花は揺れる 後編
「……僭越ながら、発言をお許しくださいな、宰相閣下」
最初に口火を切ったのは、私に口紅をプレゼントしてくださったデルタ夫人。エルギル様が「許す」と短く許可を出すと、優雅に一礼した彼女は一枚の書面を取り出した。
「ランタナ嬢のお話を聞いてずっと気になっていたんですけれどね。ロータス・ギレスピー様。あなたはランタナ嬢とは婚姻契約ではなく、雇用契約を結んだと認識していたのよね」
「そうだ。彼女は書面もよく読まなかったようだがね」
「では当然契約書を取り交わしたのよね。彼女もサインはしたと言っていたし」
「当然、正式なものだ。……話はそれだけか。それなら、この男にさっさと退くよう言ってもらえないだろうか」
「気の短い男は嫌われるわよ、坊や。それにおかしいのよね。その契約書の控え、公証人役場に登記されていないそうじゃない。ランタナ嬢も控えなんて貰っていなさそうだし」
あっ、と心の中で声が漏れる。そうだ。サロンに勤めたときはきちんと契約書の控えを貰っていたのだ。婚姻だと思い込んでいたからそんなこと頭にもなかったけれども、雇用だったと言い逃れるつもりなのならば、彼は必要な手順を踏んでいないということだ。
「あなたも経営者の端くれなのよね? 市民雇用令が施行されて十年も経つのにご理解いただけていなかったなんて、政府の怠慢としか言いようがないわ。かつての末端貴族の方々にまで改めて広く周知するよう、孫にも伝えておきますわね」
にっこりと微笑むデルタ夫人。ロータス様は何かを言いたげにしながらも、落ち着きなく周囲の様子を窺っている。彼を囲む『老いぼれ』がどういった立場にいた方々だったのかを、思い出すかのように。
「私も一つ気になったのだが、よろしいかな」
「構わん」
次に口を開いたのは、いつも人形劇を最前列で楽しんでいらしたマイスター様だ。彼の口調はいつものおどけたものながらもその声色はひどく冷たい。
「部屋と食事を与えたから無償ではない、とギレスピー当主は仰ったかな? ……驚いたな。それなら奴隷を飼うのと何が違うのか。奴隷を持つことは王制時代から徹底的に禁じられていたはずなのだがね。ギレスピー家は人材を派遣する生業で富を得たと聞いていたが……その実、奴隷契約を結ばせていたということか?」
「違うわよマイスター卿。きっと彼はまだ若いから労働に対する市場価値を知らなかっただけよ。部屋と食事程度で相殺できると思っているくらいなんですもの。それか……もしかしたらギレスピー家は随分とお財布が寂しいのかしら」
「先ほどから黙って聞いていれば、随分と好き勝手言ってくれる。控えなど忘れていただけに過ぎないし、そもそも彼女があの生活に満足していたのだ。それの何が問題だと——」
「なるほど、興味深い発言ね」
また別のご婦人が、紅茶を啜りながら声を上げる。
「私は三十年ほど外交交渉を担当していたのだけれどね。お相手が誤解していると分かっていて訂正しないことを意図的欺罔と呼んでいたのよ。別に法を犯しているわけではないけれど、相手と信頼関係を結ぶ行為とはかけ離れているわよね」
「真意はどうあれ、少なくとも誠実な紳士の振る舞いではないということだ」
いつも笑い声を響かせていたラウンジの住人たちは、蔑むような、哀れむような視線だけをロータス様に送っている。
「何か考えがあってここに乗り込んできたと思ったのだが……。申し開きはないのかね」
エルギル様の声が落ちる。ロータス様はただ一言、「過去の遺物の分際で……!」と吐き捨てた。
「ふむ。度胸だけは認めてやろうと思ったが、それもただの蛮勇であったということか。……なに。安心したまえ。一つ一つを取ってみても君のしたことは大した罪には問われまい。彼らはああ言ったものの、法に触れるかどうかも正直怪しいところだ」
露骨に安堵した表情を見せるロータス様。ただ、エルギル様に表情はない。口調も淡々としたものだった。
「とはいえ、ここの淑女たちは大変お喋りだ。勘違いをした元貴族の醜聞など瞬く間に広まることだろう。法が君を裁くことはなくとも、君が言うところの世間が勝手に審判してくれるということだ。……ギレスピー家の繁栄を末永く祈っているよ」
「この老害どもが……! こんなところに追いやられたくせに、いつまでも自分たちに権威があると勘違いをしているようだがな。世間は貴様らのことなどもうとっくに捨て置いていることを忘れるな!」
「それは大いに結構。それこそが私たちの望むことだ」
みな、侮辱されたにもかかわらず気にする素振りも見せず、穏やかな表情で大きく頷いた。そもそも器が違うのだと改めて思い知らされる。
「ランタナさん。お客さまはもうお帰りのようだ。せっかくだから最後の言葉をかけてやってはどうかな」
ネイサン様に促され、私は彼の前に立った。
「……ロータス様。最後に一つだけお聞かせください。私のことを、一度でも愛してくださったことはございましたか?」
「何をくだらないことを……。愛など無用だ。婚姻など利害の一致に他ならない」
「それでも私は愛していましたよ、ロータス様。サロンで事業についてお話する姿も。ご両親想いでいらしたのも。時折、お花を届けてくださった時の照れくさそうなお顔も。……私は愚かな女ですから。ほんの少しでも愛情を注いでいただけていたら、喜んで戻っていたことと思います」
でも、私は彼にとってただの便利な道具でしかないのだと、それがようやく分かったから。
「さようなら、ロータス様。もう二度と会うこともないでしょう」
それが私なりの、決別の言葉だった。
「最後に礼を言うよ、ロータス・ギレスピー。このラウンジで付き合わされたどの余興よりも楽しませてもらったからな」
「用が済んだのならお引き取りくださいな。ここの職員に無体を働くような方は迷惑でしかありませんから。……さぁ、お帰りはあちらでございますよ?」
ロクサーヌ様の言葉を合図に、控えていた衛士たちがロータス様を立ち上がらせ、引きずるように出口へと歩き出す。彼は一度だけこちらを振り返り、その口が私の名を呼ぼうとするも——。
「……おいで、ランタナ」
低く、掠れた優しい声音に誘われるように足が勝手に彼のもとへと動き出す。エルギル様は私の手を取ると、赤くなった二の腕を見つめて「可哀想に」と呟いた。
「すまないな、嫌な思いをしただろう」
「いえ……言いたいことはたくさんあったはずなんですけれど……」
衛士に掴まれた身体を大きく捩り、憎々しげに私を睨みつけてまだ何か喚き立てている彼を目の当たりにしたら、そんな気持ちもすっかり萎えてしまった。
「皆様に全部言っていただきましたから。それで十分です。こちらこそごめんなさい、つまらないものをお見せしてしまいました」
「僕は楽しかったですけれどね。あんなにも話が通じない人を見たのも久しぶりでしたから。それに、叩けば埃がたくさん出てきそうだ」
ネイサン様が手帳をポケットに収めながら、ロクサーヌ様へと悪戯っぽく微笑みかける。
「ええ、本当に。……それじゃあ私は少し後始末をしてきますから、ストラウス様、ランタナさんをお願いしますね」
ロクサーヌ様はそう言ってネイサン様を伴い、優雅にラウンジを後にした。ラウンジを包んでいた張り詰めた空気も緩やかに溶け、ご婦人方は「よく言ったわ」と私に温かい目配せを送りながらそれぞれの定位置へと戻っていく。
何事もなかったように一瞬にして日常の光景に切り替わる。
その光景を見つめながら、ふと胸の奥が静かになっていくのを感じていた。
ああ、本当に終わったのね、と。
ずっと心のどこかに引っかかっていたのは、『もしも』の数々だった。
もしもあの時、私がもっと上手く伝えられていたら。
もしもあの人が、少しでも私を一人の人間として見てくれていたら。
そんな無意味な仮定が浮かんでは音もなく崩れ落ちていく。ずっとその繰り返しだったのに。今日、ようやくそれが終わった。
「ランタナ」
「はい」
「ここはまだ騒がしい。庭を少し歩かないか」
少しだけ意外な申し出に瞬きを返したけれど、私は迷うことなく微笑んで頷いた。
「喜んでお付き合いいたしますわ、閣下」




