花は枯れる 前編
「何を勘違いしているんだ」
ロータス様は、困ったように整った眉を寄せる。
「君には父上の世話を頼んだだけだ。まさか自分がこのギレスピー家の嫁になったと本気で思っていたのか?」
私は抱えていた書類の束を落としそうになって、慌てて胸元に抱え直した。
そう。私は大旦那様の葬儀について相談しようと思って、この本邸に初めて足を踏み入れたのだ。離れの部屋で息を引き取ったあのお方をどのようにお見送りすればよいか、ロータス様と話し合うために。
けれどロータス様は戸惑う私のことなど意にも介さず、腕の中の女性へ視線を落とした。美しく着飾ったその人は、私を見るなり露骨に顔をしかめてみせる。
「嫌だわ。この家をうろつかれると困るのよ。用が済んだのなら、早く荷物をまとめてもらえないかしら」
用が済んだ? まだ葬儀の話も終わっていないのに、いったいこの人は何を言っているのかしら。それにどうして当たり前のような顔をしてロータス様の腕に抱かれているの?
「……あの。あなたは、旦那様とはどういったご関係なのですか?」
もしかしたら、愛人を引き入れていたのだろうか。そうだとしたら酷い侮辱だ。だって私はロータス様のため、このギレスピー家のためにと大旦那様のお世話をしてきたのに。それなのに、こんな厄介払いするような言い方をされるなんてあんまりだ。
私が更に言い募る前に、ロータス様は呆れたように深いため息をついた。
「だから、先ほどから何を言っている。君のことは父上の面倒を見てもらうために迎え入れただけだ。婚姻契約を交わした記憶もなければ、ギレスピーの籍に君の名を載せた覚えもない」
彼の言葉の意味がうまく呑み込めなくて、その場に立ち尽くしてしまう。
ギレスピー家の嫡男であるロータス様に見初められ、わずかな私物だけを持ってこの屋敷に来た日から今日で三年と一ヶ月。
紳士淑女を相手にするサロンで働いていた私を「君の気遣いは素晴らしい」と迎え入れてくださった方のためにと、寝たきりでいらした大旦那様のお世話を嫁いだその日から続けてきた。
癇癪を起こす日もあった。食事を投げつけられたこともある。それでもロータス様が「君にしか任せられないことなんだ」と抱きしめてくれたから、今日まで頑張ってこられたのに。
大旦那様を看取り、ようやく今日からギレスピー家の妻らしい時間を過ごせるのだと——そう信じていたのに。
「奥様も……大奥様も同じお考えなのですか? あんなにも優しく接してくださったのに!」
離れで一緒に過ごした大奥様は、「貴女が来てくれて本当によかった。ギレスピー家も安泰ね」といつも労いの言葉をかけてくださった。厳しい一面もあったけれど、一緒にお世話を続けているうちに戦友のような心もちになれたのだ。あの方まで私を騙していたというの?
「勘違いも甚だしいな。母が君に何を言ったのかは知らないが、父上も亡くなった以上はもうここに君を置く理由はない」
「本当に今日までご苦労様。さぁ、お帰りはあちらよ?」
彼女が薄く微笑みながら扇子を戸口に向けると、それを合図にフットマンが玄関へと続く扉を開いた。外から入り込んだ風は、春先とは思えないほど冷たい。
「旦那様……! お願いです、話をさせてください! ——ロータス様!!」
守衛に気の毒そうな顔を向けられる中。
外へと押し出された私の背後で、門は無情に閉じられた。
*
「——という事情でございまして……」
「なるほど。それで着の身着のままここにいらした、と」
どうぞ、と促されたカップに口を付ける。一日ぶりの温かい飲み物は涙が出そうになるほど美味しかった。
「いきなり紹介状を持ってここにいらした理由がよく分かりました。……ご苦労なさったのね」
その労わるような優しい言葉に、また涙がこみ上げそうになる。
目の前で穏やかに微笑むその人は、この聖アンジェロ修道院の院長、ロクサーヌ様。白髪を優雅な薄紫に染め、首元まで覆われた装いからは隠しきれない気品が溢れていた。
昨日ギレスピー家から追い出された私は、しばらく悩んだ末にかつての勤め先であるサロンへと向かった。そこしか行くあてが無かったからだ。
ただ、そこはもうロータス様の手が回った後だったのか、お世話になったマスターは固く閉ざされたドアの向こう側から「君を預かるわけにはいかないんだ……」と申し訳なさそうな声を返すだけだった。
実家はない。手持ちも心もとない。職まで無いときたものだ。
すっかり途方に暮れていると、少しだけ開いたドアの隙間から綺麗に拵えられた封筒を渡された。紹介状。そう書かれた封筒を。
「ご実家は随分と昔に取り潰しになったと仰っていましたね。サロンにはそれから?」
「いえ、祖母を見送ってからです。父母は幼いころに亡くなり、貯えも底を突きかけていたので……」
いきなりの来訪にロクサーヌ様は驚いた様子だったけれども、泣きはらした私の顔と、歩き疲れて靴擦れを起こした足元を見て、優しくこの部屋に招き入れてくれた。そしてこうして私の身の上話に耳を傾けてくださっている。
「そう。サロンで働いていた期間は……」
「五年です。十八から、五年間」
「あら、五年もあそこにいたの。酸いも甘いも噛み分けていたはずなのに、結婚への焦りでもあったのかしら?」
悪戯に笑う彼女に苦笑を返してしまう。結婚に対する焦りはなかったつもりだ。けれど、いつまでもこの仕事を続けてはいられないという不安はあった。それに『幸せな家庭』に憧れを抱いていたのは確かだ。まさか私がその家庭の一員にすらなれていなかったとは思いもしなかったけれど。
「この修道院についてはもともと知っていらしたの?」
「はい、噂としては。……ご隠居された貴き方々のために用意された施設である、と」
「ふふ、物は言いようね。でもそうね、間違ってはいないわ。ここで暮らす方々は、かつて政界や社交界の第一線で活躍された要人ばかり。ギレスピー家のようにご自宅で介添えされるのがまだ一般的でしょうけれど、やんごとなきご事情を理由にこの修道院を終の棲家とする方も今は多いのよ」
なるほど、とひとつ頷く。首都の外れにあるこの修道院は傍目から見てもとても立派な建物で、外にも中にも衛士がたくさん控えていた。足元の絨毯ひとつとっても凝った意匠から高級品であることが窺えて、ここに住まう方々の格の高さを否が応でも感じさせられる。
——と、壁際に取り付けられた真鍮管から短く笛の音が響いた。あれは……伝声管だろうか。噂には聞いていたけれども実物を見るのは初めてだ。
ラッパのように広がった真鍮製の口をしげしげと眺めていると、ロクサーヌ様が立ち上がり、慣れた手つきで蓋を外した。
「もしもし。——また絵本を投げたの? ええ、ええ。……いつものことね。今は来客中だから、適当に気を逸らしておいてちょうだい」
そう短く言うと、彼女は再び蓋を閉じた。「ごめんなさいね」と笑った彼女は、再びソファに腰を下ろす。
「それで……あなたはここで働きたい、ということでよろしいのかしら」
「は、はい。マスター……ええと、バロン様からこちらをご紹介いただきましたので、縋る思いで参りました」
「あの子にも困ったものね。ギレスピー家如きの圧力に屈するなんて、我が家の面汚しじゃないの」
ロクサーヌ様が頬に手をあてて、ふぅと溜息を吐く。あの名門ギレスピー家を「如き」扱いするなんて。この方の底が知れなくて、私はごくりと喉を鳴らした。
「実はね、今は人手には困っていないのよ。先ほどお伝えした通りここにいらっしゃるのは名家に籍を置く方々。お預かりする際にそれなりに心付けは頂いているし、定期的に仕送りも振り込まれていますからね」
それはつまり、高待遇をもって優秀な人材を取り揃えているのだと暗に示していた。それならば私はここでも不要だということだ。何かしらの職にありつけるのではないかと期待していただけに、目の前が真っ暗になる。
雑用でもなんでもいいからお願いします。そう頭を下げるのを邪魔するようにまた伝声管が笛の音を鳴らした。ロクサーヌ様はやれやれと首を振る。
「——今度はどうしたの。……そう。あの御方にも困ったものね。分かりました。今行きますから、あと少しだけ辛抱してちょうだい」
少しの苛立ちを滲ませながらロクサーヌ様が壁から離れる。様子を窺っていた私と目がぱちりと合うと、彼女は何かを思いついたようにきらりと目を輝かせた。
「そうだわ。もしよかったら少し手伝ってくださらない?」
その柔らかな声には有無を言わさぬ圧が滲んでいる。
どちらにせよ今の私には拒否権などあるわけもなくて、私は頷くと同時に立ち上がった。




