花は咲き誇る 前編
テラスから続く庭園は花の盛りを迎えていた。傾き始めた陽を受けて、帽子を被ったエルギル様が私に手を差し出してくれる。
二人で肩を並べて、小道をゆっくり歩く。出会ったばかりの頃に感じていた緊張はもうどこにもない。触れ合いそうになる肩に少し熱を感じてしまうくらいで。
蝶の羽ばたきが聞こえてきそうな静寂の中、私たちの靴音と、エルギル様の杖の音だけが響いていた。
庭園の最奥に突き当たると、エルギル様は隅にあった銀製の扉を押し開く。今まで足を踏み入れたことのなかったそこには、溢れんばかりの薔薇が見事に咲き乱れていた。
「まぁ……! こんなところに薔薇園があったんですね」
「専属の庭師に拵えさせたんだ。……エリゼリア様がこの品種を好んでいらしてね」
「そうだったんですね。……綺麗……」
よほど腕のよい庭師だったのだろう。丹精込めて育てられた紅の薔薇には露が浮かび、生命の息吹を感じさせるほどに生き生きと咲き誇っている。
薔薇の香りを確かめるように顔を寄せる。あんまりにもはしゃいで見えたのだろうか。「棘に気をつけなさい」と、まるで子どもに注意するようなお言葉をいただいてしまった。
「閣下。今日は本当にありがとうございました。これでようやく、前を向いて歩いていけそうな気がします」
「少し灸を据えてやったまでだ。確かに昔はあのような傲慢な輩も多かったものだが、まさかこの年になってまで相対するとは思わなかったよ」
「ふふふ……。たくさんの人を見てきた閣下をもってしてそこまで言わしめるなんて、なんだかおかしいですね」
「老害、という言葉はなかなか辛辣であったがね」
皮肉げに笑うエルギル様は、薔薇のアーチをくぐった先にあるベンチに腰を下ろした。
「おいで、ランタナ」
「……はい、閣下」
そのたった一言がどれだけ私の心をかき乱すのか、きっとこの方は分かっていないだろう。頬が熱くなるのを感じながら私は彼の隣に座った。
「素敵な場所ですね。本当にここは目を奪われるものばかりです」
「そうだな。……君が来てからもうそれなりに経つが——どうだ、君の目からこの修道院はどう見える?」
「私を受け入れてくださった温かな場所です。本当に感謝の念に堪えません」
嘘偽りのない、心からの言葉だ。
世間知らずで愚かな私をみんな優しく迎え入れてくださった。知識と、知恵と、したたかさを教えていただいた。
ロクサーヌ様は私のおかげで雰囲気が変わったと言ってくださったけれども、そんなことはない。私の方が皆さんに慰められ心を癒してもらえたのだ。
「それは結構。……だが、先ほどあの小僧は私たちのことは世間からすっかり捨て置かれていると言っていたな。どこかでは『用済みの巣窟』と揶揄するものもいると聞く。それが外から見た評価ということだ」
「口さがない方々のやっかみです。私は今日、改めて思い知りました。皆様がこの国を動かしてきたのだと」
「そうだ。私たちが動かしてきた。自分の口から言うのも滑稽であるが、影響力という意味ではまだまだ健在であろう」
それはエルギル様だけに限った話ではない。他の方々自身もそうだし、そのお子さんたちも要職に就く方ばかりだという。その気になればあの修道院からこの国を動かすこともできるだろう。それほどの力を持った方々なのだ。
「だから私たちはあの修道院に入ったのだよ。……互いに監視するために」
「監視……ですか?」
思いもよらなかった不穏な言葉。身をまとう空気が、一段下がった気さえした。
「共和制に移行したといっても、まだ王制下の影響は色濃く残っている。隙あらばかつてのオーウェルに戻そうとする連中も多い。特に中央貴族と呼ばれた輩はな」
「自らの既得利権を守るため、ですか?」
「左様。エリゼリア様の理念を間近で見聞きしていた私だって自分の立場を失うことに恐怖を抱いたくらいだ。他の者は余計にだろう。ようやく落ち着きを見せたとはいえ不満は燻り続けている。……そんな中で、実の息子やかつての部下たちに都合よく担ぎ上げられる可能性が非常に高かったのが、私たちなのだよ」
既に引退したとはいえ、その影響力は計り知れない。エリゼリア様のお側に仕えていたともなれば、象徴として旗印にされるのは十分にあり得るということで——。
「王制の、復権を……?」
「そんな馬鹿な、と思うだろう? よそに目を向けても共和制や民主主義に舵を切っているというのに、その先鋒となった我が国が今さら逆行するような真似を、と」
エルギル様が自嘲気味に笑う。でも確かに、思い返してみればかつてのオーウェルを懐かしむ声を耳にしたことはあった。酔ったお客様が管を巻くように。あるいは広場の片隅で誰かに訴えかけるように。
——再びエリゼリア様を戴けばよいのだと。
「……退役した老将がいてね。市井に身を置かれていたエリゼリア様に近付こうとした。異常を察知した公安と我々で何とか事は収めたが……彼の話を聞いて、私たちは戦慄したよ。当時、彼は確かに共和制に反対していた。私と同じようにな。それでも最後には納得して従ったはずなのに……老いが、彼の理性を破壊していたのだよ」
——認知機能の低下による、記憶障害。大旦那様もそうだった。普段は穏やかにされていたのに、時折癇癪を起こしてまるで人が変わったように暴れることもあった。
「次はお前たちの番だと、突きつけられたようだった。だから私たちは直ぐに動いたのだ。侍女頭だったロクサーヌに声をかけ、修道院を手配させ、そこにかつてエリゼリア様に仕えた者たちを集める。相互に監視し合い、外の人間に良からぬことを吹き込まれぬよう面会所もああいった形にさせた。そして、ただ死を待つだけだった。ロクサーヌは気を揉んでくれていたが……私たちは役目を終えたのだ。余計な真似をするわけには絶対にいかなかった」
そこまで一息に語ったエルギル様が、緩やかに私へ顔を向ける。
夕焼けが世界を黄昏に染めていく中、逆光に照らされた彼は、ひどく優しい顔をしていた。
「そして、エリゼリア様もお隠れになった。空虚に満ちたあの場所であとは朽ち果てるだけだと。そう思っていたのに――君が来た」
震える指先が、私の頬に触れる。
「ラウンジで笑う君はとても美しかった。君の気丈な姿のおかげで、彼女たちはすっかり元気になったんだ。もちろん、私もだ。消えかけた蝋燭は最後に炎を燃やすと言うが、まさにそんな心地だった。後はもう静かに最期を迎えるだけのつもりが……君のおかげで楽しい日々を過ごせた。本当にありがとう」
「そんな……御礼を言うのは私の方です。どうか頭を上げてください」
「皆、君のことを本当の娘や孫のように思っている。だからこそ……これ以上ここにいてはいけないんだ。私たちのような先の長くない者たちに付き合う必要はないのだよ。君は傷ついた羽を休めていただけにすぎないのだから……もう、大丈夫だ。だから、明日にでもここを出るといい」
そう、柔らかく微笑んだエルギル様の手が、いつかのように離れようとする。
だから私は——その手をそっと掴んだ。
「お断りします。私はここにいたいのです」
「……ランタナ。君は情の深い女だ。今は私たちに同情しているだけなのだよ。このままここにいては、きっと後悔する日が来てしまう」
「お願いです。突き放すようなことを言わないでくださいませ」
「突き放すつもりはない。もちろん、ただ追い出すつもりもない。次の勤め先だって既に見繕っているんだ」
化粧品店に、領地管理人。図書館や王城の案内人など、伝手がなければ到底就けそうにない仕事先の名前が次々に挙げられる。きっと皆さんが私のために手配してくださったのだと容易に想像がついた。
祖母を見送った後ならば、あるいはギレスピー家から追い出されたばかりの私だったら喜んで飛びついたことだろう。けれども心が動くことはなくて、私は小さく首を振った。
「私などのために、もったいないお話をありがとうございます。ですが……お断りさせてくださいませ」
「もし家庭を持ちたいのであればネイサンを正式に紹介しよう。あれも君を気に入っている。ああ見えて根は真面目な男でな——」
「申し訳ございません、私では釣り合いが取れません」
「そんなことはないさ。あいつでは不安が残るのならば、ブラウンの末息子でもいいかもしれない。それかマイスターの孫だって」
「申し訳ございません、辞退させてくださいませ」
「……ランタナ。それならば私たちは君にどうしてあげれば良いのだ」
エルギル様の提案はどれも魅力的なものだ。もはや家名も持たない私がそれを断るなんて、また愚かな選択をしていると指を指されて笑われることだろう。
それでも。
……どうしても。
「——エルギル様、お花はお好きですか?」
脈絡のない問いかけに、エルギル様は虚を突かれたように目を見開いて、その端正な顔を歪ませた。
「……それは、君が一番よく知っているだろう」
「それならばお側にいさせてください。私は空を飛ぶ鳥ではありません。自由を求めた覚えもありません。私はただ皆様方の……エルギル様のお側に寄り添い咲く花でありたいのです」
「ランタナ……」
いつからか、と問われたら、きっと最初からだったのだと思う。
子ども扱いされて不貞腐れていらした御方が、急に紳士のように振る舞う姿に驚かされて。
その知見の深さにも、見識の広さにも。私の知らない世界を一つ一つ丁寧に教えてくれて、何よりも私を一人の人間として尊重してくれた。
親子ほど年が離れているけれども、惹かれる気持ちを抑えることはできなかった。
それでもずっと胸に秘めていようと思っていたのに。手放されるくらいならば、いっそ。
「君の気持ちはとても嬉しく思うよ、ランタナ。だがな、老い先短い私では君を幸せにはできないんだ」
「私はここに来てから、毎日が幸せでした。エルギル様と過ごす時間が楽しみで仕方がなかったんです。今だってそう。あなたに名前を呼ばれるたびに胸がいっぱいになるんです。……お願いです。妻にしてほしいなんてわがままは言いません。ただ、お側に置いてほしいんです……」
「……それが一番困るのだよ……」
こんなに必死になって縋りつくなんて、なんてみっともない女なのだろう。それでもなりふり構ってはいられなかった。ずっとここにいたい。叶うなら、エルギル様のお側にいたい。どうしてそれを願ってはいけないの?
エルギル様は目を閉じたまま、何も言葉をかけてくれない。呆れているのだろうか。見苦しいと思っているのかもしれない。なんと惨めな女だと憐れんでいるのかも——。
「ランタナ」
「……はい」
「私は君が思うほど立派な男ではない。人並みに嫉妬もするし……好ましく思っている相手を前にすれば見栄を張りもする」
「……よく、存じております。そんなところも愛おしく思ったのです」
「私のこの枯れた手では、君に十分な水を注ぐことも出来ないのだぞ」
「丹精込めて育てられるような歳は過ぎております。……ご安心ください。雨露だけでも案外しぶとく咲くものですから」
「参ったな……。私はただのとまり木に過ぎないはずだったのに……そこまで言われては、手放したくなくなるではないか……」
「それならば、どうかこの手を離さないで」
掴んだままのエルギル様の手を頬に寄せる。大きくて、温かくて、少し節くれだった手を。
すると、突然背中に回された腕でぎゅうと強く抱き寄せられた。ずっと求めていた温もりに、驚くよりも早く胸が満たされていく。
「私をその気にさせたのだ。もう後戻りはできないが、本当にそれでよろしいのだな」
「……! もちろんでございます!」
「どう足掻いても私が先に死ぬ。君はそれを見届ける覚悟があるのだな」
「はい。もとよりそのつもりでございましたから」
「……ここまで熱烈なお誘いをいただいたのだ。応えぬわけにはいかないな」
「エルギル様……!」
困ったように苦笑を漏らすエルギル様がその場に跪き、帽子を地面に置くと、私の左手を優しく取った。
「ランタナ。私の隣に咲く花として、これからの時を分け合ってはくれまいか」
「どこまでもご一緒させてくださいませ。私はあなたに寄り添う花として、いつまでも咲き誇りましょう」
熱の込められた灰色の瞳が私だけを映している。
薔薇が黄昏に染まりゆく中で、彼はゆっくりと立ち上がると、やさしい口付けを交わしてくれた。




