花は綻ぶ 後編
「……ロータス様が、ですか?」
「そう。一応は貴女には事前に話しておこうと思ってね」
ある日、院長室に呼び出された私は耳を疑うようなことを聞かされた。——ロータス・ギレスピーが、この施設の見学に来るらしい、と。
「表向きは母親の入所相談。同時に、貴女への面会も要請してきたわ」
「私へのですか? 今更あの人が私に一体何の用があると言うのでしょうか? それにどうして私がここにいると……」
「まあ、口を滑らせたのはバロンでしょうね。申し訳ないのだけれど、あの愚弟を許してやって頂戴。どうにもあの子も自分の店を守るのに必死みたいなのよ」
もちろんマスターを恨むつもりはない。けれども、そこまでするロータス様の意図が分からない。
正直に言えば、もう顔を見たくもないのが本音だ。ようやく自分の愚かな過去として受け入れられたのだから、彼のことで感情を振り回されたくはない。でも入所相談を表向きとされている以上はロクサーヌ様もお断りしづらいのかもしれない。
「どうして貴女に面会を要請してきたのかはなんとなく想像もつくけれど……それは、貴女が直接聞くのが一番ではないかしら」
「そう、ですね……ロータス様は、おひとりで?」
「申し込み内容では彼お一人だったわね。……お断りしてもいいけれど、どうします?」
「会います。結局最後まできちんとお話も出来ませんでしたから。せっかく会いに来てくださるのなら、文句の一つも言ってやろうと思います」
「いいわね、したたかな女は好きよ。それじゃあ、決まりね。日取りは先方に合わせるから……また、追ってお知らせするわ」
——そうして、面会日が決まったと知らせを受けて。
私はどこか落ち着かない日々を過ごしていた。
面会当日を迎えてみれば、驚くほど穏やかな晴天に恵まれていた。それにもかかわらず私の胸は朝からずっとざわついている。
「ランタナさん、今日はやけに紅を薄くしたのねぇ」
ラウンジでお茶を嗜んでいたご婦人の一人が、愉快そうに目を細めて声をかけてくる。いつもラウンジで楽しげに話に花を咲かせているデルタ夫人だ。
「そうでしょうか?」
「そうよ。いつもより三割ほど薄いわ。それはギレスピーのお坊ちゃんの趣味?」
彼女の言葉に、周囲にいたご婦人方もクスクスと小気味よい笑い声を漏らした。私も指摘されて、はたと気が付いてしまう。あの人は私が家でお化粧をすることを嫌った。『父を誑かす気か』と謂れのない中傷を受けたこともある。あの人に会うからといって意識しているつもりはなかったのに。鏡の中で顔を強張らせている自分を目にしてしまって、無意識に薄くしてしまったのかもしれない。
「どうぞ、先日送ってもらったリリーフランの新作よ」
「そんな、受け取れませんわ」
「いいのよ。私には地味だから」
真っ赤な口紅を引いた唇を悪戯っぽく釣り上げるデルタ夫人に誘われるように、私もつい笑ってしまう。有難く頂戴した口紅は、上品な真紅の艶を纏っていた。
「……安心なさいな。仮に復縁を迫られても、ここにはもっと良い男が沢山いるもの」
「そうそう。若いのならネイサン坊やとかね」
「私はブラウン家の末っ子を推すわね」
「嫌ですわ、皆様。復縁も何も、先方のご都合で縁は結んでいなかったんですよ?」
いつものように冗談めかして笑うと、ご婦人方もさらに声を立てて賑やかに笑った。
ラウンジの入り口から、こつん、こつんと規則正しい杖の音が響き渡る。見れば、お召し替えを済ませたエルギル様がこちらへ歩いて来られるところだった。
「あら、エルギルの坊やじゃないの。今日は随分とお早いこと」
「また新しいスーツを拵えてるわね……」
囃し立てるご婦人方の声にも応じず、エルギル様は真っ直ぐに私の方へ歩み寄ると、その向かいの席へと腰を下ろした。
「ランタナ。本日の君の予定はどうなっている」
「面会対応の予定です。……もうすぐお越しになりますね」
「そうか」
短い返事。けれど何故だろう、今日の閣下はどこか不機嫌そうに眉を寄せているように見える。
「申し訳ございません。今日はご一緒できそうにありません」
「それは構わぬ。が、そうか」
そう言いながらカップを持ち上げたものの、エルギル様はそれを一口含んだだけで、すぐにテーブルへと戻してしまった。いつもならもっとゆったりとお茶の時間を楽しまれるのに、珍しいこともあるものだ。
「……何かご心配事でも?」
「別にない」
「顔に書いてあるじゃないの。素直じゃないんだから」
即座にそう言葉を被せたのは、周囲のご婦人方だった。
「ほんと、分かりやすいのよねぇ」
「昔はもっと澄ましてたくせに。歳を取ると素が出てきやすくなるのかしら」
「お喋りな鳥は黙っておれ」
ぴしゃりと言い返すエルギル様だったけれど、人生の大先輩であるご婦人方はまるで堪えた様子もない。
「だって仕方ないじゃない。可愛い孫娘のような子が元夫に会うんですもの」
「違うわよ、籍は入れてないんだから。だからこそ心配なのよねぇ? あなたもでしょう?」
「違う」
「やだ、嫉妬かしら?」
「違うと言っている!」
周囲が一斉に楽しげな笑い声を上げる。気付けば私まで噴き出しそうになってしまっていた。
その和やかな時間を中断するように、ラウンジの奥に設置された伝声管から短い笛の音が響いた。近くにいた職員が受話口の蓋を開け、何度か神妙に相槌を打つ。そして、静かにこちらへと振り返った。
「ランタナさん」
その表情を見ただけで私は理解した。——ついに、いらしたのだ。
「お連れしますので、お先にお待ちください」
その一言で、ラウンジの空気がわずかに張り詰めた。さっきまではしゃいでいたご婦人方が一斉に息を潜める。エルギル様の灰色の瞳も鋭く細められた。
私は胸の内で深く息を吸い込む。もうあの日のように訳も分からないまま泣き出すだけで終わらせるつもりはなかった。
支給された制服のスカートの皺を丁寧に整え、ゆっくりと立ち上がる。
「ランタナ」
振り返ると、そこには私を真っ直ぐに見つめるエルギル様の姿があった。
「はい?」
「何かあれば、すぐに私を呼びなさい」
短いけれど、温かい言葉に胸の奥がじんわりと熱くなる。気付けば私の唇からは自然と笑みが零れ落ちていた。
「ご心配には及びませんわ、閣下。私もそれなりに逞しくなりましたから」
背中を押してくれるように頷く彼らに向けて一礼し、確かな足取りで面会室へと向かった。
ガラス張りの部屋の中には既に誰かが腰かけている。見慣れないスーツに訝しみながら入ると、その人はゆっくりと振り返った。
「——やあ、ランタナさん。お先に失礼しているよ」
「ネイサン様? どうしてここに……」
そこにいたのはロータス様ではなく、ネイサン様だった。彼はポケットから取り出したハンカチで器用に鳩を折りながら、私に隣に座るよう促してくる。
「心配性などこかの誰かさんにお手伝いを頼まれましてね。まあ、貴女専用の護衛と思ってくれて構いませんよ」
「それは……お手を煩わせてしまってごめんなさい」
「とんでもない。面白いものを見られる特等席に招かれたと思えば、お安いものですから」
どうやら私の面会は、彼にとって格好の暇つぶしとして取り扱われているらしい。周囲を見渡せば近くのテーブルにはご婦人たちが沢山集まっていらっしゃった。苦笑を漏らしながらも、私も席について彼が来るのを待つ。
……と、分厚い靴底を鳴らす音が近付いてきた。昔、離れにいらっしゃるのを待ちわびていた、あの人の靴音が。
「——ランタナ、久しいな」
ロクサーヌ様に連れてこられたその人に呼びかけられ、私は自然と背筋を正す。
振り返ると、そこには栗色の髪を几帳面に整えたロータス様のお姿があった。




