70 何も知らぬ者は、何も疑わぬ
トモエ本人はヴィスのことしか頭になく、契約相手であるリョクはそんないつもと違う彼女の状態に、何かあると気がついてしまった。
リョクことアベルは、今やっていることを終わらせたら、トモエの状態を見に行くことにした。魔力を使うが、契約していたら、互いの行き来だけは他世界でも門無しでできるようになる。
彼にとって世界を跨ぐことは、契約の影響もあるが…少しの負担にしかならなくなった。
この影響は大きい、とアベルは実感している。以前ロワンモンドに来たときは身体の力が抜けていきそうだったのに、契約してからはそのような体感はない。
契約というものが双方にとって、力以外の別の何かを生み出している…ということになるのだろうか。契約のことについてはあまり知らないため、腐れ縁のクロードか、ヘルツバール様にでも聞いた方が良いのかもしれない、とアベルは思った。
様子がおかしいので、トモエに呼びかけをしたものの、返事がない。どこか一点に気がとられて、それどころではない、と言った状況だ。
(いやな予感がする…)
トモエは大人しい性格だ。取り乱すという行為はあまりしない(とアベルは思っている)。あるとすれば…アベルにとっては憎っくき相手である “黒いヤツ” ことヴィス・コルボー関連の話だ。
トモエは、アベルにとっては因縁の相手であるヴィス・コルボーのことを好きだ。アベルはそれを把握しているし、こちらが把握していることを、トモエは知っている。
あの男のどこに惹かれるのか、アベルにはまったく持って分からないのだが…トモエもあの男のことが好きであるらしい。そのことについては単純に、あの男に嫉妬する。
なぜなのだろうか。やはり淫魔族の血筋ゆえなのだろうか。半幻妖だから主君に選ばれたのだろうかーー自分の声は主君には一切届かなかったというのに。
『アベル様! 一体これはどういうことです!?』
神族の中でも長老格とされる幻妖が声を張り上げた。
神族では年功序列制度は存在しない。すべては主君の采配によって決定される。アベルが主君の側近になってから今まで、神族の寿命から考えたら少ししか経っていない。そのため何かとなめられる場合が多いのである。
ーー例えば今回の場合。
主君に追随する族である神族は、主君と淫魔族の君主であるイディオファナ・エロン・ロワイヨムが結婚することになった場合、神族そのものが淫魔族の傘下に入るといっても過言ではない。
淫魔族ほどではないが、自尊心が高い神族にとってみれば、これは耐えがたい苦痛である。アベルだって同様だ。だから皆が抗議してくるのであり、説明を要求してくる。
とはいえ、アベル自身もどうなっているか判断がつかないのだ。決定的なのは、主君が自分の意思で決めたということ。それならば…追従するしかないのだろうか。
(だが…)
気にはかかる。主君と同じくヴィス・コルボーも誘拐されているのだーー嫌な予感しかしない。
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(誰かが近づいてくる…)
魔力を使った速さではない。なのに、一定の速さでこちらに近づいてくる。つまり誰も止めようとしていない…ということか。
「おい、ジジイ」
「ン?」
「トモエは、ここにいるのか?」
予想と言えばいいのか。それとも…予感なのか。
答えは聞かなくても分かるような気がした。
「いちオウナ。明日ニハ、お前と入れ違いデいなくナルケドーー」
と喋っていたところで、ヘルツバールも察したらしい。窓の方へ首を向けた。
「追イ返シはできる。アルモニーでの立場ヲ加えたら明確に、トモエは俺サマの部下にナル。直属ではないガ…」
「少しは決着をつけたらどうだ?」
そう提案したのは同じ部屋にいた、ソリテュードことテューだ。
ここはヘルツバールの屋敷の中にある、主に彼が使っている私室だ。アンディゴは来賓として別の部屋に通されていて、この場にはいないが、近くにはいる。
アンディゴがロワンモンドにきたのは、誰もが想定外で、それゆえの混乱を防ぐために、アルモニーのトップであるヘルツバールの “客人” というふうにしておいた方が手っ取り早いーーということにはなった。しかしバレるのは時間の問題に過ぎないことは、この場にいる全員が判っていることだった。
「ほつれている糸は、大抵は時間がたてば風化するが…それは普通の人間に限った話しだ。向こうからしたらここ二十数年のことなんて、一瞬のようなものだろうよ」
「………」
ヴィスは黙った。
これまでの時間が長かったか短かったか…そんなことは彼自身どうでも良いことだった。しかし奴はその時間のことを詰るはずだ。こちら側からすれば、向こうの言い分は判りきっているのである。
(もう、限界か…)
最初から無理のあることだった…と、判っていたはずなのに。分かっていたとしても身体は重い。
いま、ヴィスを守る力はほとんどないといって良い。残滓しかない。それで黄緑色の男と対峙するのは、気がひけるどころか、無謀だった。
「ーーケリを」
ヴィスは言った。
テューがこういったことに口入れすることは、ないに等しい。彼は幻獣族の女王と同じく、ヘルツバールの番人のようなものであるのだから、他者に口入れなんて真似はしない。
そんな彼が口を開いた。つまりヘルツバールの限界が近い…ということになる。
(じじいの調子が悪くなった原因の一端は…俺が担っているわけだし)
つい最近知ったこととはいえ、解約の影響が養父にも出ているとは思わなかった。相互関係で成り立つ契約は、双方のみの関係で終わるとヴィスは勝手に思い込んでいたから。
どうやらそうではないらしい、ということは気にくわないやつからの反応からも、ヘルツバールの現状からでも、読みとることができる。
「それで、良いんだな」
「ああ。どうせ言わないといけないと思ってはいたんだ」
育て親の言葉に、ヴィスは応えた。
彼女が逃げ出した原因、自分が感じることのできた彼女の本音…をーー
このまま言わなければ現状は変わらない。訴えなければ。
もともとその権利すらないのだと、判ってはいても、話し合わなければーー
それはヴィスが愛する、彼女がよくやる行動だ…ということを、ヴィス本人は見てみぬふりをした。
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鞆絵は混乱した。
強大な気配たちに押しつぶされないほどの、気配。近づいてみると決して小さくはないのだ。
(気配が混ざりあって…いる?)
ヴィスらしきものの気配は読み取れた。しかし彼は他の幻妖たちとは違った。別の気配と混ざりあっていた。
その別の気配が誰なのか。その疑問を発することは、鞆絵にはできなかった。ただ、ヴィスの安否が心配だったから。
歩いてたどり着いたのはヘルツバールの私邸だ。使用人に追い帰させる可能性もあったが、そのときはリョクの力を借りることにしよう…と思い至った。
リョクの力をすべて扱えるとはいえないが、ここは見栄を張るしかない。そうでもしなければヴィス・コルボーには会えないだろう。そんな気がしてならなかった…のだが。
「トモエ」
「わっ!」
「久しぶりだな」
ヘルツバールの屋敷は見えていた。あそこにヴィスがいる。
それを分かっていたというのに、当の本人の方がこっちに会ってきてくれた。鞆絵はうれしかった。
後ろの木の上から突如話しかけられたことに、鞆絵は若干動揺としながらも駆け寄る。
「っ、私が日本にいたときの登場の仕方で、驚きましたよ」
もはや遙か過去の話のように思えてくる。目まぐるしく状況が変わって対応するのに追われてしまい、それほど時間は経ってないというのに。
まだ親を喪った悲しみにくれることすら許されていない。
「ふと、懐かしいと思ってな」
ヴィスも同じような感覚を抱いているのだろうか。そうだと嬉しい、と鞆絵は思っていた。




