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剣聖は、棺桶小隊に剣を教えない  作者: 今井 幻


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第18話「副団長の来訪」

 馬車の扉が開いた。


 最初に降りたのは、人ではなかった。


 革張りの長靴が石畳を踏む音が、広場の端まで届いた。それだけで何人かの兵が背筋を伸ばした。靴底の金具が鳴らす音が、階級を語っていた。


 ——豪奢な鎧だった。


 胸甲には王国最強騎士団の紋章が彫り込まれ、肩当ての縁には金糸の刺繍。北境の泥とは無縁の、磨き上げられた装飾品のような鎧。


 ヴァルドー・グランセルト。


 王国最強騎士団、副団長。


 セラフィーナを追放した、あの男だった。


 大柄な体躯を誇示するように胸を張り、馬車のステップを降りる。その背後からもう一人、若い騎士が続いた。こちらは身軽な軽装鎧。腰に細身の剣を佩き、口元に薄い笑みを貼りつけている。


 セラフィーナは回廊の手すりから、二人の姿を見下ろしていた。


 ヴァルドーの表情は、ここからでは読めない。だが歩き方は読める。


 重心が高い。肩が開きすぎている。威厳を見せようとして、無意識に体を大きく見せている。


 ——焦っている。


 それだけで十分だった。


 守将が正門から駆け寄り、副団長に敬礼している。ヴァルドーが鷹揚に片手を上げた。何か言葉を交わしているが、距離があって声は届かない。


 ただ、守将の背中がわずかに強張ったのは見えた。


 広場では、リシェルが訓練の手を止めていた。正規兵たちも動きを止め、馬車の方を窺っている。テオが干し肉を握ったまま立ち尽くし、ガルトは無言で口を閉じた。


 ノエルだけが兵舎裏から姿を見せず、クレアが薬草袋を抱えたまま、不安そうに広場の空気を見回していた。


 セラフィーナは手すりから手を離した。


 何も変わらない。やるべきことは、すでに決まっている。


 回廊を戻りながら、一度だけ軍服の胸元に指先を当てた。硬い金属の感触が、布越しに返ってくる。


 それだけ確かめて、彼女は兵舎の方へ歩き出した。


 *


 ヴァルドーは、三日間、砦に留まった。


 名目は「北境前線の視察」。実態は誰の目にも明らかだった。守将の執務室を半日占拠し、兵の配置図と補給台帳を取り寄せ、一通り眺めたふりをして——結局、何も指示を出さなかった。


 出せなかったのだろう、とセラフィーナは思っている。


 配置図を見ても、どこが薄いのか分からない。台帳を見ても、何が足りないのか読めない。それでも「副団長殿が視察中」という事実だけで砦の空気は重くなり、守将は必要以上にセラフィーナとの接触を避けた。


 権力とは、そういうものだ。中身がなくても、肩書きだけで場を歪める。


 三日目の午後。


 守将付きの伝令が、セラフィーナのもとを訪れた。


「副団長殿が、応接室でお待ちです」


 短い沈黙。


 セラフィーナは訓練場の端で腕を組んだまま、広場を見ていた。リシェルが正規兵と棺桶小隊を混成した八人組で、障害物を使った位置取り訓練を回している。テオが右翼で耳を澄まし、ガルトが中央に根を張り、その後方でクレアが水筒の中身を確認していた。


 伝令が、もう一度口を開きかけた。


「分かりました」


 セラフィーナは腕を解き、訓練場を離れた。


 リシェルがこちらを見た。


 セラフィーナは小さく頷いた。——続けなさい。それだけの意味だった。


 リシェルの目が一瞬揺れたが、すぐに前を向き直し、「次、左から三番目。半歩前」と声を飛ばした。


 *


 応接室の扉を開けると、ヴァルドーが窓際に立っていた。


 腕を後ろに組み、窓の外——広場を見下ろしている。芝居がかったポーズだった。「自分が見下ろす側」であることを、無意識に確認している。


 扉の軋みに振り返ったヴァルドーの顔を、セラフィーナは数ヶ月ぶりに正面から見た。


 ——痩せた。


 頬骨の上に影が落ちている。目の下に深い隈が刻まれ、瞳の奥に落ち着きがない。視線がセラフィーナの顔から軍服の階級章へ移り、そこで一瞬止まった。左遷先の教官章。かつて彼女が着けていた騎士団の紋章は、もうない。


 それを確認して、ヴァルドーの口元がわずかに緩んだ。


「久しいな、セラフィーナ」


 声は低く、響きを作ろうとしていた。だが部屋が狭すぎて、反響が詰まる。


「副団長殿」


 セラフィーナは扉の前で立ち止まった。進まない。敬礼もしない。ただ、上官に対する最低限の呼称だけを返した。


 ヴァルドーの眉が一瞬だけ動いた。


「……座れ」


「このままで結構です。長い話にはならないでしょう」


 間。


 ヴァルドーが革手袋の指先を引き、片手だけ外した。外した手袋をもう片方の掌に打ちつける。軽い音が、二回。


「聞いたぞ。左渓谷で魔獣を押し返したそうだな。六人で、しかも死者なし」


「ええ」


「大したものだ。さすがは私が育てた——」


「育てていただいた覚えはありません」


 空気が、固まった。


 ヴァルドーの手袋を打つ音が止まった。外した手袋を握りしめる指先が、白くなっている。


「……相変わらず、可愛げのない女だ」


 低い声。押し殺した怒りが、語尾に滲んでいた。


 セラフィーナは答えなかった。答える価値のある発言ではなかった。


 ヴァルドーが一歩、歩いた。窓際から部屋の中央へ。セラフィーナとの距離が詰まるが、彼女は動かない。


「本題を言おう」


 手袋を懐に押し込み、ヴァルドーは顎を上げた。見下ろす角度を作るために。


「お前一人なら——私の副官として、戻してやってもいい」


 言葉は丁寧だった。


 丁寧に研磨された、恩着せの結晶だった。


「北境のこんな掃き溜めで腐るには、お前の腕は惜しい。私とて鬼ではない。過去のことは水に流そう。お前の采配が本隊に必要なのだ。——分かるな?」


 鷹揚な声。寛大な上官の顔。


 だが、言葉の裏側は透けている。


 *——本隊が負け続けている。お前がいないと勝てない。だから戻れ。*


 それを「戻してやる」と言い換える神経。


 セラフィーナは、ヴァルドーの目を見た。


 目の奥に、焦りがあった。隠しきれていない。追い詰められた獣が、かつて捨てた餌を拾いに来ている。それだけのことだ。


「お断りします」


 一拍もなかった。


「今の私には、守るべき部隊がありますので」


 ヴァルドーの顔から、鷹揚さが剥がれた。


 唇が引き攣り、目が据わる。こめかみの血管が浮いた。


「……部隊だと? あのゴミどものことか」


 声が低くなった。丁寧さの皮が、一枚ずつ剥がれていく。


「棺桶小隊——いや、何と言ったか。第零教導小隊。落ちこぼれの寄せ集めだろう。あんなものは部隊とは呼ばん」


「左渓谷を、死者ゼロで守り切った部隊です」


「偶然だ!」


 怒号が部屋を叩いた。


 壁の燭台が揺れた。ヴァルドーは一歩詰め、セラフィーナとの距離を半分にした。


「たまたま地形が良かっただけだ。あの程度の魔獣、正規の部隊であれば——」


「正規の部隊は、右側面で死者二名、中央で死者一名を出しました」


 静かな声だった。


 怒号に対して、平坦な事実だけを返す。温度差が、刃になる。


 ヴァルドーの口が開いたまま止まった。数字を突きつけられると、精神論は沈黙する。


「……」


 数秒の間。


 ヴァルドーは一歩退いた。退きながら、表情を取り繕おうとしている。だが頬の引き攣りが、追いつかない。


「いいだろう」


 声を絞り出した。低く、平らに。感情を押し込めた、薄い声。


「好きにしろ。——だが覚えておけ、セラフィーナ。お前がここで何をしようが、結局はこの私が決める。お前の居場所も、あのゴミどもの処遇も、すべてだ」


「ええ、副団長殿」


 セラフィーナは、初めて口元をわずかに動かした。


 笑みではない。ただ、唇の端がほんの少しだけ持ち上がった。


「ですが、居場所は私が決めます」


 ヴァルドーの拳が震えた。


 だが、殴りはしなかった。殴れなかった。この女を殴っても、何も変わらないことを——いや、自分が殴る側に立てないことを、本能のどこかで知っている。


 ヴァルドーは踵を返し、応接室の扉を蹴るように押し開けた。


 *


 廊下を抜け、中庭に出た瞬間。


 ヴァルドーの足が止まった。


 広場の訓練は終わっていた。正規兵たちは離れた場所で作業に戻っている。


 だが、応接室へ続く回廊の出口——ヴァルドーが通る道の真正面に、五人が立っていた。


 リシェルが、中央。


 その半歩後ろにテオ。右にガルト。左にノエル。さらに後方にクレア。


 並び方が、異様だった。


 横一列ではない。厚みがある。前衛と後衛がある。セラフィーナが仕込んだ陣形の、縮小版。


 リシェルの目が、ヴァルドーを見ていた。


 怯えはなかった。


 かつて士官学校で「中途半端」と評された少女の目ではなかった。何百回と教官の声を聞き、何百回と位置取りを叩き込まれ、砦の渓谷で魔獣の血を浴びた——その後の目だった。


 テオは口を閉じていた。干し肉はもう手にない。落ち着きのない視線で周囲を窺う癖は残っていたが、その視線の質が変わっている。怯えではなく、走査。広場の端から端まで、一瞬で見渡してから、ヴァルドーの足元に視線を落とした。


 ガルトは幅広の片手剣を腰に佩いたまま、黙って立っていた。巨体が通路の幅を半分塞いでいる。


 ノエルが、小さく舌打ちした。


「……何の用だ。貴様らは」


 ヴァルドーの声が低く響いた。


 だが、声量が足りなかった。応接室でセラフィーナに向けた怒号の半分も出ていない。


 リシェルが、一歩前に出た。


「失礼いたします、副団長殿」


 声は平らだった。敬語は完璧だったが、その中に温度がなかった。


「教官にご用がおありでしたら、まず私どもにお伝えください。教官はご多忙ですので」


 ——ご多忙。


 棺桶小隊の新人騎士が、王国最強騎士団の副団長に対して、「教官は忙しい」と言い放っている。


 ヴァルドーの顔が赤くなった。


「……貴様、誰に口を利いている」


「第零教導小隊、リシェル・アルノーであります」


「名を聞いてはいない。どけと言っている」


 ヴァルドーが一歩踏み出した。


 ガルトが、動かなかった。


 動かなかったことが、壁になった。幅広の体躯が通路を塞ぎ、ヴァルドーの歩みを物理的に狭めている。避けるか、押しのけるか、立ち止まるか。三つの選択肢しかない。


 ヴァルドーは立ち止まった。


 押しのけようとして——できなかった。ガルトの体格は、ヴァルドーと同等かそれ以上だった。鎧の見た目は比較にならないほど貧相だが、その足が踏みしめる石畳の重さが違う。


「……何のつもりだ」


「教官は」


 テオが、後ろから声を出した。低く、短く。以前の怯えた震えはなかった。


「俺たちの教官です」


 それだけだった。


 ノエルが腕を組んだまま、鼻で息を吐いた。


「あんたに返す教官はいねえよ」


 クレアだけは何も言わなかった。だが薬草袋を抱えた両手が、僅かに震えていた。それでも、一歩も退いていない。


 五人の壁。


 装備は貧相で、階級は最底辺で、数ヶ月前まで「死ぬための囮」と呼ばれていた若者たち。


 その目に、一片の怯えもなかった。


 ヴァルドーは、五人の目を順に見た。


 一人も、逸らさなかった。


「——」


 ヴァルドーの唇が歪んだ。何かを言おうとして、言葉が出なかった。


 怒号を浴びせれば済む相手のはずだった。落ちこぼれの集まり。名前すら覚える価値のない捨て駒。一喝すれば泣いて道を開ける——はずだった。


 だが、この目は違う。


 この目は、何度も見たことがある。戦場で、死線をくぐった兵だけが持つ目だ。


 自分の部下には、ない目だった。


「——ゴミどもが」


 吐き捨てた。


 声が掠れていた。


 ヴァルドーは身を翻し、回廊の別の出口へ向かった。五人の壁を、迂回した。


 *


 その背中を、セラフィーナは回廊の柱の影から見ていた。


 応接室を出たのは、ヴァルドーより少し後だった。廊下を曲がったところで、広場の異変に気づいた。


 教え子たちが、道を塞いでいた。


 指示は出していない。


 彼女が命じたのは「普段通りに」——それだけだ。


 それでも、五人は立った。


 セラフィーナの指先が、軍服の胸元に触れた。欠けた鍔の輪郭が、布の上から浮き出ている。


「……」


 何も言わなかった。


 ただ、指先の力が少しだけ緩んだ。握りしめるのではなく、確かめるように。


 *


 ヴァルドーが砦を発ったのは、その翌朝だった。


 だが、一人残した。


「セドリック」


 馬車に乗り込む直前、ヴァルドーは護衛の若い騎士を呼んだ。


「お前はここに残れ。合同訓練の監督役だ」


 セドリックの薄笑いが、一瞬だけ消えた。


「……副団長殿、それは」


「命令だ」


 ヴァルドーの目が、セドリックを射抜いた。


 そこに「部下への信頼」はなかった。「使い捨ての駒に対する指示」があっただけだ。セドリックもそれを読み取ったのか、口を閉じた。


「あの女と、あのゴミどもの動向を逐一報告しろ。——いいな」


 最後の二語だけが、命令の本体だった。


 セドリックは革手袋の中で拳を握り、形式的な敬礼を返した。


「……了解しました」


 馬車の扉が閉まり、車輪が動き出した。王都の紋章を掲げた馬車は、来た時と同じ石畳の上を、ゆっくりと砦の外へ消えていった。


 残されたセドリックが、正門の前に一人立っている。


 薄笑いは、もう戻っていた。


 広場を見渡し、訓練中の棺桶小隊に目を留め——そして、回廊の上に立つ銀灰色の髪の女に気づいた。


 目が合った。


 セドリックが軽く会釈した。丁寧な、監督役としての挨拶。


 セラフィーナは、何も返さなかった。


 ただ、視線を外さなかった。


 ——監視役、ね。


 胸元の鍔に触れることもなく、彼女はセドリックの顔を記憶に刻んだ。


 歩き方。手袋の位置。剣の吊り方。笑みの作り方。


 すべてが、読む対象だった。


 冬の風が、砦の旗を揺らしていた。


 *


 訓練場では、リシェルの声が響いていた。


「左翼、半歩広い。詰めて」


 正規兵が慌てて位置を修正する。リシェルは視線を外さず、次の指示を探している。


 セラフィーナは回廊の柱に背を預け、それを見下ろしていた。


 視界の端に、兵舎の壁に寄りかかるセドリックの姿がある。腕を組み、訓練の様子を眺めている。観察する目。品定めする目。


 砦の中に、異物が一つ、増えた。


 セラフィーナの目が、リシェルの指揮に戻った。


 左翼の修正は的確だった。だが右翼の二番目が遅れている。リシェルはまだそこに気づいていない。


 ——だが、あと三日もすれば気づく。


 そう判断して、セラフィーナは口を開かなかった。


 気づかせることが、訓練だからだ。


 広場に昼の鐘が鳴った。


 冬の日差しが低く、兵士たちの影を長く引いていた。


 欠けた鍔が、軍服の内側で体温に温められている。


 ——まだ、慌てる段階ではない。


 セラフィーナは柱から背を離し、兵舎の方へ歩き出した。


 ポケットに残っていた黒パンの半分を、歩きながら齧った。


 味は、しなかった。


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