第95章:風の行方(かぜのおくすがた)
岩石ガーゴイルの群れを退けた一行は、速度を維持したまま、第二の谷の狭い峡谷を慎重に進んでいった。かつて陽の光を遮っていたそびえ立つ岩壁は次第に低くなり、峡谷を覆っていた濃い霧も徐々に晴れ、やがて午後の温かな日差しが大地を照らし始めた。
ふう……。
谷間を吹き抜ける大きな風が、みずみずしい草の香りと清流の匂いを運んで顔を撫でる。シオリが第二の谷の最後の曲がり角を抜け出したその先には、視界の限りどこまでも広がる「西部国境の広大な低地平原」が横たわっていた。
青々とした緑の草原と幾筋もの小川が風に揺れ、遥か前方には、第三の谷が位置する目的地の大山脈へと続く古い街道が見える。
「ようやく第二の谷を抜け出せたわね」アイリンは深く息を吐き出すと、両腕を伸ばして緊張をほぐした。「あの狭い峡谷の中に比べたら、ずっと空気がおいしいわ」
ミライは足を止めると、古い地図を広げて方角を確認した。「思っていたよりも良いペースだ。第二の谷を抜けてこうした平原に出れば視界が開けるから、伏兵の奇襲には気づきやすくなる。だが逆に……こちら側の姿も敵から見つかりやすくなるということだ」
「それなら、今夜は前方の小川の近くの草原で野営にしませんか、ミライさん?」レナが提案し、そっとシオリへ視線を向けた。「シオリちゃんも、一日中聖なる力を引き出して特訓を続けていましたから、しっかり休んでエネルギーを補給したほうがいいわ」
シオリは小さく微笑んだ。岩石ガーゴイルとの戦闘で徳の力を引き出した疲労は残っていたものの、その声は明るい。「私はまだ大丈夫です! でも、こんな広々とした平原で食料を準備して休めるなら、すごく嬉しいです」
「決まりだな」ミライは頷いた。「前方の川べりで陣を張ろう。今夜は英気を養い、明日この平原を突っ切って第三の谷へ向かう準備を整えるぞ」
四人は山の麓の岩場を下り、国境平原の広大な草原へと踏み出していった。夕暮れの心地よい風が、ここ数日間に積もった緊張感をやさしく洗い流していく。
国境平原の空は、沈みゆく夕日によって見事なオレンジと紫のグラデーションに染まっていた。透き通った小川のほとりに作られた小さな野営地には、爽やかな風が吹き抜けていく。川のせせらぎと夜の虫たちの声が心地よく重なり合っていた。
テントの設営と夕食を終えた後、シオリは一人で川べりに立ち、そっと目を閉じた。澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、先ほど教わった通りに体内の清らかな力を循環させる。すると、彼女の手のひらから淡い白金の光がじんわりと溢れ出し、光の粒が水面に美しく反射した。
「力のコントロールが、ずいぶん落ち着いてきたわね、シオリちゃん」
背後からレナの柔らかい声が聞こえた。シオリがゆっくりと手を緩めると、光は静かに消えていき、彼女の顔に晴れやかな笑顔が戻った。
「まだまだ調整が必要です」シオリは振り返りながら答えた。「ガーゴイルと戦ったとき、まだ力が一気に溢れ出しすぎて、制御が外れそうになりました。この川の流れのように、力を滑らかに巡らせられるようになれば、もっと安定すると思うんです」
レナは隣に歩み寄り、愛おしそうにシオリの手の甲へ優しく触れた。「力を制御することは、身体を硬くすることではないのよ。大切なのは心を静かに保つこと。心が穏やかで『守りたい』と願うほど、力はより純粋に応えてくれるわ」
「二人で何のお話をしているの?」温かい魔法のお茶が入ったカップを手にしたアイリンが、ミライと共に歩み寄ってきた。四人は敵に位置を知らせないよう、煙の出ない小さな焚き火を囲んで座り直した。
「特訓のお話をしていました。それと……」シオリは目の前の炎を見つめた後、好奇心を込めてミライとアイリンに尋ねた。「ミライさん、私たちが第三の谷を越えて向かおうとしている『西部地域』って、どんな場所なんですか?」
ミライはお茶を一口啜り、揺らめく炎を見つめた。「西部地域は、教会の支配域とは全く異なる場所だ。古代の文明が今も息づき、自然のエレメントの脈動が濃く、主要な峡谷の間には巨大な要塞都市がそびえている」
「そして何より……」アイリンがカップを置きながら付け加えた。「西部地域は古代の魔法学院や、私たち『影なき月』の情報ネットワークの中心地なのよ。私たちの本部は、そこの『千峰の谷』という場所に隠されていてね。そこには古いデータベースや古代刻印の専門家が集まっているから、『徳の器』や『大罪の遺産』に関する情報も、どこより多く手に入るはずよ」
シオリは真剣に耳を傾け、瞳を輝かせた。「それじゃあ……そこへ行けば、私の力に関する真実や、『七つの大罪評議会』の本当の企みが分かるかもしれないんですね?」
「ああ」ミライは力強い声で頷いた。「アイリスの件も含めてな……あそこにある情報があれば、今後の対策や解決への道筋がより明確になるはずだ」
「すごく興奮するけれど、同時に危険もたくさん潜んでいそうですね」レナは穏やかに微笑みながら、シオリの手をしっかりと握りしめた。
「皆さん、本当にありがとうございます」シオリは深く感謝を伝えた。胸の奥から、温かい思いがこみ上げていた。




