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離れで萎びた花は、黄昏の庭園に咲く  作者: Mel


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3/7

花は根付く 前編

 あくる日から、修道院での生活が始まった。雇用契約書は穴が空くほどに何度も読み返したけれど、待遇は破格と言えるものだった。

 だってこれまでの私は無償でお世話をさせられていたのですもの。食べることには困らなかったけれども、なによりもお給金をきちんと支払っていただけるというだけで人として尊重されているような気がした。


「あらあらまあまあ! ギレスピー家のお坊ちゃまはそんなぼんくらに育っていたの!」

「もっと言い返してやらないとダメじゃないの。今から婚姻費用を請求しましょ、請求。ほら、あちらに元王都登記院の女官長がいらっしゃるわよ」

「なになに、何の話なの?」

「こちらのお嬢さん、ギレスピーの若旦那にお年寄りのお世話を押し付けられた挙句に捨てられたんですって!」


 私の情けない話を披露するのも何度目だろうと思いつつ、ラウンジに顔を出せばご婦人方が目を輝かせて話をせがんでくるものだから話さないわけにもいかない。それに、話しているうちに自分でも笑い話にできるようになってきたのだから不思議なものだ。

 あの家で短くはない歳月を費やしてしまったのに。人生の大先輩方は何でもないことのように、「そんなの忘れて次よ、次」と背中を叩いてくれる。


「ああおかしい! 婚姻誓約書にサインをしたと思ったら、ただの雇用契約書だったってこと?」

「そうだったみたいです。大旦那様の容態も不安定でしたから、落ち着いたタイミングで披露パーティをしようと言われていたんですけれどね……」

「中堅貴族だった割に没落組にならなかったのは事業が上手くいっている証拠かしら。それにしてもギレスピーは無駄に土地だけは広いから、貴女のことは上手いこと離れに隠していたってわけね」

「さあ……。私が離れを出ることは殆どなかったので世情については疎くて。本当のお嫁さんと顔を合わせたのも、追い出されたあの日が初めてだったんですよ」

「だってその本妻、社交には随分と顔が利くみたいじゃない。ここに入る前にパーティで見かけたことがあるわよ。でも、裏では怪しげな名簿のやり取りで稼いでいるなんて黒い噂も聞いた気がするわ」

「人材の紹介事業だったかしら? 夫婦そろって怪しいわね」


 すっかり忘れていたようなことまで根掘り葉掘りと聞きだされてしまう。ギレスピー家の内情がどんどん暴露されているけれど……別に秘密保持の契約を交わした覚えはないから、構わないわよね?


「新婚旅行もなかったんでしょ? ……お嬢さん。貴女も相当なお馬鹿さんね」

「返す言葉もございませんわ……」


 大旦那様の容態が落ち着いたら。大旦那様が気に入る専任の介添え役を見つけたら。

 そう何度も言い聞かされるうちにそういうものかと思い込んで、パーティへの同席はおろか新婚旅行が無かったことにさえ疑問を抱かなかった。

 

 そんな環境に追いやられる女が、ギレスピー家の妻であるはずもないのに。本当にどうかしていたわ。

 苦いものがこみ上げてくるのをやり過ごしていると、愛らしい人形を手にしたマルゥさんがラウンジの中央にある小舞台に立った。催しが始まる時間ということは——。

 

「……ご婦人方。ランタナをお借りするよ」

「もう、エルギルの坊やはずるいわぁ。ちゃんと返してちょうだいよ」


 お喋りが大好きなご婦人たちに別れを告げると、お迎えにいらしたエルギル様がさりげなく左腕を差し出してくださった。するりと右腕を絡ませて、すっかり指定席となったテラスの席へ移動する。

 そこにはもう、フットマンが用意したチェス盤が置かれていた。


「今日はクイーンを外そうか。先手も君に譲ろう」

「まあ、お優しいこと。お手柔らかにお願いします」


 礼をして、手前の駒を手に取る。他愛もないお話をしているうちに、胸の奥の苦いものが溶けていく。

 すみれの花の匂いが香る、なんとも穏やかな時間だった。

 


 ——そう。私のここでのお仕事は彼らの身の回りのお世話をする介添え役ではなく、紳士淑女の皆様の退屈を紛らわせる『お話相手』だった。

 一流のシェフ、一流の警備、一流の設備に、一流のフットマン。すべてが揃ったこの施設で唯一足りないもの。それは、気難しい入居者の心を満たす存在なのだとロクサーヌ様は教えてくださった。


「人形劇もパズルもね、物忘れを防いで頭の働きを良くする効果があるとお医者様も推奨しているのよ。でもどうしても子ども扱いされることを許せない方々も一定数いらっしゃってね。そういう方に限って手がかかるものだから、どうしたものかと頭を悩ませていたのよ」


 一流の職員たちは一流の作法を備えている。ただ彼らはあくまでもその道の専門家に過ぎず、ここに集まる方々の多種多様な要望に応えるのに精一杯で、話術に長けた方を見つけるのに難儀していたらしい。


「その点、貴女はちょうどいいのよ。サロンでの経験と、二人のお年寄りのお世話をした実績もある。ギレスピー家の前当主はね、それはそれは面倒……気位の高い方だったのよ。そんな方を無事に看取った手腕を私は買いたいと思ったの」


 その説明になんとも面映ゆい気持ちになったけれども、認めてもらえたことは純粋に嬉しかった。


「それにね、貴女自身のバランスもいいの。プライドが高すぎる子にここの仕事は勤まらないし、苦労してきた割に変に擦れていないのもいい。ここの住人の皆様にもきっと可愛がってもらえるわ」


 その言葉に背中を押されるように、私はラウンジに集う方々と語らう生活を始めた。

 ご婦人方には身の上話を赤裸々に。殿方の話す過去の栄光には静かに耳を傾ける。相手が何度同じ話を繰り返してもあまり気にならないのは、祖母と大旦那様のお世話をしたときに散々経験してきたことだからだ。


「ランタナ、時間だ」

「はい、閣下」


 そして催しの時間と同時に、エルギル様とグラスを傾ける時間が始まる。彼はいつものようにスマートに私をテラス席にエスコートし、二人分の蒸留酒をフットマンに用意させた。


「……なるほど。私は足を運ぶ機会はなかったが、あのサロンに出入りする連中はそんなに多かったのか」

「そうですね。息抜きにいらっしゃる方が多かったように思います。きっと閣下はそんな暇もないほどにお忙しかったのでしょう?」

「まだ現役であったからな。しかし、そうか。私が寝る間も惜しんで働いている間、私の部下どもは君と酒を楽しんでいたということか」

「あら、いけない。私がお話ししたことは内緒にしてくださいね?」


 もちろん誰がいらしたかまでは話していないけれど、サロン内でのやりとりを他のお客様にお話しするのはご法度だ。エルギル様もそれが分かっていて揶揄っていらっしゃるのだろう。

 かつてサロンで働いていた頃を彷彿とさせるような、けれどもあの頃よりもゆったりとした時間がこの修道院の中に流れている。エルギル様と過ごす時間はその中でもまた特別なものだった。


「——チェックメイト」


 エルギル様がナイトを滑らせるように進めると、私のキングは完全に逃げ場を失ってしまった。大旦那様に鍛えていただいたから自分でもそこそこの腕前だと思っていたのに、まさに稚児をあしらうような見事な駒運びに感嘆の息を吐く。


「お見事にございます、閣下」

「君の手も悪くはなかった。だが、まだまだだな」

「精進いたしますわ」


 今日はワインの気分だったのか、用意されたグラスをくるくると回して口に含む。その洗練された所作にも思わず目を奪われてしまう。そう、彼は完璧な方だった。整えられたお髭に、仕立ての良いお召し物。まだこの修道院の世話になるようなお歳でもないはずなのにと、不思議に思えるほどに。

 

 エルギル様はこの時間を使っていろいろな話をしてくださった。かつて女王を戴いていたこの国の歴史から始まり、各国の情勢やかつて訪れた土地の名酒まで。サロンで聞いた話も多かったけれども、それでもエルギル様の口から直接聞けるのは新鮮で、楽しい時間だった。


「今日も素敵なお話をありがとうございます、閣下。またひとつ、私は賢くなれました」

「……ランタナ。君はまだ若い。そしてもう十分な知恵を持っている。こんなところで我々のような年寄りの相手をする必要もなかろうに」

「楽しいことばかりですよ、閣下。ここの方々は、私を人として扱ってくださいますから」


 ——歓談の終わりを告げる鐘が鳴る。周囲はいつの間にか、すっかり薄暗くなっていた。

 この鐘を合図に、エルギル様はゆっくりと立ち上がった。沈みゆく陽光を背に受けた彼の顔には、深い陰影が刻まれている。白銀の髪が夕闇に溶けていくその様はどこか寂しげで、私の胸まできゅっと締め付けられてしまう。


「明日も楽しみにしているよ」


 いつものように手の甲に落とされる口付け。それだけなら挨拶のようなものだと平然としていられるのに。優雅に身を屈めたエルギル様がちらりと私を見上げるその瞳に、心臓がひとつ高鳴るのをいつも抑えられないでいた。


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