花は揺れる 前編
「お久しゅうございます、ギレスピー様」
「随分と他人行儀だな。昔のように、ロータスと」
「そんな、何の関わりも無い方をファーストネームでお呼びすることなどできません」
素知らぬ顔をして言う私のことを、彼は不愉快そうに目を細めて見下ろす。「おかけくださいませ」とロクサーヌ様に促された彼は、上座にどっかりと腰を下ろした。
「……彼も、ここの職員なのか?」
「ええ、そのようなものです。どうか僕のことはお気になさらず」
へらへらと笑うネイサン様を一瞥したロータス様はもう関心を失ったようだ。早速ロクサーヌ様が表向きの用件を終わらせるために、この修道院の成り立ちと設備の説明を始める。
「……と、設備については以上となります。とはいっても、以前にもお聞きいただきましたよね?」
えっ、と小さく声を漏らした私に、ロクサーヌ様は「三年とちょっと前に、お披露目会にいらしたのよ」と小声で教えてくれた。つまりは——大旦那様の時に?
「あの頃とはだいぶ入居者の質が異なるようだ。当時もこのような顔ぶれであれば、父を任せたかもしれないのだがな」
「ああ、あの時は開所したばかりでしたから。順番に、身分の等級別にご招待してご案内差し上げていたのですよ」
ぴくりと、ロータス様の細い眉が跳ね上がる。
「時代錯誤の特権主義に反吐が出そうだ。自分たちは特別であると、根から信じて疑わぬのだろうな。……まあ、いい。未だ中央にはびこる老害どもを立てねば、経営にも差し支えがあるだろうからな」
「ご理解賜り恐縮です。おかげさまでご好評いただいておりましてね。年々入居を希望される方も増えていますから、少しお待ちいただくこともあるんですよ」
ロータス様はガラス越しにラウンジへと視線を向ける。
「それは結構なことだが、無駄に金をかけすぎているように思える。少なくとももう現役を退いた方々だ。規則正しく生活し、必要な世話を受ける。それだけで十分なのではないかと」
その言葉に、ロクサーヌ様は意味ありげに微笑んだ。ネイサン様は口元を押さえて笑いを噛み殺しているようにも見える。
「なるほど。それが間違っているとは申しませんわ。質素倹約も美徳ですから。ただ私どもは、皆様を人生の先輩としてお預かりしているわけですから。不自由な思いをしていただくわけにはいかないのですよ」
「人生の先輩、か。余生を過ごしていただくにはいささか贅沢が過ぎる気もするな。これではまるで社交場ではないか」
「それはランタナさんのおかげかもしれませんね。ランタナさんが来てからというもの、皆様すっかり活力が漲っている様子なのですよ」
「……ランタナが? それはどういうことだ」
思い出したようにこちらへ顔を向けられる。私は目を合わせぬように、真っ直ぐロクサーヌ様だけを見つめていた。
「彼女はとても優秀でしてね。お話も上手ですし、何よりも華があります。ただそこにいるだけで見違えるように場が明るくなるんですよ」
「ランタナが?」
「ええ。今ではランタナさんを目当てにラウンジへ足を運ばれる方もいるくらいです」
「……そうか。確かに愛想だけは良かったからな。父もそういう賑やかな人間を好んでいた」
その失礼な物言いに、こめかみがぴくりと引きつったのが自分でもわかってしまった。
……いけない。彼のペースに巻き込まれては駄目だ。気が昂ぶりそうになる自分を落ち着かせるように、私は微笑を湛えたままロータス様に話しかけた。
「大奥様をこちらに入居させるご予定だと伺いました。まだまだお元気そうに見えましたが、どこか具合が悪いのでしょうか」
「ああ、階段から足を滑らせて足の骨を折ってしまってな。それからすっかり弱ってしまったんだ」
「まあ……それは大変ですね。こちらの修道院でしたらお怪我の療養にも力を入れておりますから。ご安心いただければと思います」
「いや、ここは母には合わなさそうだ。申し訳ないが、この話は無かったことにしてもらいたい」
そう言うや否や立ち上がったロータス様は、ガラス越しに様子を窺っていたご婦人方を嫌そうに眺めた後、振り返りもせずにただ一言言い放った。
「さあ、帰るぞランタナ。早く荷物をまとめてくるといい」
「……はい? 今、なんと」
「言っただろう。母が足の骨を折ったと。介添えが必要なんだ。お前なら母も喜ぶだろう」
ぽかんと、はしたなくも口を開いてしまう。あのロクサーヌ様ですら目を見開いて小首を傾げていらっしゃった。
「あの……私はここで働いております」
「だから何だ。給金の話なら同程度負担する。補充が必要だと言うのならば我が商会から派遣しよう」
「……ギレスピー様。こんなことを言いたくはありませんが、私は大旦那様をお見送りするまでの間にお金を頂いた覚えはありません」
そんな人の言う『給金』の何を信じろと言うのか。そもそもあんな手ひどい扱いをしたにもかかわらず、この人は本気で私がのこのこ戻るとでも思っているのだろうか。
呆れ半分、怒り半分。それでもなるべく平静を保つように努めて問いかける。そうすると彼は、心底意味が分からないと言いたげに眉を顰めた。
「父の時は部屋を提供してやっただろう。服も支給し、食事も同じものを与えていた。それの何が不満だったのだ」
「——っ、私はっ……! 私は、あなた様の妻として迎えられたのだと、本気でそう思っていたのです……!」
これまでずっと我慢していたのに。そのあんまりな言い草に、箍が外れたように言葉が勝手に口からこぼれ落ちた。
「ただの介添えとしか思っていなかったのであれば、なぜ私に愛を囁いたのですか。一生共にあると言ったのは何だったのですか。そんな人のもとにまた私が喜んでついて行くとでも思っているなんて……どこまで馬鹿にすればっ……気が済むの……!」
肩で息をする私のことを、ロータス様は面倒そうに見下ろしている。
「そう言えば君は喜んで父の世話をしたからな。言葉一つでやる気を見せたのだからいいことではないか。……言いたいことはそれだけか。気が済んだのなら早く準備を済ませてくれ。馬車を待たせているんだ」
「お断りします。私は行く気はありませんから他を当たってくださいませ。そもそもギレスピー家には正式な奥様がいらっしゃったはずですが」
「あれは社交には向いているが家のこととは無縁の女でな。自分が介添えをやるくらいであればと実家に帰ってしまったのだ。……まったく、自由にさせてやったのにあんなことで投げ出すとは思わなかった」
ロータス様は心底理解できないといった顔で肩を竦める。
「ただな。君が面倒を見るのならば戻ってもいいと、そう言っているんだ。子どもが欲しいのなら、一人くらいなら構わないともな」
思わず失笑が漏れる。つまりは今度は公認の愛人として招いてくださるということだ。そこまで私は愚かな女だと思われていたということだ。
「それならばまたサロンで見繕ってはいかがですか。今度は詳らかにご説明することをお勧めしますけれども」
「母は君がいいと言っているんだ。君なら家のことも良く知っているだろう」
まるで話が通じなくて、目の前にいる人が同じ人間なのかどうかすらも疑わしく思えてくる。いや、この人は私に悪いことをしたなんてこれっぽっちも思っていないのだ。だからこうして何事もなかったかのように顔を出せるのだ。暇を出した使用人を、気まぐれに呼び戻すかのように——。
「……母は君が出て行ってから随分落ち込んでしまってね。怪我のこともあって気弱になっているんだろう、君の名前ばかり口にするんだ」
「……奥様が?」
「今さらこんなことを言うのも何だが、あの人は本当に君を可愛がっていた。それは君が一番よく分かっていたことだろう」
それは知っている。あの人だけは私を嫁として扱ってくれたから。
大旦那様を寝かしつけた後に一緒にお茶を飲み、一緒に刺繍をして、私に髪飾りを贈ってくれた。あの日々まで嘘だったとは思えない。
大旦那様は私以外の人がお世話をすることを嫌い、私が風邪で病床に伏せている間、食事に手をつけないこともあった。もしも同じようなことが大奥様にも起こっていたとしたら——。
「……ランタナさん。ひとつ聞いても?」
膠着した空気を断ち切ったのは、ネイサン様の涼やかな声だった。
「は、はい」
「ギレスピー氏は、どうやってあなたに接触したんですか」
「サロンに何度かいらして……結婚を申し込まれました」
「なんといったか、覚えていますかね?」
「『君の気遣いは本当に素晴らしい。ぜひ君をギレスピー家に迎え入れたい』、と。『誰からもギレスピー家の人間と認められるように、まずは父の面倒を見てやってほしい』。そう仰いましたよね、ギレスピー様」
「なるほど、つまりはこういうことですね。結婚を匂わせ、期待を煽り、相手に奉仕を求めて、用済みになれば切る。……おや。これは面白い。僕が担当している事件とよく似た手口だ」
彼は、壁に貼られた一枚の紙に目線を送る。
数年前からこの国で続く事件。——ロマンス詐欺にご注意を、と書かれた紙を。
侮辱されたと思ったのか、ロータス様の顔がみるみる険しくなる。
「この私を詐欺師呼ばわりするつもりか。彼女が勝手にのぼせ上り、勘違いしただけだ」
「そう感じていたのならば、訂正する必要がありましたよね? むしろ僕にはわざと煽ったようにも思えますが」
「……話にならないな。もはや時間の無駄だ。いくぞ、ランタナ」
彼はそう吐き捨てると、私の腕を強引に掴み上げて面会所から飛び出した。ロクサーヌ様の引き留める声も聞かずに完全に無視を決め込んでいる。
「やめてください、私は行く気はありません!」
「母がどうなってもいいのか。譫言のように君の名を呼んでいるのだぞ」
「そうだとしても……! それはあなた方のご家庭の問題です! 私をその家庭に入れなかったのは、あなたではありませんか!」
「聞き分けのない……!」
抵抗する私に苛立ちを隠さない彼は、反対の手を大きく振り上げた。咄嗟に両腕で顔を庇う。予想していた衝撃は――いくら待っても訪れない。
薄っすらと目を開けると、そこにはリッキー様に手首を捻り上げられたロータス様が床に組み伏せられていた。衛士よりも誰よりも早く反応してくださったのだ。
「聞き分けがないのはあんたの方じゃないかね、坊主」
「なんたる無礼を……! 離せ、老いぼれの分際で!」
「ですってよ、宰相閣下。こいつはどうすればいいですかね」
「そのままで結構。話は手短に済ませる」
どん、とロータス様の眼前に杖が下ろされる。
真っ直ぐに背筋を伸ばしたエルギル様は、これまでに見たことのない冷たい瞳でロータス様を見下ろしていた。




