花は芽吹く
テラスの白いテーブルを挟んでエルギル様とチェス盤を囲む時間は、いつしか私の毎日の中で最も待ち遠しい特別な習慣になりつつあった。
駒を動かす仕草一つ、蒸留酒のグラスを傾ける指先一つ。彼の洗練された一挙手一投足に、サロン時代には決して覚えなかったはずの胸の奥がきゅっと締め付けられるような甘い痛みが走る。灰色の瞳が私を映し出すたび、私は上手に笑えているだろうかとうら若き少女のような心持ちで自分の表情が気になって仕方がなくなるのだ。
無償で離れに押し込められていたあの三年間が嘘のように、今の私は満たされていた。
けれど、私の本分はあくまでこの聖アンジェロ修道院の職員である。
お喋りなご婦人方との歓談やエルギル様との贅沢な時間の合間には、もちろんお食事のお手伝いや部屋の片付けといった細々とした手伝いも待っている。
特に夜の修道院は昼間の賑やかさが嘘のように寝静まる。夜半になれば、静まり返った廊下や薄暗いラウンジにふらりと迷い込んでしまうご婦人に声をかけることも、私の大切な役割の一つだった。
「……マダム、こんな時間にいかがされましたか?」
「こんばんは、お嬢さん。そろそろお家に帰ろうと思ってね。あの人が待っているのよ」
「まあ……それは心配ですね。でもどうしましょう。本日の馬車はもう終わってしまったみたいです。今夜はゆっくりお休みになって、早朝の便でお戻りになるのはいかがでしょうか」
ご婦人は少し悩む素振りを見せてから、「そうね、そうしようかしら」と頷いた。「あの人ももう寝てるものね」と笑みながら。
「お部屋までご一緒します。夜は冷えますから、こちらのブランケットをどうぞ」
「ありがとう、優しい子ね」
ちょうど介添え役の職員がご婦人を探しに来てくれたから、彼女に託して再びラウンジへ戻る。
オレンジ色のランプがぼんやりと浮かぶ中、部屋の奥には壁を見つめるひとつの影があった。
「……閣下」
「その声は……ランタナか」
エルギル様が緩やかに振り返る。彼が先ほどまで視線を向けていた先には、一人の女性の肖像画がかけられていた。
この国の最後の女王、エリゼリア・ミレデイア・オーウェル八世。まだ若かりし頃の美しい人が四角く切り取られた絵の中で、色褪せぬ微笑みを湛えている。
たまたま知ったことだけれども、エルギル様は三日に一度、皆が寝静まった夜半にこの場所を訪れていた。そしていつも懐かしむような顔でこの肖像画を見上げていらっしゃるのだ。それがずっと不思議だったのだけれども、水軍の元将校さんが「あの方はずっとエリゼリア様にお仕えしていたんだよ」とこっそりと教えてくれた。
「……眠れませんか?」
「寝苦しい夜はなかなか寝付けなくてな。……どうだ、今夜も一杯付き合ってはくれまいか」
ラウンジの中にはお酒を嗜むカウンターも併設されている。フットマンはもう休んでいるけれども、お酒を用意することくらいは私にもできる。酒棚からワインボトルとグラスを二つ取り出してカウンターに並べれば、即席のバーが出来上がった。
淡いランプの灯りだけが揺らめくバーカウンターで、二人並んでチェアに腰掛ける。エルギル様と無言でグラスを重ねると、ちん、と控えめな音が響いた。
「……」
昼間は饒舌なエルギル様も、この時間は殆ど口を開かない。カウンターを背にして肖像画を眺めていらっしゃる。その横顔はかつての日々を思い起こしているようで、涙をこらえるように目を細める日もあった。
彼の感傷の邪魔にならぬよう、ただその隣で静かに寄り添うだけの時間が過ぎていく。気まずさはない。むしろ、どこか心地よさすら感じる沈黙だ。
「……」
——エルギル様は、エリゼリア様を愛していらっしゃったのですか?
喉元までせり上がる問いかけは、今日も言葉にする前に飲み込んだ。
氷が溶けて、グラスを涼やかに響かせる。……そろそろお開きの時間だろう。片づけのために腰を浮かしかけると、エルギル様が私を見つめていたことに気が付いた。
「まだ飲み足りませんか?」
「いや……少々、無礼を承知で尋ねても?」
「はい、なんでございましょう」
珍しくもエルギル様が気まずそうに咳払いを一つする。
「いやなに、ここは老人ばかりでな。暇を持て余した者たちの噂話とあって真に受けたつもりは決してないのだが……」
随分と回りくどい言い回しに私も思わず固唾を呑んでしまう。彼はグラスを持ち上げながら、どこか困ったように眉尻を下げた。
「聞けば君は、ギレスピー家の小倅に正妻として囲われたと思っていたところ、実際には前当主の介添え役として離れに置かれ、献身を余儀なくされていたそうだな」
「はい。お恥ずかしいお話ですわ」
「挙げ句、嫁姑争いによって実家が潰された上に財産も身分も奪われ、最後には着の身着のまま放逐されたとか」
「……ええと」
「いや、待て。婦人方の話では途中から『本妻との権力闘争に敗れて地下牢に繋がれていた』とも、『莫大な手切れ金を拒否して愛だけを選び身を引いた女』とも聞いたな。さすがにそこまで来ると真偽を確認したくもなるだろう」
思いもしなかった話の数々に思わずむせてしまうと、彼は水差しでグラスに水を注いでくれた。それを一息に飲み込んで、エルギル様をじっと真っ直ぐに見つめる。
「……閣下。話に見事な脚色が施されてしまっているようですわ」
「そうか、どの部分にかな」
「まず、実家は勝手に潰れましたからギレスピー家は関係ありません。それに大奥様との関係も良好でした。地下牢なんて見たこともございませんし、愛はおろか手切れ金すら提示されておりません」
「ううむ……つまり君は、嫁入りしたはずなのにただの介添え役として離れに押し込められ、前当主を看取った後は無一文で追い出されたと。それは正しいのだな」
「それは、はい……そうですね」
どうしてかしら。これまでに散々笑い話の種として自分から披露してきた話なのに、エルギル様に面と向かって問われると、気恥ずかしさからつい目を逸らしてしまう。
「なぜ、そのような愚かな真似を」
——そうよね。エルギル様からしてみたら、本当に愚かな女だと思うことだろう。私だってそう。何故あんな人の甘言に騙されてしまったのか。どうしてなんの疑問も抱かずに大旦那様の面倒を見続けてきたのか。こうして離れた所から自分を振り返ってみても、「あのひと、頭がおかしいんじゃないかしら」と他人事のようにしか思えないもの。
それでもあの頃の私は信じていた。私はギレスピー家の一員なのだと。だからこそ彼は大事な人を私に預けてくれたのだと。
それに大旦那様と大奥様のお人柄が良かったこともあって、大変なことは多くても辛いと思ったことは殆ど無かった。それだけが唯一の救いだったのかもしれない。
「若さとはきっと、そういうことなのでしょう? 今はここに来るための準備期間だったのだと。そう思うことにしておりますの」
「なるほど。若さゆえの過ちか。確かに、その経験を経て人は成長するものである、か。……それならば、その男がもしも自らの過ちに気付き、君に詫びを入れに来たら——君は受け入れるのかな?」
思いもよらなかった問いかけに、私は言葉を詰まらせた。どこか探るような視線は、もしかしたら私がまだ未練を抱いている愚かな女だと思っているからこそなのかもしれない。
「……わかりません」
「ほう?」
「少し前の私なら喜んで飛びついていたと思います。でも今の私には、もう想像もつかなくて……」
「……そうか」
「ありもしない仮定のお話をしても仕方ありません。もしよろしければ、今度は閣下のお話を聞かせてくださいませ」
「私の? こんな枯れた男の何が気になると言うのだね?」
「あら、たくさんございますよ。なにせ閣下の名声はよく耳にしておりましたが、浮名を聞いたことはありませんでしたから」
密かに気になっていたこと。それは、私の知る限りではエルギル様は独り身を貫いていらっしゃったことだった。
言葉の意図を即座に理解したのか、彼は苦い笑みを零す。幻滅されてしまったかしら。お酒の勢いで聞いてしまったことに今になって後悔してしまうくらいなら、黙っていれば良かったのに——。
「さては、ラウンジの婦人方に感化されたな。まったく、彼女たちにも困ったものだ」
「そんな。私個人として気になっただけに過ぎません。ご家庭を作られていてもおかしくなかったのに、と」
「もちろんその機会はあったさ。だが、そうだな。それどころではなかったというのが正直な話だ」
エルギル様は手元のグラスをゆるやかに傾け、深い赤の液体にランプの灯りを反射させながら苦笑する。
「気付けば王宮にいた。気付けば朝になっていた。そんな日々の繰り返しだったよ。家庭を持つには少々働き過ぎていたらしい」
エルギル様が柔らかなガウンを羽織った肩を軽妙に竦めてみせた。
「ほら、私のような老人の色恋沙汰など聞いても面白くあるまい。それに、君に情けない話はあまり聞かせたくないものだ」
「そんな……閣下ほどの御方なら、失敗とは無縁の人生でしょう?」
「まさか。私の人生は取り返しのつかない失敗の連続だよ」
エルギル様は自嘲気味に微笑み、ワイングラスの中の深い赤を見つめた。
「……かつて、この国を民主化へと導いた至高の女王がおいでだったことは君も知っているだろう」
「エリゼリア様ですね。私は生憎と直接お目にかかったことはございませんが……。王家の解体を発表した最後の演説は見事なものだったと、よく聞いておりました」
退位されてからは隠居をなされたそうで表舞台に立つことは二度となかったけれども、当時を知る国民からは今なお広く愛されているような御方だ。
「私はエリゼリア様にずっと仕えていたわけだが……あの御方の御心を深く理解できず、何度も考えを改めるよう説得をしたものだ。今思えば怖かったのだよ。貴族という絶対的な権力を失うことが、な」
「それは……今の閣下しか知らない身としては、にわかに信じ難い話ですね」
「そう見えるのなら何よりだ。だが、それからも無駄にあがいてしまった。あの御方に後事を託されてからは死に物狂いで制度を整え、いつからか名相などと持て囃されるようになったが……所詮は私も自らの地位に縋りつく矮小な生き物だったということだ」
寂しげに細められた灰色の瞳に、胸が締め付けられる。
「老いるということは、自らの誇りすら忘れて醜くあがいてしまう恐怖との戦いだ。君にはまだわからないだろうがね」
「閣下……」
「だが、そうか。その失敗だらけの人生があったからこそ今があるともいえるのか。それならばそう悪いものではなかったと思えるな。……不思議なものだ」
そう言って悪戯っぽく微笑むエルギル様。でもどこか寂しげな眼差しに、不意に私の心臓が、とくんと小さく音を立てた。
「閣下、お次は何になさいますか」
「酒はもうやめておこうか。一応は療養中の身だ」
「……どこか、お身体の具合が?」
「表向きはそう言うことにしている、というだけだよ。とはいえ、私くらいの歳になるとどこもかしこも悪いところばかりさ」
その言葉を聞いて安堵する。どうして療養を名目にしているのかまでは理解が及ばないけれども、少なくとも、大病をしているわけではないと分かったから。
「ここでゆるゆると朽ち果てるのを待つだけの身だ。そう容易く死んでやるつもりもないがな」
「死ぬだなんて……どうかずっとお元気でいてくださいな、閣下。もっと教えていただきたいことが沢山あるのですから」
「君はもう十分に賢いよ、ランタナ。後は人を疑うことさえ覚えれば、どこででも花開くことだろう」
悪戯に笑う彼に、私は返す言葉も出せないでいる。
「そう、失敗を経た君ならばやっていけるはずだ。このような老人の相手をする必要もなく、な。君はまだ……未来が続いているのだから」
彼の指先が私の頬へ伸びかける。けれど、彼はその手を途中で止めてしまった。
「……そろそろ戻るとするか。今ならよく眠れそうだ」
「それは、ようございました。明け方は冷えますから、暖かくしてくださいね」
「君も、あまりそんな薄着で出歩かないことだ」
エルギル様は羽織っていたガウンを私の肩にかける。
引き止める間もなく、彼は杖を手にすると片手を上げて去っていった。




