71 激突
「ヴィスさん、大丈夫ですか?」
中身については聞かなかった。危険な橋を渡ったのは鞆絵の方も承知の上だったから、わざわざ聞く必要もないように思えた。
それよりも、ヴィスの何かが違うように思えた。表面上の変化だってそうだ。表情がいつもより硬い。
「…ああ、何だかんだ生きていられる」
そう言ったあとに、少しだけヴィスが幻想世界から帰ってこられた話しをしてくれた。助力してくれたのは鞆絵の先生であるリジニス・イロンデルの契約している幻妖、魚族の君主らしい。
鞆絵は単純にすごい、と思った。
鞆絵にとっては、ヴィスが偶然魚族の君主がいる場所にたどり着いたとか、魚族の君主に協力させるために魅了の魔法を使ったとか、そういったことは一切関係なかった。いまヴィス・コルボーがここにいることが、まるで奇跡的なように思えたから。
憧れと敬意と、恋愛が入り混じった尊敬の眼差し。ヴィスはそんな眼をした鞆絵と視線を合わせることができなかった。
苦い気持ちが湧き上がるのを必死に隠して、会話を続ける。目的は彼女と話したいという訳ではなくーー
(…っ!?)
気がつくのが早かったのは、鞆絵の方だった。なにせ契約しているのだから、彼の激情が伝わってくる。
彼がヴィスに対して怒っていることも、鞆絵は承知していた。それと同時に、彼はギネフェルディーナ・シーニュ・ロワイヨムの婚姻の件で多忙であることも承知していた。神族の立場上だと交渉は難しく、彼女本人と何とかして連絡をとって真意を取ろうと必死になっていた…はずだーーはずだった。
薄緑色の髪が宙を舞う。
「貴様っ…」
彼の、激情が伝わってくる。契約しているからなおのこと。いくら鞆絵が止めようが、この怒りを抑えることは不可能だろうと思わせるほどの、凶悪すぎる憎悪。鞆絵には、ヴィスにそこまでの感情を抱くことの意味がわからなかった。話しを聞いただけで、分かっているつもりになっていたのだ。
彼は、ヴィス・コルボーは、優しい。
鞆絵のヴィスに対する感情はそれにつきる。死にかけそうになったところを、助けてくれたのだ。
命の恩人であり、自分の運命を変えた人。リョクとだって、ヴィスに出会ってなければ、会うことはなかっただろう。
ヴィスは鞆絵の方に目をやって、“下がれ” と小さく声をかけた。
「よくも抜け抜けと自分だけ帰ってこれたな」
「待ちくたびれたぜ、側近さんよ。あんたともう一度、ちゃんと話さないといけないと思ってたんだ」
幻獣族の女王であるアルクレアラの覇気にも似て非なる力が、リョクの方から発せられていた。惑い狂い、行き場を失っているようにもみえた力は、周囲のものを蹂躙して行った。
「話す? お前のような負け犬風情と対話するつもりはない!」
リョクの言葉は辛辣だった。その言葉で体を突き刺せると言わんばかりの。
もちろん鞆絵はそんなリョクの姿を見たことはなかった。
「いいや、こちらにはあるね。何がなんでも力ずくできかせてやる」
「ほざけっ!」
衝突が始まって、鞆絵は立っていられなくなった。一歩一歩ずつ下がって木の元へ身をよせる。髪は荒ぶって、鼓動は高ぶり、汗も一気に出てきた。腰が抜けないようにするだけで精一杯だった。
(っころ、しあい?)
そのように認識したのは、それだけ両方の殺意が強かったからだ。特にリョクの方の怒りは激しく、その感情に釣れられそうになるほどだった。
自分の意志を失うこと、それは契約者としての終焉だ。始末対象にすらなる。
鞆絵は自分の気持ちを必死になって律しながらも、不安に駆られ始めた。時間が経つにつれて、新人の鞆絵が判るほどに、ヴィスが圧され始めている。
鞆絵はヴィスの状態を理解していなかったが、彼は “勘” と “自分の力” のみで闘っていた。当然リョクことアベルの生きた年数と経験値は、ヴィスのそれを軽々しく上回る。
圧され始めているというふうに鞆絵が思えたのは、単にヴィスの気合と根気が凄まじかっただけのことだった。
戦いとはいえないほどに一方的な戦いだった。リョクが、鞆絵で追えないほどの速さの剣で一閃するのを、ヴィスがギリギリで避ける状況。致命傷は負わなくとも少しずつ体の傷は増えていく。
身体が抉られて、血が地面に飛び散ろうとも、傷が増えようとも決して屈しようとしない不屈の心。ヴィスは一撃顔面に拳を入れたかったのだ。カウンターを一発決める。願望はそれだけだった。
頭を殴れば、それだけ視界が歪む。それは一瞬だが、歪ませて天高くそびえるプライドの山の一角を削る。ヴィスの狙いはそこにあった。
ヴィスは満身創痍になりながらも、好機を狙い続けた。それを見る鞆絵には止める手段も、身を投げうつ無謀さもなかった。
ただヴィスがやられ続けても、リョクが攻撃を止めないのには違和感を覚えたし、ヴィスの方もただやられ続けているだけではないということくらいはわかった。先ほどの挑発だって気にかかる。
それにーー少し、怖かった。リョクことアベル・エーグルの本気が。
この空間はヘルツバールによって隔離されているとはいえ、たくさんの人や幻妖がいる。このような圧倒的力を発して気づかないのも、アルモニーのトップの結界によるたまものなのだろうか。
(けっきょく、また何もできないまま…)
当たり前だ。こんなことが簡単にできてしまっては、世の中はたまらない。
そう思う自分も居つつ、目の前に立ちはだかる暴力に対して恐怖を覚える自分だっている。何もかもを投げ打って、逃げたいと思う自分だっている。
血を流しながら、それでも立ち向かい続ける想い人の姿を見たくない気持ちもある。
それでも、逃してしまえば後悔するのだろう。彼らの真意をしれないまま、壁を作られたままでいられるのは、いやだった。
その一心で、ヴィスとリョクの行方を見続ける。
身体の軸がずれて、ふらふらになったとしても、ヴィスは諦めなかった。そこに何の意図があるのか、鞆絵は見守り続けて…
ーーフッと、軽くであったが、リョクの頬に拳が入った。
「ちっ…」
それでもリョクの方は血が流れない。対してヴィスの方は満身創痍…であるはずだった。しかしーー
(あれ…?)
傷が回復している。
先ほどまでに流れていた血の跡は残っているものの、新たに血が流れている様子はない。傷跡が消えている。一体どういうことなのかーー
「お前…その身体」
「じじいから聞いたがっ…淫魔族はっ、回復に長けた種族ではないらしいな」
激しい攻防。鞆絵では視認すらできなかった戦いは一旦の終わりを告げた。
息が切れているヴィスは、途切れ途切れながらも、呟く。
ヴィスの言葉、それが意味するところとはーーリョクの鋭い瞳が見開いた。
「つまりそういうことなんだよ。契約していた幻妖が望む限り、解約したとしても、多少なりとも力が流れてくる。俺は、信じたくはなかったがな」
“あんなにひどい目に合わせておいてっ、あいつはーー” と自嘲のようなヴィスの言葉は続いた。
鞆絵はヴィスとギネフェルディーナ・シーニュ・ロワイヨムの関係性を知っているわけではない。だから推測するしかない。
彼女は癒しの術の開祖だ。それは治療師の長、レイアーナ・ペルーシュが言ったこと。だから、だから…
(ギネフェルディーナ・シーニュ・ロワイヨム様の、お力?)
そんなふうに考えても、おかしくはなかった。
「どうして…」
鞆絵は無意識に呟いていた。
先ほどのヴィスの解説は聞こえていた。実際にその奇跡を見た。
見たのに…鞆絵の気持ちは苦しかった。色んな気持ちが渦を巻いていておかしくなっているのだろう、とどこかで納得している自分もいた。
苦い。苦しい。
なんでこのようなものを見なければならなかったのか。
最初から逃げればよかったではないか。
かなり時間が空きましたね…
アベル(リョク)が頭の中で、出てきてから書きたかったシーンの一つであります。こだわりはいつもよりも数倍強いのですが、その分時間が開いてしまいました。すべて納得しているわけではありませんが(文章が拙すぎますが)、いちおう。
次も気長にお待ちください。




