と同じ規格だった。だが、蓋の裏側に残っていたものを見た瞬間、セラフィーナの指が止まった。
封蝋。
赤い蝋の塊が、蓋の裏に押しつけられるように残っている。
通常の軍の封蝋は無地か、駐屯地ごとの簡素な刻印が入る。だが、この封蝋には独特の模様が刻まれていた。鷲の翼と剣を組み合わせた紋章。
セラフィーナはその紋章を知っていた。
知りすぎるほど、知っていた。
「——副団長直轄の兵站系統」
声が出た。
平たさが、わずかに割れた。
「王国最強騎士団の中でも、副団長が個人的に管理する補給経路にだけ使われる封蝋です。他の部隊は使わない。使えない。副団長の承認なしには、この蝋は発行されない」
リシェルが梯子を降りてきた。
足音が震えていた。
「教官。それは——」
「事実だけを確認します」
セラフィーナは振り向いた。
五人の顔を、順番に見た。
「テオが嗅ぎ当てた誘引香。クレアが特定した狂暴化薬剤。そしてこの封蝋。三つの物証が、同じ場所から出ました」
広間から音が消えた。
魔獣の糞の臭い。石壁に染みついた煤の匂い。そして、まだ鼻の奥に残る甘い焦げた残り香。
「ここに駐留していた兵が撤退する前に、誘引香を焚き、狂暴化した魔獣を北境一帯に放った。信号砦を放棄したのではない。信号砦を使って、この地域全体を魔獣の巣に変えた」
セラフィーナの声に、感情が戻り始めていた。
だがそれは、温かみではなかった。
「大鬼の不自然な出現。渓谷への魔獣の集中。左渓谷に押し寄せた攻勢。すべて自然災害ではない」
テオが拳を握った。ノエルの顎が引き締まった。ガルトは入口に背を向けたまま、剣の柄を白くなるほど握っていた。
「誰かが意図的に仕組んだ。北境を混乱させ、私たちを最も危険な場所へ追い込むために」
リシェルのノートが、床に落ちた。
握っていた手が震えて、保持できなかったのだ。
「——教官」
リシェルの声は、怒りで裏返っていた。
「俺たちを殺すつもりだったってことですか」
ノエルだった。声を抑える気配がなかった。
「村の人たちも。砦で戦った正規兵も。全部、あいつらの——」
「ノエル」
セラフィーナが名前を呼んだ。
ノエルの声が止まった。
「怒りなさい。それは正しい」
静かだった。
「ですが、怒りを声にするのは今ではない」
セラフィーナは広間を見回した。
壁の煤。石の皿。褐色の小瓶。封蝋の刻まれた木箱の蓋。
「証拠は揃いました。点は線になった」
胸元に手を当てた。
軍服の内側。書簡の紙と、欠けた鍔が重なっている場所。
指が鍔を探り当て、握った。
五人はその仕草を知っている。教官がそうする時、何かが変わる。声の温度が変わる。目の奥の光が変わる。
リシェルは知っていた。朝霧の中で、教官があの鍔を握りしめて祈っていた姿を。
今、教官は祈っていなかった。
「これが罠なら」
セラフィーナの声が変わった。
冷たかった。
教官として指示を出す時の声とも違う。剣聖として剣を抜いた時の声とも違う。リシェルが聞いたことのない種類の冷たさだった。
それは、怒りを完璧に制御した人間だけが出せる声だった。
「——罠を仕掛けたのがあの者たちなら、好都合です」
鍔を握る指に、力が入った。
「証拠を残した。経路を残した。そして——私たちがここまで辿ることは、計算に入れていなかった」
セラフィーナは五人を見た。
「今度は私が仕掛けます」
リシェルが床からノートを拾い上げた。震えは止まっていた。
「骨の髄まで、後悔させてやります」
教官の目は、もう砦の外を見ていた。
南東の空。霧の向こう。ノルトエイン砦がある方角。
そしてその遥か先——王都がある方角を。




