花は枯れる 後編
足早に渡る長い廊下には絵画が等間隔に飾られている。今や観光名所となった王城の風景や、煌びやかなダンスホールで踊る人々の絵姿。美術館に飾られるような著名な作者のものが多い。
目を奪われすぎないようにロクサーヌ様の後を追うと、先の部屋から誰かの怒鳴り声が聞こえてきた。
「この私を稚児扱いするとは何事だ! 馬鹿にするのも大概にしろ!」
「も、申し訳ございません。ですが今は人形劇のお時間でして——」
……人形劇?
懐かしい単語に小首を傾げそうになる横で、ロクサーヌ様が構わずに両扉を押し開く。天井の高い広々とした空間には椅子に座る沢山のお年寄りたちの背中があった。きっとこの方々がこの修道院の住人なのだろう。皆、どこか姿勢を崩してぼんやりと前を向いている。
その視線の先にあったのは、恐怖に肩を震わせて完全に怯えてしまっている女性と、ひとりの老紳士の姿。倒れた椅子の傍らには愛らしい人形が転がり、白銀の髪を揺らす老紳士は手にした杖で苛立たしげに床を打っていた。
「ストラウス様、いかがなさいましたか。マルゥが何か不手際でも?」
ロクサーヌ様が穏やかに声をかける。老紳士は振り返るなり目を三角にして、杖でマルゥと呼ばれた女性を指した。
「このような下らぬ催しで私を虚仮にするのはやめろと何度も申したであろう! それなのに毎日毎日無理やりにここに連れてこられて……不愉快だ!」
「申し訳ございません。ですが最近は部屋に籠もりきりだったではありませんか。気分転換も必要ですよ、ストラウス様。それに皆さまは楽しまれていらっしゃったのでしょう?」
「フンッ、こやつらのような耄碌した連中と私を一緒にするでない」
居丈高に鼻を鳴らす老紳士にロクサーヌ様もすっかり困った様子だ。……というよりも、そのこめかみに青筋が立っているようにも見える。壁際に控える衛士や職員たちは困ったように見守るだけで誰も助け舟を出そうとはしない。
剣呑な空気が流れる中で、大人しく座っていたお年寄りたちもにわかにざわつき始めた。……あまりよい状況ではなさそうだ。どこか懐かしい感覚を思い出しながら、私は頭の片隅に残る記憶を頼りに老紳士へと静かに歩み寄った。
「——閣下。お花はお好きですか?」
突然現れた女の、あまりにも脈絡のない問いかけ。老紳士は虚を突かれたような顔をしたかと思えば、私を上から下まで品定めするように眺め、灰色の瞳をすぅと細める。
「この私が、花を愛でるように見えるのか?」
「お茶の用意があるんですよ。少し、スミレを浮かべましょうか」
「……誰に聞いた?」
「ふふ……昔、お酒の席で何度かお噂を耳にしたものですから。それともワインの方がよろしいかしら? お付き合いさせてくださいませ、閣下」
私が手を差し出すと、しばらく私を眺めていた彼は、その表情を穏やかにしてフッと笑った。そして私の手を取り、甲に軽く口付けを落とす。
「お嬢さんからのせっかくのお誘いだ。断るわけにはいくまいな」
「まあ、お上手ですこと。あちらのテラスはいかがかしら。すぐにご用意いたしますね」
背後で様子を窺っていたフットマンに目配せすると、彼はしっかりと頷いてテラスの白いテーブルを整え始めた。ロクサーヌ様が手早く手配してくださったのか、奥からはティーポットを乗せたワゴンが運ばれてくる。
「お嬢さん、かけるといい」
「それでは失礼いたします」
背もたれのついた白い椅子に腰を下ろす。庭園を彩る花々は見事に整えられていて、差し込む陽光がぽかぽかと温かい。
目の前に座るその人は、背筋をしゃんと伸ばして杖をフットマンに手渡した。
「名はなんと」
「ランタナとお呼びくださいませ、閣下」
「良い名だ、ランタナ。私を知っていたのか」
「もちろんでございます。ストラウス家といえば稀代の宰相、エルギル様を輩出したお家ではございませんか。お噂はいつも耳にしておりましたから、こうしてお会いできて大変光栄です」
これは本当のこと。私がサロンでお客様の相手をしていた時、老紳士——エルギル・ストラウス様の名を聞かない日はなかった。王制が崩れて少なからず混乱のなかにあったというこの国を、その手腕で見事に共和制への移行を成し遂げた伝説の人。まさかこんなところにいらっしゃるとは思わなくて驚いたくらいだ。
それから、エルギル様はスミレの浮いた紅茶を楽しまれた。微かに香る花の匂いに私の緊張も自然と和らいでいく。昨日とはまるで違う春めいた風が頬を撫でる中、先ほどの剣幕はどこへやら、エルギル様は終始穏やかに政について説明してくれた。私も邪魔をしない程度に相槌を打つ。
「——もうこんな時間か。あのくだらん余興も終わったようだな」
テラスから見えるラウンジでは、人形劇を終えたマルゥさんに拍手が贈られていた。子どもたちを相手にしているような光景が少し不思議なものに見える。楽しんでいる方もたくさんいらっしゃるようだけれども——。
「ここの職員どもは私たちを稚児のように扱うのだ。それが悪とまでは言わんが、少なくとも私はそのような扱いを受けたくはない」
ぷいと不機嫌そうに顔を背けるエルギル様。なるほど、だからあんなに怒っていらしたのかとようやく合点がいった。あのロクサーヌ様のすることだから何かしらの効果を見込んでのことと思うけれど、少なくとも目の前の紳士はその施策をお気に召していない様子だった。
不意に、施設内に控えめな鐘が鳴り響いた。歓談の時間の終わりを告げる合図だろうか。気が付けば日は沈み、西の空に夕焼けの名残を留めている。
「……ふむ。久しぶりに悪くない時間だった。礼を言おう」
「そんな、こちらこそ。お相手を務めさせていただき誠に光栄にございました」
「この場でまともな会話ができる相手は希少だ。また彼らがお遊戯をしている間、君には私の相手をしていただきたいものだな」
マントを翻して優雅に礼を執るエルギル様に、私も応じるように膝を軽く曲げ、頭を下げる。
果たして明日の私がどこにいるのかも分からなかったのだけれど——。
「……お見事だったわ、ランタナさん。バロンも人を見る目だけは曇らせていなかったようね。ストラウス様からご指名も頂いたことだし、明日からよろしくね」
再び院長室に戻るやいなや、ロクサーヌ様がテーブルの上に書類を広げる。彼女は驚く間も喜ぶ間も与えてくれぬまま、羽ペンを私へと差し出した。
「それは、雇っていただけるということですか?」
「ストラウス様をあんなに容易く懐柔してみせてくれたんだもの。逃さない手はないでしょう? ……ああ、きちんと内容を読んでからサインをしてちょうだいね。もちろん、今回取り交わすのは雇用契約書で間違いないのだけれども」
からかうようなその言い方に、私は苦く笑うしかない。
そして早速修道院内に個室を用意してもらい、私は柔らかなベッドの上で身を休めることができたのだった。




