第31話「少女の声、副団長の沈黙」
第三波は、音ではなく振動として来た。
足裏から膝へ、膝から腰骨へ。地面を伝う重い衝撃が、槍杭を打ち込んだ岩盤越しに全身へ響く。
松明の炎が横に倒れた。壁面の影がぐらりと揺れ、一瞬だけ、くびれ地形の全景が暗転する。
次の瞬間、山道の暗がりから獣の群れが雪崩れ込んできた。
前の二波とは、密度が違う。
先頭の中型が槍杭に突っ込み、木の柄が割れる音が三連で鳴った。四本目の杭が獣の肩甲骨に刺さり、悲鳴が渓谷の壁を叩く。
「——抜くな! 杭に刺さった個体は放置! 後続を見ろ!」
リシェルの声だった。
ガルトが片手剣を構え直した。杭を乗り越えようとする二頭目が、仲間の死体につまずいて姿勢を崩す。その半拍を、ガルトは見逃さなかった。
踏み込まない。
腰を落としたまま、刃の重さだけで首筋を叩く。教官に教わった通りの、体力を削らない一撃。
崩れた獣が通路を塞ぎ、後続がさらに詰まる。
「弓——今! 左壁寄りの射線、上から三番目の個体!」
リシェルの指示が、第十四歩哨隊の弓兵に飛んだ。
矢が一本、放物線を描いて落ちる。狙い通り、群れの中ほどで暴れていた一頭の脇腹に刺さった。致命傷ではない。だが、痛みで暴れた個体が左右の仲間を押しのけ、群れの前進が二拍止まった。
その二拍で、ガルトが呼吸を整える。
ノエルが箱壁の陰から半身を出し、杭を乗り越えかけた小型の腹を剣で薙いだ。
「——右端、戻れ! 射線に入ってる!」
リシェルの声が、今度はノエルの位置を修正する。
ノエルが舌打ちしながら半歩退いた。直後、弓兵の第二射がノエルのいた空間を通過し、奥の中型の前脚に突き立った。
もしノエルがあの半歩を退いていなければ、矢は彼の肩口をかすめていた。
*
セラフィーナは、その一連を黙って見ていた。
くびれ地形の中央寄り、やや前方に位置を取り、後方の山道と前方の精鋭部隊の双方が視界に入る場所。
リシェルの指示は、正確だった。
弓兵の射線とノエルの攻撃範囲が重なる瞬間を、声だけで解消した。あの判断は教官のノートには書いていない。リシェル自身が、この戦場の中で見つけた答えだ。
——まだ粗い。
射線の競合に気づくのが半拍遅い。本来なら弓兵に射つ前に退避を命じるべきで、順序が逆だ。
だが、間に合った。
それで十分だった。
視線を前方に移す。
精鋭部隊が封鎖している渓谷の出口。松明の光が向こう側の重装歩兵の兜を照らしている。
——風が、変わり始めていた。
後方の山道から吹き込んでいた冷たい空気の流れに、かすかな甘さが混じっている。
誘引香の匂いの方向が、変わった。
テオが、香台の向きを変えた。
効果はまだ微弱だ。魔獣の群れの大半は依然として後方からくびれ地形へ殺到している。だが、何頭かが——渓谷の壁沿いを迂回するように、前方へ流れ始めていた。
精鋭部隊の左翼に配置された兵士が、盾を構え直すのが見えた。背後からではなく、横から何かが来る気配を感じたのだろう。
セラフィーナは、それを確認して視線を戻した。
まだ早い。
誘引香の効果が本格化するまで、もう少し時間がかかる。
*
最初に声を上げたのは、精鋭部隊の左翼だった。
「——獣だ! 左から来るぞ!」
渓谷の壁際を二頭の中型魔獣が駆け抜け、精鋭の隊列に横から食いついた。
想定外の方向からの攻撃に、重装歩兵の反応が遅れる。前方を向いて密集陣形を組んでいた彼らにとって、横からの突撃は盾の死角だった。
一人が突き飛ばされ、もう一人が盾ごと地面に叩きつけられる。
悲鳴が上がった。
岩棚の上から、声が降ってきた。
「何をしている! たかが獣二匹で陣を乱すな!」
ヴァルドーだった。
「踏み止まれ! 左翼は前に出て押し返せ! 根性を見せろ!」
その声は渓谷の壁に反響し、くびれ地形の中にまで届いた。
セラフィーナは、何も言わなかった。
言う必要がなかった。
——「前に出て押し返せ」。
精鋭部隊の左翼が前に出れば、封鎖線に穴が空く。穴が空けば、くびれ地形の中にいる棺桶小隊と精鋭部隊の間に、魔獣の通り道ができる。
ヴァルドーは、自分が何を命じたか理解していない。
精鋭の左翼指揮官はそれを理解していた。だから動けなかった。
「前に出ろと言っている! 聞こえないのか!」
ヴァルドーの声が重ねて響く。声量は十分だった。岩棚の高さと渓谷の構造が、拡声の魔導具なしでも音を増幅する。
しかし——声量と指揮は、違う。
左翼の兵士たちは盾を構え直し、横からの魔獣に対処しようとしていた。前に出る者はいなかった。
「逆賊どもを踏み潰せ! 何のための精鋭だ!」
ヴァルドーの三度目の怒号。
今度は「逆賊」という単語が混じった。棺桶小隊のことか、魔獣のことか、あるいは命令に従わない自軍のことか。聞いた者の誰にも判断がつかなかった。
精鋭部隊の最前列——先ほど半歩退いた兵士たちの間に、戸惑いが広がるのが見えた。前を向けば棺桶小隊がいる。横を向けば魔獣がいる。後ろにはヴァルドーの怒号がある。
三つの方向から、矛盾した圧力を受けている。
誰も、動けなかった。
*
ヴァルドーの怒号が四度目に響いたとき、リシェルが口を開いた。
くびれ地形の中央、松明の薄明かりの中で、小柄な少女が前方を一瞥した。
岩棚の上の大柄な影に、視線が届いたかどうかは分からない。
だが声は、届いた。
「——黙っててください」
低く、平坦で、感情の色がほとんどない声だった。
渓谷の壁が、その声を静かに増幅した。
「教官の『声』が聞こえなくなります」
それだけだった。
ヴァルドーへの罵倒でも、抗議でもなかった。邪魔だから黙れ、という事実の伝達だった。それ以上の関心を向ける価値がない、と言外に告げていた。
岩棚の上で、ヴァルドーの声が途切れた。
一拍。
その一拍の間に、リシェルの頭は回っていた。
精鋭の封鎖線が崩れたら何が起きる。壁際を迂回してきた魔獣が精鋭を食い破り、そのまま出口側へ溢れる——ではない。出口側に溢れた魔獣は行き場を失い、反転する。結局こちらに戻ってくる。
精鋭が壁でいる限り、魔獣の出口は塞がっている。塞がっているからこそ、テオの誘引香で流れを制御できている。
壁が壊れたら、流れそのものが暴れる。
精鋭は敵だ。さっきまで自分たちを閉じ込めていた壁だ。
——だが今は、魔獣を堰き止める壁でもある。
壁は立っていてもらった方がいい。敵であろうと。
教官なら、迷わずそうする。使えるものは全部使う。
リシェルは声を飛ばした。
「精鋭左翼——前に出ないで! 盾を横に向けて、二人一組で壁際の獣を挟んで! 深追いしなくていい、押し返すだけ!」
声がくびれ地形の出口を越え、精鋭部隊の左翼に届いた。
具体的だった。
「前に出ろ」ではなく「前に出るな」。「押し返せ」ではなく「押し返すだけでいい」。やることと、やらなくていいことの両方が、一息の中に入っていた。
精鋭の左翼で、兵士が二人、顔を見合わせた。
盾を横に構え、壁際の中型魔獣を左右から挟み込んだ。
深追いはしなかった。
押し返すだけ。
魔獣が壁に叩きつけられ、二本目の槍が脇腹に刺さり、動かなくなった。
七秒。
リシェルの指示から、処理完了まで七秒。
ヴァルドーの三回の怒号では、一頭も倒せなかった。
*
「——ガルト、半歩右! 左をあけて!」
リシェルの声が、今度は後方に飛んだ。
振り返るまでもなく、後方の第三波はまだ続いている。槍杭の残骸を踏み越えた魔獣が、断続的にガルトの防壁に体当たりしていた。
ガルトが半歩右に寄る。左側にわずかな隙間が生まれた。
「槍兵、その隙間から突いて! 奥まで入れなくていい、穂先だけ!」
第十四歩哨隊の槍兵が、ガルトの左に開いた隙間から穂先を突き出した。
突進してくる魔獣の鼻先を、穂先が叩く。致命傷ではない。だが、鼻を打たれた獣は反射的に首を振り、突進の軸がずれる。軸がずれた個体はガルトの盾ではなく壁に突っ込み、自分で自分を止める。
ガルトが半歩戻る。隙間が閉じる。
「クレア——第十四歩哨隊の右から二番目、足を引きずってる。今のうちに!」
「……了解!」
クレアが壁際を低い姿勢で駆け、負傷した歩哨隊の兵士の足首に布を巻いた。十秒で処置を終え、元の位置に戻る。
兵士が足を引きずりながらも、隊列に復帰した。
完璧な治療ではない。あと一歩だけ動かす。それだけで、隊列の穴が埋まる。
*
セラフィーナは、後方と前方を交互に見ていた。
後方——リシェルの指揮で棺桶小隊と第十四歩哨隊が第三波を処理している。粗削りだが、崩れない。ガルトの壁が芯を保ち、ノエルが漏れた個体を仕留め、弓兵が群れの密度を調整し、クレアが戦線を繋ぐ。
前方——精鋭部隊が、二つの声に引き裂かれている。
岩棚の上からは、ヴァルドーの声が再び降り始めていた。
「——き、貴様、何の権限があって我が精鋭に指図する!」
リシェルに向けた声だった。しかしその怒号は、渓谷の壁に反響して精鋭部隊の全員に聞こえていた。
リシェルは答えなかった。
答える代わりに、次の指示を出した。
「精鋭右翼——壁際に一頭、そっちに回り込んでます! 右端の盾兵、半身だけ横を向いて!」
精鋭の右翼端の兵士が、声に反応して盾を横に構えた。
壁際を駆け抜けてきた中型魔獣が、盾に激突して弾かれた。
兵士は、自分が従った声の主を見た。
くびれ地形の中央に立つ、小柄な少女。松明の明かりに照らされた横顔は、まだ幼さを残していた。
だが——指示は正確だった。
そして、岩棚の上の副団長の声よりも先に、自分の命を救った。
ヴァルドーの声は、もう怒号ではなかった。
喉の奥から絞り出すような、低い声だった。
「たかが棺桶の、小娘が——」
言葉が途切れた。
精鋭部隊の最前列で、もう一つの変化が起きていたからだ。
リシェルの声に従って壁際の魔獣を処理した左翼の兵士が、次の指示を待つように——くびれ地形の中央を見ていた。
岩棚の上ではなく。
中央の、少女を。
一人ではなかった。左翼の二人。右翼の一人。最前列の、半歩退いたまま戻れなかった兵士のうち、二人。
五人の精鋭が、リシェルの次の声を待っていた。
ヴァルドーは、それを見た。
高所から、見下ろしていた。
自分の精鋭が——自分ではなく、落ちこぼれの少女の声を待っている光景を。
渓谷に、魔獣の咆哮が反響した。松明が揺れた。
ヴァルドーは口を開いた。
何も、出なかった。
*
セラフィーナは、前方の岩棚から視線を外した。
見る必要がなかった。
あの男がこの先どうなるかは、もう盤面に書いてある。
視線を中央に戻す。
リシェルが、次の指示を組み立てている。呼吸が速い。額に汗が浮いている。声は震えていない。
セラフィーナは、懐の鍔に指先を触れた。
止血帯の下の左掌が、鈍く痛んだ。
——上出来です。
声には出さなかった。
まだ早い。
この戦場は、まだ終わっていない。
だが——少なくとも、この戦場の指揮は、すでにリシェルの手に傾いていた。
岩棚の上にいるのは、ただの観客だ。
「ノエル、まだ撃たないで」
リシェルが、短く声を飛ばした。教官の視線がノエルに向いた一瞬を、見逃さなかった。あの目は「まだ」と言っている。声にはならなかった。だからリシェルが代わりに言った。
ノエルが箱壁の陰から目だけでリシェルを見た。
「——わかってる」
低い声。拳が白くなるほど剣の柄を握っていた。
重槍は、まだ岩壁の根元にある。
出番は、まだ先だ。
リシェルの声が、また響いた。
「第十四歩哨隊、弓兵——矢を節約! 三射に一射は威嚇で十分! 当てなくていい、群れの頭を左壁に寄せて!」
弓手長が、今度は目を見張らなかった。
頷いて、弦を引いた。
渓谷の暗がりで、少女の声だけが戦場を回していた。




