花は咲き誇る 後編
――数ヶ月後。
いつものように制服の袖に身を通し、鏡で身だしなみをチェックする。
昨日旅先から帰ってきたばかりではあるけれど、これまでお休みをいただいていた分を取り戻さないといけない。とはいえロクサーヌ様からのお呼び出しを受けていて、いつもならラウンジへ向かう足先は院長室に向いていた。
「失礼します、ランタナです」
二度ノックをして、「どうぞ」という返事のあとに扉を開く。清潔感のある部屋の中央には革張りのソファが置かれ、そこには華やかな化粧を施したロクサーヌ様とデルタ夫人、そしていつもよりかしこまった装いのネイサン様の姿があった。
「お帰りなさい、その様子だと楽しめたみたいね?」
「はい、とても。おかげさまで素敵なひと時を過ごしてまいりました」
「もっとのんびりして来ればよかったのに、念願の新婚旅行だったんでしょう?」
デルタ夫人の問いかけに思わず頬を染めてしまう。そう、私はエルギル様に誘われてひと月ほど旅行に出ていたのだ。
「ブラウンが嘆いてたわよ。宰相閣下に蒸気船のチケットを奪われたって」
「リッキー様には大変申し訳ないことをしてしまいまして……。一応、正式にお譲りいただいたと伺ったんですけれどね」
「叔父上の命令に逆らえるはずもないでしょうに。それで、ロストル島に行かれたんでしたっけ?」
「はい。ある若き議員の尽力で開発が進められているということで、視察も兼ねて。海の綺麗なとても素敵な場所でした。こちらはお土産です」
鞄から取り出したのは、ロストル島で買ってきたたくさんの絵葉書。部屋にもまだラウンジの皆様に配り歩くために重ねて保管してある。手に取って眺めていたロクサーヌ様は、その見事な風景画に目を奪われているようだった。
「皆様はお変わりなかったですか?」
「私たちはね。でも、市井ではちょっとしたニュースがあったみたいよ。ねぇ、ネイサン様?」
にっこりと微笑むネイサン様。ロクサーヌ様が机の上にばさりと新聞を置く。そこには、世間を騒がせた『ロマンス詐欺』事件に旧貴族の関与が認められたと小さな見出しで書かれていた。
「これは、もしかして……」
「主犯は奥方なんですけれどね。ギレスピー家の取引先の名簿を詐欺師たちに売っていたんですよ。ご当主は関わっていないの一点張りなんですが、まぁ評判はがた落ちですよね」
「散々私たちを老いぼれ扱いしてくれたくせに、その老いぼれの名を使うなんて嘆かわしい話だわ」
今後、ギレスピー夫妻が重要証人として喚問される見通しだ。
そんな言葉で記事は締めくくられていた。
「……さて、そろそろ時間じゃないかしら?」
デルタ夫人が壁の時計を見上げて悪戯っぽく微笑む。まだいつもの催しには時間があるけれども、面会でも入っているのかもしれない。
少し早いけれども、私も皆さんにお土産を配るためにそろそろ行こうかしら。久しぶりのラウンジを楽しみにしていると、ロクサーヌ様がおもむろに立ち上がり、奥に置かれたクローゼットを開いた。
きらきらと、照明を反射して全身に散りばめられた宝石が輝いている。
そこにあったのは——細やかなレースがふんだんに施された純白のドレスだった。
「わあ、素敵……。これはロクサーヌ様のものですか?」
「何を言ってるの。さぁ、ぼさっとしていないで。主役がいないと始まらないのだから早く準備を始めないと」
「私も着替えてくるわ。ああ、安心して。我が家のメイドたちを借りてきたから」
デルタ夫人が二度手を打つと、それを合図にして隣室からたくさんのメイドが現れた。「こちらへおいでくださいませ」と、あれよあれよという間に鏡台の前の椅子に座らされ、身支度を整えられていく。
「さて。僕も叔父上の様子を見てきますかね。きっと今頃バトラー相手に怒鳴りつけていることでしょうから」
そう朗らかに笑ったネイサン様は、「それではまた」とウインクを一つ残して部屋から去っていった。
「ロ、ロクサーヌ様……これはいったい……」
「ふふ、我らが宰相閣下と可愛いお嬢さんの婚姻ですもの。みんなで話し合って決めたのよ。きちんと牧師の前で宣誓まであげたら貴女も安心でしょう? ……外で待ってるわね」
そう言い残したロクサーヌ様はひらりと手を振って部屋を出てしまう。残された私はまだ頭が追いつかなくて、『誰かに身の回りの準備をしてもらう』という初めての体験に翻弄されるだけだった。
「——あら、素敵じゃない。私の見立ては正しかったみたいね」
ようやく支度を整えて院長室を出ると、シックなドレスを身に纏ったロクサーヌ様が待っていらした。着慣れないドレスにどこかぎこちない動きになって、汚しやしないかと冷や冷やとしてしまう。背後には、裾を整えるメイドさんが何人も控えていた。
ロクサーヌ様に促されるまま、私たちはゆっくりと廊下を進み、ラウンジへと続く大きな両開きの扉の前へと辿り着いた。普段は何気なく通り抜けているはずのその扉が今はまるで別のもののように思えて、自然と胸の鼓動が早くなっていく。
ロクサーヌ様が意味深に微笑みながら、そっと扉へと手をかける。
「さぁ、花嫁さん。皆様がお待ちかねよ」
ゆっくりと開け放たれた視界の先には、驚くほど綺麗に飾り付けられたラウンジの光景が広がっていた。
天井からは色とりどりの華やかな装飾品が吊るされ、陽光を和らげるカーテンが開け放たれた窓辺から光が差し込んでいる。そして部屋の隅に控えた楽団からは私の緊張を優しく解きほぐすような、美しくも厳かな調べが響き渡っていた。
その賑やかな空間の中央で、あからさまに不機嫌そうな顔をして立っている一人の老紳士の姿が目に飛び込んでくる。——私の愛おしい旦那様だ。
見事な仕立ての漆黒のタキシードに身を包んだエルギル様は、ネイサン様の予言通り眉間に深い皺を寄せてむっつりと口を引き結んでいた。バトラーさんに散々文句でも言っていたのだろう、その佇まいからは不満が隠しきれていない。
その姿がおかしくて、愛おしくて。
思わず笑みが零れてしまう。
「花嫁の入場よ」
その声かけにエルギル様がこちらを振り返った瞬間、その不機嫌そうな表情が完全に凍りついた。
純白の花嫁衣装に身を包んだ私の姿を視界に収めた彼は、息を呑んだようにその灰色の瞳を大きく瞠る。いつもの冷静沈着な元宰相の面影もどこへやら、文字通り言葉を失ったまま呆然と私を凝視するその様子に私の頬は一気に熱くなってしまった。
立ち尽くす私の背をロクサーヌ様が軽く押す。楽団の奏でる心地よい音色に誘われるように、私はドレスの裾をそっと揺らしながらエルギル様のもとへと歩みを進めていく。
デルタ夫人やリッキー様、マイスター様を始めとした入居者の皆様が我がことのように嬉しそうな笑みを浮かべながら、私たちに惜しみない祝福の拍手を送ってくださっている。
エルギル様は少し照れくさそうに、けれどしっかりとした足取りで私のもとへと歩み寄り、さりげなく左腕を差し出してくださった。
「……エルギル様。私、夢を見ているようです」
「私とてあそこに立たされた時は悪夢かと思ったよ。まさかこの私がお遊戯をさせられる羽目になるとはな、と」
「あら。それは悪いことをしていましたか?」
「いや、君を見て考えが変わった。……こんなにも美しい妻を迎えられたこと、我が人生の誇りに思うよ」
ああ、なんて幸せなのだろう。
閉ざされた離れで萎びていた花は、もうどこにもない。
愛おしい人々の笑顔に囲まれて。
愛おしい人の温もりに抱かれて。
ようやく私は、自分が咲くべき場所へ辿り着けたのだから。
「……愛しているよ、ランタナ」
鳴り止まない祝福の拍手と、優美な楽団の調べが黄昏のラウンジを優しく包み込んでいく。
エルギル様は私の手をそっと引き寄せ、その灰色の瞳に私を映しながら永遠の愛を誓ってくださった。




