第17話「砦の救世主」
砦の空気が変わっていた。
セラフィーナがそれに気づいたのは、翌日の昼前だった。
兵舎を出て広場を横切ったとき、すれ違った正規兵が道を空けた。
それだけなら、さほど珍しくはない。
珍しいのは、空けた兵がこちらを見ていたことだ。
昨日まで——いや、二日前まで、彼らの目は棺桶小隊の面々を映さなかった。存在しないものを避けるように、視線ごと逸らしていた。ぶつかれば舌打ちをし、敬礼もなく、背中を向けて通り過ぎた。
今、すれ違った兵は、足を止めてセラフィーナの顔を見上げた。
目を逸らさなかった。
敬礼こそしなかったが、その代わりに——小さく、しかし確かに、顎を引いた。
セラフィーナは表情を変えず、そのまま通り過ぎた。
*
広場の水場で、ガルトが木桶に水を汲んでいた。
鈍い動作は相変わらずだったが、昨日まで右側に据わっていた微かな膝の震えは消えている。若い身体というのは、一晩の眠りでここまで修復するものらしい。
その横を、補給担当の兵が通った。荷車を引いている。
荷車が、止まった。
「——おい。お前、昨日の左渓谷の」
ガルトが振り返った。
補給兵は一瞬、彼の体格を見上げて口をつぐんだ。それから荷車の上の木箱を一つ取り上げ、ガルトの前に置いた。
「余りが出た。使え」
中身は、干し肉の詰め合わせだった。正規兵向けの配給品で、棺桶小隊に回ってきたことは一度もない。
ガルトは木箱と補給兵を交互に見た。
「……いいのか」
「余りだって言ってんだろ」
補給兵はそれだけ言って、荷車を引いて去った。
ガルトは木箱を抱え、水桶の横に置いた。しばらく、干し肉を一本取り出して眺めていた。
かぶりついた。
「……うまい」
誰に言うでもなく。
*
ノエルは朝のうちに渓谷へ降りていた。
セラフィーナの指示通り——指揮個体の遺骸から槍を回収するためだ。
昼前に戻ってきた彼は、右手に自分が投げた砦備蓄の投擲槍を握り、左の肩に、もう一本担いでいた。
「教官」
広場の隅で待っていたセラフィーナの前に立った。
左肩の槍を地面に突き立てた。ずしり、と重い音がした。
先端の鋼は黒ずんでいたが、刃は厚く、砦の備品とは明らかに作りが違う。指揮個体の巣穴付近から見つけたのだろう——過去にこの渓谷で命を落とした何者かの得物だ。
「あった。岩棚の裏に。半分埋まってた」
セラフィーナは槍の柄を見た。重心、刃の角度、握りの太さ。
ノエルの手に合う。
「保管しなさい。あなたの得物です」
「……了解」
ノエルの口元が、わずかに動いた。笑ったのかもしれない。すぐに消えたが。
彼は二本の槍を担ぎ直して、兵舎の方へ歩いていった。背中が、昨日より少しだけ広く見えた。
*
異変が本格化したのは、そこからだった。
最初に来たのは、隣接区画を守っていた正規兵の一人だった。
リシェルが広場の隅でノートを広げているところに、不意に影が差した。
「あの——」
声は低く、やや掠れていた。年齢はリシェルより五つは上だろう。左腕に巻かれた包帯が、昨日の防衛戦の名残を伝えている。
「昨日の、陣形のことなんだが」
リシェルはノートを閉じかけた手を止めた。
「あの渓谷で、お前たちは一人も怪我しなかった。うちの区画は三人やられた。同じ砦で、同じ数の魔獣を相手にして」
男は言葉を選ぶように、一度口を閉じた。
「何が違うんだ」
リシェルは答えに詰まった。
何が違う、と問われても——自分たちは教官の指示通りに動いただけだ。立つ場所が決まっていて、動く方向が決まっていて、相手を殺すことよりも「そこにいること」を求められた。
「……教官が、位置を決めてくださったんです。私たちは、その通りに」
「位置?」
「はい。立つ場所と、退く方向と、止まる場所。それだけです」
男は納得しかねるという顔をした。
「それだけで、あの数を」
「それだけなんです。本当に」
リシェルの声には、嘘がなかった。嘘がないからこそ、男は余計に困惑した顔をした。
*
同じ頃、テオが広場の反対側で剣の鞘を磨いていた。別の区画の班長が、足を止めた。
「お前、あの夜——魔獣が退く前に、『真ん中だけ静かに』って報告してただろ。あれ、どうやって聞き分けたんだ」
テオは顔を上げた。
「え、あ、聞こえただけっすけど」
「聞こえただけって——五十歩先の足音が、揃ってるか揃ってないかなんざ、普通わかるか」
「いや、なんか……間が詰まるっていうか、拍子が変わるんですよ。不規則だったのが、こう、等間隔になる感じで」
テオは自分の膝を交互に叩いて見せた。
班長は、しばらく黙ってそれを見ていた。
「……化け物だな」
「教官に教わるまで、ただのビビりだと思ってました」
テオは少し不服そうだったが、以前のような怯えはなかった。
*
三人目、四人目。
昼が近づくにつれ、棺桶小隊の周囲にはちょっとした人だかりができ始めていた。
「あの杭の並べ方には何か法則があるのか」
「隣の通路が崩れかけた時、お前らの区画だけびくともしなかった理由は」
クレアが薬草袋の整理をしながら、兵士の一人に包帯の巻き方を教えている。いつの間にか、その周囲にも数人が集まっていた。
「……止血は上から押さえるんじゃなくて、血の流れに沿って巻くんです。そうすると、少ない布でも長く保ちます」
教えているのは、大した技術ではない。しかし最前線の正規兵にとっては、その「大したことない」知識が生死を分ける。
ノエルだけは兵舎の裏に座って、回収した重槍の柄を布で拭いていた。寄ってきた兵に一言、「教官に聞け」とだけ返している。
*
セラフィーナは、広場を見渡せる回廊の柱に背を預けていた。
人だかりを見ている。
自分の教え子たちが、昨日まで彼らを「棺桶」と呼んだ兵士たちに囲まれている光景。
感慨はない。
あるのは、次の一手の計算だけだ。
「教官」
リシェルが人だかりの間を抜けて、駆け寄ってきた。息がわずかに弾んでいる。立て続けの質問攻めで、頬に赤みが差していた。
「守将殿のお付きの方から伝言です。昼食後に、応接室へお越しくださいと」
セラフィーナの表情は動かなかった。
「わかりました」
それだけだった。急ぎもしなければ、何かを読み取ろうとする素振りもない。
リシェルは少し迷ってから、口を開いた。
「……何の用件か、聞きますか」
「聞くまでもありません。昨日の数字が出揃ったのでしょう」
*
昼の鐘が、砦の鐘楼から一つ鳴った。
広場の喧騒が一段落する。兵士たちが食事のために散り始め、棺桶小隊の面々もそれぞれの配給を受け取りに動いた。
ガルトは朝もらった干し肉の木箱を広場の真ん中に置いた。
「分ける」
テオが真っ先に手を伸ばした。リシェルが続き、クレアが遠慮がちに一本取った。
セラフィーナは回廊の柱に背を預けたまま、配給の固い黒パンをちぎっていた。口に運ぶ手が、二度ほど途中で止まった。空腹よりも眠気が勝っている。それでも半分は腹に入れた。残りは軍服の内ポケットに押し込んだ。
リシェルがパンの欠片を飲み込みながら、こちらを見ていた。
「教官、応接室には——」
「一人で行きます。あなたたちはここにいなさい」
リシェルは口を開きかけた。
「聞きたがっている兵が、まだいるでしょう」
視線で広場を示した。食事を終えた正規兵の何人かが、すでに棺桶小隊のいる辺りへ戻り始めている。
リシェルは頷いた。「——はい」
セラフィーナは柱から背を離し、回廊を応接室の方へ歩き出した。
*
守将は、分厚い机の向こうに座っていた。
棺桶小隊を左渓谷に追いやった時と同じ椅子に、同じ姿勢で座っている。
ただし、目が違った。
「かけてくれ」
初めて、椅子を勧められた。
セラフィーナは無言で腰を下ろした。
守将はしばらく沈黙した。机の上の報告書に目を落とし、何度かペンを持ち上げ、そのたびに下ろした。
「——左渓谷は、主力攻撃方向だった」
報告書から目を上げないまま言った。
「お前の小隊を配置した場所だ。雑務区画ではなかった。最も厚い攻勢を、正面から受け止めていた」
セラフィーナは何も言わなかった。
「被害報告はまとめた。左渓谷——死者ゼロ、負傷者ゼロ。右側面、死者二名、重傷者四名。中央、死者一名、重傷者七名」
ペンが、紙の上に置かれた。
「最も少ない兵で、最も多い敵を受け、最も被害が少ない。……理由は聞かん。数字が全てだ」
ようやく、守将が顔を上げた。
「砦の全兵に通達を出した。お前の小隊は今後、『左渓谷防衛の功労部隊』として記録に残す。正規兵と同等の配給と待遇を保証する」
「ありがとうございます」
抑揚のない声だった。
守将は一瞬、何かを言いかけた。
「……あの日、お前は左渓谷が最初に破られると言ったな。私は十五年の記録を盾にして退けた」
「はい」
「勘ではなかった、ということか」
「壁の爪痕と、風の抜け方を見ました。魔獣は風下から来ます。左渓谷は北西風の吹き溜まりで、獣の臭いが最も溜まりやすい。臭いが溜まる場所に、群れは集まります」
守将は、しばらく黙った。
「……最初に、なぜそう言わなかった」
「報告は致しました」
沈黙が、重く落ちた。
守将は目を伏せた。机の上のペンを取り上げ、また置いた。
「——すまなかった」
低い声だった。
セラフィーナは立ち上がった。
「守将殿。謝罪は不要です。ただ、次があるなら、数字で判断していただければ」
それだけ言って、応接室を出た。
*
廊下に出ると、冬の乾いた空気が肺に刺さった。
壁に手をついた。
一瞬だけ。
指が、白くなっていた。
——眠い。
半日ぶりの仮眠では、身体の帳尻が合わなくなりつつある。壁を押して手を離し、指に力を入れ直した。
回廊を抜け、広場への角を曲がった。
人だかりは、昼前よりも増えていた。
棺桶小隊の面々は、セラフィーナが応接室にいた間も広場を離れていなかった。むしろ——昼食を終えた正規兵が、午前に来た兵から話を聞いて新たに合流し、輪が一回り大きくなっている。
テオが地面に座ったまま、前のめりに身を乗り出す班長に膝叩きの実演を見せている。クレアの周りには、包帯を巻き直そうとする兵が三人ほど並んでいた。ガルトは水場の横で黙々と剣の手入れをしていたが、その隣には正規兵が二人、ガルトの手元を眺めるように座っていた。
リシェルが人だかりの中から顔を上げた。セラフィーナの姿を認めて、小走りに駆け寄ってくる。
「教官。守将殿は——」
「正規兵と同等の配給。功労部隊としての記録。以上です」
リシェルの目が、一瞬だけ大きくなった。
「それは——」
「それよりも」
セラフィーナは広場の人だかりを顎で示した。
「あなたに聞きたがっている兵が、まだ増えていますね」
「は、はい。陣形を教えてほしいと——でも、私が教えていいものかどうか」
「教えなさい」
リシェルが息を呑んだ。
「ただし」
セラフィーナは回廊の柱に背を預けた。
「陣形を教えるのではなく、立ち位置を教えなさい。まず彼ら一人ひとりに、自分が今どこに立っているか、左右に誰がいるか、一歩引いたら何があるかを把握させること。それが最初です」
「……教官と同じことを、ですか」
「同じことです。剣は後でいい。動くのも後でいい。まず、死なない場所に立つことだけを」
リシェルはノートを握り締めた。
「わかりました」
踵を返しかけて、もう一度振り返った。
「教官は、来てくださらないんですか」
「私がいると、彼らはあなたの言葉を聞かなくなる」
リシェルは一瞬、目を見開いた。
それから、ゆっくりと頷いた。何かを飲み込むように。
広場へ戻っていく背中を、セラフィーナは見送った。
*
午後が傾き始める頃、リシェルは広場の中央に立っていた。
二十人ほどの正規兵が、半円を描くように彼女を取り囲んでいる。全員、棺桶小隊の何倍もの実戦経験を持つ兵士たちだ。
リシェルの声が、初めは少し震えていた。
「まず——今、自分の左側に誰が立っているか、見てください」
兵士たちが互いを見た。
「右側も。後ろも。前も。全部確認してください」
当然のことを言われている、という顔が並ぶ。
「では、全員、目を閉じてください」
一拍の間があった。
「——左側の人の、名前を言えますか」
誰も即座には答えられなかった。
二十人のうち、即座に答えられたのは四人だった。
「昨日、あなた方の左に誰が立っていたか。その人が何を得意としていて、どこまでなら守れて、どこから先は守れないか。——それが把握できていないと、どれだけ剣が強くても、隣の人が死にます」
声の震えは、いつの間にか消えていた。
「教官は、私たちにまず『そこ』から教えました。剣を振る前に。魔法を使う前に。走り出す前に」
兵士の一人が、低い声で言った。
「……それだけで、変わるのか」
リシェルは答えなかった。
代わりに。
「二人一組になってください。左右の人と。そのまま、十歩歩いて、止まって、また十歩。それを五回。歩いている間に、隣の人の歩幅と、呼吸のタイミングを覚えてください」
兵士たちは戸惑いながらも、組を作り始めた。
回廊の柱の影から、セラフィーナはその光景を見ていた。
リシェルの声は小さい。身体も華奢だ。戦場で映える器ではない。
だが、言葉が、通っている。
教えを受けた者が、同じ言葉で次の者に教える。それが連鎖を作り、やがて教官の手が届かない場所まで浸透していく。
二人一組はいつの間にか四人一組になっていた。四人で正方形を作り、歩きながら互いの位置関係を把握する。見覚えのある構成だ。棺桶小隊が最初にやった訓練と骨格が同じだが——リシェルは教官の訓練内容をそのまま再現しているのではない。相手の練度と人数に合わせて、段階を組み替えている。
「あなたの声が届く範囲でやりなさい」
広場の端を通りながら、セラフィーナは一言だけ投げた。
リシェルが振り向いた。
「はい」
それ以上の指導はしなかった。
——上出来です。
口には出さなかった。
まだ早い。
広場の隅で、テオがガルトの隣に座って、残りの干し肉をかじっていた。
「なあ、ガルト」
「ん」
「あれ、すごくね。リシェル」
「ん」
「……お前さ、感想それだけ?」
「干し肉うまい」
テオは干し肉を一本奪った。ガルトが無表情で取り返した。
*
それは、夕暮れの少し手前だった。
砦の正門から、歩哨の声が飛んだ。
「馬車——王都の紋章だ!」
広場の空気が、一瞬で変わった。
兵士たちが手を止め、正門の方を見た。リシェルも振り返り、テオが干し肉を噛んだまま立ち上がった。
セラフィーナは回廊の柱から正門を見下ろした。
石畳の上を、一台の馬車がゆっくりと進んできた。
豪奢だった。
車輪の泥よけは金細工で、幌は厚い革張り。御者の胸には、北境の駐屯地ではまず見かけない——王都の紋章が光っている。
前線の砦に来る車ではない。
後方の総司令部からの書簡であれば、伝令馬一頭で事足りる。わざわざ馬車を仕立てるということは、「誰か」が乗っている。
馬車が正門の前で止まった。
御者が降りて、扉を開けた。
セラフィーナは目を細めた。
——まさか、こんなに早く尻尾を出すとはね。
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
回廊の手すりに手を置いたまま、馬車から降りてくる人影を見下ろしている。
その目に、笑みはなかった。
渓谷を吹き抜ける北西の風が、銀灰色の髪を揺らした。
冬の、短い日が沈もうとしていた。




